(67) 解消
とてもじゃないが、デートに行ける様な雰囲気ではなかった。
妃奈は、帰宅する車の中でも一言も喋らず、黒澤と視線を合わそうともしない。
「お帰りなさい!如何でした、坊っちゃん!?」
心配して声を掛ける栞が、泣き腫らした顔をした妃奈に驚いた顔を見せた。
「どうしたんですか!?」
「……いえ…何でもありません」
「ちゃんと話そう、妃奈」
黒澤の呼び掛けに首を振り、栞に琥珀を見ていて貰った礼を言うと、妃奈は黒澤の横をすり抜け、琥珀を抱き上げ2階に駆け上がって行った。
「どうしたんです?一体、何が…まさか、堂本組長のご沙汰が…」
「いや、それは穏便な物になった。心配ない」
「それでは、何が…」
心配する栞に、黒澤は事の顛末を話した。
「焦り過ぎではありませんか、坊っちゃん?」
「だが、妃奈と結婚するには、ああするしか…」
「でも、それで妃奈さんの心が離れては、本末転倒じゃありませんか」
「妃奈の心が…そんな筈は…」
ゾッとする様な背筋の寒気に、黒澤の顔色が曇る。
「妃奈さんは、努力されてたんですよ」
「…ぇ?」
「森田組長に認めて頂く為に、年末にツインタワーの広場の掃除に行ったり、琥珀君の内祝と一緒に、お節料理を届けたり…」
「……」
「全て、坊っちゃんの為ですよ?」
「…わかってる」
「妃奈さんご自身は、結婚というものがどういう物か…いまいち理解していらっしゃらないんじゃないでしょうかねぇ?」
「…何か言ってたのか?」
「いぇね…デートする意味も、理解してない様でしたから」
「……」
「何故、自分なんかと出掛けたいと思うのかと…ね。自己意識が低いというより、何か…こう…」
「…浮世離れしてる?」
「そうですね。デートという言葉と行動は理解していても、自分に置き換える事が出来ない様ですねぇ」
ハァと溜め息を吐く栞に、黒澤は眉を寄せた。
「生きる事だけで精一杯だった妃奈に、生きる喜びを、生活の楽しみを教えてやりたい。普通に妻となり、母として生活する喜びを教えてやりたいだけなのに…」
黒澤は立ち上がり、2階への階段を上り寝室のドアを開けた。
「ととっ!」
父親を見上げて嬉しそうに寄って来る琥珀を抱き上げると、黒澤は一心不乱に荷造りをする妃奈に声を掛ける。
「…妃奈」
「……」
「何してる?」
「…森田さんのお宅に行く準備です」
「ちゃんと話そう」
「…別に…話す事なんて、ありません」
「怒っているのか?松浪の養女になる件…あれは、松浪の奥方から持ち掛けられた話だ」
「……」
「嫌なのか?」
「…そうでは、ありません」
「なら…」
「……何故…あんな強引な事を…」
ボストンバックに荷物を詰める手を止めて、妃奈は黒澤を見上げた。
「言っただろう?親父が、折れる事はない。あの人の立場上、折れる事は出来ない。ならば、ああいう手を打って納得させるしか…」
「そんな事を言ってるんじゃありません!」
「…どういう事だ?」
妃奈は、明らかに怒りを宿した瞳で、黒澤を睨み返した。
「あんな風に強引な手段…森田さんが、どんなお気持ちだったか…」
「……」
「認めて頂く迄待つと、言った筈です!」
「だから…」
「あんな…力と権力で捩じ伏せる様な事をするなんて!」
「それは、堂本組長と松浪組長が、俺達の事を慮って…」
「貴方は、それを見越して行動したんでしょう!?」
「…妃奈」
「松浪の旦那様や奥様が、私を養女にする事で、どんな行動をなさるのか…貴方は、それを理解した上で手続きを進めたのではありませんか!?」
