(75) 対面
白いロングワンピースの様な服に、たすき掛けのベルトをして小銃を装備した男達が、城のそこ此処に立っている。
同じく白いワンピースに小さな黒地のベストを着た男性の案内で、だだっ広い宮殿の中を歩く妃奈に、後ろに従っているナディアが説明する。
「宮殿内を警備している者は、国王の親衛隊です。王族の外出の警備をするのも彼等になります」
「…銃を装備する事が、普通なんですか?」
「王族の方々のお命を、守る為です」
「王族は、国民に命を狙われているのですか?」
「いえ、決して…その様な事は…」
宮殿に来る途中の妃奈を狙ったテロを目の当たりにした妃奈に、その答えは余りにも陳腐な物に聞こえた。
「市街地を警備しているのは、殆どが軍の人間になります。彼等も銃を装備していますが、何かあった時には…どうか、親衛隊の人間を頼って下さい」
「…軍の人間は、信用ならないという事ですか?」
「…妃奈様…国家の勢力図など、どこの国にもある事です」
「そうですか?少なくとも、日本では聞いた事がありません」
「……」
「日本にも天皇家や総理大臣に不満を持つ国民が居るのは、事実です。しかし、国防を預かる自衛隊や国民を守る警察、天皇家を警備する皇宮警察が、皇族や閣僚を襲い攻撃するなんていう話は、聞いた事がありません」
妃奈の言葉に、ナディアの目が悲しそうに瞬いた。
これは八つ当たりだ…ナディアは、妃奈の身を案じてくれているだけなのに…。
大きな溜め息を吐いて歩みを止めると、妃奈はくるりと後ろを振り向いた。
「…ごめんなさい」
「何を仰います、妃奈様!不安になられるのは、当然の事です!」
「ですが…貴女に当たるのは、やはり筋違いです」
妃奈がそう言って頭を下げ様とするのを、ナディアは慌てて止めた。
「妃奈様、どうか…この様な場所で臣下の者に頭を下げる等、お控え下さい」
「何故ですか?」
「私の首が…飛んでしまいます」
小さな声で囁くと、ナディアは咳払いして頭を下げた。
「親衛隊か軍の人間かを見分けるには、シュマーグをお確かめ下さい」
「シュマーグ?」
「男性が頭に被る布です。親衛隊は、白地に黒の模様のシュマーグを着用しています。それに対し軍の人間は、白地に赤の模様のシュマーグを着用しています。又、国民の中でも軍に傾倒している人間は、同じ様に白地に赤の模様のシュマーグを着用しています。どうか、お気を付け下さい」
「…わかりました」
妃奈が了解すると、ナディアは案内の男性に声を掛けた。
再び歩き始めた男性の後ろを付いて歩く…確かに、そこ此処に立つ武器を構えた男達は、皆白地に黒の千鳥格子の模様のシュマーグを被っていた。
白っぽい大理石の宮殿内は、外の焼け付く程の気温は感じられない。
通り抜ける風は少し冷たく…それは、宮殿内の雰囲気と呼応している様でもあった。
白い大きな扉の前に立ち止まると、扉の両側に立つ親衛隊が互いの小銃を掲げて妃奈の前にクロスし、行く手を阻んだ。
案内の男性が中に入ると、扉の前に待たされた妃奈は、親衛隊の男達の不躾な視線に曝される。
しばらくして内側から大きく両側の扉が開くと、親衛隊の男達が銃を解き一歩下って小銃を肩に抱えて敬礼した。
突如目の前に広がった、白と金と赤の世界!
