(72) 告別
妃奈がこの家を訪れた時から、仲村節子の病状は手の施し様がない状態だったが、春の暖かい日差しが差し込む頃から節子は通常の痛み止めでは効かない状態になり、モルヒネの投与が日に日に増えて行った。
薬の効き目が切れて来ると、節子は呻き声を上げ、妃奈は一晩中彼女の背中をさする日が続いた。
痛みの為に寝れない辛さは節子を苛つかせ、田中や妃奈に当たり散らしていたが、それでも節子は病院に入院する事だけは頑なに拒否していた。
目の前の田圃に水が張られ、田植えの時期に入ると、節子の食欲は見る間に落ち、点滴と水分以外を摂る事が出来なくなっていった。
「こりゃぁ、駄目だな…会わせたい人が居るなら、早く連絡を取った方がええじゃろぅ」
往診する医者の言葉に、妃奈は森田組長に、田中は節子の義理の妹である福本清美に連絡を入れた。
「今年の夏も猛暑になるのかしらねぇ?まだ梅雨入りして間がないのに、暑いったらないわ!」
数日して現れた福本清美は、夫が他界してから自分は熱川にある実家の近くの旅館で仲居をしており、兎に角忙しい身の上である事を田中と妃奈にけたたましく説明した。
「それで医者は、もう駄目だって言ってるんですか?あと、どれ位?」
「…福本さん、聞こえますよ」
「もう、わかりゃしませんよ。わかったとしても、言い返せないし…」
清美が自分の方に扇風機を引き寄せながら笑うと、背後のベッドから声がした。
「……聞こえてるわよ」
「あら、お義姉さん!良かった、まだ話せるんだわねぇ」
「……」
「お義姉さんが元気な内に、後の事を色々相談しとかないとって、思ってたんですよ」
「…後の事?」
「この家の事や、遺言書なんかの事を…」
「……何もないよ」
「いぇ、でもね…家や土地の権利書や通帳なんかをね、はっきりさせといた方が…」
「…あんたに遺せる物なんて…この家には何もないよっ!さっさと帰って頂戴!」
「お義姉さん!最期までそんな態度な訳ですか!?」
「……」
見かねた田中が取りなし、隣の部屋に福本清美を連れ出した後も、彼女は葬儀費用は自分が出す義理はないだの、義姉の遺産を受け取る権利は自分にあるだのと声高に叫んだ。
節子は背を向けて、清美が帰るまで手で耳を覆っていた。
その夜、節子の躰を拭いていた妃奈は、何時になく優しい声音で話し掛けられた。
「…写真を取ってくれる?」
妃奈が仏壇に置かれた節子の夫の写真を渡すと、彼女は大事そうに写真を撫でながら再び言った。
「…もう一枚も」
仏壇に伏せられた写真を渡すと、節子は愛おしそうに娘の写真を撫でた。
「……お嬢様ですか?」
「…そうよ。親不孝な子でね…親より先に…逝ってしまって…」
「……」
「妃奈…あんたは、あの森田の所で…家政婦か何かしてたの?」
「えぇ…まぁ…」
「なら、知ってるかしら?…あの男の…子供の事…」
「えぇ…よく存じ上げています」
節子は首を動かし妃奈を見詰めると、驚いた様な声を出した。
「そうなの?」
「はい。大変、お世話になりました」
「…男?女?」
「男性です」
「何してるの?」
「弁護士をされています」
「……へぇ…」
少し口元に笑みを浮かべると、節子は再び娘の写真に視線を戻した。
「とても背が高く、体格の良い方です。とてもお強くて…でも、とても優しい方です」
「……」
「…笑うと、大きな八重歯があって…」
「あら、やだ!そんな所、受け継いだの!?」
節子は嬉しそうにフフフと笑い、娘の写真を撫でて尋ねた。
「…名前…下の名前、何ていうのかしら?」
「シュウと仰います。鳥の『鷲』という字を書いて、シュウと読みます」
「……そう。シュウっていうの…」
「…お会いに、なりたいですか?」
「いいえ」
妃奈の質問に、節子は即答した。
「……」
「唯ね…どうしてるかと、思っただけだから」
