(7) 幸村刑事
渡された名刺には、『新宿警察署 生活安全課少年係 係長 幸村京子 警部補』と書かれてあった。
「昼過ぎに、病院から連絡がありまして…又、逃げ出した様ですね」
「…又とは、どういう事です?」
「以前補導された時も…まぁ、行き倒れの様な状態だったんですが、目が醒めた途端に逃走したんです。私が知る限りでも、これで4回目ですね」
「…」
「医師の話では、退院後…黒澤さんが、彼女を引き取るとの話だそうですが?」
書類を確認しながらチラリと上目遣いで黒澤を確認し、幸村刑事は再び書類に視線を落とした。
「えぇ…その積もりです」
「高橋妃奈とは、どういったご関係ですか?」
「…彼女は、私の知人のお嬢さんです」
「…それだけ?」
「え?」
「いぇ…それだけの関係で、引き取ると仰るんですか?」
「いけませんか?」
「…」
幸村刑事の訝しんだ眼差しに、黒澤は溜め息を吐いて背筋を正した。
「幸村さん…私の職業もお考え下さい。これ以上は、守秘義務に反する」
「…成る程。都合の良い常套句ですね。ですが…彼女を引き取るのは、難しいと思いますよ?」
「どういう事です?」
「貴方だって、昨夜彼女にお会いになったんでしょう?」
「…」
眉を寄せる黒澤に、幸村刑事は表情を変えずに話し掛ける。
「彼女の両親の事件は、ご存知ですよね?」
「…えぇ」
「何故、その時に…6年前に、引き取ってやらなかったのですか?」
「…残念ながら…私が事件を知ったのは、ずっと後になってからだったのです」
「その時に引き取っていれば、少しは違う状況だったのかも知れませんが…今の彼女は、他人を…人間を、全く信用していませんからね」
「…」
「彼女と面識は?」
「一度だけ」
「事件の前ですか?」
「えぇ」
「…なら、無理かも知れません」
「どういう事です?彼女に何があったんですか?妃奈は、どんな生活を過ごして来たんです!?」
意気込む黒澤に、幸村刑事は少し表情を緩めた。
「本当は、彼女とどういったご関係ですか?」
「…」
「私には、貴方が…本心で彼女の事を心配している様に見えますが?」
「…」
「私だってね、黒澤さん…彼女の事を心配しているんです。私が彼女に関わる様になって3年になりますが、あそこ迄頑なに他人を寄せ付けない子供も珍しいんですよ。ああいう子供達は、寂しい経験をして来ている事が多いので、同じ様な経験をしている仲間と横の繋がりを持ちたがるんです。しかし彼女には、それが全くありません。彼女が繋がりを持っているのは、彼女の兄だけです」
「兄…ですか?彼女は確か、1人娘だった筈ですが?」
「兄といっても、血の繋がりはありません。里親宅で共に育った兄妹です」
「あぁ、頼れる人間が…だが…」
もしかしたら、あの事故の時に妃奈を呼び掛けていた若者の事だろうか?
しかし、あの男は…結局妃奈を置き去りにして、仲間と共に逃げてしまった。
「…黒澤さん、今夜お時間ありますか?」
「は?」
「彼女の事…仕事としてではなく、個人的に話したいのですが?」
「…」
「今夜、彼女の両親の事件を当時担当した者と会う予定なのですが…良ければ、ご一緒に如何ですか?」
そう言って、幸村刑事はグラスを傾けるゼスチャーをした。
新宿2丁目にあるビルの地下にある『Bell』という店に連れて来られた黒澤は、こちらを遠巻きに窺う他の客に眉を寄せた。
明らかに値踏みされる様な視線と、媚を売る様な笑顔を投げ掛けて来る男達…。
「幸村さん、ここは…」
「あぁ、気にしないで下さい。私達と一緒ですから、口説かれる事はありませんよ」
「…」
カウンターに座ると、大人しそうな線の細い涼やかな眼差しの男性が、穏やかな声を響かせる。
「いらっしゃいませ…京子さん。オーナーとお待ち合わせですか?」
「こんばんは、リンさん。真の仕事、明けたの?」
「えぇ、その様ですね。昼過ぎにいらっしゃった時に、そう伺いました」
「残念ながら、今日は柴と待ち合わせなのよ」
「そうでしたか」
カウンターの中に立つ物腰の柔らかい男性…白いワイシャツに黒いベスト、スタンダードなバーテンダーの装いだが、目元の泣き黒子が妙に色っぽい。
「いらっしゃいませ」
黒澤の正面に向き直り、リンと呼ばれたバーテンダーが頭を下げる。
「何に致しましょう?」
棚に並べられたボトルを眺めながら、黒澤は答えた。
「スコッチを…ジョニーウォーカーの青を、ストレートで」
「畏まりました」
「リンさん、後ナッツとドライフルーツの盛合せもね」
幸村刑事がそう言うと、ニッコリと笑ってバーテンダーは準備に掛かる。
「驚きました?」
「…些か。ここは、そういう店ですよね?」
