(9) 逃走
絶え間なく動く看護師達、鳴り響く医療器具のブザー、周囲の患者達のうめき声…何よりこの薬品の匂いと、ベッドという物が堪らなく嫌だった。
ベッドに寝かされるのは…男に無理やり躰を開かれる時だ。
その吐き気のする様な嫌悪感…そして、押さえ付けられて与えられるクスリや注射…。
妃奈は、点滴に繋がるチューブのダイヤルを捻り薬が落ちない様に調節すると、じっと息を潜めて朝になるのを待った。
「おはよう、良く眠れた?」
検温の為に現れた看護師は、点滴の量が減っていない事に眉を寄せる。
「あら…点滴止まってたのね。ごめんなさいね、気付かなくて」
アンタのせいじゃない…アタシが止めたんだからと思いながら、妃奈はフルフルと頭を振った。
「朝食、食べれる?午後から検査が入るから、昼食は出せないんだけど」
何だよ…病院に入るメリットは、飯だけなのに…。
「ねぇ…アタシの服は?」
「あぁ、ごめんなさいね…救急処置の為に、やむを得ず切っちゃったのよ」
又かよ!?
前の時にも切り刻まれて、その後服を調達するのに苦労したんだ!
まぁ、今回は暑い時期だし…最悪この変なパジャマでも構わないか…。
運ばれて来た朝食の盆に乗った茶碗から湯気が立ち上る…妃奈は、久々の温かい食べ物を口に運んだ。
「食事が終わったら、この薬を飲んでね」
「何の薬?」
「鎮痛剤と胃薬、それに抗生剤 よ。左腕と肋骨が折れてるの。痛いでしょう?コルセットして固定する事で、少しは軽減されるけど…」
「いつ治る?」
「それは、先生が来た時に聞いてね」
ニッコリ微笑む看護師から目を背け、横の机に置いてあるストールを引寄せた。
「…ネックレスは?」
「何?」
「アタシの鍵の付いたネックレス…なかった?」
「さぁ…処置室から持って来たのは、それだけだったわね。ポケットの中に入っていた物も、全て持って来た筈だけど…」
汚れたタオルに、所持金27円しか入っていない小銭入れ、百均で買ったソーイングセット…それに、拾った釘とパチンコ玉が2個…。
今の妃奈の全財産だったが、いつも首から掛けているネックレスだけが消えていた。
「高価な物だったの?」
そうじゃない…唯の太いボールチェーンに鍵が数個通してあるだけの、ネックレスと言うには余りにお粗末な代物だった。
…唯…妃奈が記憶を失う前から持っていた唯一の品物で、どんな時も必ず身に付けていた物だ。
「後で、処置室のスタッフにも聞いておくわね」
そう言い置いて、看護師は去って行った。
落としたのだろうか…誰かに盗まれるとは考え難い。
他人にとっては、何の価値もない物だ…第一妃奈自身にも、どこの鍵だかわからないのだから…。
それでもその鍵を大切にしていたのは、その鍵の使えるドアの先に…妃奈の本当の居場所があると思ったからだ。
それに、歩くと鍵の擦れ合うあの軽やかな音が心地いい…後で、事故に遭った場所に行ってみよう。
その前に、何とか病院を脱け出さなければ…妃奈はじっと機会を待った。
昼食の時間帯になり、看護師達が慌ただしく食事の用意をしだしたのを機に、妃奈はテーブルの自分の荷物をパジャマの大きなポケットに捩じ込み、点滴台を引いて靴を履いた。
「どうしたの?起き上がって大丈夫?」
看護師の気遣いに、妃奈は思わず枕元の名刺を掴んで見せた。
「…電話してくれって」
「あぁ…昨日いらっしゃった、カッコイイ弁護士さんね!」
…カッコ…イイ…?
