(70) 渡米
ジョン・F・ケネディ国際空港から迎えに来ていたリムジンに揺られ、ニューヨーク州ウエストチェスター郡、ドブス・フェリーにある巨大な邸宅に着いたのは、2月初旬の事だった。
セキュリティ完備の大きな門を潜り抜け、リムジンでしばらく走らないと建物が見えない邸宅に、栞が目を丸くして囁く。
「こんな、お伽噺のお城みたいな邸宅…本当にあるもんなんですね!」
大きな車寄せに止まったリムジンを出迎えた金ボタンのロングコートを着たポーターが恭しくドアを開けると、黒澤は琥珀を抱いた栞と共に緊張した面持ちで雪景色の中降り立った。
大きな扉の前で、タキシード姿の浅黒い肌の青年が頭を下げて屋敷の中へと誘う。
「いらっしゃいませ、Mr.クロサワ。長旅、お疲れ様でごさいました」
「お世話になります」
「私、屋敷を取り仕切ります…執事のラシードと申します。以後、お見知り置き下さいませ。こちらは、Miss.ネジュと、クロサワJr.でございますね?」
「そうです。息子の名前は、コハクと言います」
ラシードが笑顔を見せると、琥珀はじっとラシードの目を見て手を伸ばした。
「…かっかぁ?」
「違いますよ、琥珀ちゃん。お母さんじゃありませんよ」
不思議そうに見詰める琥珀の手を取り、ラシードは笑顔を見せて日本語で語り掛けた。
「ラシードです。宜しくお願い致します、琥珀様」
「日本語が、お上手ですね?」
「奥様が日本人…日本の方なので、屋敷の者は、皆日本語の学習中です」
「それは、安心しました!私は、英語が出来ないので…どうしようかと思っていたんですよ」
栞の言葉に頷いて、ラシードは苦笑しながら英語で答える。
「ご心配ありません、Miss.ネジュ。日本人スタッフも数名居りますし、Miss.ネジュをお世話させて頂くメイドも日本人ですので、何も心配ありません」
黒澤がラシードの言葉を訳すと、栞はラシードに深々と頭を下げた。
「お部屋には後程ご案内致します。当家の主人がお待ちしております。どうぞ、こちらへ…」
ラシードに誘われて、長いペルシャ絨毯の敷かれた大理石の廊下を進んだ先にあるガラス張りのテラスのある広間には、数人の男女が歓談していた。
「Mr.クロサワが、ご到着されました」
というラシードの言葉に、ソファーに座っていたエドワードが立ち上がって出迎えた。
「待ちかねたぞ、Eagle!」
「お世話になります、エドワード。こちら、先日お話しましたシオリ・ネヅと、息子のコハクです」
黒崎がエドワードに紹介すると、栞は琥珀を抱いたまま一同に頭を下げた。
「彼女は、君の息子の子守りかい?」
「いいえ。彼女は仕事のパートナーでもあり、私の育ての親…母親同様の女性です」
黒澤の言葉に、エドワードは眉を上げて栞に一礼し、彼女に日本語で話し掛けた。
「失礼致しました、根津さん。私は、エドワード・バークレイ…この家の主です」
「この度は、お世話になります。根津栞と申します」
「私の家族を紹介致しましょう。妻の華奈子と、息子のリュウです」
「ようこそ、お越し頂きました。エドワードの妻の華奈子です」
そう言って、華奈子夫人はフワリとした微笑みを返した。
「久し振りの日本からのお客様を、主人も私も楽しみにしておりました。然も、こんなに可愛いお客様も…リュウも楽しみにしていたんですよ。ご挨拶なさい、リュウ」
「…こんにちは」
夫人の隣に立つ黒髪の少年は、その緑の双眸から穴があく程の視線を先程から琥珀に注いでいる。
栞が琥珀を床に下ろすと、リュウはツカツカと琥珀に歩み寄り、その腕を掴んだ。
琥珀は驚いた様にその手を振り払うが、リュウは再び琥珀の手を掴んで引っ張った。
「駄目ですよ、リュウ!琥珀ちゃんは、まだ1歳…貴方より、ずっと小さいんですからね。お兄さんの貴方が、優しくして上げないと!」
華奈子夫人は息子を嗜め、黒澤と栞に頭を下げた。
「申し訳ありません。リュウは、子供と接する機会が余りなくて…どう接すれば良いのか、わからないのだと思います」
「琥珀ちゃんも同じですよ。大人の中で育ちましたから、驚いているだけです」
栞の言葉に安心したのか、華奈子夫人はフワリと笑うと琥珀に手を差し伸べ抱き上げた。
「本当に、1歳とは思えない程の発育の良さですね」