白い大理石の壁に、これでもかという程埋め尽くされた金の装飾。
白い壁に掛けられた、見たこともない様な大きな真紅のビロードのカーテンには、学校の校旗の縁に付いている様な金のモールの大きな房が垂れ下がる。
室内に置かれた白い大きなソファーには、背もたれや座面、足元に迄、光沢のある細かい柄の赤いペルシャ絨毯が折り重なる様に敷き詰められていた。
白い天井には、金色に輝くド派手なシャンデリア…目が痛くなる様な部屋の装飾に目眩がしそうだ。
「妃奈様、お進み下さい」
背後のナディアに声を掛けられてようやく、妃奈の思考は室内の煌びやかな浮かれた世界から現実に戻った。
部屋の正面中央には、白く長い布を被った痩せた壮年の男性が、その左側には全身黒いドレスに身を包み、黒いヒジャブを被った哀しげな瞳の女性が座っている。
そして男性の右側には、対象的な輝く真珠色のヒジャブと同じく真珠色に豪華な錦糸の刺繍を施したドレスと、金の豪華な首飾りで着飾った年配の女性が座っていた。
妃奈は先程ナディアに習った様に、少し離れた位置で片膝を折り、右手を胸に当てた。
「初めてお目に掛かります。日本から参りました、高橋妃奈と申します」
日本語で挨拶する妃奈の後ろで、ナディアがアラビア語に訳して伝えている。
眼前の3人は、それぞれ皆違った反応を見せていた。
「よく来てくれた、愛しい娘よ!余がお前の父親、カリーファ・ビン・サマル・アル=サイードである」
涙を浮かべ震える日本語で挨拶する国王は、妃奈の事を本当に歓迎している様に見える。
「これは、ヤスミーン。余の第一妃で、我が国の王妃になる」
紹介された黒衣の王妃は、静かに頭を下げてアラビア語で挨拶する。
「この様な姿で失礼致します、妃奈王女殿下。私は息子を偲び、喪に服しております。どうか、ご容赦下さい」
ナディアの通訳に、妃奈は視線を上げた。
「息子という事は…この国の王子が亡くなられたのですか?」
「そうだ。我が国の王太子であったマルワーンは…僅か20歳にして、非業の死を遂げた」
国王の言葉に、黒衣の皇后は涙を流した。
非業の死という事は、マルワーンという王子も命を狙われて殺害されたのだろうか?
俯いて逡巡する妃奈に、突然英語が浴びせられた。
「Princess Hina, Can you speak English? 」
驚く妃奈に、背後のナディアが呟いた。
「あの方が、前国王であられる国母陛下…ザフラ・ベント・ハマド・アル=ラシード陛下です」
「…No. I can speak …Japanese only. 」
たどたどしく答えた妃奈に、凛とした声で英語を発した国母陛下と呼ばれる前国王が、あからさまに失望の表情を見せたその顔…妃奈は、まるで将来の自分を見ている様な心地悪さに、眉を寄せた。
「彼女は、何故ヒジャブを着用していないのです?」
「妃奈は、未だ改宗をしてはおりません、母上」
「ならば、一刻も早く改宗させるべきです。王太子がムスリマではないと、国民に知られる前に…」
アラビア語で話す彼等の言葉をナディアの通訳で聞いていた妃奈は、慌てて口を挟んだ。
「待って下さい!私は…」
「貴女に発言の許可を与えた覚えはありませんよ、妃奈」
ピシャリとはねつけられた事に再び眉を寄せた時、妃奈の背後のドアが突然開くと、4人の男女が賑やかに部屋に侵入して来た。
男性が着る白い衣装の上から、金の派手な縁取りをしたビシュトという黒い薄絹のガウンを着た年配の男性と、カーキー色の軍服を着た若い軍人の2人は、共に赤いチェックのシュマーグを被っている。
長いローブを着ていた女性達は、部屋に入るなりローブを脱ぎ捨て、まるで踊り子でも着る様な薄いジョーゼットの派手な衣装に、煌びやかな宝飾品をこれでもかという程装った姿を曝した。
思わず国王の正面から横に退いた妃奈は、後ろに控えるナディアに尋ねる。
「…誰ですか?」
