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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
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(69) 誘い

「そんなの、行かなきゃ駄目に決まってるじゃない!黒澤‼」

「私も、行くべきだと思います!」

磯村と小塚が(そろ)って憤慨(ふんがい)する中、田上だけは黙々と資料を整理していた。

ガランとした事務所の現在の仕事は、妃奈の遺産の目録作成だ。

膨大な数の美術品や工芸品、古い書籍や家具等々…連日、古美術商が訪れて来月に行われるオークションに向けての下見にやって来る。

「何迷う事があるの!?バークレイよ?天下のバークレイ・コンツェルンなのよ!?」

「…わかってる」

「わかってないわ!組弁護士って見下されてた私達が、表舞台どころか高みに上がれるチャンスじゃないの‼」

「…ネェさん…まだ、ネェさんに関わりのある話かどうかも、わからしまへんやろ?」

田上が目録から顔を上げずに声を掛けると、磯村は鼻息荒く黒澤の顔を睨み付けた。

「…お前は、俺のパートナーだ。バークレイの仕事が決まれば、当然お前にも噛んで貰う」

黒澤の言葉に、磯村は田上を振り返って鼻息を鳴らす。

「バークレイ・コンツェルンの社長自らが、所長と仕事がしたいと仰って下さるんです。こんなチャンス、そうそうあるものではないと思いますが?」

小塚が眉を寄せる横で、磯村が肩を(すく)めて言い放つ。

「どうせ、あの娘の問題でしょ?で、話したの?」

「…いや」

「話した所で、断られると思ってるんでしょ!」

「だからと言って…置いて行ける訳がないだろう!?」

「だったら、強引にでも連れて行けばいいじゃない」

「それが出来る位なら、こんなに悩みはしない!」

国内でさえ、森田組長の気持ちを(おもんぱか)り同居に難色を示す妃奈が、黒澤と共に海外での生活を承諾(しょうだく)するとは到底(とうてい)思えない。

どうした物か…と思い悩む黒澤の横で、田上がボソリと吐いた。

「行くのは…兄さん1人なんでっか?」

「あら、出来るなら私も行きたいわ!」

磯村の言葉に、田上が憮然(ぶぜん)として呟く。

「まぁ…そう言うとは、思てましたけどな…」

「田上?」

「…どっちにしろ、俺や栞叔母ちゃんには、関係のない話ですわ」

「何言ってるのよ、士郎?事務所の問題でしょ?」

「そやかて、ネェさんも小塚はんも、兄さんに付いて行かはるんやろ?その間、俺や栞叔母ちゃんはどないしたらええんです?」

「栞には、一緒に渡米して貰いたいんだが…」

「えぇ加減にして下さいよ、兄さん‼栞叔母ちゃんの事、何やと思てはるんでっか!?」

「……」

「あの歳で、言葉も(しゃべ)られへんのに!琥珀ちゃんの面倒見る為だけに、外国に連れて行くつもりでっか、兄さん!?」

「士郎‼」

スパンという音と共に、息込んで(まく)し立てる田上の頬を、磯村が思い切り張った。

「それは、あんたが決める事じゃないわ!栞さんが決める事よ!」

「そやけど、ネェさん!」

「八つ当たりも大概(たいがい)にしなさいよね!?あんたが機嫌悪いのは、そんな理由じゃないでしょう!?」

「…どういう事だ?」

(いぶか)しむ黒澤に、磯村が肩を(すく)めて田上に冷たい視線を送る。

「士郎ったら、昨日その話を聞いてから…私が自分から離れて行くんじゃないかって、ずっと勘ぐってるのよ!馬鹿馬鹿しい‼」

「馬鹿馬鹿しいって、何ですのんネェさん!大事な事ですやろ!?」

ギャイギャイと言い合う2人に、小塚が呆れた様に割って入る。

「落ち着いて下さい、お2人共!…(ちな)みに、私は所長が渡米されても、国内に留まりますよ」

「えっ!?行かないの、小塚君?」

「それは、磯村先生もです。所長が渡米されている間、この事務所の臨時(りんじ)所長を務められるのは磯村先生だけです。第一、所長がいらっしゃらない間のクライアントの方々の依頼は、磯村先生じゃないと(さば)けないでしょう?」