「そうです。結構有名な、発展場なんですよ」
「では、何故?」
「出入りしているか?」
「えぇ」
「最初は、友人であるここのオーナーに連れて来られたんですよ。この店の雰囲気も、働いている人間も好きで……何より、周りを気にせずに話の出来る店だから…かな?」
「……」
「先程話した元同僚も、このビルに事務所と住居を構えてるんです」
「…成る程」
「心配しなくても、彼はノンケですよ」
アハハと豪快に笑う幸村刑事の前に、オリーブの飾られたマティーニが置かれ、隣の黒澤の前にもスコッチのグラスが置かれた。
「…妻帯者ですしね」
「そうそう!」
バーテンダーの言葉に、幸村が手を叩いて笑う。
その時、カランというドアベルの音と共に、1人の大柄な男が入って来た。
着ているジャケットの下のポロシャツに浮き上がる、張りのある筋肉と厚い胸板…何より纏った雰囲気が、元刑事というよりも、もっと良く知っている様なオーラを撒き散らし、店の空気をピリッと張り詰めさせた。
「お京!馬鹿笑いが表まで丸聞こえだ…営業妨害だぞ」
「やっと来たわね!?」
ゆっくりと歩いて来る男を、黒澤はスツールから立ち上がって出迎えた。
互いに上着の懐からゆっくりと名刺を差し出し、全身で相手を警戒する…が、受け取った名刺を見て先に警戒を解いたのは、黒澤の方だった。
「…柴健司さんと、仰るのですか?」
「それが、何か?」
「……もしかして……乃良さんの…」
「何ッ!?」
ブワリと敵意を剥き出し少し身構える目の前の男に、黒澤は穏やかに答えた。
「以前…2度程、奥様とお目に掛かりました」
訝しみながら、渡した名刺に目を落とした柴は、黒澤の事務所の名前を見て眉を寄せた。
「…フェニックス弁護士事務所…まさか、堂本の?」
「正確には、森田組が私のクライアントです」
黒澤がそう答えると、柴はカウンターに腰を下ろしてバーテンダーに注文を入れた。
「…ナオとは、どこで?」
「1度目は、榊の跡地で…2度目は、ツインビルのオープニングセレモニーでお会いしました」
「黒澤さん、もしかして貴方は…榊の土地の件で…」
「えぇ」
「そうでしたか」
そう言うと、柴は少しだけグラスを掲げた。
北新宿の榊組の跡地に建設されたツインビルのオープニングセレモニーで、堂本組長と和やかに話すハーフの美女が会場の注目を浴びていた。
「彼女が、Pantherの奥方だ」
「あの方が…」
我が身を犠牲にして堂本組長の息子を助けた美談は、傘下の組でも噂になっていたが…黒澤にとっては、連城仁という彼女の夫の方に興味があった。
ヤメ検で実業家、法廷では無敗を誇る伝説の人物だ。
その連城夫人の周りをチョロチョロとしている小柄な少女が、森田組長の姿を見付けるとニコニコと笑いながら近付いて来た。
「こんにちは、森田さん!本日は、お招きありがとうございます」
「いらっしゃい…楽しんでますか?」
「はい、とっても!」
アーモンド型の大きな瞳を煌めかせ、クシャリと鼻に皺を寄せてコケティッシュに微笑む少女の左頬には、目尻から真っ直ぐに薄いが大きな傷痕があった。
「森田さんも、柴さんのお友達なんですか?」
森田組長の素性を知らないのだろう…確か、故榊組長の孫娘だという少女は、小首を傾げながら森田組長を見上げて尋ねた。
「いぇ…柴さんは、私の上司のご友人なのです」
「あの、堂本さんって人でしょう?さっきご挨拶したら、物凄く笑われました」
「それは、それは…」
「でもこのビルは、森田さんが建てたんでしょ?」
「えぇ、まぁ…半分は」
「凄いですねぇ」
そう言って、少女は少しだけ声を潜めた。
「…祠、作って下さったんですね?」
「少しでも、供養になればと思いまして」
「ありがとうございます…時々、お供えに来てもいいですか?」
「構いませんよ。警備の者には、連絡して置きます。好きな時に、お参りして下さい」
頭を下げる少女に、森田組長が黒澤を紹介する。
「この者は黒澤と言って、この土地の件で色々と力を尽くした者です」
「弁護士の黒澤と申します」
「そうなんですか…ビルが建つ前にも、ここで森田さんと一緒にお会いしましたよね?私、柴乃良といいます。色々とお世話になり、ありがとうございました」
「…音部さん、名字が…」
驚いた顔をする森田組長に、少女は頬を染めて左手の薬指のリングを見せた。
「…柴さんの…お嫁さんにして貰いました」
「それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます…でも、堂本さんには、凄く笑われました」
少し剥れる少女に、森田組長が苦笑を漏らした。
あの少女の亭主が、目の前の男だというのか!?