「年配の女性が、第二妃であられるルカイア様です。お若い方は、ルカイア様のお子であるアイシャ王女殿下…妃奈様の、腹違いの妹君です」
「…男性は?」
「年配の男性は、ルカイア様の父君であられるターヒル国防大臣。若い男性は、私の知らない人物です」
「…そう」
「胸をお張り下さい、妃奈様。挨拶も向こうから先にして来るまで、名乗る必要はありません。膝を折る必要もありません」
「…そうなんですか?」
「妃奈様は、王太子殿下でいらっしゃいます。彼等とは、お立場が違います」
立場だ位だと面倒な事を言われ、大きな溜め息を吐いた妃奈は、入って来るなり国王と国母陛下に対し噛み付く様にアラビア語で苦言を吐いている年配の男女に視線を移した。
「…で、何を揉めているんですか?」
「それは…」
「貴女は、私の通訳なのだから…正確に伝えてくれないと困ります」
「……」
「私の事で苦言を吐いているのは、わかっています。私は平気ですから、正確に通訳して下さい」
妃奈の言葉に頭を下げると、ナディアは妃奈だけに聞こえる様に掻い摘まんで説明する。
「家族の対面に、自分達が呼ばれなかった事に腹を立てている様です。それと、妃奈様を王太子殿下に据える事に、納得が行かないご様子で…」
「どういう事?」
「…昨年、マルワーン殿下がお亡くなりになって以来、王太子の位は何故か空席になっておりました。誰もが、アイシャ王女殿下が次期王太子になられるものと思っておりましたが…国王陛下が突然妃奈様の事を公表なされて、日本に捜索の手配をされたのです」
「成る程…そういう事」
可愛い娘や孫が、国王になれると期待していたのに、どこの馬の骨かもわからない娘が、突然王太子であると名乗りを上げたのだ。
彼等としては、すこぶる面白くない話だろう。
国王は困った顔で黙り込み、ヒートアップする2人に冷静に対応しているのは、国母陛下と呼ばれる祖母だった。
黒衣の第一妃は、何も言わずに国防大臣を睨んでいる。
若い2人は、時々コソコソと話しながら、チラチラと妃奈を窺っていた。
「国母陛下が、妃奈様と国王陛下のDNA鑑定の結果を説明されています。マルワーン殿下が亡くなられた今、王太子は長子である妃奈様がなられるのは、当然の事であると」
「…迷惑な話だこと」
「そんな事を仰らないで下さい。国母陛下ご自身も、長子である事で国王を継がれた方です」
「…そう…国母陛下は、国王陛下よりも権威がある方なんですか?」
「決してその様な事はございませんが…何と言っても国王陛下の母君で、女性の中では最高位のお方です。現在は、病気の国王陛下の為に、国政をサポートされています」
自分とよく似た面差しの女性が、激高する男女をものともせずに対処している姿を見て、妃奈は正直羨ましいと思った。
王位を継承すると、女性でもあんなに凛として強くある事が出来るのだろうか?
王位等ひとつも欲しいとは思わないが、今迄人に流されてばかりの人生を送って来た妃奈にとって、背筋を伸ばして自分の意志を堂々と貫くその姿は、羨望に価した。
「妃奈様に挨拶がしたければ、すれば良いと…此方に参ります」
ナディアが囁いた時、妃奈の目の前に金で作られた宝飾品の眩い光りと、派手な刺繍を施した下着が透ける空色のジョーゼットを纏ったアラビア美人が現れた。
ナディアは年配だと言ったが、まだ30代にしか見えない…豊かな黒髪と肉感的な色香を漂わせ、目を縁取った独特のメイクに紅い唇。
絵本に出て来るアラビアンナイトの姫君の様な女性は、妃奈の姿を見て鼻で笑った。
立ったまま妃奈に話し掛け様とした矢先、国母陛下からアラビア語での叱責が飛び、アラビア美人は渋々膝を折り右手を胸に当て頭を垂れた。
「初めまして、妃奈王女殿下。私は貴女の父君…国王陛下の第二妃、ルカイア・ベント・ウサイン・アル=ターヒルでございます。どうぞ、ルカイアとお呼び下さい」
「日本語での挨拶をお許し下さい。妃奈と申します。宜しくお願い致します」
