(73) 拘束
新宿発12時40分の成田エキスプレスに乗り、成田空港駅に到着したのは14時前だった。
日本航空18時25分発、ジョン・F・ケネディ国際空港行き、ボーイング787便への搭乗手続きは、2時間程前から行われるらしい。
空港も、ましてや飛行機も乗った事のない妃奈は、カウンターで色々と説明を受け、搭乗アナウンスを待つ事にした。
エコノミークラスでの手荷物は、ハンドバッグ以外に1つだけと言ったカウンターの女性は、妃奈の布製のボストンバッグではコンテナへの積載は不安だと教えてくれた。
空港の中を行き交う人々は、皆キャスター付きのトランクを引いている。
鞄を扱う店に入り相談すると、パンツスーツを着た妃奈に店員は親切に対応して、機内持ち込み可能な小振りなキャスター付きのトランクを薦めてくれた。
森田組長から預かったジェラルミン製のケースと、ボストンバッグに入れていた妃奈の着替えをトランクに詰めると、妃奈は貴重品を入れたバッグを肩に掛け店を後にした。
飛行機に乗るには、鞄から新調しなければならないのか…手荷物に制限がある等、初めて知った。
決して安い買い物ではなかったが、森田組長が用意してくれた通帳には、何と300万円もの現金が入っていた。
その金額に驚きながらも、初めて行く異国の地を前に、こんなにも心強い事はないと思い直し、ありがたく使わせて貰う。
カード1枚で買い物をする事も、初めて経験した。
カウンターで相談しながらアメリカドルに換金した妃奈は、空腹を覚えてエレベーターでレストランがあるという4階に上がった。
そういえば、昼食も摂らず慌てて出て来たのだ。
香ばしい匂いに釣られて見付けた大阪のたこ焼き屋に入り、カウンターに座って注文する。
以前たこ焼きを食べたのは、小塚さんに連れて行って貰った新宿の店だった。
路上で生活している時には、あのたこ焼きの焼ける匂いとソースの匂いに、堪らなくなって生唾を飲み込んだ事が何度もあった。
出て来たソースたこ焼きの上で、鰹節がユラユラと踊る。
熱々のたこ焼きの中はトロリとしており、中のタコが口の中でプリッとはじけた。
…琥珀に食べさせてやりたい…あの子なら、一人前でも平気で食べそうだ…。
どうしているだろう…大きくなっただろうか?
そうだ、久々に会うのだから、何か土産を買って行こう…滞在させて貰っている屋敷にも、小さな子供が居ると黒澤が言っていた…。
早々に食事を終えると、妃奈は本屋に入り子供用の絵本を吟味して2冊購入し、ラッピングして貰った。
自分用には、ニューヨークの地図とガイドブック、そして英語のトラベル英会話の本を購入して、出国カウンターのある3階のロビーに戻った。
バッグからガイドブックを取り出して地図のページを開き、手帳に書いてある住所を探す。
黒澤が渡米する前に、滞在先の屋敷の住所と会社の住所を書いて行ってくれた。
本当なら、黒澤に連絡を入れてから渡米するべきなんだろうが…黒澤の携帯番号も、日本に居るという手塚の携帯番号も、妃奈は携帯のアドレスに登録したきりで覚えていなかった。
携帯を持っていなかった時の蒲田の菅原家の電話番号も、美子の携帯番号も、未だに覚えているのに…肝心の黒澤の電話番号がわからないのでは、連絡のしようがない。
あの携帯は、森田組長が妃奈から取り上げたままだ。
あの中には、琥珀の写真も黒澤からのメールも入っているのに…。
でも、もう少しで会えるのだ!
妃奈の乗る予定の便は、明日の夕方にはニューヨークに到着すると、さっきカウンターで教えて貰った。
空港から屋敷のあるドブスフェリーという場所迄は、どうやって行くのだろう?