妃奈の言う通り…彼女を可愛がっている松浪夫人から、妃奈と結婚するには松浪の養女という箔を付ける事が、森田組長を納得させる一番の方法だと言われ、黒澤は嬉々として法的手続きを進めて来たのだ。
「…貴方も、あの男達と同じ様な事をするんですか?」
「え?」
「自分の欲望の為には、相手の考えや気持ち等、力で捩じ伏せて想いを遂げる…あの男達と一緒なんですか?」
「妃奈っ!?」
黒澤の恫喝に、腕の中の琥珀がビクリと痙攣し、泣き声を上げて妃奈に腕を伸ばす。
妃奈は黙って琥珀を受け取り、眼を伏せて琥珀をあやした。
「お前…そんな風に思ってたのか…」
「いいえ!でも…黒澤さんの事を…そんな風に思いたくはありません」
「……」
「……貴方との婚約を…解消して下さい」
「駄目だ‼」
「…お願いします」
「お前は、誓った筈だ‼俺から、二度と離れないと!」
「全ては、貴方との結婚話が歯車を狂わせたのです」
「…妃奈」
「私が…貴方と結婚出来たら…なんて妄想を抱いてしまった事が、貴方を狂わせ、森田さんや嶋祢のお嬢様の気持ちを踏みにじり、堂本組や松浪組、嶋祢会を捲き込んでの大事にしてしまった」
「それは違う、妃奈……全て、俺のエゴだ」
「……」
琥珀を抱く腕を取ると、妃奈は黙って首を振り後退る。
「人とは、皆エゴイストだ。自分の欲望を満たす為に、人は考え、働き、そして努力する。親父も、堂本組長も…嶋祢蝶子も、そして俺もだ」
「…過大な想いは、時として罪になります」
「妃奈を手に入れたい、妃奈を幸せにしたい、妃奈と琥珀と…3人で、温かい家庭を築きたい…そう望む事は、罪なのか!?」
「私は…貴方の傍に居るだけで幸せだと…言った筈です」
小さな声で、それでも頑なに妃奈は反論する。
「誰かを不幸にしてまで、自分の幸せを求めるなんて…私には考えられない」
「…妃奈」
「況してや、それが貴方のお父様なら、尚の事です。私には無理です…貴方の傍に…居られなくなってしまう…」
「駄目だ、妃奈!」
「…お願いします。貴方との婚約を解消して下さい」
そう言って、妃奈は自分の首から鍵束の付いたチェーンを外すと、黒澤に差し出した。
「お前、どうあっても俺から離れるつもりかっ!?」
黒澤の恫喝に怯えて、琥珀が再び激しく泣き出すと、声を聞き付けた栞が部屋に飛び込んで来た。
「何事ですか、お二人共!?」
「栞!琥珀を連れて、下に降りてろ!」
「…坊っちゃん」
「いいから、連れて行け‼」
眉を寄せながらも、栞は妃奈から琥珀を受け取り、あやしながら部屋を出て行った。
「…言った筈だ…今度俺から離れたら……お前を殺し、琥珀も殺して後を追うと…」
「…貴方には、無理です」
「……」
「貴方に、琥珀は殺せない」
妃奈は静かにそう言うと、黒澤の足元に正座をして鍵束を前に置くと、床に頭を擦り付けた。
「お願いします‼森田さんのお許しが出る迄…貴方との婚約は、見合わせて下さい‼」
「……」
「松浪の養女になる件も、森田さんのお許しが出る迄は…」
「…許しが出なければ?」
「待ちます…森田さんに、納得して頂ける迄、貴方と琥珀と3人で暮らせる迄、いつまでも待ちます」
「……」
「ですから、強引な事は…どうか、お願いします!森田さんに強引に迫る事だけは、どうか…」
黒澤を拝む様に手を擦り合わせる妃奈の手を握ると、眉を寄せて妃奈の瞳を見詰めた。
「妃奈…お前、俺の気持ちを考えた事あるか?」
「……」