「…まぁ、そうだけど…」

「田上さんも、忙しくなりますよ!?バークレイ・コンツェルンが現在提携(ていけい)している企業、これから提携(ていけい)しようとしている企業の下調べ…家族から会社の資金繰り、内情迄…一体、誰が調べるというのですか?」

「…それは…」

小塚の冷静な判断と冷たい視線に(さら)され、磯村と田上は(そろ)って俯いた。

「私は、お2人の監視をしつつ、オークションと、この土地に建設されるビルの契約に奔走(ほんそう)する事になるでしょう。そうですよね、所長?」

「…小塚」

「高橋さんには、所長ご自身から事情を話して下さい。彼女がどの様な答えを出したとしても、私達が全面的にバックアップ致します」

小塚の言葉に、磯村と田上が苦笑しながら(うなず)いた。

「済まない。宜しく頼む」



何度も殴られ、風呂場の壁に叩き付けられた途端、頭をぶつけたのかフッと意識が途切れ掛ける。

森田組の中沢は、森田組長の自宅を訪れる度に、妃奈に暴力を振るった。

琥珀を連れて来なくて良かった…折角(せっかく)森田組長にも笑顔を見せる様になったのに、母親のこんな姿を見せたら、又(おび)えてしまう…。

後ろ(えり)を捕まれ、湯船に張った水に頭を押さえ付けられた妃奈は、湯船の(ふち)を握り何とか頭を上げようともがいた。

中沢を始め森田組の人間は、妃奈を災厄(やくさい)(たね)だと思っている様で、事務所で妃奈を見掛けると罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせて来る。

中沢の暴力も、組の人間の言葉も、森田組長の代弁(だいべん)なのだろうか?

当の森田組長は、妃奈を自宅に招き入れて以来、必要最低限の事以外何も話さず、無体な事もして来ない。

ここで死ぬ訳には行かない……黒澤の為にも、琥珀の為にも…そして、森田組長の為にも…。

風呂場のドアがノックされる音に、妃奈の頭を押さえ付ける中沢の手からフッと力が抜け、妃奈は息を上げて風呂場の隅に逃げ出した。

「…何をしている?」

森田組長の問いに、中沢と妃奈は二人(そろ)って(うつむ)いた。

「中沢」

「…私は、唯…」

「この女には、手を出すなと言って置いた筈だ」

森田組長の言葉に、妃奈が首を振った。

「中沢さんには、風呂場の電球を替えて頂いていただけで…」

言い訳する妃奈の隣で、中沢が下唇を噛む。

「…そうやって庇う事が、偽善(ぎぜん)だというのだ」

「……」

「さっきから、玄関のチャイムが鳴っている」

妃奈はタオルを掴むと、(あわ)てて玄関のドアを開けた。

「お待たせして、申し訳ありませ…ん…」

そう言って開けたドアの外には、眉根を寄せた黒澤が立っていた。

「妃奈…お前、その格好…」

服のまま濡れ鼠になっている妃奈を(いぶか)しむ黒澤に彼女が首を振った時、廊下から同じ様に濡れた服を来た男が妃奈を押し退けた。

「…失礼」

そう一言声を掛け通り過ぎ様とした中沢に、黒澤は益々眉間の皺を深くして呼び止めた。

「中沢さん!」

「…何か?」

「妃奈を…いえ、妃奈と何かありましたか?」

「別に」

冷たい声音で即答した中沢と(うつむ)く妃奈を見比べる黒澤の耳に、小さな舌打ちが聞こえる。

「……用がないなら、失礼する」

足音高く立ち去る中沢の背に、妃奈は黙って一礼すると、黒澤を玄関に招き入れた。

「…森田さんなら、中に…」

「お前に用があって来たんだ」

「……取り()えず…中に…」

そう言って屈んでスリッパを用意しようとした妃奈の腕を掴むと、黒澤は不機嫌そうに妃奈の躰を引き上げ、(あご)を掴んで妃奈の顔をチェックした。

「中沢さんと、何があった?」

「…いえ、何も…」

…知られてはならない…絶対に!