妃奈がガイドブックを繰っていると、本に人影が映り込んだ。
「…済みません、ちょっと宜しいですか?」
サラリーマンにしては目付きの鋭い、スーツを着た男性が、ベンチに座る妃奈に声を掛ける。
「…どうぞ」
妃奈が荷物を自分の方に寄せると、年配の男性は小さく会釈をして妃奈の隣りに座り、妃奈に話し掛けて来た。
「ご旅行ですか?」
「えぇ…まぁ…」
「行き先は…ニューヨークですか?」
妃奈の持っているガイドブックを覗いて、男性はニコリと笑った。
見知らぬこの男性の持つ独特な雰囲気に覚えがある妃奈は、手帳とガイドブックを急いでバッグに入れると、立ち上がってトランクの柄を引き立ち去ろうとした。
「高橋妃奈さん…ですね?」
突然フルネームを尋ねられ、妃奈の頭の中で警鐘が鳴る。
「…どちら様でしょうか?」
「失礼致しました。私、警視庁公安部の設楽と申します」
刑事はそう言って、証書付きの手帳を開いて見せた。
訳がわからない…。
『同行して欲しい』と言った設楽に、妃奈は一応断りの言葉を吐いた。
刑事に同行を求められる事件等、今現在妃奈の周辺では起こっていない。
とすれば、森田組長の関係で、何か事件が起こっているのだろうか?
妃奈は、家政婦として働いていただけであって、森田組とは何の関わりもなかったが、警察はそうは思っていないのかもしれない。
下手に騒いだ所で、警察は直ぐに手錠を持ち出し、『公務執行妨害で逮捕』と言うに違いない。
それに、森田組長に迷惑を掛ける訳にはいかなかった。
飛行機の搭乗手続きが迫っている事を話すと、『申し訳ないが渡航は諦めて欲しい』と言われ、妃奈はがっかりすると同時に言いようのない怒りがこみ上げて来た。
何故なら設楽は、同行を求めるばかりで理由を説明しようとしないのだ。
気が付けば、背後から2人の男が近付いて来る。
「刑事さんですか?」
振り向いて問いただすと、男達は黙って頷いた。
「では、このチケットをキャンセルして頂けますか?そちらの都合で、同行させられるのですから」
妃奈が差し出したチケットを受け取った刑事は、妃奈の後ろに座る設楽に指示を仰ぎ、カウンターへと向かった。
「怒っていらっしゃいますか?」
「当然です。訳もわからず、理由も説明して頂けないのですから」
「にしては、落ち着いていらっしゃる」
クックッと笑う設楽の隣に座ると、妃奈は業と視線を絡ませずに言った。
「私の事を、調べてあるのでしょう?」
「一応は」
「逮捕歴や補導歴も?」
「補導歴はありますが、逮捕は誤認逮捕だったと伺っています」
「…警察に逆らうと、どの様な仕打ちをされるか…私は身に染みています。逆らうだけ、此方が傷付くという事も学びました」
「手厳しいですね」
「でも、今の私には、逮捕される覚えがありませんが?」
「…決して逮捕等では、ありませんよ」
「それでは、何だと仰るのです?」
「それは、私の口からは…」
そう言って、設楽は又言葉を濁した。
やがて3人の男達に囲まれる様にして、妃奈は黒塗りの車に乗せられ都内へと戻された。
妃奈の知らない街並みを進む車が到着した先は、先が槍の様な鉄柵と門扉に囲まれた石の建物。
どう見ても、警察署ではない…門扉の中を進み、建物の車寄せに停車した車から降り立った途端、建物の扉の両側に立つ白い服を着た男達が直立不動で出迎える。
その男達の容姿に、妃奈は又眉を寄せた。
明らかに日本人ではない、浅黒い肌と掘りの深い顔立ち。
「どうぞ、此方に…」
案内されて入った建物の中にも、多くの外国人が居た。
そして彼等は、妃奈を見て一様に驚き、直ぐに直立不動で深く腰を折った。
一体、何だというのだろう…訝しむ妃奈を、設楽達は応接室の様な立派な部屋に案内した。
中に居た、数名の男達が立ち上がる…年配の外国人の男性は、すれ違った人々と同じ様に驚きの表情を見せ、次の瞬間破顔して腰を折った。
「どうぞ、此方にお座り下さい」
