(76) ハロウィンの真実
靄の立ち込めた森の中を、黒澤は懸命に妃奈を捜し走り回っていた。
「妃奈!妃奈!!何処だ!?返事をしろ!!」
妃奈が応えてくれたなら、どんな事をしても見付け出す事が出来るのに…。
突然現れた、森の中に佇む大きな石造りの屋敷…あれは、事務所に使っていたレストランだ。
妃奈は帰っていたのか!?
「妃奈!妃奈!!開けろ!俺だ!開けてくれ!!」
大きな扉を思い切り叩きながら、黒澤は叫び続ける。
「妃奈!!頼む、開けてくれ!!」
力任せにドンドンと扉を叩きながら、頭の端に記憶が蘇る…そうだ、あの事務所の建物は取り壊して…マンションの建設中で…。
微睡む黒澤の耳に、まだ扉を叩く音が木霊している。
アメリカに来て、妃奈との連絡が取れない生活の中、こんな夢ばかりが続いている。
鈍い頭の痛みにこめかみを揉むと、黒澤はベッドの中で大の字になっている琥珀に毛布を掛け、ガウンを羽織ると寝室を出て隣の客室用のリビングへと移動した。
未だ叩き続けられるドア…こんな無遠慮な叩き方をするのは1人しか思い付かない。
黒澤はチラリと時計を確認すると、溜め息を吐いてドアを開けた。
「Trick or treat!! Trick or treat!! Trick or treat!! 」
「……何時だと思ってますか、リュウ?」
「もう朝だ!Amberは?」
「まだ、朝の6時ですよ。琥珀は、まだ寝ています」
「ハロウィンなのに?」
ハロウィンが待ち遠しかった少年は、ナニーが起きる前からハロウィン用の衣装を自分で着たのだろう…手や顔に巻き切れなかった包帯をズルズルと引きずり、手に持った大きなオレンジ色のカボチャのバケツを黒澤に突き出した。
「Trick or treat!!」
「この部屋に、菓子は置いてません」
「ハロウィンなのに!」
そう言うと、リュウは強引に部屋の中に入って来た。
「お菓子をくれないなら、悪戯してもいいんだぞ!」
そう言って目を輝かせた少年は、テーブルに置いてある包み紙を見て笑顔を弾かせた。
「なんだ、クロサワ!!お菓子あるじゃないか!」
テーブルの上に可愛いくラッピングされた菓子が2つ…きっと執事のラシードか、黒澤の従者であるジョン・ジャクソン『J.J』が用意してくれたのだろう。
リュウが突き出したオレンジ色のカボチャのバケツに菓子を入れてやると、彼は満面の笑顔でありがとうと言った。
「今日は、Amberと近所にお菓子を貰いに行くんだ!早く起こして!」
「…何時に?」
「今から!」
「朝早くに他人の家を訪問するのは、失礼になりますよ、リュウ。それに、琥珀を長距離歩かせるのは無理があります」
「…お父様とお母様が、友達が出来たなら一緒にハロウィンのお菓子を貰いに行ってもいいって言ったんだ!」
「残念ですが、琥珀には無理です」
「行くんだ、Amberと行くんだ!」
駄々を捏ねるリュウに、黒澤は溜め息を吐いて携帯電話を手にした。
「…誰に電話するの、クロサワ?」
「誰にして欲しいですか?お父上ですか?お母上ですか?それとも貴方のナニー?」
「わかった…部屋に帰る。でも、Amberと一緒にお菓子を貰いに行くんだ!」