「…今、新しいお仕事の為に、アメリカで暮らしていらっしゃいます」
「…そう」
「…お子さんが…いらっしゃいます」
「ぇ?」
「コハクと…宝石の『琥珀』と同じ漢字で…男の子です」
再び驚いた様子を見せると、節子は妃奈を見詰め…そして、優しい笑みを零した。
「おばあちゃんかと思ったら、曾孫が居たなんてね」
「……」
「主人と陽子に、良い土産話しが出来るわ」
「申し訳ありません」
「何が?」
「もっと早く、お伝えするべきでした」
頭を下げる妃奈に、節子は視線を写真から離さずに答えた。
「いいのよ…きっと、聞く気には…ならなかっただろうから」
「……」
下を向き黙り込む妃奈に、節子は視線を仏壇に向けて声を掛けた。
「1つ、頼まれてくれる?」
「何でしょうか?」
「私が死んだ…後の事なんだけどね…」
「……」
「私達夫婦には、大きな借金があってね…その借金を抱えた時に、売れる物は全て売ってしまったのよ……家も、土地も、会社の権利も…墓もね」
「……」
「あの仏壇の下の棚にね…主人の遺骨が入ってるの」
「…はい」
「森田に伝えて欲しいの。私が死んだ後に、主人と私の遺骨を適当に処分して欲しいって」
「…奥様」
「森田への、最期の遺言だから…忘れずに伝えて頂戴」
開け放たれた窓から入る水田を渡る早稲の香りと、部屋の中に漂う線香の香りが混じり合う。
終わりは、呆気ない程突然にやって来た。
森田組長への遺言を託された2日後の明け方、節子は静かに息を引き取った。
連絡すると森田組長は直ぐにやって来て、葬儀一切の手続きを済ませ、喪主だけを福本清美に任せると、分厚い香典袋を置いて帰って行った。
通夜は、酷く寒々しいものだった。
立派な葬儀場に煌びやかな祭壇、溢れる程の生花に囲まれた棺とは対象的に、参列席は閑散としていた。
親族は、喪主である福本清美と息子夫婦と娘。
他の参列者は、家政婦の田中と庭師の竹田夫妻、そして妃奈だけだった。
痩せて冷たくなった節子の遺体の口元が少し開き、八重歯がチラリと覗いている。
「まるで、笑っていらっしゃる様ですね…」
目を腫らした田中がそう言って、嗚咽を漏らしながらも微笑んだ。
妃奈は、仏壇に飾ってあった2つの写真立てを節子の棺に入れて手を合わせた。
翌日の本葬には森田組長も出席し、骨揚げの後初七日の読経が上げられた。
斎場から節子の家に戻り、葬儀屋が組んだ祭壇に節子の遺骨を奉ると、福本親子は節子の家の中の家捜しを開始した。
居間に置かれた祭壇の前に集まり、竹田夫妻と田中は森田組長に挨拶をしながら、妃奈が配ったお茶を啜っている。
「これから此方のお宅は、どうなるんでしょうねぇ?」
心配そうな田中の言葉に、森田組長が静かに答える。
「昨日、不動産業者と話をして来ました。今月末をもって、此方の賃貸契約を解約します」
「…そうですか」
田中に話していた森田組長の声に、隣りの部屋に居た清美の息子が、おずおずと尋ねて来た。
「あの…費用は?」
「…貴方が心配する必要は、ありません」
「そうですか」
ホッとした表情を見せた清美の息子の横から、節子の着物を風呂敷に包んでいた清美が声を掛けた。
「お骨は、どうするんです?私達の所には引き取れませんよ!福本の家を奉ってますからね!」
「…貴女を当てにする積もりは、毛頭ありませんが?」
相手が組関係の人間だとは知らないのだろう…清美は森田組長に向かって、節子との確執と無礼だった態度の愚痴を声高に訴え出した。
森田組長は、素知らぬ顔をして今後の事を田中と打ち合わせ、家財は全て廃棄するので、入り様な物は持って帰って欲しいと田中と竹田に言った。
「…全て廃棄されるんですか?」
妃奈の問いに、森田組長は片眉を上げ見下ろした。
