(8) オフィス柴
『オフィス柴』と書かれたドアを潜り抜けると、電気の落とされた事務所の向こう、所長室と書かれた半開きのドアから光が漏れていた。
幸村刑事に続いて部屋に入った黒澤を、応接セットのソファーにふんぞり返った柴が迎える。
「で?何で今更、昔の事件なんか調べてる?」
「あの時の女の子…高橋妃奈が絡む懸案だから」
「どういう事だ?」
「昨夜、彼女交通事故に遭ってね…加害者は、こちらの黒澤さんの運転手。どうやら、一緒に居た若者から突き飛ばされて事故に遭って…そのまま若者達は逃走。彼女は救急車で病院に搬送されたんだけど、今日の昼過ぎに病院を脱走したのよ」
「怪我は?」
「交通事故による物は、左腕と肋骨の骨折。その他内臓疾患の疑いと…強姦の痕跡あり」
「…で?こちらの弁護士先生は、自分の運転手を助ける為に奔走中ってか?」
「じゃなくて…高橋妃奈を引き取る為に調べてるのよ」
「何で?」
「彼女の父親…だか母親と、知り合いだったそうよ」
「へぇ…」
ギロリと黒澤を睨み付けると、柴は口角を引き上げて言った。
「当時の捜査じゃ、アンタの名前なんか欠片も出て来なかったぜ、先生?」
「…そうですか」
「どういう知り合いだったんだ?」
「貴方に答える必要がありますか?」
「…何ッ!?」
「今の貴方は、刑事でも何でもない…そうですよね?」
「テメェ…それが、人に物を聞く…」
「柴ッ!!」
不機嫌な男達の間で、幸村刑事が柴を睨み付ける。
「アンタ、いい加減にしなさいよ!?」
「俺かよッ!?」
「そうよ!!アンタが妙に突っ掛かるからでしょう!?黒澤さんも…自重して下さい」
「…申し訳ありません」
幸村刑事の叱責に素直に頭を下げる黒澤に、柴は目の前のグラスを煽った。
「…何が知りたい?」
「あの事件の全容と、その後妃奈が…どの様な生活をして来たか…」
「交換条件がある」
「何でしょう?」
「アンタの持ってる情報、全部寄越せ」
「…申し訳ありませんが、全てという訳にはいきません」
「じゃあ、せめて…母親の身元だけでも!」
「…いいでしょう」
「知ってるのか!?本当に!?」
「えぇ。でも、何故ですか?今更刑事の様な事を?」
黒澤を睨み付けていた柴は、溜め息を吐いて背中をソファーに沈ませた。
「…あの事件は…俺の最後のヤマだった。結局、お蔵入りにさせちまったがな…。事件に関して、どこ迄把握してる?」
「新聞掲載程度には」
「……いいぜ…話してやる」
そう言うと、柴は新しいグラスを用意して、幸村刑事と黒澤の前に置いた。
「今から6年前の12月29日、西新宿4丁目のボロアパートで、男女の惨殺死体が発見された。殺されたのはその部屋の住人、高橋道雄38歳と内縁の妻智美。司法解剖の結果、死亡したのは25日夜半と見られた。死因は2人共に失血死…多分、拷問に掛けられたと推測される。ナイフで無数に傷付けて、恐怖と絶望を味あわせ、ジワジワと殺して行く…最低なやり方だ」
「…」
「発見したのは同じアパートの住人で、帰省中の荷物の受け取りを頼む為に部屋を訪ねて、遺体と娘を発見し警察に通報して来た。俺が最初に現場に到着したんだ……散乱した血塗れの部屋の中で、娘は両親の遺体の側で、血塗れのクリスマスケーキの上にへたり込んでた…丸4日もな」
「……何て事…」
「直ぐ救急車で搬送したんだが、しばらく昏睡状態でな。意識が戻った時には、一切の記憶をなくして声も出せない状態だった。おまけに余程怖い思いしたんだろう…1ヶ月も経たない内に、髪が真っ白になっちまった」
「記憶喪失…それで…」
黒澤が名乗っても、妃奈はわからなかったという事か…。
「それに…白髪…だったんですか?脱色したのではなく?」
「あぁ。病院で事情聴取した時も、自分の事を日本人なのかって気にしてた。あの容姿だからな…ハーフなんだろうが…。彼女が昏睡してる間に、身元紹介して又驚いた。父親の身元は直ぐに割れたが、婚姻届けは出されてなかったんだ」
ソファーから乗り出す様にして、柴は黒澤を見詰めて来る。