妃奈は黒澤の腕から逃れると、フルフルと頭を振った。

「じゃあ何だ、この傷は!?」

グィと口の()を拭われ、その痛みに妃奈は眉を寄せた。

「…風呂場の掃除をしていて、転んだだけです」

「嘘を付くな!」

黒澤の胸に引寄せられ強く抱き締められた途端、躰が軋む様な痛みに妃奈は(うめ)き声を上げた。

その声に慌てて腕を解いた黒澤は、益々眉根を寄せ妃奈に詰め寄る。

「…お前」

「何でもありません!」

「そんな訳あるか‼見せろ‼」

ブラウスをたくし上げ様とする黒澤の手を(こば)みながら()み合う2人の耳に、部屋の中から不機嫌な声が響いた。

「そんな所で、何をしている!?」

森田組長の声に、妃奈は黙って黒澤をリビンクに(いざな)った。

「人の家の玄関で、何を騒いでいる」

「…申し訳ありません」

そう頭を下げる妃奈に、森田組長はチラリと視線を寄越すとハァと溜め息を吐き顎をしゃくった。

「みっともない姿を(さら)すな…さっさと着替えろ」

「申し訳ありません!」

妃奈は縮み上がると、頭を下げてリビンクを飛び出した。



ソファーで(くつろ)ぐ森田組長に、黒澤は不機嫌な声で尋ねた。

「妃奈に、何をしたんです?」

「私は、何もしていない」

「という事は、組の人間に指示を出して、何かさせているという事ですか!?」

「私は、何も指示等出していない」

「じゃあ、中沢さんの勝手な行動だとでもいうんですか!?」

「中沢は、私の気持ちを(おもんぱか)って行動しているだけだ」

「貴方が()らしている訳じゃないんですね!?」

黒澤の威嚇(いかく)する様な詰め寄り方に、流石(さすが)の森田組長も眉をひそめる。

「私は、ちゃんと止めたぞ!大体、あの女が自分で中沢に何もかも暴露(ばくろ)したのだ。組長の謹慎(きんしん)の原因が自分だと言えば、組の者からどの様な扱いを受けるか、わかりそうなものを…」