「近々業者に入らせ、全て廃棄処分する予定だが…何だ?お前も欲しい物があるのか?」
「出来れば、是非頂きたい物があるのですが…」
そう言って妃奈は立ち上がり、節子の寝ていたベッドの横にある本棚に向かった。
背後の部屋では、清美の娘が箪笥の引き出しから通帳や印鑑を探し出したらしい。
「お母さん、あったわよ!印鑑と通帳…でも、殆ど残ってないみたい」
「あら、やだ!20万もないじゃない!?本当にコレだけ?家も賃貸だっていうし…定期や証券なんかは?」
「無いみたいよ?保険も解約されたみたいで、書類があったし…」
「田中さん、他には無いの?着物や貴金属だって、ロクな物がないし…あんた、隠してるんじゃないでしょうね!?」
清美の言葉に、普段大人しい田中も流石に目を三角にして腰を上げた。
「失礼な事、言わないで下さいよ!?私達が、そんな事する筈ないでしょう!奥様の貴重品は、その引き出しの物だけです。奥様の生活費も、お医者様への支払いも、此処のお家賃も…それから、私達のお給金だって、全て森田さんが出して下さってるんですからね!?一体、貴殿方が奥様に何をして下さいました?さぁ、もうお帰り下さいなっ!!」
肩で息をして怒りを表す田中に、清美親子はすっかり毒気を抜かれ、めぼしい物を包んだ風呂敷を抱えてスゴスゴと帰っていった。
「あぁ、スッキリした!」
そう言ってお茶を飲み干す田中に、竹田夫妻がクスクスと笑い掛け、3人は笑顔で思い出話に花を咲かせている。
妃奈は本棚から引っ張り出した物を抱えて、森田組長の前に置いた。
「…此方を頂きたいのですが」
目の前に置かれたアルバムに、森田組長の瞼がピクリと動いた。
そして、そっとアルバムのページを開く…。
「…お前は、コレをどうする積もりだ?」
「黒澤さんに、お渡ししたいと思います」
「彼女は…仲村夫人は、それを望むと思うか?」
「はい」
「何故?」
「何故って…」
「話したのか、黒澤の事を?」
「はい」
「……何と言っていた?」
「…多分…喜んでいらしたのだと思います」
「……」
「琥珀の事も話しました。ご主人とお嬢様に、良い土産話しが出来たと仰っていました」
「……そうか」
眉間に深い皺を寄せて聞いていた森田組長は、再びアルバムのページを繰り始めた。
「奥様より、森田さんに…御遺言を承っております」
「何?」
妃奈は仏壇の下にある棚を開け、中に納められてある白い風呂敷で包まれた大きな箱を取り出した。
「妃奈さん…それって…」
驚いた顔を見せる田中達と森田組長の視線は、取り出された箱に注がれた。
「奥様の…ご主人様のご遺骨だそうです」
「……」
「奥様より、借金の為に墓も売ってしまったので、ご主人と奥様のご遺骨を…適当に処分して欲しいと……最期の遺言だから、必ず森田さんに伝えて欲しい…との事です」
しばらく箱を凝視していた森田組長は、ホゥと大きな溜め息を吐いて居住まいを正した。
「…遺言……慎んで、承った」
森田組長は、その日の内に2つの遺骨と妃奈を連れて新宿のツインビルに戻った。
遺骨を抱えて歩く2人を、森田組の事務所の面々が凝視する。
妃奈は、又以前の様に中沢が飛び出して来るのではないか、暴力を振るわれるのではないかと、内心ビクビクしながら生活していたが、事務所の中にも森田組長の家にも、中沢が姿を現す事はなかった。
2週間後、森田組長は妃奈に節子の夫の遺骨を持たせると、新宿御苑近くに建つモダンなビルに連れて来た。
「あの…此処は?」
ホテルのロビーの様なエントランスで、妃奈は礼装した森田組長に尋ねた。
「……墓だ」
エレベーターで2階に上がると、係員が妃奈から遺骨を受け取り、斎場に設けられた祭壇に奉る。
「只今から、故中村恒夫様の納骨の儀を行います」
司会者の言葉に従って、儀式は粛々と執り行われた。
