(71) 執事
渡米して半年、黒澤は順調に仕事をこなしていた。
妃奈とは相変わらず連絡が途絶えたままだ。
田上の調査でも、一向に行方がわからない。
「申し訳ありません、所長」
「お前が悪い訳ではない、小塚。森田組長が、身柄を預かっていると言うのだ。信じる他ない」
「……」
「どうした?」
「…高橋さんは、また何か事件に巻き込まれているのではないでしょうか?」
「何!?何かあったのか!?」
「…実は、先日…警察が来て、高橋さんの行方を尋ねられました」
「警察?新宿署の刑事か?」
「いえ、それが…どうも、公安の刑事の様でした」
「公安?公安が、妃奈に何の用だというのだ?毛利の事件絡みか?」
「わかりません。田上が、其方も調べておりますが…」
歯切れの悪い小塚の言葉の裏には、田上1人ではどうにも捜索の手がまわらない事を意味していた。
3ヶ月の予定で渡米してくれていた栞は、琥珀の様子を心配し帰国を延ばしてくれていたが、田上の兄の結婚式に出席するのを機に帰国した。
母親と離され、世話をしてくれていた栞が帰国した事で、琥珀は何かを悟った様に自ら行動する様になった。
笑顔や泣き顔を見せる事がなくなり、感情を表に出す事が殆どない。
英語にはまだ慣れない様だが、それでも「Yes」と「No」の意思表示だけはきちんと相手に伝える様になっていた。
リュウの誘いには気紛れに付き合う様になったが、華奈子夫人には決して3メートル以内には近付かないらしい。
琥珀専用のナニーが数名雇われたが、一向に懐かず逃げ回る…妃奈と似た面差しの女性が雇われた時には、烈火の如く怒ってハンガーストライキを起こした。
「Little Amberの頑固さは、お前に似たのか、Eagle?」
「…私も頑固ではありますが、あの頑固さは、琥珀の母親に似ています」
「華奈子が心配していた。相変わらず華奈子の元にも近寄らず、ナニーにも懐かない様だな。直ぐにラシードの所に逃げて行くそうだ」
黒澤が留守をしている間、琥珀は殆ど執事のラシードの元に居るという。
ラシードが仕事をしている後を追い掛け、彼の仕事を日がな一日眺めているらしい。
仕事の邪魔になるのではないかとラシードを気遣うと、彼は柔らかな笑みを湛えて返した。
「お気遣いありがとうございます、Mr.クロサワ。私には、幼い兄弟が沢山おりました。小さな子供の世話は 、馴れております」
そう言って、軽々と琥珀を抱き上げた。
正直、ラシードが琥珀の世話をしてくれるのは有り難い…雇われたナニーの中には、明らかに黒澤に色目を使って来る者も居たからだ。
バークレイのCEOの屋敷に住む次期アジア・オセアニア統括責任者は、子持ちだが独身…そんな噂話は、社内外に直ぐに広まった様で、パーティーに出席する度に雲霞の様に着飾った女性が擦り寄って来る。
「仕方ないじゃない。エドのお気に入りで、次期アジア・オセアニア統括責任者なんて地位が約束されていて、此方の男性と見劣りしない独身男と来れば、女性達が放っておく筈がないわ。例え、コブ付きだからといってもね」
豊かなブロンドを結い上げ、背中の大きくくれたドレスを着て黒澤の隣に立つメリッサ・バークレイが、周囲に笑顔を振りまきながら辛辣な言葉を吐いた。
「貴女にまで面倒事をお願いして、申し訳ありません」
「何?貴方の女除けって話?別に構わないわ。私はパーティーが好きだし、1人でだって出席出来るけれど、変な男に絡まれるのは、エドだって迷惑なのよ…だから、貴方は私のボディーガードでもあるのよ」
「そうなんですか?」
「聞いてないの?貴方はとても強いそうだから、任せても安心だと言っていたわ。それに…」
クルリと身を回して黒澤を見上げると、メリッサはコーンフラワーブルーの瞳を悪戯そうに輝かせて微笑んだ。
「貴方、私に興味はないでしょ?」
「は?」
「貴方は、私の事を束縛しないもの。案外私達、良いパートナーになれるかもしれないわ」
社交界の華と謳われるメリッサは、数年前に離婚したと聞いた。