「…それは、朝食後に話し合いましょう。部屋まで送ります」
黒澤の言葉に頷いたリュウの引き摺る包帯を巻き取ると、黒澤は菓子の入ったバケツに入れて彼の手を引いた。
「去年は、どうしていたんです?」
「去年?みんなの部屋を回ったんだ。でも、1人だからつまらなかった」
「成る程」
「テレビで見たんだ。ハロウィンにはお化けの格好して、近所の子供達と一緒に家を回るんだ」
「では、リュウも近所の子供達と一緒に回っては?」
「…お父様もお母様も、許してくれない。それにこの近所には、僕の知っている子供なんていない」
そういえば以前エドワードから、ハロウィンの仮装をした男に、リュウを誘拐されそうになった事があると聞いた。
バークレイ コンツェルンの御曹司であるリュウは、護衛がなければ外に出る事も出来ない身の上だ。
リュウが本当に自由であるのは、この広大な屋敷の中だけなのかもしれない。
「リュウ…今年は琥珀と、屋敷の部屋を回ってもらえませんか?」
「Amberと?」
「屋敷の中なら、琥珀もリュウと一緒に歩けるでしょう。途中休憩する事も出来ます。それにリュウと一緒なら、屋敷の中で琥珀が迷う事もないでしょう。お願い出来ませんか?」
「…しょうがないなぁ!僕の方がお兄さんだから!Amberと一緒に回ってやる!」
「宜しくお願いします、リュウ」
リュウを部屋まで送り届けると、黒澤は今夜の自分の予定を思い出し、げんなりした。
アメリカ人のパーティー好きには、本当に愛想が尽きる。
ハロウィンは子供の行事かと思いきや、大人も揃ってバカ騒ぎをするのだ。
若者達は、夕方から行われるハロウィンパレードに参加して、それぞれのパーティー会場へと流れるらしい。
驚いた事に、教会でも夜中までパーティーが行われるという。
バークレイ家でも、エドワードがCEOになってから、パーティーが盛んに行われる様になったと聞いた。
「貴方も強制参加ですよ、黒澤さん」
エドワードの私設秘書である田辺から釘を刺され、黒澤は眉根を寄せた。
「その代わり、仮装衣装は此方で用意しましょう」
「仮装…するのですか?」
「そうです。全くアメリカ人はバカ騒ぎが好きで…皆、これでもかという程凝った仮装をして来ます。寧ろ、仮装しない方が悪目立ちしますよ」
「…はぁ」
「大丈夫、恥ずかしくない程度の仮装衣装を用意します」
田辺の言葉に、黒澤は渋々頷くしかなかった。
部屋に戻りシャワーを浴びて出ると、何時もの時間通りにノックの音がする。
「おはようございます、Mr.クロサワ。今日は、お早いですね」
「朝から、リュウに起こされた」
「リュウ坊ちゃまは、昨日からハロウィンを楽しみにされていたので…それにしても、もう起き出していたんですか!?」
「自分で仮装衣装に着替えていた。菓子を用意してくれたのは、君か?」
「お役に立てた様で、良かったです」
朱い髪にソバカスが目立つ顔で、J.Jは満面の笑みを黒澤に返し、ソファーセットのテーブルにコーヒーと新聞を用意した。
「昨日、日本よりお荷物が届いておりました」
そういうと、J.Jはワゴンの下からダンボール箱を取り出してテーブルに置いた。
妃奈だろうか!?
