(68) オファー
聖社長と共に、山の手の閑静な住宅地にある古い洋館を訪れたのは、松の内が明ける頃だった。
「そういえば、黒澤さん。英会話は?」
「まぁ、日常会話程度には出来ます。学生の時、2度短期留学も経験しましたので」
「それは、良かった。実は今日お会いする人物は、以前勤めていた会社の上司なのですが、日本語が余り得意ではなくて…」
そう苦笑いする聖社長が、出迎えた執事に流暢な英語で主人への取り次ぎを告げた。
古いが手入れの行き届いた洋館は、主が外国人だというだけで、そこが異国の様な空間を醸し出す。
通された明るい応接室からは、手入れの行き届いた広大な庭が一望出来た。
「ナイト!良く来てくれた!」
「お久し振りです、ウィリアム。お元気そうで、何よりです」
「お陰様でね。君の愛らしい奥方も元気にしているかい?彼女には、又是非訪ねて貰いたいものだ」
「ありがとうございます。妻もさぞや喜ぶ事でしょう」
「それで…こちらが、話していた彼かい?」
プラチナブロンドの髪をフワリと掻き上げながら、コーンフラワーブルーの瞳が悪戯そうに黒澤を見詰めた。
「弁護士のクロサワと申します」
名刺を差し出しながら挨拶すると、彼は両手を上げて肩を竦め、胸ポケットから出した自分の名刺を指先に挟んで差し出した。
「キミは、とても日本的なんだな…Mr.クロサワ…」
「畏れ入ります」
「ウィリアム・バークレイだ」
そう言って握手をしながら、ウィリアムは反対の手に持った黒澤の名刺を小馬鹿にした様にヒラヒラと振って見せる。
「…宜しくお願い致します」
「どうぞ…座って寛いでくれ」
受け取った名刺にチラリと視線を落とすと、ウィリアムはそのまま無造作にポケットに突っ込み、ソファーに腰を下ろして脚を組んだ。
「ナイト、日本の弁護士は、体格も必要なのかい?」
「どういう事です、ウィリアム?」
「この間エドが連れて来た弁護士も、強面で体格が良くてね…身長もエドに負けない位高かった。まぁ、彼の場合…大きいのは、背ばかりではなかったけどね」
「ということは…もう、日本の弁護士は決まっているのですか?」
「いいや、まだだよ。その弁護士は、臨時なんだそうだ。腕利きだが、多忙な人物らしくてね。名前を…何といったかな?…ジン…レンジ…」
「Mr.レンジョウですか?ジン・レンジョウ?」
「そうそう、彼だよ!知り合いかい?」
「えぇ…些か。確かに、彼は多忙を極める人物ですね」
驚いた…こんな所でも連城の名前を聞く事になるとは、思ってもみなかった。
何より連城の後釜等、自分に務まるのだろうか?