妃奈の日本語の挨拶を、ナディアが透かさず通訳して伝えると、ルカイアは娘のアイシャを妃奈に紹介した。
17歳だと紹介されたアイシャは、少しポッチャリとした幼さの残る丸い顔に、好奇心いっぱいの瞳を妃奈に向けて満面の笑みを見せた。
続いて年配の恰幅の良い男性が、妃奈の前に恭しく跪いた。
「ご尊顔を拝し恐悦至極に存じ上げます、妃奈王女殿下。私は我国の国防を預かります、ウサイン・ビン・ムスタファ・アル=ターヒルと申します。以後、お見知り置きを…」
「宜しくお願い致します、ターヒル国防大臣」
「此方に控えるのは、私の一族の者で、モハメッド・ビン・シビル・アル=ターヒル陸軍少佐です。近い将来、アイシャ王女殿下と婚約する予定です」
「それは、おめでとうございます」
後方で膝を折るカーキー色の軍服の青年は、チラリと妃奈を見上げると少し口角を上げた。
幾つ位なのだろう…この国の男性は殆ど髭を蓄えているので妃奈よりももっと年上に見える。
「お気を付け下さい、妃奈様。国防大臣に気を許してはなりません。ターヒル国防大臣は…ルカイア様を強引に第二妃にねじ込んだといわれております。アイシャ王女殿下がお生まれになって王家の外戚となってからは、益々権力を欲しいままにしていると…。国防大臣の地位を手に入れ、軍隊を束ねる立場になった今では、度々国王陛下をないがしろになされる発言で…」
「…大体理解出来ました」
ナディアの説明を聞いて納得した妃奈の目に、黒衣の王妃が立ち上がるのが見えた。
ハンカチで口を押さえたヤスミーン王妃は、国王と国母陛下に頭を下げると、妃奈に会釈をして部屋から出て行った。
「どうしたのです?」
「気分が悪くなったと言われ、自室に戻られました」
「ヤスミーン王妃も、ルカイア様やターヒル国防大臣と仲が悪いのですか?」
「……噂の域を出ないのですが…マルワーン王太子殿下がお亡くなりになったのには、ターヒル国防大臣とルカイア様が関与しているらしい…と」
「では、先程私を狙ったのも?」
「わかりません。が…アイシャ王女殿下を王太子殿下にと目論む者達の仕業である事は、間違いありません」
またもや、親族間での争いになるのか…だがそれも、妃奈がこの国の王族になる事を拒む事で解決が着く。
ヤスミーン王妃が退室しても尚、部屋に留まろうとしたルカイア達に業を煮やした国母陛下は、手元にあったベルを鳴らした。
部屋に入ってきた男達に、ルカイアとアイシャは慌ててローブを羽織る。
国母陛下の指示で、男達は国王を車椅子に乗せ、車椅子の国王と共に部屋を退室しようとした国母陛下は、妃奈にも声を掛けた。
「お部屋を、国王陛下の執務室に移動されるそうです。どうぞ、国王陛下の後ろにお続き下さい」
ナディアの言葉に頷くと、妃奈は部屋の中の一団に会釈して、煌びやかな部屋を後にした。
廊下を進み明るいホールに出ると、車椅子の前を歩く親衛隊が、落ち着いた胡桃色の扉を開けた。
車椅子の一団に続いて部屋に入った妃奈は、ようやく落ち着いた心待ちになった。
先程とは打って変わり、落ち着いた深い色合いの本棚で埋め尽くされた部屋には、大きなプレジデントデスクが置いてあり、部屋の中央には茶色に輝く牛皮の大きなソファーセットが置いてあった。
ソファーセットの向こう側、開け放たれたドアの外には、大きな楕円形のテーブルを置いた会議室が続いている。
国王が車椅子から上座の1人掛けソファーに座り直すと、国母陛下は窓側の3人掛けソファーの中央に1人で座った。
妃奈は、立ったままでいようとするナディアの腕を引き、2人で廊下側のソファーに座った。
「到着早々、見苦しい場面を見せてしまった」
「発言をお許し頂けますか?」
「許そう」
「…俗に言う、お家騒動がある様ですね?」
巻き込まれるのが嫌で、冷たく国王に返すと、ナディアの通訳を聞いていた国母陛下の眉がピクリと動いた。
「お前にも色々と大変な事が多いと思うが、一日も早くこの国に慣れて、余の跡を継いで貰いたい」