「それは、琥珀ちゃんのお母さんが、手塩に掛けて育てて来ましたから…」
「そうそう、そのお母様は?今回は一緒におみえになれなかった様ですが、後からいらっしゃるんですか?」
華奈子夫人の言葉に黒澤と栞が眉を寄せた時、夫人のスカートを掴んだリュウが、ヒステリックに叫んだ。
「No‼Mom‼」
「リュウ?」
「No,no‼」
息子の激しい言動に屈んだ華奈子夫人の腕から琥珀を引き摺り出すと、リュウは母親の胸にむしゃぶりついた。
「リュウ!?」
息子の行動に驚いた声を上げる華奈子夫人と、引き摺り出されて尻餅をつきポカンと2人を見上げる琥珀に、リュウが激しく罵った。
「 Get out(出ていけ)! Don't touch my mother(僕のお母さんに触るな)! Get out(出ていけ)!」
「これは…」
エドワードの苦笑いに、黒澤は黙礼し琥珀を抱き上げた。
「リュウが、こんなに焼き餅を妬くなんて思いませんでした。申し訳ありません」
「いえ、リュウ君もまだ幼いのです。致し方ありません」
まだ3歳だというリュウは、母親の腕の中から緑の炎を揺らめかせ琥珀を睨み付けている。
エドワードはその場の空気を笑い飛ばし、同席していた家族を紹介した。
華やかな美貌の持ち主であるメリッサ・バークレイは、日本で会ったウィリアムの妹だという。
メリッサとウィリアムの父親であるケント・バークレイは、体調を崩し入院中なのだそうだ。
「きっと戻って来れないわ。ガンなんですって!病院に行っても泣き言ばかりで、うんざりだわ!」
「娘の花嫁姿を待っているのでは?」
「いいのよ!それはもう、2年前に見せて上げたんだから」
あっけらかんと見事な黄金の髪を揺らして笑うメリッサは、琥珀の顎を人差し指で上げて笑い掛けた。
「褐色の肌に父親そっくりな容姿…それで、この子の母親はいつ到着するのかしら?」
「…まだ、決まっておりません」
「本当に来るの?」
「……」
「失礼よ、メリッサ!」
赤褐色の髪をした女性が、黒澤に握手を求めた。
「従姉妹が、失礼を申し上げました。私は、リディア・バークレイ。メトロポリタン ミュージアムで研究員をしています。私達、カナコの好意で、別館に住まわせて貰っているんです」
「別館?」
「えぇ。数年前他界した祖父が、ケント伯父様と一緒に住んでいたんですが、今は私と…出戻りのメリッサが気儘に生活させて貰っているんです」
そう陽気に笑い緑の瞳で黒澤にウィンクすると、リディアは栞に日本語で話し掛ける。
「初めまして、ネヅさん。私はリディア、あっちのブロンドの女性は、メリッサといいます。私は、メトロポリタン ミュージアムで研究員をしています。どうぞ、宜しく」
「根津栞と申します。宜しくお願い致します。日本語が、お上手なんですねぇ」
「…シオリさん…と呼んでいいですか?ネヅさんというのは、発音しにくいです」
「勿論、構いませんよ」
「ありがとうございます。私は、学生の時から日本が好きで、カナコに日本語を沢山教えて貰いました。シオリさんにも、日本の色々な事教えて欲しいです。いいですか?」
「私でよろしければ、幾らでも…」
「ありがとう!シオリさん!!」
リディアに熱い包容をされ、栞は驚きながらも笑顔を見せた。
数日生活してみると、屋敷内の事が色々見えて来る。
エドワード夫妻は仲睦まじく、屋敷内は暖かい空気に充ちていた。
アメリカ有数の企業の社長夫人となっても、華奈子夫人はあくまでも日本女性としての姿勢を貫いている様だ。
夫に対する従順さ、家族や客、使用人達にも、細やかな心配りをしている。
使用人達も主夫妻を尊敬し、心を尽くして仕えている。
屋敷内の事は、執事のラシードとメイド長、それにエドワードの私設秘書である田辺が相談しながら回していた。
リディアは、ワーキング ウーマンとして忙しく走り回り、メリッサは社交界の華として君臨しているらしい。
我が儘な所もあるが、2人共華奈子夫人とは仲が良く、屋敷内はいつも明るい笑い声に溢れていた。
「女三人寄れば姦しい…とは、よく言った物だと思わないか、Eagle?」
「日本の諺など、よくご存知ですね?」
栞が驚いて目を丸くすると、隣りで華奈子夫人がクスクスと笑った。
「私の家庭教師は、旧き良き時代の日本人女性でね…それは厳しく、しごかれたんですよ」