「母親は身元不明者…母親と娘の名前も、あの娘の通う小学校の書類でようやく確認した。それに…あの娘に至っては、無戸籍者だっていうじゃねぇか…」
「…」
「なぁ…何者なんだ、あの母親?近所のスナックに勤めてたらしいが、あんな店は身元なんか幾らでも誤魔化せる。噂じゃ意外に上品で、多分ちゃんとした教育受けたお嬢さんだろうって話だった」
「…後程、説明致します」
黒澤の言葉に、柴はフンと鼻を鳴らし、再びソファーに沈んだ。
「犯人の目星は?」
「高橋道雄は製菓職人だったが、躰を壊して休職中…智美は昼に弁当屋のパート、夜はホステスをしてたが、店や客とのトラブルはなかった。近所の話じゃ夫婦共に穏やかで、家族仲も良かったそうだ。日本人夫婦の間にハーフの娘が居る以外、至って普通の家族に見えてた様だな。だが、あの殺され方からすると、通り魔の犯行とは考え難い…ナイフの扱いにも慣れた人間の仕業だ。アパートの住人は、ほとんどが飲食店に勤める独身で、犯行時は皆外出してた裏も取れた。周囲の聞き込みでは、24日夕方にアパート周辺で不振な男が目撃されている。だが、遺体が発見されたのが29日…周囲の痕跡も、全て消えていた。頼みの綱の娘の記憶は戻らず…事件は、お蔵入りとなった」
「その続きは、私が説明するわ」
黙って柴の説明を聞いていた幸村刑事が、持っていたグラスを手で弄びながら話を引き継いだ。
「児童相談所は、唯一身元がはっきりしていた父親の親族に連絡を取り、あの娘を引き取る様に頼んだそうよ。でも、高橋道雄の娘ではない事は、一目瞭然だからね…。結局引き取りを拒否されて、彼女は児童養護施設に入った。施設に入った彼女は、言葉も話せない、親族にも見捨てられた混血児と虐められて、トラブルが絶えなかったそうよ」
「…」
「そんな時に、登録されている養育里親の元に預けられた。蒲田にあるメッキ工場を営む夫婦で、娘と同じ歳の彼女を快く引き取ってくれたそうよ。それまでも男の子は何人も引き取って育ててたそうで、彼女を引き取った時には、少し年上の兄弟と同居してたらしいわ」
「そこの家族とは、上手く行ってたんですか?」
「…最悪だったみたいね。彼女が補導された時に引き取りに来た、里親先で一緒に育った兄の話じゃ、彼女かなり気の強い性格らしくてね。養母と実の娘との関係は、最悪だったらしいわ。学校でも執拗な虐めに遭っていたそうだし…中学生の時には、妊娠騒ぎ迄起こしたそうよ」
「…なっ!?」
「一緒に育ったもう1人の兄弟は出来が良くて、養子縁組の話も出る程なのに、何であの娘はあぁなんだって…酷い詰られ様だったそうでね。その直ぐ後、同じ敷地にある工場が放火に遭って全焼して…養父が酷い怪我を負ったらしいわ」
「…その火事の…犯人だと?」
「火元だった工場に隣接した小屋は、あの娘が生活してた場所だったそうよ。でも、ちゃんとアリバイがあったの。近所の主婦が、病院帰りのあの娘を見付けて小言を言ってる時に、さっき話した彼女の兄と鉢合わせたの。2人揃って家に帰った時には、既に工場迄火が回ってたらしいわ。警察の裏付けも、ちゃと取れてる…それでも、心情が許さなかったんでしょうね…」
「だからと言って、許される事ではないでしょう!?」
「まぁね…でもそれが決定的だったのか、あの娘は直に養育里親の家を飛び出して、路上生活をする様になってしまったのよ。度々補導され、その度に病院送りになって逃走するの繰返し。呼び出された養母が、『いい加減、早く死んじまえっ!!』って罵る姿が、何度も目撃されてるわ」
「…妃奈には、保険金か何か…掛けられているんでしょうか?」
「えっ?」
妃奈が言っていた『婆ぁ』と言うのは、養母の事の様な気がした。
「いぇ…妃奈を守ってくれる人間は、居なかったのですか?」
「さっき話した兄…西堀善吉は、彼女の味方だったみたいで、面倒を見ている様だったわね」
「…やはり、彼でしたか」
小塚の話では、善吉は自分のせいで妃奈は事故に遭ったと言っていたそうだ。
彼女が強姦された事にも、関与しているのかも知れない。
然も…意識を失った彼女が助からないと高を括り、仲間と共に見捨てたのだ!