「妃奈が、嘘を付くと思いますか?」

「…付かんだろうな…馬鹿正直に全て(さら)して、甘んじて災いを被る…馬鹿な女だ」

森田組長の馬鹿にした様な苦笑に、黒澤は眉を寄せながらソファーに腰を下ろした。

「黒澤、あの女…早く連れて帰れ」

「中沢さんに…そんなに酷く折檻(せっかん)されているんですか?」

「……」

「顔に傷がありました…躰も…痛みが残る程の(あざ)が?」

「…自分で治療しているが、多分(あばら)にヒビでもいかせたのだろう。この寒い中、氷枕を抱いて寝ている」

「!?」

「それでも、私の前では中沢を庇う様な事を言う。言われた中沢に(うと)まれる事を承知の上の発言なのだ…私にはどうしようもない」

「…妃奈を連れて、渡米しようと思います」

「渡米?」

「先日、バークレイ・コンツェルンの社長である、エドワード・バークレイ氏と会って来ました」

「……」

「日本の担当弁護士にと…アジア・オセアニアの統括(とうかつ)責任者にと()われました。しばらくは、研修の為に渡米致します」

「…事務所の仕事は?」

「今現在、私や磯村の個人的なクライアントとしか取引しておりませんので、私の渡米中は磯村に任せます」

「聖の仕事は?お前の身柄は、聖が預かっている筈だ。そんな、勝手な事は…」

「バークレイ・コンツェルンの仕事を紹介して下さったのは、聖社長です。それにこの話は、堂本組長にもご了解頂いていると聞きました」

「何だと!?」

驚いた様に片眉を上げた森田組長は、腕を組んで(うつむ)いた。

黒澤は内ポケットから出した封筒を、森田組長の前に置いた。

「これは?」

「婚姻届です」

「……」

「妃奈を連れて帰れと仰るなら、こちらに署名して頂けませんか?」

「……」

「彼女がここに(とど)まる理由は、貴方に認めて欲しいからです。こちらの証人欄に署名して頂けませんか?」

封筒から視線を外すと、森田組長は眉間に皺を寄せ黒澤を睨み返して来た。

「私がこんな物に署名すると、本気で思っているのか?」

「貴方も、いい加減にこの険悪な状態を終わらせたいと思っているのではありませんか?」

「……」

「彼女は貴方に認めて貰える迄、ここに留まる選択を変えないでしょう」

「…月末には、私の謹慎(きんしん)も解ける。あの女が、私の家に居る理由はなくなる」

「それでも、彼女は貴方の世話をしようとするでしょう」

「迷惑だ」

誠心誠意(せいしんせいい)貴方の世話をする事でしか、貴方の許しを得られない…彼女は、そう思っています」

「無駄だ。あの女の偽善(ぎぜん)に付き合う気はない」

偽善(ぎぜん)ではありません!彼女自身が望んでいる訳ではない!」

「何だと?」

「…私の為です。私が妃奈との結婚を望んだ…彼女は、私と琥珀の幸せをのみ望む様な女性です。私の(そば)に居たいという、ささやかな彼女自身の望みさえ、貴方に遠慮して(あきら)め様とする女性です」

「……」

「彼女を引き止めたくて、妃奈から琥珀を取り上げました。彼女が貴方の元を出たら、私の元に帰る様に…。だが、このままでは…又彼女は、私の元を離れてしまいます」

「…子供を置いて?」

「以前から、琥珀を私の籍に入れて欲しいと…自分は身を引く積もりで、私に懇願していました。ご存知でしょう?」

「…無責任な事だ」

「貴方には、理解出来る筈でしょう!?」

「……」

(いつく)しみ育てて来た息子を、手離さなければならないと思わせたのは、貴方自身です‼子供の幸せの為に、断腸(だんちょう)の思いで私に(たく)した彼女の気持ちが、貴方にわからないとでも仰るんですか!?」

「……」

「子供を手離さなければならなかった貴方には…理解出来る筈です」

睨み合う視線を先に外したのは、森田組長だった。

黙って目の前の封筒の端を(もてあそ)び考え込んでいたが、人の気配を察したのかフッと目線を上げると、森田組長は慌てて封筒をサイドボードの引き出しに入れ、腕を組んだ。

身に合わない大きなシャツに着替えた妃奈が、温かい湯気(ゆげ)を上げる紅茶を淹れて来ても尚、森田組長は腕を組み沈黙を続ける。

「妃奈」

紅茶を置いて去ろうとする妃奈の腕を掴むと、黒澤は自分の隣に妃奈を座らせた。

「仕事で、アメリカに行く事になった」

「……」

「数年は、向こうで暮らす事になる」

「……そう…ですか…」

「琥珀も一緒に連れて行く事にした。栞も短期間付き添ってくれる」

「……」

「…お前も…一緒に行かないか、妃奈?」

そう黒澤が言った時、それまで(うつむ)いたまま話を聞いていた妃奈は、チラリと対面に座る森田組長を盗み見た。

「生活の心配はいらない。世話になる会社社長の広大な屋敷に住まわせて貰う事になる。社長婦人は日本の女性だし、他にも日本人スタッフが居るらしい。あっちでアメリカの生活や言葉を、琥珀と一緒に学べばいいんだ。先方には、琥珀より少し上の子供も居ると聞いている。良い遊び相手になるだろうと、喜んでくれた。子守りの手も多くあるから、俺が居ない時間も安心して任せて欲しいと連絡があった。何も心配いらない、妃奈…一緒にアメリカに行こう!」

