01
わたしはわたしのままで良かった。
何かになりたいとかどこかへ行きたいとか、そんなことは思わなかった。お母さんと二人だけど、家族みたいに仲のいい友達がいて、ゴミ捨て場には秘密基地があって。そういう団地暮らしに満足していた。
新しいノートに二学期から使う名前を書いてみたけど、やっぱり他人のものみたい。本当はあたらしいお父さんも、りっぱな家もほしくなかったのに。夏休みになってから、日に日に近づいてくる引っ越しの日が、たまらなくこわかった。二学期がはじまるよりも、いやだった。
その日の朝早くに、いきなり玄関のドアがたたかれた。なんだか人さらいが来たみたいな気持ちになって布団にかくれていたら、お母さんがわたしの名前を呼んだ。おそるおそる顔をだすと、下の階に住んでいる、同級生の男の子がいた。「はやく!」と、てまねきをする。
まだセミもねむっていて、気持ちいい朝のすずしさの中を、パジャマのまま手を引かれて連れて行ったのはゴミ捨て場だった。団地の隅っこにあって、一番奥のところを秘密基地にして遊んでいた。
そこには飼育ケースがあって、中にはアゲハチョウのさなぎがいた。ちいさな音をたてながら、チョウはもぞもぞと古い自分を脱いでいる。飛び立つためにあがいている。
世界のすみっこみたいなこの場所で、わたしたちはいつも遊んでいた。このままがいいなと打ち明けたのもここだった。ゴミ捨て場で三角座りをしながらおしゃべりしている子供が、どうしてお金持ちの子になれるのだろう。ずっといっしょだった彼や、彼の妹や、ほかの友達は、なにも変わらず生きていくのに。
そんなことを考えていたら、なんだか悲しくなった。ぽろぽろ涙が出てきて、一人でおるすばんをしてるときみたいに怖くなってきて、えぐえぐと声がもれる。いつも「泣き虫だな」と笑う彼は、だまって飼育ケースを見つめていた。
すっかりと姿を変えたチョウは、赤ちゃんみたいにシワシワの翅をゆらゆらとのばしていた。ずいぶんと長いことをそうしていたと思うのに、なんの前触れもなくそよいだ風にさらわれるみたいに、ひらひらと舞い上がった。自由になったことをよろこんで、ダンスをするように消えっていた。
彼は少女みたいにかわいい顔を、ちゃんと男の子の顔つきで、チョウの飛んで行ったほうをじっと見ていた。
「おれにはさ、してあげられること、こんなことしかないけど……」
こちらを見ようとせずに、そのまま言った。「どう言ったらいいのか、わかんないけど……、祥子は大丈夫だよ。イモ虫だってアゲハになれるんだから。飛んでくだけだから」
言いたいことの何割も、言葉にはなっていないのだろう。それでも彼の、彼なりの不器用な優しさは痛いほど伝わった。
わたしは一人、救われるのだと思った。このゴミ捨て場から飛び立つ権利をあたえられたのだ。幸せになれる分だけ、立派な大人にならなくちゃいけない。
だから――
わたしは、私の殻をかぶった。
線を引く。境界を描く。明確に存在する世界と彼女の境界線。
他人に見られているのが恥ずかしいのか、身を硬くさせ膝をぴったりと揃えている。そうしていないと落ち着かないというふうに組まれた指からよく日焼けした腕を追えば、逃げ場をさがしてすくめられた首。うつむきがちに長い前髪が目を隠して、そのカーテンの裾からはちょこんと形の良い鼻。いつもより血色が良い頬はやわらかそうだった。
手を止めてじっと見つめると、いっそう緊張するのが可愛らしい。
作業を再開しながら私は、あらためて三条雫は美しいと思った。
美人というにはいささか幼くて頼りない。けれども小柄な体躯には偏りがなくて、陸上部で鍛えられているおかげで実に健康的だ。
均整の取れた物。故に美しい。
手元に視線を落とす。紙の上に描き出された姿はどこか寂しそうで、儚い雰囲気がある。弱々しくて守ってあげたくなるような。
雫の姿を完璧には写し取れないもどかしさが、まったく別の形になって口に出る。