「その事ですが、国王陛下」
「父とは…呼んではくれぬのか?」
「……」
国王の問いに言い淀んだ妃奈は、ゴクリと喉を鳴らして再び国王に向き合った。
「…私は、王位を継ぐつもりはありません」
「……」
黙り込んだ国王に代わり、正面に座った国母陛下が叫んだ。
「何故です!?貴女は、この国に何をしに来たのです!?」
「私は国王になる気がない事を、国王陛下に伝える為にこの国に来ました。日本にいらっしゃるムラーテ大使にその旨を話すと、自分にはその権限がないと仰ったのです。お聞きになっていらっしゃいませんか?」
「知らぬ…妃奈、お前は国王になりたくないのか?一国の王なのだぞ?」
「何故、そんなものにならなければなりませんか?」
「お前は、余の長子である。男子であったマルワーンが亡くなった今、お前が継ぐのは、当たり前の事ではないか」
「…今更?」
「何?」
「国王陛下…貴方は、私を身ごもった母を捨てたのでしょう?息子が亡くなったからといって、捨てて忘れ去っていた娘を捜し出して、王位を渡すから有り難いと思えとでも仰るのですか?申し訳ありませんが、私には全くもって迷惑以外の何物でもありません」
絶句する国王を尻目に、妃奈は通訳の為にタイムラグがある国母陛下を正面から見据えた。
「何も私でなくても、国王陛下の跡を継ぎたいと思っている王女がいらっしゃるのでしょう?何故、この国の事を何も知らない私なのです?」
「あの娘は、駄目なのです!!」
突然叫ぶ国母陛下の言葉を、ナディアが通訳する。
「何故ですか?」
「……」
答えない国母陛下に代わり、国王が妃奈に答える。
「アイシャが余の跡を継げない理由は、様々あるが…その1つは、アイシャがターヒル国防大臣の孫だという事だ」
「…国の実力者だと聞きましたが、何か問題でもあるのですか?」
「確かにターヒルは、我が国をよく支えてくれている。余が身体を壊してからは、ターヒルが中心になって国を動かして来た事も事実だ」
「ターヒルは、それを良い事に、自らの親派を募り、暴利を貪り、我国を危険に曝そうとしています!何としてでも、それだけは阻止しなければなりません!」
国母陛下の言葉に、妃奈は眉を寄せた。
「危険?私は、今でも十分危険に曝されていますが?」
「……」
「私がこの国に来る事自体、阻止したい人間が居るのでしょう?それに伴い、私を守ろうとして死者迄出しているのですよ?どの面下げて、国王になれと仰るのですか?」
「…貴女は、この国の事を…国民の事を考えないのですか、妃奈!」
国母陛下の非難する様な言葉に、妃奈の中でくすぶっていた怒りがムクムクと湧き上がる。
「拉致同然に監禁され、いきなり父親が捜している、お前は王女で国を継げと言われ、国に連れて来られたら、いきなり命を狙われていると…自分の身代わりに死者迄出して…どうやって愛国心なんて持てます!?冗談じゃないわ!金輪際お断りよ!!私を直ぐに日本に帰して下さい!!」
「…どうしても駄目か?」
「お断りします!」
「余は、癌に冒されている…持って、あと3ヶ月だと医者に宣告された」
「!?…あと3ヶ月で、私にこの国を丸投げなさるおつもりですか?」
拳を握り締める妃奈に、正面から声が掛かる。
「もうよい、カリーファ。この娘には、無理なのでしょう」
「しかし、母上!?」
「報告では、その娘には息子が居るという事でしたね?この娘が無理なら、その息子に跡を継がせればよい。成人する迄は、誰か信頼の置ける者に摂政をさせれば良いのです。直ぐに、この娘の息子を呼び寄せなさい」
ナディアが通訳する言葉に、妃奈の頭は冷水を浴びた様な冷静さと、怒りで爆発する様な灼熱の思いが混じり合う。
一瞬でもこの女を羨ましいと考えた自分に、腸が煮えくりかえった。
嗚呼…何故私の親族は、揃いも揃って碌でもない人物ばかりなんだろう…。
私が碌でもない人生を送って来たのは、コイツ等の血を引いているからだろうか?