眼鏡を掛けた中年の日本人男性に声を掛けられ、妃奈は一礼してソファーに座った。
部屋の中迄入って来た設楽は、応接室の入口近くに立ったままだ。
「本日は、お忙しい所お呼び立てして、申し訳ありません」
眼鏡を摺上げながら、男性は妃奈に向かって恭しく頭を下げる。
「高橋妃奈さんですね?」
「そうですが…あの、説明して頂けますか?」
「……」
「此処は何処で、私は何の為に連行されたのですか!?」
「連行だなんて、とんでもない!」
慌てた様に首を振り、彼は入口近くに立つ設楽に眉をひそめた。
「私は、弁護士の対馬と申します」
妃奈に名刺を差し出しながら、対馬は何度も眼鏡を摺上げ、隣に座る外国人の男性を紹介する。
「此方は、カナハン王国特別全権大使であられる、サラーテ・ビン・ザビヒ・アル=ムラーテ閣下です」
隣に座る初老のスーツを着た男性は、胸に手を当てると妃奈に恭しくお辞儀をする。
「初めまして、高橋妃奈さん。私の事は、ムラーテとお呼び下さい」
「…初めまして」
妃奈と似た肌色の男性は、ニコリと笑うと再び日本語で話し出した。
「此処は、カナハン王国の大使館です」
「…その、カナハン王国の大使閣下が…私に何のご用ですか?」
「その前に、貴女の事を確認させて頂いても宜しいですか?」
対馬弁護士の質問に、妃奈は眉を寄せた。
「何の為に?」
「これは、とてもデリケートな問題で…貴女の出自に関わる事なのです」
「…私の父親の事ですか?」
「そうです。それを確認する為に、私はカナハン王国から依頼を受けて、貴女の戸籍等の書類を拝見致しました。しかし、貴女の戸籍には、些か問題点がありまして…貴女のお母様のお名前を伺っても宜しいですか?」
「…鶴岡朋美です」
「貴女の戸籍には、ご両親の記載がありませんでしたが?」
「母は、家出をして住所不定で、名前も偽名にして暮らしていた様なので、私はずっと無戸籍児だったそうです。その後両親が亡くなった時に、私は記憶を失っておりましたので、その時に戸籍が作られたのだと思います」
「高橋姓なのは、何故ですか?」
「戸籍がはっきりしていたのが、父の高橋道雄だけだったからです」
「記憶を失っていたという事ですが、先程話された事実を、貴女は何時知りましたか?」
「私が18になる少し前に、当時の未成年後見人だった黒澤さんからお聞きしました」
「貴女のお母様である鶴岡朋美さんが、貴女の本当の母親だという証拠はありませんか?例えば、母子手帳や出産証明書、若しくは出産された病院名等をご存知ありませんか?」
「ありません。その様な書類や病院名も、一切聞いておりません」
対馬弁護士とムラーテ大使が、困った様に顔を見合わせた。
「…しかし、祖父との血縁関係は、調べてあると聞きました」
「どういう事です?」
「お恥ずかしい話ですが、祖父の遺産相続で親族と揉めまして…祖父と私のDNAを鑑定したと、黒澤さんから伺っています」
「それでは、再びDNAを鑑定する事に、貴女は同意して頂けますか?」
妃奈が了承すると、対馬弁護士は鞄の中から封筒を取り出した。
中に入っていたケース付きの綿棒で妃奈の口腔内を拭い、又封筒に入れると厳重に封をする。
「結果が出る迄、一週間程掛かります。その間、高橋さんには、此方の大使館に滞在して頂く事になりますが、宜しいですか?」
「は?」
「ですから…」
「いえ、質問は理解出来ますが…何故ですか?」
「…アナタを守る為です」
ムラーテ大使が、真剣な顔で妃奈を見詰めるのを、妃奈はとっさに視線を逸らして俯いた。
眼鏡を摺上げながら、対馬弁護士が再び問い掛ける。
「最後の質問になりますが…貴女のお子様…琥珀君の事です」
「えっ!?」
隣に座るムラーテ大使が驚いた様な声を上げ、マジマジと妃奈を覗き込んだ。
「高橋さん、アナタは…独身ではありませんでしたか?」
「そうです」
「失礼だが、父親は?」