原因は、夫の過度な嫉妬と束縛…さもありなん、彼女の様なバックボーンを持つ艶やかな華を、世の男性が放っておく筈がない。
適当に男達をあしらい、飽きて来ると『クロサワ!』と大声で呼び寄せて、黒澤の腕にしなだれ掛かる様にして退室する…そんなパーティーを数回重ねると、『Mr.クロサワが新しいメリッサ・バークレイの相手らしい』という噂が、まことしやかに流れた。
デスクワークをする背中に、小さな視線が張り付いて離れない。
執務室で田辺と共に招待状の整理をしていたラシードは、椅子を引いて後ろを振り向いた。
「寒くありませんか、Little Amber?」
ラグの上で両手に積み木を持ってラシードを見詰めていた琥珀は、彼の言葉に首を振った。
琥珀は幼いにも関わらず、全く手の掛からない子供だった。
屋敷の中で走り回る事も、物を壊す事もない。
決められた場所に座って、ラシードの仕事が終わるのをじっと待っている。
かといって無気力な訳でも、元気がない訳でもなかった。
興味がある物には、キラキラとした瞳でじっと見詰めて目を離さない。
しかし、許しが出るまでは決して手を出さないし、悪戯をする事もないのだ。
「…そろそろ昼食の時間ですが、ご一緒に如何ですか、Mr.タナベ?」
「もう、そんな時間か?」
ラシードは琥珀を抱き上げ、田辺と共に食堂に向かった。
ドブスフェリーでも稀に見る大邸宅であるバークレイ家の屋敷は、元々投資家であったバークレイ家の出身地であるイギリスのカントリーハウスの様式が色濃く出されている。
現在は、昔の様な住み込みの使用人の数は減っているとはいえ、昔ながらのメイドや従者の外、庭師や料理人を合わせ50名近くの使用人を抱えている。
使用人専用のホールや食堂も完備されている屋敷は、今のアメリカの屋敷では珍しいだろう。
ビュッフェ形式の食事が用意されてある厨房横の使用人専用食堂には、昼食時間にも関わらず思った程の人数は居なかった。
「Little Amberの食事は?」
厨房に居た料理人に声を掛けると、愛想の良い挨拶が返って来た。
「こんにちは、ラシードさん!お子様用には、ミートボールのクリームシチューがありますよ。直ぐに持って行きます」
「お願いします。今日は、人が少ない様ですね?」
「今日は、10日ですからね。パレードに行く奴等が多いんでしょう」
10月10日のコロンブス記念日には、毎年5番街で盛大なパレードが催される。
琥珀を座らせ席に着いたラシードに、正面にトレーを持って座った田辺が言った。
「そういえば、エドも家族でパレードに行くと言っていたな。クロサワは、どうしてるんだ?出掛けたのか?」
「旦那様は、ご家族で午前中からお出掛けです。お帰りは、夜になると…本日は、夕食も外で召し上がると伺っております。Mr.クロサワは、本日も会社にお出掛けになりました」
琥珀の首にナプキンを巻いてやると、用意された昼食を前に琥珀は手を合わせて叩くと、スプーンとフォークを持ってシチューと格闘を始めた。
「今日は、会社は休みじゃなかったか?」
「…あの方は、仕事がお好きなんでしょう」
「エド達と一緒に、コハクをパレードに連れて行ってやればいいのに」
今朝、会社に行くので琥珀の世話を頼むと言った黒澤に、ラシードは主人家族の予定を伝え、琥珀にもパレードを見せてやっては如何かと助言した。
黒澤は、少しだけ眉をひそめると、ラシードに『済まないが、宜しく頼む』と言って外出した。
「まぁ、俺はコロンブス記念日よりも、サン・ジェナーロ・フェスティバルの方が好きだな」
「サン・ジェナーロ・フェスティバル…マルベリーストリートのですか?」
「旨い屋台が多いからな。アメリカに来て、あの祭りだけは欠かした事がない」
陽気なリトル・イタリーの祭りを思い出し、ラシードは小さく微笑んだ。
「そういえば、ラシードはイスラム教なのか?」
「…一応は」
「……」
「元々、私の国ではイスラム教以外の宗教も少数派ではありますが、許されておりました。しかし、国教はイスラム教ですので、ムスリム(イスラム教徒)以外と差別される事も多かったですね。君主制の社会では、致し方ないのかも知れませんが…」