だが…琥珀だけは…あの子にだけは、そんな人生を歩ませる訳にはいかない!
あの子を危険に曝す様な事は、断じてあってはならない!!
「…何を仰っているのです?私の息子を危険に曝すおつもりですか!?」
腹の底から響く様な妃奈の声に、妃奈と同じ面差しの国母陛下の顎が上がり、見下す様な眼差しを向ける。
「国の事を考えない王族など、必要ありません」
「私の息子と、この国の国民を天秤に掛けるおつもりですか!?どうぞ、掛けるがいいわ!我子を危険に曝すなら、こんな国等消えてなくなればいい!私は、どんな事をしても息子を守ります!!こんな国に、琥珀を絶対に渡しはしない!!」
「…コハク…それが、息子の名前ですか?」
しまった…名前を知られていないなら伏せておくべきだったと後悔したが、この喧嘩だけは負ける訳にはいかなかった。
「私は日本に戻ります。琥珀も、この国に渡す積もりはありません」
「貴女は日本に帰れませんよ、妃奈」
「…どういう事です?」
国母陛下の言葉に、妃奈が国王の顔を見ると、彼は妃奈の視線を避ける様に下を向いた。
「貴女のパスポートは、此方で預かっています。今頃日本大使館に、貴女のカナハン王国への帰化申請がされている筈です」
「何を勝手な事!?本人の許可もなしに!?」
「貴女は、カナハン王国の王女であり王太子なのです。何の問題もありません。ですから、貴女の息子を呼び寄せる事にも、何の支障もありません。幾ら貴女が逆らおうと、直ぐにでも日本に調査を出せば、子供の居場所等調べる事が出来ます」
「…調べても無駄です。琥珀は日本人です。日本の法律に守られています」
「しかし、琥珀は貴女の息子でしょう?親の元に引き取るのは、当たり前だと思いますよ」
「今現在、私の手元に置くのが一番危険です!」
「意地を張るのはお止めなさい、妃奈。貴女がカナハン王国の人間になるという事は、琥珀も又、カナハン王国の国民になるという事ではありませんか」
「いいえ…琥珀は、日本国民です」
「…どういう事です?」
「ムラーテ大使から、ご報告はされていませんか?」
「何を?」
「琥珀は…私の息子は、養子に出しました」
「何ですって!?」
国母陛下の叫びと共に顔を上げた国王は、妃奈の顔をマジマジと見詰めた。
「養父の黒澤さんは、法律の専門家である弁護士です。琥珀は、日本国と黒澤さんに守られている…絶対に、この国には渡しません!」
「…そ…訴訟を起こしますよ、カリーファ!琥珀を、その養父より取り戻すのです!!」
「…母上」
「無駄だと言ったでしょう?母親の私が引き取らないというのに、訴訟も何もあったものではないわ!」
「それでも、祖父と曾祖母の私達の名で、訴訟を行えば!?」
「…父親の元から、子供を取り上げる事が出来ると仰いますか?」
妃奈の言葉に、2人は言葉を失った。
「法律に疎い私でもわかります。父親の元から子供を取り上げる事が出来るのは、父親に余程の問題がある場合のみです。琥珀の父親である黒澤さんは、立派な弁護士です。無駄な足掻きは諦めて下さい、国王陛下」
国王と国母陛下は顔を見合わせ、再び妃奈に視線を移した。
「私達が諦めたとしても、貴女の息子…琥珀を狙う者は必ず出て来ますよ、妃奈」
「どういう事です?」
「貴女に子供が居るという情報は、ムラーテの元にも届いているでしょう。貴女の次の王太子を狙う…彼等なら、必ず考えるでしょう」
追い討ちを掛ける国母陛下の言葉に、妃奈は腹を決めた。