「滞っていたビジネスを、あっという間に4件も片付けたんだ!4件だよ!?あれは、マシーンの様な男だね!」
「彼は、我が国で一番多忙で、一番腕の立つ弁護士ですからね」
「それにしてもさ!まぁ、彼には散々嫌味を言われ、無能呼ばわりされたけどね!大体、本国とこちらのビジネスの方法が全く違うのがいけないんだ‼相手企業の弁護士とウチの日本人弁護士、本国の弁護士とが言い合うのを毎日聞く僕の身にもなって欲しいよ!おまけに、ウチの日本人弁護士が辞めた事迄、僕のせいにされちゃ溜まったもんじゃない!訴訟問題には手緩くて、肝心の書類も穴だらけだった癖に…日本人は、良くあれでビジネスなんて出来るもんだね!?」
「その辺りの事は、私は詳しくないので…どうなんですか、クロサワさん?」
苦笑いする聖社長に振られ、黒澤は飲み掛けたカップを置いた。
「確かに、アメリカは訴訟大国ですからね。どんなに小さな事にも訴訟が付いて回る。日本では、契約や事件が起こった時位しか、弁護士が登場する場面はありませんから」
「日本の弁護士は、堅苦しい癖に弱腰なんだ。そんな事では役に立たないと言って本国から乗り込んだ弁護士に交渉させると、今度は相手企業の方が臆病風に吹かれて、ビジネスパートナーを解消すると言って来る始末だ!それでも、日本はまだマシさ…日本人は真面目で勤勉だから、時間や期日だけはキチンと守るからね。中国や東南アジアになると、これが一向に話が進まない‼何なんだ彼等は!?大陸時間って、一体何なんだ!僕には、彼等が何を考えているのかサッパリわからないよ‼」
大きな身振り手振りで愚痴を溢すウィリアムを横目に、黒澤は受け取った名刺に視線を落とした。
『バークレイ・コンツェルン常務取締役 アジア・オセアニア統括責任者 ウィリアム・バークレイ』
初対面の人間を前に愚痴ばかり溢すこの情けない男を見て、正直一緒に仕事をするのはご免だと黒澤は思い始めていた。
折角の聖社長の紹介だが、致し方ないだろう…そう思っていた時、応接室のドアがノックされた。
「おっ、来た様だよ…どうぞ!」
ウィリアムが声を掛けると、勢い良く開いた扉から1人の大柄な人物が現れた。
波打つ漆黒の髪、厚い胸板、高い鼻梁に厚い唇…そして煌めく見事なエメラルドグリーンの瞳。
席を立ち迎える我々にゆっくりと歩を進める彼の周りに、一陣の風が舞った様に見えた…彼は、KINGだ…生まれながらの王者…。
「久しいな、ナイト」
「これは…お久し振りです、エドワード。いつ日本に?」
「一週間前になる。それより、何年振りだ?」
「かれこれ、8年振りになります。遅くなりましたが、先ずはお祝いを申し上げます。社長就任、おめでとうございます、エドワード」
「ありがとう。君も日本で成功したんだろう?ウィリアムから話は聞いている」
「畏れ入ります。今日は、優秀な弁護士をご紹介致します。こちら、Mr.クロサワです」
「弁護士のクロサワと申します」
黒澤が名刺を差し出し、英語で挨拶すると、相手は懐のカードケースから名刺を取り出し、両手で持つと流暢な日本語で挨拶を返す。
「初めまして、黒澤さん。エドワード・バークレイです。どうぞ宜しく」
「随分と日本語が堪能でいらっしゃるのですね?」
「私の家庭教師は日本の女性でしてね。言葉ばかりでなく、幼い頃より日本の文化や風習、礼儀も叩き込まれたのですよ」
「そうでしたか。確か、奥様も日本の女性だと伺いました」
黒澤を見極め様と揺らめいていたエドワードのエメラルドグリーンの瞳が、妻の話題になると温かい光を帯びて輝いた。
「そう…私の妻は、素晴らしい大和撫子です。黒澤さん、ご結婚は?」
「…いえ、まだ…」
「素晴らしい伴侶を得るのは、世界を掌握するに匹敵します。家族が増えると、更にね」
「……」
幸せそうに笑みを浮かべ、椅子を勧めるエドワードに黙礼すると、黒澤は気持ちを落ち着かせる為に深呼吸した。
ウィリアムと違い、エドワードは受け取った名刺をテーブルの隅に置き、じっと見詰めたまま黒澤に質問する。
「失礼だが、貴方の名前…何と読むのか教えて頂けますか?」
「鷲と書いて、シュウと呼びます」
「成る程…シュウ…Eagleか…」
エドワードはそうニヤリと笑うと、深く座り直して腕を組み、英語で話し出した。
「Eagleの様に、広い目を持って仕事をして頂きたいものですね」
「その件ですが、Mr.バークレイ…私は…」
「…何です?断るというのですか?仕事の話をしたのか、ウィリアム?」
「いいや、まだだよ」
「という事は、彼はお前に愛想を尽かしたという事だ。何をした?」
「僕は、何もしてないさ!彼とは初対面だ。挨拶を交わしたに過ぎない」
「…Mr.クロサワ。先ずは、条件を確かめてからでも、遅くはないのでは?」
そう言ってエドワードはウィリアムに指示し、書類を黒澤に提示した。
その契約書の内容を、黒澤は二度三度と読み直し眉を潜めた。
「あの…これは、間違いではありませんか?」
「?」
突き返した契約書を受け取ったウィリアムは、ペラペラと書類を確認すると、首を傾げてエドワードに書類を渡した。
再度書類を確認したエドワードは、うっすらと笑みを浮かべながら書類を黒澤に戻す。
「間違いありませんが?」
「しかし…」
「不服ですか?」
「不服ではなく、不審だと申し上げています」
「ほぅ…貴方には、年俸85万ドルの価値はないと?」
「失礼だが、貴方は私の事を何もご存じないでしょう?私は…」
「弁護士でしょう?」
したり顔で微笑むエドワードに、黒澤はきつい眼差しを送り返した。
馬鹿にしているのか…良く知りもしない相手に、年俸1億円以上出すなんて、正気の沙汰とは思えない!