「それは、私も同じ様な物です」
「あら!私は、優しくお育てしたつもりですが?」
「あれが?」
「坊ちゃん!?」
「ほら…お陰で、未だに子供扱いです」
大人達の笑い声に、母親の隣に座ったリュウが、不思議そうに皆の顔を見回した。
アメリカでの生活を心配していた栞は、皆の気遣いに感謝しながらも自分の居場所を確立しつつあった。
後は…。
「琥珀ちゃん、いらっしゃい。美味しいクッキーがありますよ」
華奈子夫人の呼び掛けに、部屋の隅に座った琥珀は首を振った。
栞が部屋の隅に迎えに行っても、琥珀は駄々こねて床に俯せて見せる。
「困りましたねぇ…近頃じゃ、私にも抱かせてくれないんですよ」
「人見知りの時期なんじゃないの?子供って、そういうものでしょう?」
リディアの言葉に、華奈子夫人が苦笑を返す。
琥珀は、妃奈にそっくりだ…人の悪意を敏感に察知する。
最初に会った時にリュウに向けられた悪意…リュウの言葉を理解した訳ではない。
子供らしい妬みに過ぎなかったが、琥珀にしてみれば初めて自分に向けられた悪意は衝撃的だったのだろう。
リュウは子供らしい好奇心で、その後も琥珀に関わろうと寄って行った。
だが、意のままに成らない琥珀に力業で挑み、慌てて大人が引き離す。
リュウは母親に嗜められ、琥珀は栞や黒澤に嗜められる。
琥珀にしてみれば、納得がいかないのだろう。
そのリュウと同席する栞や黒澤を信用出来ず、琥珀は益々臍を曲げていた。
「妃奈さんが居て下さればねぇ…」
「琥珀ちゃんのお母様ですね?渡米して頂く訳には、いかないんですか?」
「坊ちゃん…」
ジャケットのポケットの中で、黒澤は携帯を握り締めた。
妃奈とは、黒澤が渡米して以来、又連絡が取れなくなっていた。
森田組長の謹慎は、既に解けている…なのに妃奈は、浅草にも行かず、小塚にも連絡を入れていなかった。
「森田組長には、問い合わせたのか?」
「心配いらないと…妃奈さんの身柄は、引き続き森田組で預かると言われまして…」
「それにしてもだ!連絡が付かないとは、ただ事ではないだろう!?」
「森田組長は、取り付く島もなく…田上さんに、森田組周辺を探って貰っています」
小塚の電話に、黒澤は唸るしかなかった。
無事だろうか?
又、酷い目に遭ってはいないだろうか?
無茶な事をしているのではないだろうか…?
「…ちゃん…坊ちゃん!」
「え?何か言ったか?」
「奥様が、お尋ねですよ」
「何でしょうか?」
改めて取り繕った黒澤に苦笑する面々の中、華奈子夫人がにこやかに尋ねた。
「琥珀ちゃんの命名の事です。素敵な名前ですが、黒澤さんが考えたんですか?」
「いえ…妃奈が…私の婚約者が命名しました」
「…黒澤さん、琥珀ちゃんのお母様と…まだ、ご結婚されてなかったんですか?でも、琥珀ちゃんの苗字は…」
「渡米に当たり、一足先に琥珀を私の籍に入れました。妃奈とは…その…私の父が、彼女との婚姻を賛成しない事が原因で、離れて生活しています」
「まぁ…申し訳ありません、立ち入った事を…」
「いえ。いずれは話さなければならないと思っていました。妃奈は度々私の元を離れる生活を強いられて来ました。琥珀は、彼女が1人で産んで育てていた、私の息子です」
「…黒澤さん…」
「お尋ねの琥珀という名前ですが…多分、昔私が…幼かった彼女の事をPrincess Amberと呼んでいたからだと思います。琥珀という宝石の意味だと、その時に教えましたから」
「…成る程…では、さしずめ琥珀はLittle Amberという所だな」
エドワードの一言で、以降琥珀はLittle Amberという愛称で呼ばれる事になった。
けたたましいベルの音に、妃奈は慌てて洗濯物を取り入れて家の中に戻った。
「お呼びでしょうか?」
「遅い!何してたのさ!?」
「雨が降って来たので、洗濯物を取り入れてました」
「呼んだら直ぐ来る様にって言ったでしょっ!」
「申し訳ありません。それで、ご用は?」
「…蒸し暑いのさ」
「クーラーを入れましょうか?」
「嫌いだって言ったでしょっ!」
苛々と言葉を吐く老婦人に、妃奈は足元においた扇風機を点けると、角度を調節しベッドに掛かる肌掛け布団の足元を捲った。
「お躰を拭きましょうか?」
「…そうね」