黒澤は慌てて箱の宛名を確認して、少し失望して箱を開けた。
「待ち人からでしたか?」
J.Jが琥珀を起こし、身支度を整えさせながら黒澤の背中に問い掛けた。
「日本で世話になった方から、琥珀の誕生日プレゼントだろう」
現在7時前…東京は20時前になる。
黒澤は携帯を取り出して、アドレス帳から番号を押した。
「はい、松浪でございます」
「私、ニューヨークに居ります黒澤と申します。奥様は、ご在宅でいらっしゃいますか?」
「少々お待ち下さいませ…」
女中の応対に、忍夫人が在宅している事に安堵する。
松浪夫妻とは、正月以来会っていない…。
「…黒澤かい?荷物が届いたんだね?」
忍夫人の声に、黒澤は自然と頭を下げた。
「大変ご無沙汰致しております。この度は、多分なお心遣い…痛み入ります」
「何言ってんだい、水臭い!琥珀は私達の孫同然だし、妃奈は私達の娘になるんだからね!!私達が祝わなくて、誰が祝うっていうのさ」
「…ありかとうございます」
「それにしても、前日に届いて良かったよ。ギリギリだったからね、届くかどうか危ういって言われてね」
「…は?琥珀の誕生日には、まだ間がありますが?」
「何寝ぼけた事言ってんだい、黒澤?妃奈の誕生日に決まってんだろう?」
「……」
忍夫人のカラカラと笑う声には、黒澤をからかう様な明るさがあった。
「居るんだろ、そこに?又恥ずかしがってるのかい?早く出しとくれ」
「…奥様、一体何を…妃奈が、此処に居ると仰るのですか?」
「えっ?居ないのかい?だって…」
「どういう事です!?妃奈は、森田組長の所に居るのではないんですか!?」
黒澤の問い詰める様な質問に、忍夫人は合点が行かない様子で問い返す。
「…行ってないのかい、あの子?じゃあ、一体何処に行ったっていうのさ?」
「こっちに居ると聞いたんですか!?一体誰に!?」
「そりゃあ、森田だよ」
「えっ?」
「もう、随分と前だよ?妃奈をアメリカに送り出したって…」
「いつ頃の話ですか?」
「まだ暑い盛りだったから…お盆の前辺りだよ。銀座で偶然森田に会った時に聞いたんだからね」
「……申し訳ありません、奥様。森田組長に確認をしたいので…」
「わかったよ。詳しい事がわかったら、知らせとくれ」
「ありがとうございます」
黒澤は早々に忍夫人との電話を切り、森田組長の携帯に電話を入れた。
「……鷲か?」
久し振りに聞いた父親の声の柔らかさに、勢い込んだ黒澤は毒気を抜かれた。
「元気なのか?」
「あぁ…そっちは?」
「相変わらずだ」
耳元でフッと笑う父親の声に、一体何がこの人を此処まで柔らかくさせたのかと訝しむ。
「聞きたい事があるんだ、親父」
「何だ?」
「妃奈の事だ」
「……」
「こっちに送り出したって聞いたが…本当なのか?」
「……行ってないのか?」
「来てれば、こんな質問はしない」
「……」
「いつ送り出した?」
「6月の末だ。ニューヨーク行きのチケットを渡した」
「…じゃあ、何故!?」
黒澤の叫びに近い問い掛けに、電話の向こう側に不穏な空気が流れる。
「あの娘の気が変わった事まで、私が知る訳がないだろう」
「妃奈の気持ちが変わる事など、あり得ない!!」
「……」
「何があろうと、どんな時でも…それだけは、決してあり得ない」
「大した自信だな」
「妃奈は、俺と琥珀を守る為なら、どんな事も厭わない…だからこそ怖いんだ!どんな無茶な事でもしてしまう…知ってるだろう!?」
「…あの娘が其方に行っていないという事は、書類も見ていないんだな?」
「何の話だ?」
「まぁ、いい……それより、何処に行ったか検討はつかないのか?」
「妃奈は、俺の所以外頼る場所もない。携帯もこっちに来てから、ずっと繋がらないままだ」
「……それは、私が取り上げたからな」
「何だと!?」
「そういう約束だった。私が許しを出すまで、お前と連絡を絶つ様に言った。最後の約束だけは、律儀に守った様だな」
「全く…貴方という人は…」