それまで友好的だったムラーテ大使の雰囲気が、途端に冷たく猜疑心に満ちた物に変わる。
「言いたくありません」
「……」
「私の父親の件とは、関係がありませんよね?」
妃奈の冷たい対応に、対馬弁護士が質問を被せて来る。
「その後、貴女は琥珀君を養子縁組みされていますね?」
「えぇっ!?」
再び驚いた声を上げるムラーテ大使に、妃奈は厳しい眼差しを返した。
「養子縁組み先は、黒澤鷲さん…黒澤さんというと、先程話されていた、未成年後見人だった黒澤さんですか?」
「そうです」
「それでは、黒澤さんが…琥珀君の父親という事ですか?」
「関係がない事に、答える義務はないと思いますが?」
何も知らない癖に…妃奈の中で、フツフツと怒りが込み上がって来る。
座っていたソファーから立ち上がった妃奈は、2人を見下ろした。
「…申し訳ありませんが、これで失礼させて頂いても宜しいですか?」
「お待ち下さい、高橋さん!我々はまだ、貴女のお父様の事を何も話しては…」
「興味ありません」
「は?」
「遠い昔に母と私を捨てた人物が、今更私に何の用があるというのです?」
妃奈の険のある返答に、ムラーテ大使は眉を寄せた。
「高橋さん…アナタは、お父上を恨んでいらっしゃるのですか?」
「当たり前でしょう?」
「……」
「私の人生は、様々な障害の連続でした。その一番始めの出来事が、母を孕ませて捨てた男の存在であると、私は確信しています」
「それは…それが、致し方ない理由があったとしてもですか?」
「貴方は、その理由とやらをご存知なのですか?」
「…私からは、お話しする事は出来ません。それは、是非…お父上に直接お会いして、お聞き下さい」
「今更、会うつもり等ありません。誰なのか、知るつもりもありません。どうか、私を帰して下さい!」
妃奈の訴えに、ムラーテ大使が困った表情を浮かべた。
ムラーテ大使の妃奈に対する言葉使いは、とても丁寧な物だ。
そして、妃奈の父親に対してムラーテ大使は『お父上』と言い、常に尊敬語を用いて話していた。
それは、妃奈の父親がムラーテ大使と同格、若しくはそれ以上の地位か権力の持ち主だという事だ。
嫌な予感しかしない…危ない予感しかしない…妃奈は、一刻も早く此の場から立ち去りたかった。
「設楽さん!」
妃奈は、部屋の入口に立つ設楽に声を掛けた。
「もう私は、帰っても宜しいですよね?」
ゆっくりと妃奈達の居る応接セットに近付いた設楽は、ムラーテ大使に一礼して妃奈に言った。
「それは、難しいでしょうね」
「何故ですか!?」
「それは…外交問題に関わると思います」
ズキズキと頭痛がする…血管が脈打ち、頭の中の警鐘が大きな音で鳴り響く。
「私の父親は、高橋道雄だけです!」
「しかし、貴女のお母様である鶴岡朋美さんは、高橋道雄さんと婚姻関係を結んではいらっしゃいませんでした」
妃奈の正面に座る対馬弁護士が、眼鏡を摺上げながら妃奈を見上げる。
「私を育ててくれたのも、愛情を与えてくれたのも、高橋の父と母と、養父である菅原の父と、黒澤さんだけです!他には誰も居ません!今更出て来て父親面する様な男になんて、私は会いたくもないし、絶対に認めません!!」
ソファーに置いたバッグを抱え、スーツケースの柄を掴むと、妃奈は部屋の入口に向かって大股で歩き出した。
「ヒナ・アル・アミーラ!!」
妃奈の背に、ムラーテ大使の言葉が突き刺さる。
聞いた事のないその言葉に訝しんで振り向くと、妃奈を追い掛けて来たムラーテ大使が、胸に手を当て床に跪いて言った。
「アミーラ…いえ、妃奈王女!どうか、怒りをお沈め下さい!」
「…は?…何を言って…」
「正確には、DNA鑑定の結果を待たなければなりませんが、私は確信しております!貴女様の、そのご容姿…貴女様は間違いなく、我が国のマリク、カリーファ・ビン・サマル・アル=サイード殿下の第一王女であり、我がカナハン王国の王太子殿下でいらっしゃいます!」