「言って置きますが、それは基本給です。その他に、契約を取る毎に相応のマージンが入りますし、貴方の頑張り次第でボーナスも加算される」
「……」
「但し、我社に不利益を被る様な事があれば、相応の賠償金や違約金を支払って頂く事になります。…如何です?まだ不審な点がありますか?それとも、自信がありませんか?」
挑発する様なエドワードの眼差しに、黒澤の本来持っている野獣の血が鎌首をもたげた。
「私に何をさせたいのですか、Mr.バークレイ?」
「ビジネスです」
「…私は、暴力団相手の仕事もする組弁護士と言われておりますが、痩せても枯れても法の番人です。これまでも、一度足りとも法を犯した事はありません。私に法を蔑ろにする様な仕事をしろと仰るなら、お門違いだ!他を当たって頂こう!」
そう啖呵を切る黒澤に、ウィリアムは目を見開き肩を竦める。
「大丈夫かい、エド?君を怒鳴りつける弁護士なんて、初めてだ!」
「…その傲慢さ、押しの強さ、そして法を愛する志…彼の言っていた通りの人物の様で嬉しいですよ」
「彼とは?」
「Mr.レンジョウですよ、弁護士の…お知り合いだそうですね?」
「…些か」
「私がナイトだけの推薦で、この金額を提示したとお思いですか?」
笑みを浮かべたままのエドワードが、懐から一枚の便箋を出して目を落とす。
「こちらもビジネスですからね…パートナー候補は、貴方の他にも数人推薦を受けて面接したんですよ。ナイトから貴方を推薦されたが…貴方と契約したいと思ったのは、Mr.レンジョウから貴方の話を聞いたからです。尤もMr.レンジョウは、貴方の事を詰めが甘いと言っていましたが…」
そうフッフッと笑うエドワードに、黒澤は再び眉を寄せた。
「私は、仕事のパートナーは発展途上の人物の方が好みなんです。新しいバークレイ・コンツェルンは、柔軟な発想力と対応力を持った人物を求めています。貴方は…如何ですか?我々のパートナーになりたいお気持ちは、ありますか?」
組弁護士と謗りを受けて来た黒澤が、国内の一般企業との契約を取り付ける事は、なかなかに難しい事だった。
今迄の取引先は、森田組の関連企業や店舗の他は、黒澤の仕事を認めた上で個人的に信用して契約していたクライアントばかりだ。
それが…天下のバークレイ・コンツェルンから、黒澤とパートナーになりたいと申し出られたのだ。
然も、破格の待遇で!