黒澤の怒りをサラリと受け流し、森田組長は合点が行かない様子で呟いた。
「しかし、チケットを渡した時、あの娘は喜んでいた。慌てて荷造りをして、空港に飛んで行ったが…」
森田組長の言葉に、黒澤はふと思い付いた事を口にした。
「妃奈がそちらに行っている時、彼女を尋ねて来た者はいなかったか?」
「いや、そんな話は聞いていないが?」
「公安が、妃奈の事を嗅ぎまわっていたらしい」
「公安?あの娘、何かやらかしたのか?」
「わからない……親父、公安にツテはないか?」
「ない訳ではないが…奴等は、何も話さんぞ」
「聞くだけでいい…何故、妃奈を捜しているのか」
「……わかった」
「宜しくお願いします」
森田組長との電話を終えると、今度は小塚に電話を入れ、事の詳細を説明した。
小塚の報告では、夏頃まで度々訪れて妃奈の行方を聞いていた公安も、今では全く来なくなったらしい。
妃奈が行方不明になった時期と合致することに、黒澤は不安を覚えながら捜索の手配を指示した。
妃奈がカナハン王国に入国後程なくして、正式に王太子即位式が執り行われた。
しかし妃奈がイスラム教に改宗しない事が、ここでも大きく取り沙汰されたのは言うまでもない。
「私は、アッラーを認めない訳でも祈らない訳でもない。唯、唯一絶対の神であるとする事を良しとしないだけである。私は、イスラム教もユダヤ教もキリスト教も、その他様々な神々を平等に信仰し平等に扱う」
即位式の前に、妃奈は重鎮を集めて宣言した。
「信仰は、自由に選ぶ事の出来る物である。何人も宗教によって縛られるべきではない。よって私が国王になった暁には、政教分離を考えている」
イスラム法であるシャリーアを撤廃する事に重鎮達、取り分けイスラム教会のムスリムを教え導く職能をもった人々であるウラマー(イスラーム知識人)達は、こぞって反感の意を示した。
「アッラーの教えを知らぬ者に、シャリーアの何がわかるというのだ!?」
ウラマー達の反感は最もだ…ましてや、イスラム教はカナハン王国の国教なのだから…。
だが妃奈には、街でカーディー(イスラーム法学に基づく法廷の裁判官)に裁かれ公衆の面前で鞭打ちされる人々や、日本ではありえない事で斬首される人々、宗教や男女によって差別ともいえる裁可をされる人々を見逃す事は出来なかった。
此から国際社会として歩む国家を立て直す為にも、避けては通れない判断だ。
それに…妃奈個人としても、シャリーアは非常に都合の悪い物だった。
独身で性交渉を行い、子供まで産んでいる妃奈は、シャリーアに照らし合わせると斬首刑に処せられる。
妃奈は、どうあってもムスリマにはなれなかったのだ。
国王が病に臥している状態のカナハン王国では、王太子である妃奈が国王に成り代わり国を導かなければならなかったが、この国の事を何も知らない妃奈は、国母陛下に猶予を貰い教育期間を与えて貰った。
日本に居るムラーテ特別全権大使に連絡を取り、中東問題に詳しい学者や、戦後日本の国を民主化して建て直しを図って来たのかを詳しく解説出来る政治学者や有識者を日本から招いて、レクチャーを受けている。
アラビア語に堪能な日本人も数名招き入れ、膨大な書類の翻訳と、ナディアの他に通訳者を2名選出した…アラビア語を学ぶより先に、やらねばならない事が山積していたからだ。
それと同時に国王や国母陛下と相談し、新たに親衛隊で結成した監査官に命じ、各省庁や軍隊の会計監査を行わせた。
途端に妃奈の周辺はきな臭くなり、日々命を狙われる様になった。
口に出来る物は、ナディアが手配してくれるペットボトルの水と携帯食、それとたまに彼女自身が差し入れてくれる料理だけだった。
親衛隊の隊長に頼んで、ナイフで身を守る術も学んでいる。
妃奈は王太子になってから、故マルワーン王太子が着ていた洋服をヤスミーン王妃から貰い受け、着用していた。
ソーブと呼ばれる白く長いワンピースの様な洋服は、思いの他涼しく、この土地の気候に合っている。