妃奈は部屋を出て薄暗い廊下を進み、台所に置いてあるタオルを濡らして絞ると、ビニール袋に入れて電子レンジに入れた。
黒澤と琥珀が渡米した日、森田組長は妃奈をこの家に連れて来た。
「こちらは、どなたのお宅ですか?」
「…私が…世話をしている女性だ。今日から、お前の仕事場になる」
「…はい」
車を降りると、森田組長は中に入るのを躊躇する様に空を見上げ、大きな溜め息を吐いた。
「…もう、長い間患っている。週に一度、医者が往診に来る。他には、通いの庭師と家政婦が来る。お前には、住み込みで病人の世話をしてもらう。買い物等は家政婦に頼むといい」
「…はい」
「質問は?」
「……どこが、お悪いんでしょうか?」
妃奈の質問に、森田組長は眉を潜めてゆっくりと玄関の引き戸を引いた。
チリンチリンと引き戸に付けられたベルが鳴り、廊下の奥からハイハイと返事をしながら中年の女性が出迎える。
「あら、森田さん!ご無沙汰してます」
「…あの方は?」
「えぇ、起きてらっしゃいます」
にこやかに笑いながらスリッパを並べる女性に、妃奈は黙って頭を下げた。
「森田さん、こちらは?」
「今日から、この娘に住み込みで世話をさせます」
「あら、まぁ!」
驚きの声を上げる女性の横を、森田組長は黙って通り過ぎ、妃奈は慌てて後を追った。
「失礼します」
そう言って開けられた色褪せた襖の中、部屋の中央には、病院に置いてある様な大きなベッドが置かれている。
背もたれが出来る様に頭部を上げたベッドの上には、短くカットした白髪を櫛で梳いていた老婦人が、部屋に入って来た森田組長を見て、あからさまに顔をしかめた。
「ご無沙汰しております」
「……」
「お元気そうで」
「何の用さ?」
「今日は、世話をする者を連れて来ました」
「必要ないよ」
「先日、介護士が辞めたと連絡がありまして…」
「最近の若い子は、堪え性がないのさ!」
「今度の者は、大丈夫だと思います」
そう森田組長から見下ろされ、妃奈はベッドの横に正座して三つ指を着いた。
「高橋妃奈と申します」
「…仲村節子だよ」
「宜しくお願い致します」
帰途につく森田組長を玄関まで送ると、靴を履いて立ち上がった森田組長が何も言わずに片手を出して言った。
「携帯を預かる」
「…ぇ?」
「私の許可が出るまでは、黒澤との連絡を絶って貰う」
目の前に出された掌が催促する様に振られると、妃奈は諦めた様に携帯を差し出した。
「心を込めて世話をしろ…あの女性は、黒澤の縁者だ」
それから森田組長が、この家を訪ねる事は一度もない。
殆ど寝たきりの仲村節子の為に、古い家の風呂場は介護用に改造されていた。
この家の家賃、風呂場の改装費用や医療費、生活費、雇われている庭師の竹田や、家政婦の田中を雇用する費用も、全て森田組長が出していると言う。
そして、週に一度は必ず旬の果物等がまめに贈られて来る。
荷物が届いた事を連絡する妃奈に、森田組長は節子の容態を尋ねるのだった。
往診する医者の話では、節子は数年前から肝臓癌に侵され、現在ステージ4…身体のあちこちに癌が転移しており、手の施しようのない状態が続いているという。
高齢者の為、その進行はゆっくりではあるが、確実に死に向かっている。
本人も承知している為か酷く気難しく、周囲の人間に当たり散らす為、介護士どころか親戚も寄り付かないらしい。
「といってもね、ご家族は皆さん亡くなってるみたいで、亡くなった弟さんの奥さんが、以前はたまに顔を出してくれていたんですが、それも何年も前の事でね…。お寂しいんだと思いますよ」
送られて来た果物を仏壇に供え、田中は写真の前に置かれたお鈴を叩いて手を合わせた。
仏壇には、初老の男性の写真の隣に、いつも伏せられている小さな額に入った写真がある。
以前、掃除する折に2つの写真を並べた妃奈は、節子にきつく叱られた。
高校の正門の前に置かれた入学式の看板…その隣に真新しい制服に身を包み、弾ける様な笑顔を浮かべた八重歯の可愛いらしい女学生が写った写真。
その面影に、見覚えがある…森田組長の家にあった仏壇に飾られた写真の女性に違いない…。
はにかみながら笑顔を浮かべた八重歯の女性と、若き日の森田組長が並んで写った、あの写真…。
再び鳴らされるけたたましいベルの音に、妃奈は回想を中断し、慌てて節子の元に戻った。