「髪」
「え?」
きょとんとした声。私は顔を上げて、わずかにずり落ちた眼鏡をかけ直した。切り取られた世界。そこにだけピントの合った雫の顔をじっと見る。
「やっぱり髪、切ったほうがいいわよ」
「そうかなあ……」
困ったように前髪を指先でいじる。外ハネした長い髪は、蓑をすっぽり頭からかぶったみたいだった。その隙間から戸惑う上目遣いがのぞいていた。
「そっちのほうが可愛くなると思うけど」
そうでなくても可愛いけれど、という言葉は呑んでおく。
「か、可愛くなんて……」
しばらく前髪をいじってから、はっと気が付いたように姿勢を正す。そのあわあわとした様がおかしくて、つい笑ってしまった。何を笑われたのかわからないのか、雫は首をちょこんとかしげた。
「祥子ちゃんも」
おずおずと距離をはかるように声を発するのと、私が作業を再開するのが同時だったので、遠慮して言葉を区切るのを、表情で続きをうながした。
「髪、長いよね」
「そうかも。でも短いの、私は似合わないのよ」
肩にかかった髪を指先で弄んでから後ろに払う。椅子の背もたれにぶつかるくすぐったい感触が伝わる。
「似合わないかどうかはわかんないけど……祥子ちゃん、髪が長いの似合ってる。大人っぽくてステキ」
「ありがと」
自然と微笑みを浮かべると、彼女の口元もかすかに笑う。二メートルの隔たりがなくなったみたいに感じる。そんな二人の時間を邪魔するかのように、背後でカシャンと大きな音がした。そちらを睨む。バックネットの金網にボールをぶつけたらしい野球部員の藤村大樹が、声変わりもまだの少年の声で、まったく事務的に謝った。
「すまん」
拾い上げた白球をキャッチボール相手に投げる。その放物線は美しい。本人はどんぐりのようなのに。
息を吐いて気持ちを切り替えてから、雫へ向き直った。
「ねえ、野球部のボール、危なくない?」
「えっと、まあ気を付けてるしね。それに軟式だから……」
彼女の所属する陸上部と野球部とはグラウンドを分け合う関係にあった。分け合うと言っても、大部分を野球部が占めており外野の外側をL字に陸上部が走っている。
美術部の部室である美術室はホームベースの後ろ、バックネットの裏側で、ときどき陸上部の走っているところまでボールが飛ぶのを見かけるのだった。
「あっ」
雫が声をあげながら、ぴょこんと背筋を伸ばす。プレーリードッグのようだ。
「部活?」
もう一度振り返ると、陸上部員がぞろぞろと集まり始めている。
「うん。ごめんなさい」
「いいわよ、練習だから」
「練習?」
「いつか本番、させてね」
「え? うん。それじゃ、またあとでね」
「部活、がんばって」
小さく手を振って雫は、校庭を対角線にまっすぐ走って行く。スカートをぱたぱたとさせて遠ざかる背中。地面を蹴る瞬間、ぐっと伸びる脚。浮かんでは脂肪に隠れる筋肉。なめらかな曲線で細くなっていくふくらはぎ。
私は美しいものが好きだ。でこぼこしたジャガイモよりも、つるりとしたゆで卵のほうが綺麗。ジャガイモだって土で汚れた皮を剥けばいくらかは綺麗になるけれど。
一般に好かれる蝶と嫌われる蛾。美醜はその程度の違いしかない。
それでも私は美しいものを愛するし、醜いものが嫌い。
どこにあるかはわからないけれど、確かに存在する境界線。
私はどちらにいるのかしら。
ぼんやりしながら梅雨の中休みを逃すまいと部活動に勤しむ陸上部を遠くに見る。雫はどこだろうかと、無意識に探している。
彼女はせっせと練習の準備をし、いつも何かに遠慮するように部員達に紛れていた。けれども走る時だけポニーテールにして露わになる顔には、少年のような明るさがぽうっと灯るのだった。地面を蹴る一瞬の、伸びやかな身体は、走ること自体が楽しくてたまらないという躍動感。
普段の大人しさや暗さに隠れた彼女の生命力の美しさが、ひょっこりと顔をのぞかせる瞬間。