「君主制か…中東では、今でも多いのか?」
「サウジアラビア等は、今も君主制ですね。一応議会はありますが、殆どが王族で占められていますし、一院制です。私の国も似た様な物です…宗教と政治が複雑に絡み合い、国独自の社会を構成しています」
「そうか…それはなかなかに厄介そうだな。まぁ…その点、俺達の国は宗教と司法・行政は、完全に分離されているし、殆どの日本人は無宗教の様な物だ」
「そうなのですか?」
「ここの奥方は神道だが、今の日本人は殆どが仏教徒だ。だが実際には、家族が亡くなった時や先祖を敬う行事位にしか自分の家の宗教に携わる事はない。正月には神社で柏手を打ち、クリスマスにはツリーを飾り讃美歌を唄う」
「大らかな国民性なのですね」
「大らかというか、無節操というか…仏教にしてもキリスト教にしても、日本人にしてみれば渡来の神だからな」
「日本古来の神は、廃れてしまったのですか?」
「いや、それも残っている。日本の天皇は、神の末裔という事になっているし、天皇家では今でも古い神事が受け継がれているそうだ。一般庶民の生活にも、残っている。例えば、コハクが食べる前と後に手を合わせて叩くだろう?あれは柏手といって、神に願い事や感謝を伝える前にする仕草だ。神に食べ物を感謝する意味で、食事の前には手を合わせて『頂きます』と言い、食事の後には『ご馳走様』と言う。『ご馳走になりました』って意味だ。いつしかそれが、料理を作った人物や馳走してくれた相手への挨拶になっているが、元々は神への感謝の言葉だったんだ」
「それでも、日本は宗教に大らかな国だと聞いています」
「…日本だって、過去には宗教戦争はあったぞ」
「そうなんですか?」
「あぁ。同じ仏教徒同士、宗派が違うという事で争ったり、政治絡みで寺を焼き討ちしたり…キリシタン禁止令といって、キリスト教徒を迫害し磔にした忌まわしい過去もある」
「……」
「それでも、日本が渡来の宗教を受け入れて来れたベースには、日本の神々が恐ろしい数居たからかもしれないな。何せ『八百万の神』という位だからな」
「ヤオヨロズ?」
「神々が800万居ると書いて『八百万の神』というんだ。日本の神は、物にも言葉にも宿ると言われているからな」
田辺はそう言って笑うと、お先にと言って席を立った。
食後に琥珀をレストルームに連れて行った後は、しばらく彼に付き合う事にしていた。
抱き上げると、琥珀は『アッチ』といって行きたい方向に指をさす。
大概は中庭か、若しくはラシードの個室に行きたがった。
執事専用の個室には、小さな居間とベッドルームがあり、シャワールームが併設されている。
全くのプライベート空間であるその部屋の居間には、ラシードの家族や祖国の写真が数多く飾られていた。
「かっかぁ!!」
ラシードの部屋に来ると、琥珀は必ず部屋の壁に掲げられた写真を見てそう声を上げる。
「違いますよ、Little Amber…あれは、貴方のお母様ではありません」
何度そう諭しても、琥珀は首を振って指をさし『かっかぁ!!』と叫ぶ。
彼の肌の色は、ラシード達アラブ系民族と同じ様な淡い褐色の肌をしている。
黒澤は多くを語らないが、以前滞在していた根津栞の話だと、琥珀の母親はハーフなのだそうだ。
それにしても、親族の若い女性達が多く写るラシード家族達の写真ではなく、琥珀はバルコニーで手を上げる1人の年配の夫人の姿を見て、毎回『かっかぁ!!』と呼び掛ける。
彼女は、ラシード達一族にとっての恩人であり、遠い親族になる。
遠い昔、祖国の若き王太子が狙撃され暗殺された。
親衛隊の隊長であったラシードの父親は、投獄され拷問の末に獄死した。
王太子を守れなかった罪、そして何故か王太子暗殺の片棒を担いだという汚名を着せられたのだ。
国王の、そして王太子の親派であった父が、暗殺に荷担するとは思えないとの訴えも悉く却下され、王家の遠縁といえども近親者もろとも投獄されかけたのを、寸での所で救い出し密かに渡米させてくれたのが、写真の女性……唯一、ラシード達の父親と家族を信じてくれた、暗殺された若き王太子の母親であり、当時国王であった国母陛下だった。