「お伺いしたい事があります、国王陛下」
居住まいを正すと、妃奈は国王に向き直った。
「…何をだ?」
「元はといえば、国王陛下がこの国をキチンと治めて来なかったツケが来ているという事でしょう?」
「……」
「アイシャ王女がターヒル国防大臣の孫だという以外に、彼女が王太子になれない理由があるのですか?」
「…ある…アイシャは、私的な意味でも、公的な意味でも、王太子になるべきではないのだ」
「アイシャ王女が国を継ぐと、何か大きな問題があるのですか?」
「…世界情勢が…変わるかもしれん」
「は?」
「アイシャが国王になれば、ターヒルがこの国を裏で牛耳る事になる。ターヒルは…隣国マリークと…如いてはイラクと手を結ぼうと画策しているのだ」
いきなり中東問題を持ち出され、妃奈は面食らった。
中東戦争やアメリカへの9.11爆弾テロ、各国で巻き起こる無差別自爆テロは、国際情勢に疎い妃奈でも知っている…だが、日本で暮らして来た妃奈には、遠い国の遠い出来事に過ぎなかった。
この交渉に、そんな大きな出来事を持ち出されても、妃奈自身に対応出来るとは思えない。
だが、しかし…例え無謀であろうと、引き下がる訳にはいかなかった。
琥珀の安全を勝ち取る為に、敵から完全に琥珀を諦めさせる為に…!
「…国が危ないと…隣国から、攻撃を受ける可能性がある…そういう事ですか?」
「隣国マリークばかりではない。恐らく、アメリカが乗り込んで来る…奴等は、イラク攻撃の補給基地の立地的条件においても、我が国を虎視眈々と狙っておるのだ!このままでは、遅かれ早かれ我が国は乗っ取られてしまう!」
「…成る程…わかりました。いえ、正直わかってはいないのですが…困った事態である事は、理解しました」
「では、国王を継いでくれるか!?」
「それは、国王陛下が決めて下さい。但し…私が継ぐにしても、この国を壊してしまう事になると思いますよ」
「何だと?」
「君主制等続けているから、ややこしい事になるのです。私が継ぐ事になれば、この国を民主化する事になるでしょう」
「……」
「私は最後の国王として、この国の君主制を幕引きする事になります。この国の政治は、国民の代表が議会で話し合い、進めて行く事になるでしょう」
「…日本の様に?」
「政治に置いては、そうですね。しかし、日本の天皇家の様に象徴として王家を残す積もりはありません」
「……かつて余は、日本の様な平和で安全な国に憧れて、その国の在り方を学ぶ為に日本に留学を果たした。しかし、志し半ばで帰国を余儀なくされた」
国王がうなだれると、国母陛下が後を引き継いだ。
「まだ、私の御代だった頃の話です。貴女の父親が一時帰国するという連絡を受けて直ぐ…当時の王太子が亡くなったのです。ようやく完成した油田と原油精製プラントを視察中に…狙撃されたのです。帰国したカリーファは直ぐに王太子となり、私はカリーファに王位を譲りました」
「だから、母を捨てたと…そういう事ですか?」
「当時の国王として、私が命じました」
しばらく、沈黙の時間が流れた。
国王と国母陛下は、妃奈が再び口を開く迄、辛抱強く待った。
「…この国では、昔から王位を狙う者が居たという事ですか?」
「残念ながら、昔から王族同士の争いもあった為、絶えてしまった家系が多く…残っているのは、私達だけなのです」
「ならば、話は簡単でしょう?」
「……」
「私とアイシャ、どちらに国を解体させるのか…ご決断下さい、国王陛下」