私はそういう様子を見るたびに、彼女を覆っている殻をぺりぺりと剥いて、ゆで卵のようにつるつる美しいだろう中身に触れてみたくなる。
そういう気持ちを感じるとき、私はむしょうに絵を描きたいと思った。
「祥子ちゃん」
美術室のドアをそっと開けて、雫の頭だけがひょっこり現れた。「ごめん。待った?」
「ううん、宿題してたから」
教科書とノートを鞄にしまい、戸締りを確認する。壁にかかっていた鍵を取って電気を消してから部屋を出る。美術室のそばにある西門の向こうにテニスコートがあった。あちらはまだ活動中。熱心なことだ。
雫がそちらに目を向けながら言った。
「私ね、テニス部に入ろうかって迷ってたの」
「ダメよ、そんな。片腕だけ鍛えるような部活」
「そうなの?」
「ラケット振り回すから」
人のいなくなった校舎を二人きりで歩く。なんとなく、特別な時間。
雫はボストンバック型の通学鞄を両肩にかけて、リュックサックのように背負う。そうしてちょこちょこと隣を歩いている。汗で額にはりついた前髪が、不似合いなほど艶っぽい。
職員室に美術室の鍵を返してから学校を出る。空には雲がかかっていたけれど、その白さがまだ太陽がそこにあるのを感じさせる。ぬるい空気がそよいでいた。
帰り道を歩きながら、どちらからともなく手をつなぐ。彼女のぬくもりがじんわりと私の手をとかす。
私と雫に接点はない。肌の色も身長も、性格も、何もかもが違っている。
そんな私たちの、ほんのわずかな面積で接している。二人の境界線がそこにある。
ああ。手汗、かいてないかしら。
わけもなく緊張する心持ち。揺れる髪の毛が肩をくすぐることの、何がそんなに私を締め付けるのだろうか。
東西に伸びる大通りに出ると、西の空に雲の切れ間があって、放射状に光の柱が降り注いでいる。レンブラント光線。またの名を天使のはしご。
あんな些細な自然現象にさえ、人は神の存在を見出そうとする。
雄大な美しい光景を目の当たりにしたとき「神々しい」と表現するのは、きっと美しさの中にこそ、神の存在を信じているからだ。
何日かぶりに陽光を見た一瞬、そんなことが頭をよぎって、私は日常会話に戻る。
「ずいぶん日が長くなったわね」
「そうだね」
「ああでも、夏至はもう過ぎたんだから、短くなってきたって言うほうが正しいのかな」
「夏至っていっつも梅雨の間に来ちゃうでしょ。だからかな、七月とかのほうが昼が長いなって、思わない?」
「思う」
「だよね」
雫は同意が得られたことに安心したように息をつく。
「もう夏ね」
何の気なしに言うと、雫が突然、自分の肩に顔を近づけた。
「私……汗くさいかな」
「そんなことないわよ」
「そうかな」
「なんなら、嗅いであげようか」
「や、やめてよ、そんな……」
「冗談よ」
微笑んでみせると、雫は「にへら」という感じに表情を崩した。距離は変わらないのに一歩ほど近付いたような錯覚。雫はあまり笑わない。よく見ると、口元が優しそうに三日月になっていたりすることはあるけれど、こうして露骨に笑顔を浮かべるのはまれなことだ。
そのたまに見せる笑顔が、なんとも心を許してくれているようでうれしい。
暑いな、と思う。
「もう夏ね」
「そうだね」
高架線をくぐって、雫の住むマンションが見えてくると、私はいつも気持ちが落ち込んでしまう。寂しさと、憂鬱感。夏は特にだ。
どうしてまだ明るいのに、家に帰らないといけないのだろう。
最後の信号を渡るとき、思い出したように切り出した。
「あ、そうだ。来週の日曜日、空いてる?」
「来週の……? うん、空いてる、けど」
「じゃあ美術館に行かない?」
「美術館?」
「どうかな」
ほんの少し考える時間があってから、雫は肯いた。
「うん、いいよ」
「時間はまた連絡する」
手をつないでいたことを思い出す。
確かに存在する私たちの境界線は、いつの間にか曖昧になっている。相手と接する部分が融け合うことを、親しくなると言うのだろうか。
離すのが惜しいような気がした。