視察に行く時には、イガールと呼ばれる頭の輪は付けないものの、白いシュマーグを頭に被り顔を覆う様にして巻いて外出した。
国母陛下は、そんな妃奈の服装に難色を示したが、何も言わずに金細工に幾つもの宝石の付いたブローチを妃奈に与えた。
せめて、コレを付けろという事らしい。
国内の様々な施設の視察、教授達からのレクチャー、国内外の有識者との面談、民主化に向けての下準備、政教分離をスムーズに行う為の折衝、そして各省庁の会計監査や不正の報告と取締り…。
正直、目の回る様な忙しさに加え、刺客に度々襲われる生活に、身体と精神は共に悲鳴を上げていた。
「急ぎ過ぎではありませんか、王太子殿下?」
「……」
「これらの事を一気に行えば、国内の混乱は必至です。せめて、5年から10年を掛けて行う事業だと存じ上げます」
「…そんなに長い時間を、掛ける積もりはありません」
ハァと溜め息を吐きながら、妃奈は講義を書き留めていたノートから目を上げて、日本から招いた大学講師の顔を見上げた。
「何故です?貴女は、まだまだお若くていらっしゃる。国を継いで落ち着いてから、ひとつひとつ実現させて行けばよいのではありませんか?」
「……」
「強引な民主化は、歪みを生み出してしまいます。もしも、以前のミャンマーの様になったら…」
「あれは、民族間の紛争であると先生も仰ったではありませんか」
「しかし、宗教が複雑に絡み合っての紛争です。もしも、今迄虐げられてきたムスリム以外の人々が反旗を翻したら、どうなさるおつもりですか!?」
「どうもこうも…法に則って裁くだけの事です。この国にも、シャリーアに左右されない法律があったのですから…」
この国の法律を細かく分類し、日本語に翻訳させ日本から招いた法律の専門家に検討してもらった結果、欧米や日本にも匹敵する様な素晴らしい法律がある事が確認された。
要はイスラムの法律であるシャリーアと、国で定められた法律との境目が曖昧なのである。
人々は生活の揉め事があると、街のカーディーに相談し、カーディーはシャリーアに基づいた裁きを下す。
それが国の法律とズレていても、ムスリム達はシャリーアが法律であるとばかりに異論を唱えない。
ムスリマではない妃奈が、シャリーアに口出しすると前回の様な混乱を見る事になるので、今回は病の床にある国王が勅令を出した。
『自分が亡き後、シャリーアによってカーディーが人を裁く事を一切禁ずる』
当然国内は混乱し、街を司るカーディー達が教会に駆け込んだ。
イスラム教の有識者であるウラマー達が、国母陛下や王妃、国の重鎮の元を訪れて、この先の司法についてどうするつもりか、カーディー達をどう扱うつもりかとねじ込んで来た。
妃奈は重鎮達と話し合い、カーディーをそのまま街に留め置く事、街の人間がカーディーに相談をする事は自由とする事、カーディーが人を裁く事は禁止する事、警察組織を強化する事、訴訟等は裁判にて決着を着ける事、裁判に宗教を持ち込む事を禁止し、国の法律に則って判決を下す事等々を決めた。
この勅令は、商業地区の人間にはすこぶる評価が高かったが、肝心の旧市街地や漁村や農村部では混乱が起きているという。
「新しい王太子は、余所者だから…」
何かにつけてそう囁かれる事に、国民感情に寄り添っていない事に、王太子のブレーンとして招かれている者達は、不安を隠し切れない。
「…この国で、私が…あと何年生きられると思いますか?」
日々命を狙われている事を知っている講師は、苦い顔をして妃奈を見詰めた。
つい先日も、旧市街地を視察中に刺客に襲われ、親衛隊の隊員が1名命を落とし、妃奈自身も腕に傷を負った。
「私は、自分が生きている間に、この国を民主化して…国民議会に渡したいと思っています」
「しかし…会計監査が各省庁に入った事で、逮捕者が続出し…挙げ句、逃げ出す大臣迄出る始末です」