やたら馴れ馴れしい、大きな男…どうせ、婆ぁの回し者だ。
蒲田の養父の家が火事になって直ぐ、それまでメッキ工場を手伝っていた善吉は家を出た。
「何で、兄ちゃん!?」
「だってよ…俺はもう18越えてるから、本当ならとっくにこの家を出て行かなきゃなんねぇんだぜ?この家で仕事してたから、住まわせて貰ってただけなんだって」
「そんなら、アタシも一緒に行く!」
「お前、まだ中坊だろうがよ…それに今度住むのは、会社が借りてる蛸部屋だぞ?」
「だって…兄ちゃん居てくれるから、アタシ…この家で暮らせるのに…」
「…施設に帰るか、ヒナ?」
「嫌だッ!!あそこは、絶対嫌ッ!!」
「なら、この家で我慢しな。お前、頭良いんだから…高校行って、ちゃんとした会社紹介して貰え…」
善吉はそう言って、新しい住所を書いた紙を妃奈に渡し、ポンポンと頭を叩いて出て行った。
もう1人の兄の良介は、2ヶ月前に高校を卒業して新しい家族の所に行った。
大きな病院の跡継ぎになる、優秀な人間が欲しいという養子縁組だったそうで、実兄である善吉とも、今後一切の縁を切ると言い捨てて出て行ったらしい。
それでも善吉は、良介の為にそれが一番良い事だと、喜んで弟を送り出したのだ。
妃奈が、良介を頼る訳にはいかない…というか、良介は妃奈の事を嫌っていたから、端から頼る積りもなかった。
案の定、善吉が出て行くと養母達の妃奈への風当たりは一層酷くなった。
元々、養父の稼ぎを当てにして遊び暮らしている様な養母だった。
中学に入る前から、家事は全て妃奈任せ…その癖、娘の美子より成績の良い妃奈への当て付けで、母屋で生活する事を許されなかったのだ。
その養母が、火事を境に妃奈が母屋に入る事を極端に嫌がった。
「だって、母屋にまで火を付けられたら、堪んないじゃない!!」
「私じゃない!!」
美子との不毛な言い争いに疲れた頃、養母に呼ばれ一度だけ母屋に入った。
「妃奈、そこに座って…この書類にサインしなさい」
客間に居たサラリーマンの様な男が、妃奈の前に書類を広げてペンを寄越した。
「…何の書類?」
まさか、施設に戻す為の書類だろうか!?
「保険の書類よ」
「保険?」
「そう…アンタの、生命保険の書類」
テーブルを挟んで対峙する養母は、そう言って煙草の煙を妃奈の顔に吹き掛けた。
「心配しなくても、掛け金はウチが払うから…アンタは、サインだけしてくれたらいいわ」
妃奈は書類に書かれてある内容に目を通し、呆れてテーブルの上に放り投げた。
「保険屋にこんな金払う前に、従業員の退職金出してやれば!?」
「…ウチもね、色々大変なのよ。あの人も入院したし、美子の進学資金も必要だし…勿論、働いてくれていた人達の退職金も出して上げたいしね」
「…火災保険の金が、入るんだろ?」
「あんなボロ工場、雀の涙しか出ないのよ…だから、もっとガッツリ頂こうと思ってね」
「それで、アタシに1億の保険?」
「ねぇ、妃奈…あの人…当分入院になるのよ。仕事復帰出来るか、わからないの」
「嘘…そんな悪いの?」
「病院代だって馬鹿にならないし…アンタも恩返ししたいでしょう?」
そう言われると、妃奈はサインせざるを得なかった。
サインされた書類を受け取った保険屋が頷くのを見て、養母は満足そうに微笑んだ。
「保険金が出たら、妃奈の面倒を見て来た善吉にも、少しは渡して上げるわね。それと…ひとつだけ言って置くわ」
「何?」
「自殺だけは止めてよね…保険金、貰えないと困るから」
「…」
「それから、どこで野垂れ死んでも構わないけど、ちゃんと身元がわかる様にして置いてよ」
クスクスと笑う養母を睨み付け、妃奈は吼えた。
「出て行けって事!?」
「そんな事は言わないわ…養育補助だって貰ってるし。でも、勝手に出て行く場合は、どうしようもないわよねぇ?」