「そろそろ、こっちの質問にも答えてくれねぇか、先生?」
「母親の身元ですか?」
「あぁ」
「これから話す事は、お2人の胸だけに納めて頂けますか?」
「何故?」
「彼女の…高橋妃奈の命を守る為に、お願いします」
柴と幸村刑事が頷くのを確認し、黒澤は居住まいを正した。
「…母親の名前は、鶴岡朋美さん。新聞に掲載されていた『智』ではなく、『同朋』の『朋』に『美しい』で朋美…享年32歳になります。都内の有名私立大学在学中に留学生だった青年と恋に落ち、妃奈を身籠ったそうです。1人娘の妊娠に父親は激怒し、堕胎を強要した為に彼女は家を飛び出した。それを極秘に匿ったのが、父親の経営するレストランのパティシエだった、高橋道雄さんでした」
「あの娘の父親…その留学生は?」
「帰国したそうです。本国では名士の家柄の息子だったそうで…親に許しを得て迎えに来ると…そう言い残して帰国したそうです」
「…要は、捨てられたって事ね…全く、男って奴は!!」
ハァと溜め息を吐いて、幸村刑事は持っていたグラスを煽った。
「高橋道雄さんはレストランを辞め、都内のケーキ屋や製菓工場を転々として、朋美母娘を養った。籍を入れなかったのは、朋美さんの気持ちを慮っての事でした」
「…先生、アンタどこでそんな情報を…」
「言ったでしょう?私は、妃奈の父親…高橋道雄さんと知り合いだった。これは、高橋さん本人から聞いた話です」
「だからって…引き取るってのは、行き過ぎじゃねぇか?アンタの収入じゃ、十分援助してやれるんじゃねぇのか?何だって、引き取るなんてリスクを負うんだ?」
「貴方がそれを言いますか、柴さん?妃奈と同じ立場の…ストリート・チルドレンだった乃良さんを引き取った貴方が!?」
「…俺は……俺は、ナオに惚れたからだ!文句あっか!?」
目の下を赤らめて吼える柴に、黒澤は正直面食らった。
「黒澤さん…この男はね、最初から16も年の離れたネコちゃんに、骨抜きにされたのよ!」
ケラケラと笑う幸村刑事を、柴はキッと睨み付けて不貞腐れる。
確かに小悪魔的な魅力のある少女だったが…それにしても、16歳差なんて…考えられない。
「…兎も角…私は、高橋道雄さんに、将来妃奈が困った時には、力になってやって欲しいと頼まれたのです」
「…」
「まだお疑いでしたら、どうぞ調べて下さい。私は法的に…高橋妃奈の保護者なんですよ」
「どういう事だ?」
「朋美さんの父親である鶴岡聡さんは、北新宿でフレンチレストランを経営するオーナー・シェフでした。昨年その鶴岡聡さんが亡くなり、彼の経営していた店…北新宿の980坪の土地と建物、美術品等の全ての財産は、彼の唯一の孫娘である高橋妃奈に相続される事が遺言されました」
「980坪!?」
「あったか、そんなデカイ土地…?」
「店の名は『Maison de fete』…今はもう閉店して、建物の内装を変え…私の弁護士事務所として使用しています」
「知ってるわ!!あの高級フレンチレストランなの!?ガーデン・ウェディングも出来るって評判だった‼」
「その様ですね」
「…何で、アンタがその土地を使ってるんだ、先生?」
柴の訝しんだ眼差しが、黒澤を正面から捉えた。
「鶴岡聡さんの遺言で、全ての相続は…高橋妃奈が成人した後に行われます。そして私は、鶴岡聡さんの遺言により、高橋妃奈の未成年後見人に指名されたのです。あの土地と建物は、賃貸物件として私が借り受けています」
「未成年後見人って…親権と同時に、財産管理もするって事?」
「…その為に…私は、ずっと妃奈を捜し続けて来ました。妃奈を守る為に…」
「守るって…どういう事?」
「…財産か?」
柴の言葉に、黒澤は深く頷いた。
「北新宿の980坪の土地価格だけでも、およそ30億…全ての財産を合わせると、35億を下らない財産を、妃奈は相続する事になります」
余りの大きな金額に、柴と幸村刑事は絶句して顔を見合わせた。
「私には、妃奈を守る責任がある。財産を狙う輩からも…妃奈を虐げる輩からも…守ってやる責任があるのです!」
沈痛な面持ちで語る黒澤に、幸村刑事はピクリと眉を寄せた。