正直、森田組長から仕事を干された状態の黒澤の立場では、金額的にもステータス的にも、喉から手が出る程美味しい仕事なのだが…。
数居る弁護士を差し置いて黒澤を選びたいと申し出るエドワードの瞳に煽られ、黒澤は必死に気持ちを落ち着け様と、テーブルに置かれた珈琲を飲み干した。
「貴方の方から、何か質問なり希望はありますか?」
「…私に依頼したい仕事は、合法的な仕事なのですか?」
「勿論です。企業の買収、取引契約…普通の仕事です。但し、日本と我国との契約には、大きな隔たりがあります。書類上の事もですが、日本とアメリカの考え方、感覚、ビジネスの進め方…全てが違う。気持ちのすれ違いは、その後のビジネスを円滑に進ませる妨げになりかねません。そしてそれは、契約書類上では記載されない内容の事柄も多い。正直、現在我社が日本の企業とギクシャクしている案件は、其々の価値観の違いからトラブルを招いている事柄が多いのです」
「…ならば、日本の事を良くご存知の貴方が、介入すれば良いのではありませんか?」
「私はCEOの立場上、アジア・オセアニア地域だけにかまける訳には行かない…おわかりでしょう?」
「私の希望を申し上げても宜しいですか?」
「勿論」
「私は、貴方と仕事がしてみたい…Mr.エドワード・バークレイ」
黒澤の言葉に、エメラルドグリーンの瞳がゆらりと煌めく。
「言い換えれば、バークレイ・コンツェルンでの仕事を契約するのであれば、貴方以外の方とパートナーを組むのは、ご免だと申し上げています」
「…ウィリアム、やはりお前はMr.クロサワを怒らせたのか?」
「知らないよ、僕は!」
ムッとしながらウィリアムが肩を竦めるのを、黒澤は取って付けた様な愛想笑いを送りながら見詰めた。
「貴方がどうこうという訳ではありません、Mr.ウィリアム。唯、貴方とは…『馬が合わない』というだけです」
「…?」
黒澤が話す日本語を交えた言葉にキョトンとするウィリアムの横で、肩を振るわせながら笑うエドワードがウィリアムの膝を叩いた。
「…どうやら、お前は振られた様だ。残念だったな、ウィル」
そう言って、エドワードは声を上げて笑い出した。
これ以上の長居は無用だ…黒澤は隣に座る聖社長に目配せすると、エドワードに向かって黙礼し立ち上がろうとした。
「待って下さい、Mr.クロサワ。もう少し、話を続けませんか?」
「何故です?」
「貴方が彼と仕事をしたくない理由を、出来れば伺いたいのですが」
「…馬が合わないという理由では、納得出来ませんか?」
「本音を伺いたい」
「…ご本人の前で…ですか?」
「えぇ。貴方が、ウィリアムを振った理由を教えてやって下さい」
ニヤリと挑発的に笑うエドワードに、黒澤は嘆息してウィリアムに向き合い、とつとつと英語で説明する。
「日本には、『郷に入っては郷に従え』という諺がありますが、ご存知ですか?」
「…あぁ、昔聞いた気がする…誰にだったかな?」
「お祖父様だよ、ウィル」
エドワードの言葉に、ウィリアムは肩を竦めて見せた。
「そうだったかな?余り覚えてないけど…どういう意味だい?」
「新しい土地に来たら、その土地の風俗、習慣に従うのが、処世の法だ…という意味です」
「それが?」
「失礼だが、Mr.ウィリアム…貴方は、日本に来てまだ日が浅いのですか?」
「いいや、もう6年になるかな」
「6年…そんなに経つのに、まだ日本の風習や言葉に疎いという事は、貴方が日本に馴染む気がない…そう捉えられても仕方がないのではありませんか?」
「別に、そんな事は思ってないよ。でも、ほら…日本語って難しいし、日本人も…何を考えているのか、わからないしね」
「その言葉、そっくりお返ししますよ」
「?」
「貴方が日本人に対して、難しい、何を考えているのかわからないと思っているのと同様に、日本人も貴方の事を好意的には見ていないという事です。何故だかわかりますか?」
「僕が、日本語を話せなかったからかい?日本の風習を身に付けなかったから?そんなの、おかしいだろ?世界の共通語は英語だし、ウチとビジネスをしたいのなら、アメリカン・スタイルでビジネスするのが当然だよ」
「…何故、そんなに上から目線なんですか?今、貴方が進め様としているビジネスは、日本の企業から依頼された話ですか?」
「いや、ウチから業務提携を申し出たビジネスだよ?」
「…相手の企業や弁護士は、英語で対応しているのですよね?」
「弁護士はね。企業の社長は、ほとんど皆通訳付きだよ。社員は、英語を話すけど…パーティーでも仕事の話をする様な無粋な輩ばかりだ」
「何故、彼等にアメリカン・スタイルを押し付けるのですか?」
「だって、それは…」
何故自分が、こんな説教をしなければならないのだろう?