「この国の情報局は優秀で、逃げ出した大臣は既に捕らえられたそうですよ。何年にも渡って横領した金額は、きちんと返して頂かなくてはなりません」
「…王太子殿下…先日仰った、王家を解体する話を…国民に公表しては如何でしょう?国民感情も、少しは緩和されるのではないでしょうか?」
「それは、まだ早いと思います」
「何故ですか?今のままでは、王太子殿下だけが悪者になってしまいます」
「そんな事は、構わない。実際私は、この国を混乱に落とし入れているのですから」
「しかし…」
「それに、王家の権威は…もう少しの間、私に必要な物なのです」
妃奈がそう言った時、執務室の扉をノックする音が響いた。
「サマーホン(許可します)」
妃奈の声に扉から顔を出したのは、満面の屈託のない笑顔。
日本人講師は頭を下げて退室し、妃奈はベルを鳴らしてナディアを呼び出した。
「もう仕事は終わりましたか、お姉様?」
男性陣が退出すると、アイシャはローブを脱いで妃奈の手を取り腰を落とし挨拶をした。
祖父や母親が妃奈を疎んじているのを承知して尚、この異母妹は毎日の様に姉と慕って訪ねて来る。
最初は妃奈もナディアも警戒したが、元々アイシャは祖父であるターヒル国防大臣の言う事も、母親であるルカイアの言う事も、父親である国王の言う事すら聞かない娘であるらしく、自由気儘に王宮を闊歩しているらしい。
今日もパソコンや雑誌や菓子を運んで来た自分の侍女達を部屋から追い出すと、妃奈の世話をする侍女のライラにお茶を淹れる様にと命令した。
「お姉様は、忙し過ぎます!もっと自由な時間を作るべきだわ」
「私はこの国の事を、まだまだ知らなければなりません」
「国王になる為って仰るのでしょう?でも、お姉様が躍起にならなくても、お祖父様や他の大臣や、役人達が何とかしてくれるわ」
そんな事より、妃奈に自分と過ごす時間を割いて欲しいと、アイシャは毎回一頻り持論を吐くのが常だった。
今日も海外から取り寄せた雑誌を開くと、アイシャはにこやかな笑顔を向けて話し掛ける。
「先日、お姉様が珍しく興味を持たれた記事の続編が出ていたので、持って来たのよ」
そう言って彼女が差し出した雑誌には、懐かしい人物が写っていた。
美しく着飾った絶世の美女と腕を組んだタキシード姿の人物を見て、ナディアが小さく眉を寄せる。
「…妃奈様…」
先日の記事を英訳したナディアの気遣う様な呼び掛けを、妃奈は何事もない様に片手で制した。
「今日はね、私…お姉様にお願いがあるの」
ライラが淹れた茶を啜り、自分で持ち込んだ菓子を摘まみながら、アイシャは妃奈に媚びる様な笑みを浮かべた。
「何かしら?」
「お姉様が即位されてからでいいのだけど…私を留学させて下さらないかしら?」
「留学?」
「だって、お婆様もお父様も留学されていたのでしょう?私だって、海外で見聞を広めたいと思って」
「けれど、アイシャ…貴女は、結婚が決まっているのではありませんか?」
妃奈の問いに、アイシャは頬を膨らませ口を尖らせた。
「結婚なんて、まだまだ先でいいと思うわ!」
「…貴女は、彼と結婚したくないの?」
「いずれはね…でも、お祖父様やお母様の言う様に急ぐ必要なんて何もないんですもの!国王の座は、お姉様が継ぐ訳だし…私の役目なんて、何もありはしないんだもの!私が留学する妨げには、ならないわ」
通訳するナディアが、困った様に笑いながら妃奈に囁いた。
「妃奈様…この件に関しては、余り口を挟まれない方が宜しいかと存じます」
「そうなの?…それでは、ルカイア様の許可が出たらと、伝えてくれる?」
そう妃奈がナディアに伝えた時、慌ただしく扉を叩く音がした。
アイシャが慌ててローブを羽織るのを見届けると、妃奈は扉に向かい入室の許可を出す様にナディアに命じた。
「…妃奈様、国母陛下がお呼びです。至急、詮議の間にいらっしゃる様にと…」
妃奈はアイシャを部屋に戻すと、ナディアと共に祖母の待つ詮議の間に向かった。