掴んだ手を包む様に握りながら、黒澤は妃奈を見詰めた。

(うつむ)きがちに瞳を揺らし、森田組長の視線を気にしながら、妃奈は小さく首を振った。

「…妃奈」

「アメリカなんて…そんな…」

「大丈夫だ!何も心配いらない」

「私なんかが行っても、黒澤さんのお仕事の邪魔になります!それに、よそ様のお宅にお世話になるなんて…ご迷惑になるだけです。……私には…こちらの仕事もありますし…」

不安そうに首を振りながら話す妃奈に、黒澤は穏やかな声で話し掛けた。

「森田組長の謹慎(きんしん)も、今月末には解ける。それにお前の土地には、新たにマンションを建てる事になった。来週のオークションが終わったら、着工準備に入るんだ」

「…あの家は…なくなるんですか?」

「あぁ」

「……そう…ですか…」

「嫌だったか?」

「いぇ…あの土地は、黒澤さんに差し上げた土地です。どうぞ、お好きになさって下さい」

「計画では、テナントが入ったマンションになる予定だ。完成した(あかつき)には、そちらに居を構える事になるが…それ迄の間、共にアメリカで過ごそう!俺と琥珀と、3人で…」

握られた手をモゾモゾと逃げ解くと、妃奈は静かに首を振った。

やはり駄目か…黒澤は、小さく溜め息を吐き、妃奈の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、ここを出たら松波の家で待っていてくれ。先方には、事情を話してある。(もっと)も、あちらは琥珀も一緒に預かると言って譲らなかったが…お前が松波の家で暮らすなら、琥珀を置いて行っても安心だ」

「それは、出来ません!」

いつになく、はっきりとした口調で妃奈が反論する事に、黒澤は目を見開いた。

「松波の旦那様や奥様に、そんなご迷惑をお掛けする訳にはまいりません!養女になる話も、私の()(まま)でお待ち頂いているのに…これ以上、ご迷惑をお掛けするのは…」

「…妃奈」

「大丈夫です。私1人なら、何とでもなります。黒澤さんは、お気になさらず…アメリカで、お仕事なさって下さい。琥珀を、宜しくお願い致します」

頭を下げる妃奈に、黒澤は苦い思いで言葉を吐いた。

「本当に、それでいいのか?」

「構いません」

「寂しくは、ないのか?数年…もしかしたら、もっと延びるかもしれないんだぞ?」

「…仕方ありません」

「…琥珀が、寂しがっている」

琥珀の名前を出して、初めて妃奈は眉間に皺を寄せた。

「私が…日本で世話をした方が良いとお考えなら、琥珀を引き取ります」

「言葉が足りなかった…琥珀も、俺も…お前が居なくて寂しいんだ」

「……」

「お前がアメリカに行くのを(こば)むなら、琥珀を連れて行きたい。もう家族と離れて暮らすのは、真っ平だ」

「…承知しました」

妃奈は(うつむ)いたまま、黒澤に頭を下げる。

やはり、妃奈は平気なのだ…黒澤程家族に執着(しゅうちゃく)を持たないのだろう。

寂しい気持ちを押し隠し、黒澤は妃奈の頬に手を添えた。

「渡米にあたり、非常に不本意(ふほんい)だが…琥珀を黒澤の籍に入れようと思う」

「本当ですか!?」

パッと顔に赤みが差し、目を輝かせ黒澤を見上げた妃奈が、頬に添えられた手に自分の手を重ねた。

「ありがとうございます‼琥珀も喜びます!絶対に、喜んでくれます!」

「……」

「良かった…本当に良かった‼これで、もう…」

「…『もう』…何だ?」

「ぁ…いぇ。何でもありません」

「まさか、『もう、思い残す事はない』等と、言うつもりか!?」

怒りを表す黒澤に、妃奈は困った様な顔をして上目遣(うわめづか)いに黒澤の顔を窺った。

「…安心だと…思っただけです」

「……」

妃奈の言葉に彼女の手を再び握り締め、黒澤は向かいの席で素知(そし)らぬ顔をしている森田組長に視線を移した。

「許して貰えませんか!?」

「…好きにしろ」

「そうではなくて!」

「くどい‼」

そう席を立つ森田組長に溜め息を吐き、黒澤は再び妃奈に向き直った。

「困った事があったら、小塚に連絡しろ。小塚も磯村も、田上も日本に残るから。それと、いつでも渡米出来る様に、俺が日本に居る間に琥珀の分と一緒にパスポートを作って貰う。いいな?」