夢の様なバークレイ・コンツェルンとの契約は、この男と仕事をしたくないと黒澤が言った時点で、水泡に消えたというのに…。
戦後の進駐軍の様に自分達アメリカのスタイルを押し付け様とするウィリアムに、黒澤は頭痛を覚えながら怒声を飲み込んだ。
「確かに日本は島国で、他国との交流が少なく、欧米諸国から遅れを取っていましたが、それは昔の話です。技術力もビジネスに置いても、今では貴殿方の国と肩を並べる事が出来ていると、日本人は皆自負しています。特に世界一を誇る日本の技術力は、世界中から引く手数多だ。多分貴殿方が取引先にと望むのも、そういった技術を持つ企業なのではありませんか?」
「…そうだが…」
「我々だって、プライドがあるのですよ、Mr.ウィリアム。日本の技術が欲しくて、そちらが望んで提携話を持って来たのに、高飛車にアメリカン・スタイルを押し付け、英語で捲し立てられたら、誰だって良い気はしない。これから仕事のパートナーとして手を取り合おうというのに、最初から不信感を与えてどうするのです?」
「歩み寄れっていうのかい?だけど、急に日本語を話せと言われても…」
「最初から流暢な日本語なんて、誰も期待していません。挨拶からで良いのです。日本の社長も、挨拶位は英語で話したのではないですか?」
「…そうかな?…うん、そうだね」
首を傾げながら聞いていたウィリアムは、隣に座るエドワードに挨拶を教えろとせっついた。
納得すれば、自分の非を素直に受け取り、訂正出来るだけの器量は持ち合わせている様だと、黒澤は安堵して小さな溜め息を吐いた。
「それと…日本は、余りホームパーティーで親睦を図る風習がありません。パーティーは、専ら祝い事で行う事が多い…それも又ビジネスですから、仕事の話が出て当然なシュチエーションなのです」
「成る程…日本人は、どこまでも真面目なんだね。他には、何かあるかい?」
「そうですね…日本のマナーを…せめてビジネス・マナーを覚えて置くと、相手から一目置かれ、ビジネスがスムーズに運ぶと思います。やはり、第一印象は大切ですので」
「わかった。早速マナーの教師を探す事にするよ。ありがとう、Mr.クロサワ」
「いえ、お役に立てて何よりです」
ウィリアムから求められた握手を返していると、再びノックの音が響き、身なりの良いスーツを着た日本人がドアを開けて一礼した。
「ウィリアム様、そろそろ出発の時間なのではないですか?」
「えっ!?もう、そんな時間かい?悪いね、皆さん。僕は、一足先に失礼するよ」
「お出掛けでしたか、ウィリアム?」
「悪いね、ナイト。実は、今からオーストラリアに向かうんだ。帰ったら、又会おう」
ウィリアムは聖社長の手を握ると、慌ただしく部屋を出て行った。
「それでは、そろそろ我々も…」
ウィリアムを見送る為に立ち上がったまま、エドワードに頭を下げると、彼はソファーに座ったまま笑いながら手で再び座る様にと即し、再び日本語で語りかけた。
「私にも、何かアドバイスはないかと思いましてね」
「貴方にですか?」
「えぇ。何か、ありませんか?」
「それでは、僭越ながら…」
ソファーに座り直した黒澤は、ウィリアムの名刺を引寄せて尋ねた。
「彼は、アジア・オセアニア地域の統轄責任者なんですか?」
「そうだが?」
「失礼ですが、彼には荷が重いのでは?」
「何故、そう思われますか?」
「…正直、日本を相手にあれだけ苦戦されているのです。オセアニアはともかく、中国や韓国、台湾や東南アジア相手にビジネスをするのは、かなり困難かと…」
「…まぁね…」