若き日に自由の国アメリカに遊学していた国母陛下の計らいで、アメリカに亡命したラシードの一族は、全員慣れない国で生活の為に皆懸命に働いた。
幼かったラシードは、従兄弟や兄弟と共にアメリカで学校に通い、言葉と習慣を学び、それぞれ職に就いた。
アルバイトをしながら言語とマナーを学び、幾つかの職を遍歴した後、ホテルマンとして働いている時、先代のバークレイ家の執事からスカウトされて、ラシードはこの屋敷にやって来た。
最初は、フットマンから…厳しい主と先代の執事の教育に、仲間達は次々に脱落して辞めて行った。
ラシードが頑張り続けられたのは、有色人種に偏見を持たない主の気質と、給金が良かった事に加え、この屋敷そのものに愛着を感じたからだ。
重苦しく冷たい石造りの巨大な屋敷は、昔訪れた王宮を思い起こさせた。
やがて従者の中でも有能だと認められ、アメリカ内でも有名な執事の専門学校のカリキュラムを受ける様にと薦められた。
8週間の全寮制カリキュラムを主席で卒業し、執事見習いとしてバークレイ家の全てを学び終えて数年、高齢の先代執事をサポートしていた時、主であった先代リチャード・バークレイが引退し、先代執事と共に別館に移った。
新しく主になったエドワード・バークレイは日本人の妻を迎え、叔父家族や従姉妹達が屋敷に住む事を快く許し、屋敷は一気に明るく賑やかになった。
会社の人間が訪れる事も増え、一階のホールではバークレイ家主催のパーティーが催される事もある。
時には黒澤の様に、主の気に入った人間が長期滞在する事もあった。
屋敷の使用人は、以前と比べ倍程の人数に膨れ上がり、執事であるラシードもハウスキーパーであるメイド長も、使用人の教育に手間取る事もあった。
黒澤家族の為に日本人のメイドを数名雇い入れていたが、根津栞が帰国して後には、黒澤本人の希望で従者に変更になった。
琥珀専用のナニーにも数名の交代劇があった。
原因は琥珀が懐かないだけではなく、どうも色恋沙汰にあるらしい…黒澤は詳しく語らないが、トラブルを避ける為に若い女性を周囲に置く事を嫌う傾向にあった。
今は琥珀専用のナニーを置かず、琥珀に気に入られたラシードが仕事の合間に世話をしている。
ラシードが多忙な時には、黒澤の従者であるジョン・ジャクソン『J.J』が琥珀の世話を担っていた。
琥珀は、基本的に人見知りをする子供ではない。
使用人が大勢居る中に居ても平気な素振りを見せるが、相手が子供が苦手だったり、少しでも自分を受け入れない素振りを見せる者には、近寄ろうとしない傾向にある。
そして主家族…取り分け、華奈子奥様には近寄る事を拒んでいた。
関心がない訳ではないらしく、日本語を話す華奈子奥様の事を、離れた位置からじっと観察しているが、声を掛けられると飛んで逃げる。
子供らしい我が儘な振る舞いの主の子息であるリュウと比べて、余りにも分別をわきまえているのが気に掛かる…ラシードにも、父親である黒澤にさえ相手の様子を窺う様な素振りを見せ、無防備に甘えるという事がないのだ。
「この子の母親が、そう育てたという事なのだろう」
気になって黒澤に尋ねると、彼は自分のベッドに寝入る琥珀を優しく撫でながら、少し寂しそうに言った。
「この子の母親は、ある屋敷に住み込みの使用人をしながら、琥珀を産み育てていた。借り物の家の中で小さな子供を育てるのは、親子共に並大抵の苦労ではなかっただろうと思う。琥珀が自分のテリトリーを外れず、他人のテリトリーに踏み入らないのは、この子の母親の教えもあるのだろうが…母親の血かもしれないな」
「…血、ですか?」
「琥珀の母親も、自分と他人のテリトリーに線引きをする様な…他人に甘えるという事をしない女性だった。琥珀に生活の苦労を掛けない様にと、息子を私に預け…自分は1人きりで戦っている。私と琥珀を守る為に…多分今も…」
黒澤はそう言って、寂し気に壁に飾ってあるデッサン画を見上げた。