「クソ婆ぁ…児童相談所にチクるぞ!?」
「恩を仇で返すの、妃奈?」
「…」
「責められるのは、入院しているあの人よ?」
「クソッ!」
養父には恩がある…火事で仕事を失い、躰を壊してしまった養父に、これ以上の迷惑を掛ける訳には行かなかった。
妃奈に出来るのは、養母を睨み付け悪態を吐く事だけだ。
「…精々、保険金殺人でしょっぴかれない様に、用心するんだなっ!?」
「あら、そんな事はしないわ……私は、ね」
「…ぇ?」
隣に座って居た保険屋が、いつの間にか皮の手袋を嵌めて立ち上がったのを見て、妃奈は慌てて表に飛び出した。
それ以来、蒲田の家には帰っていない。
時折善吉の世話になりながら、何とか生き延びて来た。
何回か補導されて、身元引き受けに来た養母や美子に会う事はあったが、毎回罵られ警察の前で置いてきぼりにされた。
1人で路上生活をする中学生に、世間の風は冷たい…何とか働いて金を稼いでも、直ぐに騙され巻き上げられる。
甘い言葉や善意は裏切られ、男達には躰を奪われ、女達に迫害され、何度も悔し涙を流した。
あげくの果てには、信じていた善吉にも裏切られたのだ。
この3年の路上生活で、妃奈は生きる事に疲れ切っていた。
…早く…自由になりたい…望むのは、そればかりだ。
「そうだ…さっきのネックレスの件ね…」
立ち上がり名刺をポケットに突っ込んだ妃奈に、看護師が言った。
「…あった?」
「残念ながら、やっぱりなかったわ。所持品リストにも記載されてなかったから、ここに来る前に落としたのかもね」
「…救急車で運ばれたんだろ?そん中って事ねぇの?」
「一回一回、車内をキチンと確認するしね…もし、落とし物があれば、連絡が入るのよ。ごめんなさいね、力になれなくて」
汚い妃奈の言葉にも、看護師は余程大切な物だと思ったのだろう…申し訳なさそうに謝ってくれた。
「公衆電話は、ロビーにあるわよ。1時には検査だから、それ迄に戻ってね」
看護師の言葉に黙って頷いた妃奈は、ストールを羽織り点滴台に縋りながら病院のロビーから抜け出し、何気ない散歩を装い中庭から駐車場に移動する。
点滴の針を抜き、点滴と共にストールの下に隠すと、彼女は街に逃げ出した。
新宿中央公園のブルーシートの小屋の前でビール籠に座った男は、ボンヤリと木漏れ日を見上げていた。
今を盛りにワシャワシャと煩い蝉は、短い命を精一杯に生きている。
それなのに、ここに居る連中ときたら…其々に已むに已まれぬ事情があるのは重々承知している。
だが、この無気力さは何なんだ…いゃ、自分も同じか…。
皆の役に立つ様にと、店と簡単な治療院を開き、『お前達とは違うんだ』と虚勢を張った所で、とどのつまり…奴等と何ら変わらないホームレスなのだから。
ジャリッという音に目線を移すと、迷彩柄のストールを羽織った、暗い瞳の少女が立っていた。
…ここにも、又無気力な奴がやって来た…。
「よぅ、クロ…生きてたか。車に撥ねられたって聞いたぞ?大丈夫なのか?」
少女は黙って頷いた。
「それにしても珍しいな?お前さんが、俺を訪ねて来るなんて」
「……買って」
少女はそう言って、ストールの中からチューブと針が付いたままの点滴を差し出す。
「病院からくすねて来たのか?ありがてぇ…テルさんの具合が悪くてな、欲しかった所だったんだ。で、何が入ってる?」
「…ブドウ糖と…多分、痛み止め」
「あぁ…折れちまったのか、左腕…」
「肋骨も…治ったら、ギプスと三角巾と、コルセットも持って来る。あと、コレも…」
そう言って、膨れたポケットから薬袋を差し出した。
「コレは?」
「痛み止めと胃薬、それと…コーセー何とかって言ってた」
「お前…飲まなくて平気なのか?痛くねぇか?」
「…」
「いぃから、ちょっと入れ。診てやるから」
「要らねぇ…薬、嫌いだし…」