司会者と僧侶と、森田組長と妃奈だけの不思議な取り合わせ…妃奈は、式の間チラチラと森田組長を窺った。
尋ねたい事が山の様にある…でも、口に出して良いものなのか…。
儀式が終わると、妃奈は森田組長を見上げて1つだけ尋ねた。
「あの…お墓は、何処にあるんですか?」
妃奈の問いに何も答えず、森田組長はエレベーターのボタンを押した。
降りた階には、仕切りの付いた不思議な空間が広がっている。
仕切りの中の壁にはアーチ状の大理石があり、金色のエレベーターの様な扉があった。
壁のパネルに森田組長がカードを翳すと、扉の向こう側で低いモーター音がする…程なくして金色の扉が開くと、其処にはモダンな意匠の墓が現れた。
墓の中央にある黒御影石のパネルには、『仲村家』と彫られある。
「此処には、黒澤の生みの母が眠っている。今日納骨の儀をした遺骨と共に、いずれは仲村夫人の遺骨も此処に納められる事になる」
「そうですか…黒澤さんも、お参りにいらしたんですか?」
「……いや、黒澤は知らない」
「……」
「黒澤が帰国したら、教えてやってくれ」
そう言って、森田組長は墓石の前で焼香した。
妃奈も真似をして焼香し、手を合わせる。
「私、初めてです…お墓参り…」
「親の墓には、参らないのか?」
「……私は孤児ですから、親の墓は知らないんです」
「あの土地の…お前の祖父の墓には?」
「何処にあるのかも知りません。それに、面識もないので…」
「そういうものか?」
訝しむ様に見下ろした森田組長に、妃奈は感情を抑えて答えた。
「鶴岡の墓に参る事は、ないと思います」
「……」
「あそこには、母の命を狙った人達が入っていて…私を殺そうとした人達が、入る予定の墓です。生きている私が参っても、誰も喜ばないと思います」
「……そうか」
そう呟いて墓石に向き直った森田組長に、妃奈は尋ねる。
「森田家のお墓も、此方にあるんですか?」
「……いや。別の場所にあるが…私は親族から縁を切られいるので、其処に入る予定はない」
「…仲村家の墓に、入れば良いんじゃないですか?」
「そんな事、出来る訳がなかろう!?」
「…そうなんですか?」
大声を上げた森田組長に、妃奈は小首を傾げた。
「仲村夫妻は…私の事を恨んでいた!」
「そうでしょうか?」
「お前も夫人の世話をして来たなら、わかっているだろう!?」
声を荒げる森田組長に、妃奈は再び尋ねた。
「そうでしょうか?」
「……」
「恨んでいる人間に、自分達夫婦の遺骨を託すでしょうか?」
「……」
「仲村の奥様が、あの様な態度を取られていたのは、ご病気の為と…寂しかったからだと思います」
「いや……その前から…」
「お嬢様との事ですか?」
「…何か聞いているのか?」
「いいえ。でも、寂しくて…森田さんには、甘えていらしたんだと思います」
「甘える?」
「どんなに暴言を吐いても、冷たい態度を取っても、森田さんは奥様の生活を守って、気遣いをなさっていました。多分、遠くに住む息子の様に思っていらしたのではないでしょうか?」
「……ありえん!私は陽子の命を奪った…極悪人だ!」
「…森田さんが、殺した訳では、ないのでしょう?」
「そもそも、陽子が組の世話になったのは、私の父が紹介した業者から買い付けた不良建材を購入した仲村工務店が、多額の負債を抱えたからだ!その上、陽子は…親の反対を押し切って、極道者である私との結婚を決め、子供を宿し…挙げ句、短い命を終えた!」
森田組長の絞り出す様な告白に、妃奈は感情を抑えた声で返す。
「…森田さんは、仲村の奥様に対して、罪悪感をお持ちだったんですか?」
「……」
「でも、それは…森田さんが背負わなければいけない物ですか?」
「…ぇ?」
「奥様の家…仲村工務店が潰れたのは、不良建材を掴まされたからなのかも知れませんが、森田さんのお父様も騙された1人なのではありませんか?」