「Mr.ウィリアムは、来日6年目だと仰いました。彼の前任者の時は、どうだったのですか?」
「まぁ、トラブルなくこなしていたが…」
「その前任者に、戻って頂いたら如何ですか?」
「それは、出来かねます」
ウィリアムを呼びに来て、そのままエドワードの後ろに控えていた日本人が、いきなり話に割って入った。
「失礼、Mr.黒澤。彼は田辺と言って、私の秘書をしています」
エドワードに紹介された田辺は、黒澤達に一礼すると、銀縁の眼鏡を上げながら再び声を上げる。
「申し訳ありませんが、前任者を呼び戻す事は出来ません」
「何故です?」
「前任のアジア・オセアニア地域統轄責任者は…ここに居る、エドワード・バークレイでしたので」
そう言われ、悪戯小僧の様な笑みを浮かべたエドワードが、後ろに控える田辺を見上げた。
「お前が、ウィリアムの後任を引き受けたらどうだ、田辺?」
「…何を仰っているのか、わかりませんが?」
「お前なら、日本は勿論、東南アジアや中国とも上手く付き合えるだろう?」
「……私をビジネスに引き込まないで下さい、エドワード様」
「いつまでも私の秘書のままでは勿体ないと、華奈子も言っていたぞ」
「又投げ飛ばされたいのか、エドワード!?俺に、ビジネスの話は金輪際するなと言っただろうが‼」
目の前の男に恐ろしい剣幕でそう叫ぶと、田辺は黒澤達に再び一礼し、足音高く部屋から出て行った。
「いやいや、失礼しました」
エドワードは肩を揺らして笑うと、黒澤に苦笑を浮かべた。
「本音を言えば、ウィリアムより田辺の方が適任なのですが…当の本人が、あの調子でね」
「失礼ですが、エドワード…彼は秘書なんですよね?」
聖社長の問いに、エドワードは柔らかな笑みを返す。
「田辺は、私設秘書…ビジネスには一切タッチしていないんだ」
「貴方が認める程、有能な人物なのに…何故です?」
「…ナイト、君には友人が居るか?」
「えぇ」
「自分の腹をさらけ出す事の出来る、真の友と呼べる人間…ナイト、それに黒澤さん。君達には、そんな友人が居ますか?」
黒澤の隣で聖社長は大きく頷き、黒澤もつられて頷いた。
「私にとっては、学生時代からの友人である田辺が、唯一無二の友なんですよ。その親友としての立場を貫く為に、田辺は会社とは離れた存在に身を置いてくれています。ありがたいと思う反面で、彼の能力を思うと…申し訳なくてね」
そう言って冷めた珈琲を飲み干すと、エドワードは再び黒澤に視線を寄越した。
「この状況で、貴方ならどう手を打ちますか、黒澤さん?」
「…貴方が日本に居た時には、どうしていたのですか?」
「どうって…普通に私が、各国の企業と対応していましたが?」
「お1人で?」
「時には、通訳も付きましたが…殆ど私と弁護士の2人で行動していました」
「成る程…わかりましたよ、Mr.エドワード」
「何が?」
「貴方は、ご自分が出来る事は、他の人間も出来て当たり前だと思っていませんか?特に、お身内なら尚更と」
「……」
「人には得手不得手がある様に、処理能力にも其々の限界値があるのです。バークレイ・コンツェルンのCEOを務める貴方とMr.ウィリアムには、歴然とした差がある…その事を一番ご存知なのは、貴方ご自身だと思いますが?」
「…それで、解決策として…君ならどうする、Eagle?」
口元で手を組んだエドワードのエメラルド・グリーンの瞳が、黒澤を試す様に揺らめく。