これまでも結構酷い目に遭って来たこの混血の少女は、殆ど人と関わろうしない。
白い前髪の奥から、猜疑心に満ちた瞳が男を窺った。
「それより、ドク…頼みがある」
「何だ?何が欲しい?」
「服…長袖のTシャツとGパンと…パンツ」
「その下は、スッポンポンか!?」
そう笑うと、クロの口元がへの字に曲がった。
「このパジャマも渡す」
「わかったわかった…ちょっと待ってな」
男はテントの中から希望の品を渡すと、少女に中で着替える様にと言ってやった。
「薬は貴重だからな…治ったら、その包帯も持って来いよ?それでチャラにしてやる」
「…もう1つ」
「何だ?今日は欲張りだな、クロ?」
「情報…アタシのネックレス…誰か拾ってない?」
「あぁ…鍵束のか?兄貴が持ってんじゃねぇか?」
「…誰か見てない?」
「しゃあねぇな…ちょっと店番してろ」
男はそう言って、事故を目撃したと言っていた公園の仲間に話を聞きに行った。
少女が街に現れてから3年余り…物々交換や買い物には来ても、頼って来たのは初めてだったからだ。
「わかったぜ、クロ」
大人しく店番していた少女は、フィッと顔を上げた。
前髪を切ったら、結構美少女なんだろうに…。
「お前に救急車呼んだ男達の中で一番タッパのある男が、お前が倒れてる時に首から盗っていったんだと」
「…どんな奴?」
「3人居たらしいがな…そいつがボスみたいだったって言ってたな」
少女はピクリと反応し、ポケットの中から名刺を取り出して呟いた。
「……アイツッ!!」
「何だ、誰かわかってるのか?」
少女が差し出した名刺を見て、男の顔付きが変わった。
「おぃおぃ…エレェ奴の名刺持ってんじゃねぇか!?」
「そいつだ…絶対!!」
「諦めろ、クロ」
「何で!?」
「コイツは、ヤバイって…バックに、ヤー公抱えてる様な悪徳弁護士だ」
「ヤクザ?」
「そうだ…然も、そこらのチンピラじゃねぇぞ……モノホンのヤー様だ!!」
「…へぇ」
前髪を弄っていた少女の頬が、ピクピクと痙攣する。
少女は名刺を奪い返すと再びポケットに捩じ込み、徐に立ち上がって片手で器用にストールを巻いた。
「…馬鹿な事、考えるなよ…クロ?」
「…」
「お前、そろそろパンクの連中と連むの止めて、社会復帰の道探した方が良くねぇか?」
「あんな連中と連んでなんかねぇよ!!」
「…」
「それに…大きなお世話だ」
大きなTシャツの下に隠した左腕の位置をゴソゴソと直すと、少女は踵を返した。
「…クロ…お前、寂しくねぇか?」
「それこそ、大きなお世話だ」
黙り込む男に、少女は背を向けたまま言った。
「情報ありがと…ギプスやコルセット、持って来れなかったらゴメン」
そう言ってフラフラと歩き出した少女の背中に、男は思わず声を掛けた。
「絶対持って来いよ、クロ!?持って来ねぇと、承知しねぇからな!!」
あの少女は、危うい…死に取り憑かれる様になったのは、公園のトイレで流産しているのを見付けた後頃だったか…。
それ迄も無気力だったが、あれが決定的だったのだろう……瀕死の状態から脱した時の少女の言葉に、男の背筋は震えた。
「…何だ……生きてんのか…」
暗い瞳でそう呟いた後も、少女の生活は荒む一方だった。
「あの娘はパンクの坂上の手下の妹で、兄貴に売春させられてんだよ」
「坂上が、あの娘にご執心らしいぜ?」
「あの、坂上ってガキ…ちょっと親がお偉いさんだからって、俺達の事ゴミ扱いしやがって!!仲間とホームレス狩りしても、親父の力でいっつも無罪放免なんだろ!?」
良くない連中と手を切って、早く救い出してやらないと…だが、男とて誇れる生活をしている訳ではない。
まだ、バックに暴力団を抱えた悪徳弁護士の方が、ホームレスの闇医者よりはマシだという事か…。
「…頼むぞ、黒澤…その娘を救い出してくれ…」
男の呟きは、蝉の声に掻き消された。