確か堂本と対を成す佐久間組の組長、佐久間憲一郎の腹違いの弟で、元は暴走族のヘッドをしていたと聞いていたが…元刑事だったとは…。
大体、あの乃良という少女と、幾つ違いなんだ!?
「で、森田組のお抱え弁護士と、何でお前が連んでるんだ、お京?さっき問合せて来た事件と、どう関係してる?」
「もう…堂本の関係者だからって、突っ掛からないでよ!」
明け透けな不満を表す幸村刑事に、柴は眉を寄せながらグラスを揺らす。
「それにしても、ネコちゃんとも知り合いだったんですか、黒澤さん?」
「…ネコ?乃良さんの事ですか?」
「えぇ…あの娘も、かつては私が世話をしていたんです」
「どういう事ですか?」
幸村刑事に尋ねた途端、隣の柴から鋭い叱責が飛ぶ。
「お京ッ!!」
「いいのよ、柴…そういう話なんだから」
「…」
「ネコちゃんはね、あの娘と同じ…ストリート チルドレンだったんです」
「……そうなんですか?」
思わず柴を窺うと、チッと鋭い舌打ちをされる。
「柴…あの時の生き残りの女の子ね…今、路上で生活してんのよ」
「…施設に入ったんじゃなかったか?」
「色々あって、直に養育里親に預けられたんだけど…3年前に里親の家が火事になってね。その火事の…犯人に疑われて…」
「何ですって!?」
驚いて大声を上げた黒澤に、柴は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべて立ち上がった。
「お京…河岸、変えるぞ」
「どこによ?」
「上だ…酒なら、事務所にもあるからな」
「…」
「ここでする様な話じゃねぇだろ!?それに…そこの弁護士先生にも、聞きてぇ事がある」
「じゃあ、自宅の方がいいんじゃないの?」
「馬鹿野郎!!」
恫喝する柴から、ユラリと不機嫌なオーラが立ち上る。
「ナオに…聞かせられる話じゃねぇだろ!?」
「……柴…ネコちゃん、まだ…」
「…俺は、ナオを不安にさせたくねぇだけだ!」
そう言って、柴はカウンターに金を置くと、来た時と同じ様にゆっくりとドアを出て行った。
「ったく…行きましょう、黒澤さん」
「いいんですか、伺っても?」
「大丈夫ですよ。柴とネコちゃんも、色々ありましたから…。あの男は、ネコちゃんにベタ惚れしてますからね。このビルに住むのも、彼女のバイト先に近い物件を…って探してて、挙げ句の果てにバイト先と同じビル内に事務所も自宅も構えてしまうなんて、とんだ過保護っぷりを見せる馬鹿亭主なんです」
「…」
「柴と結婚して、ネコちゃんは本当に幸せそうで…それでも、時々凄く怯えるんだそうです。辛い事が、あり過ぎましたからね…」
「…そうなんですか」
「貴方も、高橋妃奈を引き取るのであれば…柴を見習って欲しいと思ったんですよ」
「いゃ、私は…そんな積もりで引き取るのでは…」
「じゃあ、どんな積もりで引き取るんです?」
「それは…」
カウンターに金を置いた幸村刑事は、ズイッと黒澤の顔を覗き込んだ。
「引き取るのなら、ちゃんと覚悟を決めて下さいね、黒澤さん」
「…わかっています」
「引き取るのは、犬猫ではない…辛い思いをして来た、人間なんです!手に余るから捨てるなんて…許されないんですよ!?」
「…はい」
「……ある意味…あの娘の方が、ネコちゃんより苛酷な生活をして来たんです。人間を全く信用しないという事は、そういう事なんですよ」
「…」
黙り込む黒澤の背中をそっと叩くと、幸村刑事は小さく溜め息を吐いた。
「行きましょうか」
頷いた黒澤は、胃の辺りに重い物を感じながら、幸村刑事の後を追った。