「…私なら、各国に窓口の担当者を設け、其々の国の弁護士を雇います。国毎の法律が違う様に、其々の国のビジネスの方法も違う。各国の弁護士には、アメリカのビジネスの進め方、手続き等を予め教育して置きます。各国の担当者にも、担当する国の状況、歴史、マナー、そしてコミュニケーションの方法も学んで貰います。CEOの貴方が頭なら、彼等は手足だ。統轄責任者は、しっかりと働く手足を管理する神経…頭とのパイプラインがしっかりしていれば、上手く運営出来るのではないですか?」
「…成る程…面白い事を考えるな、Eagle。よし、わかった。それで行こう!」
「は?」
「君を雇うと言ってるんだ、Eagle!君には、アジア・オセアニア統括責任者と日本の担当弁護士を兼任して貰う事になる」
「ちょっと待って下さい、Mr.エドワード!」
「敬称は、必要ない。私も、君の事をEagleと呼ばせて貰う」
「そうじゃない!私は、先程貴方に言った筈だ。バークレイ・コンツェルンと仕事をするなら、貴方以外の方と組む気はないと!」
「何を言ってるんだ、Eagle?君を雇うという事は、頭である私とパイプ・ラインで繋がっているという事だろう?」
「しかし…」
「君が言ったんだぞ?パイプ・ラインでしっかり繋がっていると」
「……」
「まぁ、君が日本で仕事をする頃には、君と馬が合わないウィリアムは、本国に帰っているだろう。彼は、あれで中々使える男でね…君が思う様な無能な男ではないんだ」
「いえ、私は決して…」
「彼の能力は、本国でこそ力を発揮する。そんな彼を日本に送ったのには、色々と事情があってね…。先ずは、君との契約に祝杯を上げたい。勿論、契約内容は、再度書き直させて貰うが、君にも納得して貰える内容になるだろう」
そう言って、エドワードは黒澤に握手を求めた。
「私と共に、バークレイを支えてくれないか、Eagle?」
「……先程の私の案を取り上げるという事は、アメリカで研修するという事ですか?」
「勿論だ。君には、直ぐにでも渡米して貰いたい。確か、仕事的にも問題はない筈だが?」
「……少し、考えさせて頂けませんか?」
硬い表情で俯く黒澤に、エドワードが驚いた様に尋ねる。
「何故?何か問題が?」
「…プライベートな問題です」
「渡米に問題が?誰か連れて行きたいのなら、勿論受け入れよう。滞在中は、我家を使って貰う。仕事もだが、アメリカの生活を知って貰う事が、我国を理解して貰う一番の早道だからな」
「ありがとうございます。前向きに、検討させて頂きます」
そう律儀に頭を下げる黒澤に、エドワードは少し眉を寄せて、差し出した手を戻した。
「即答されなかったのは、妃奈さんの事があるからですか?」
屋敷を出た所で、聖社長が黒澤を窺った。
「…森田組長の世話に行く前に、少し揉めてしまいました。森田組長の許しが出なければ、妃奈は私の元に戻る気がない様で…私は、そんな妃奈から…琥珀を取り上げてしまったんです」
「良く話し合われた方がいい。もしもの時には、私も力になります。貴方は今や、私の身内なんですよ、黒澤さん」
「ありがとうございます。しかし、聖社長に身柄を預けられた私が、バークレイ・コンツェルンと契約してしまっても良いのですか?聖社長に、ご迷惑を掛ける様な事は…?」
「ありませんよ。義父も承知している事ですから」
「そうなんですか!?」
「えぇ。堅気に戻れるなら、戻った方が良いと…私は思います。バークレイの後ろ楯は、貴方の大きな強味になると思いますよ」
そう聖社長は、にこやかに笑った。
「あのエドワードが、自ら貴方に手を差し伸ばしたのです。大丈夫、自信を持って下さい」
「ありがとうございます、聖社長。前向きに…検討させて頂きます」