「……」
「それに、購入を決めたのは、奥様の旦那様です。森田さんご自身には、何の責任もない話です」
「……」
「お嬢様…陽子さんの事も…結婚を決めたのは、陽子さんご自身です。あのアルバムの写真を見ても、森田さんのお宅にあるご仏壇の写真を見ても、陽子さんが不幸であったとは、私には到底思えません」
節子が持っていた陽子のアルバムには、陽子が生まれた時からの成長が刻まれていた。
家族や友人に囲まれ、陽子は何時も幸せそうに笑っていた。
特に、黒澤と良く似た面差しのある少し年上の少年と写る陽子は、何時でも輝く様な笑顔を見せていた。
アルバムの最後の方には、大人になった陽子の写真が数枚貼られていた。
何処かの庭なのか、立派な梅の木の前に並ぶ綺麗な顔立ちの少年と陽子…そして、若かりし森田組長と共に、はにかんだ笑顔を見せる身重の陽子の写真が、綺麗に整理されて貼ってあった。
「例え短い命だったとしても、陽子さんは幸せだった……奥様も、それはご存知だった筈です」
「…私の事を、許していたと?」
「だから、黒澤さんや琥珀の話を聞いて、『良い土産話しが出来た』と仰ったのだと思います。それに、森田さんにだけ遺言を託されたのだと…」
「……」
黙ったまま墓の前で佇む森田組長の背中を、妃奈も又黙って見詰めていた。
森田組長は、相変わらず忙しい日を過ごしている。
妃奈は、自分の処分に対して何の沙汰も出されない状態に焦れていた。
小塚に相談しようかと、黒澤の事務所のあった場所を訪れたが、煉瓦塀の外側一面を工事用の高いパネルで囲まれ、その中では重機や作業員の怒声が響いていた。
あの石造りの事務所も、黒澤と過ごした家も、本当にもう無くなってしまった…。
場所に執着等しなかった筈なのに…下腹がスウッと冷たくなる様な感覚を抱いてツインビルに帰ると、珍しく昼前に帰宅していた森田組長がソファーで寛いでいた。
「申し訳ありません。もう、お帰りでしたか…今、お昼を…」
「いいから、こっちに来て座れ」
そう言われてソファーに座った妃奈の前に、森田組長は妃奈が預けていたパスポートと航空券を投げて寄越した。
「…これは?」
「お前には、これから夕方の便で渡米して貰う」
「えっ!?」
「勘違いするな…黒澤宛てに、重要な書類を渡して貰う、唯のメッセンジャーだ」
「…そうですか」
例えそうだとしても、アメリカに行けば黒澤に、そして琥珀にも会う事が出来るかもしれない!
妃奈の心中は、俄かに浮き足立った。
「…お前でも、その様な顔をするのだな」
「ぇ?」
「まぁ、いい。お前は、このケースを黒澤に渡せばいい。中にお前の持って行くアルバムも入れるといい」
妃奈は、仲村家から持って帰ったアルバムを、森田組長から受け取ったジェラルミン製のケースに入れて、鍵を閉めた。
「これは、お前の通帳とカードだ」
差し出された妃奈名義の通帳とクレジットカードに、妃奈は慌てて首を振った。
「いえ、この様な事は…」
「何を勘違いしている?これは、お前の労働に対する対価だ。私は、手続きをしたに過ぎない」
「…ありがとう…ございます」
頭を下げて受け取ると、妃奈は通帳とカードを自分のバッグに入れ、ケースの鍵に通されていたチェーンを首に掛けた。
「呉々も、黒澤本人に渡す様に…いいな?」
「承知致しました。お預かり致します」
妃奈が頭を下げると、森田組長は立ち上がって寝室に向かう扉を開けた。
「…今後の事は、黒澤に聞け」
「森田さん、それって…」
妃奈が頭を上げて森田組長の背中に問い掛けると、彼は振り向かず背中越しに答えた。
「時間がない、早く行け」
「…森田さん」
「……ご苦労だった」
低い声でそう呟き扉を閉める森田組長に、妃奈は涙を溜めて頭を下げた。