「…はい」

「いつでも、連絡してくれ!俺からも、毎日連絡するから」

「わかりました」

「本当に、大丈夫なんだな?」

「えぇ」

「それは、俺を待っていてくれると受け取っていいんだな?」

「…貴方が、そう望むなら…私は、日本で…森田さんに許して頂けるのを待ち続けます」



何度も何度も『待っていてくれ』と繰り返し、パスポートの手続きをする日を約束して、黒澤は森田組長宅を後にした。

「やっと、帰ったか」

途中で退席した森田組長は、やれやれという様にソファに腰を下ろした。

「いつ、渡米すると言っていた?」

「準備が出来次第、行かれるそうです。先方が、一刻も早くと望まれているそうで…」

「そうか…だがこれで、お前が黒澤と一緒になる道は、又遠退いたな」

「…どういう事ですか?」

温湿度(おんしつど)管理されたケースから煙草を取り出し、妃奈が点ける卓上ライターの火に近付くと、森田組長はゆっくりと煙草を吸い紫煙(しえん)を吐いた。

「お前…黒澤が世話になる、バークレイ・コンツェルンとは、どういう会社なのか、わかっているのか?」

「…いえ…存じません」

「…バークレイ・コンツェルン…金融、造船、運輸…最近では、製造業やエネルギー事業、ありとあらゆるビジネスを着手している、巨大企業だ。バークレイが動けば、世界が動く…アメリカのトップに君臨(くんりん)する会社の、アジア・オセアニア統括(とうかつ)責任者にと…黒澤は()われたのだ」

「……」

「今迄の、組弁護士とは比べ物にならない。一躍(いちやく)、世界を相手に羽ばたく大鷲(おおわし)になったという事だ」

「…そうですか」

「お前では、とても釣り合わない」

森田組長の言葉に、妃奈は事もなげに反論する。

「そんな事…今迄だって、同じだったではありませんか」

「格が違うと言っている」

「それも、今迄と同じです。それでも…黒澤さんが望むのであれば、私は待ち続けます」

「お前は、別に黒澤との婚姻を望んでいた訳ではないだろう?」

「…えぇ、そうです。私は、黒澤さんの(そば)に居るだけで幸せです。ですが、黒澤さんが私との結婚を望んでいるのであれば、私はその努力を惜しみません。それだけの事です」

「そんなに、許しが欲しいのか?」

「はい」

到底許して貰える訳がない…今迄そう思って、半分諦めながら生活していた。

だが、自分に与えられる理不尽(りふじん)な暴力も、近くに黒澤と琥珀が居るからこそ耐えられたのだ。

黒澤と琥珀が渡米してしまう事実を突き付けられ、おいそれと会う事の出来ない距離と時間に、妃奈は急に不安に襲われた。

日本から遠く離れ、琥珀を黒澤姓にすると決めた今、黒澤は残る私を本当に求め続けてくれるのだろうか?

長く離れてしまう事で、琥珀は母親を忘れてしまうのではないだろうか?

出来るなら、何もかも投げうって黒澤に着いて行きたい!

だがそんな事をすれば、森田組長は黒澤の事も、一生許してはくれないだろう…。

折角(せっかく)歩み寄ろうとしている親子関係が、又崩れてしまう。

妃奈に出来る事は、努力する事だけなのだ!

黒澤との結婚を…許して貰う…その為なら、どんな事だって…‼

「そんなに許しが欲しいなら……最後の試練(しれん)を与えてやろう」

「ありがとうございます‼」

森田組長の言葉に、妃奈は一も二もなく飛び付いた。

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