「俺も…もうギリギリなんだぞ!?」
不安そうに瞳を揺らす妃奈に、黒澤は至近距離で顔を合わせる。
「俺がお前を待って居られたのは、妃奈が俺と同じ気持ちだと信じていたからだ」
「………」
「お前が居ない寂しさを耐えたのは、妃奈が寂しさを耐えて生きて来たのを知っているからだ。そして、離れている間、妃奈も又同じ気持ちだと思ったからだ」
「……」
「婚約を解消するのは…俺から気持ちが離れたから…という訳では、ないんだな?」
大きく見開かれた目に、黒澤の顔が映り込む。
「…前にも言いましたが…私の気持ちが、黒澤さんから離れる事なんてありません!」
「絶対に?」
「えぇ」
「なら、どうして…」
握っていた手に唇を寄せると、妃奈は慌てて手を退いた。
逃げ腰になる妃奈を追い詰める様に伸し掛かり、抵抗する妃奈の唇を奪う。
「…やっ…駄目っ…」
「何故だ!」
「だって…」
「例え婚約を解消したとしても、俺と妃奈が恋人である事に変わりはないだろう!?」
「でもっ」
「お前っ‼いつまでも、俺が大人しく待ってるなんて思ったら、大間違いだぞっ‼」
黒澤の恫喝に、硬く目を閉じ身を竦めて震える妃奈が悲しくて、黒澤は拳を床に叩き付けた。
1時間後、妃奈は琥珀を伴い家を出ようとしたが、黒澤は琥珀を連れ出す事を阻止した。
琥珀と一緒に家を出れば、妃奈は二度と黒澤の元に戻って来ないのではないかと懸念した為だ。
鬼の形相で言い渡す黒澤に、妃奈は悲し気な表情を見せた。
数分後、作り直された妃奈の荷物は、大きなボストンバックから驚く程小さくなり、黒澤達を驚かせた。
相変わらず、妃奈は自分の物を何も持たない…必要最低限の下着と洋服を小さな鞄に詰めると、不機嫌な黒澤に怯えながら小さな巾着をテーブルに置いた。
「これは?」
「…琥珀の…」
「琥珀の?」
手製の巾着を開けると、中には琥珀名義の通帳と印鑑が入っている。
「…琥珀の必要な物は…ここから引き出して…」
「そんな物は、俺が出す‼」
「……」
「琥珀は、俺の息子だろう!?」
黒澤に怒鳴られモジモジと指を擦り合わせていた妃奈は、チラリと黒澤を見上げて又俯いた。
「何だ?」
「……だって…黒澤さんは、琥珀を籍に入れて下さらないから…」
「…それは」
「琥珀は、未だ『高橋琥珀』です。琥珀の保護者は、私です。例え黒澤さんに預け様と、琥珀の生活費を出すのは、親の務めです」
そう言って頭を下げると、妃奈は小さな声で懇願した。
「邪魔になる物ではありません。いざという時の為に、預かって下さい」
「こんな事をしなくても、親父の謹慎は、直ぐに解ける」
「……」
「…わかった。コレは、預かって置く」
黒澤が巾着を懐にしまうのを見て、妃奈は安心した様に一息吐くと、小さな荷物を置いてペコリと頭を下げた。
そして琥珀を抱き上げると、頬擦りしながら語り掛ける。
「琥珀…琥珀、大丈夫。これから琥珀には、お父さんが付いていてくれます。お父さんと、栞叔母ちゃんの言う事を良く聞いて、良い子に出来ますね?」
「かっかぁ?」
「妃奈さん、そんな今生の別れの様な言い方…」
栞の言葉に、一番不安を募らせたのは、黒澤だった。
婚約も解消し、琥珀も手放し、妃奈は二度とこの家に、黒澤の元に帰る気がないのではあるまいか?
琥珀を抱き締める腕を掴み、黒澤は思わず声を荒げた。
「行くな!妃奈っ‼」
眉を寄せる黒澤を不思議そうに見上げると、妃奈は淡々と感情を抑えた声で答える。
「堂本組長の、ご命令です」
「じゃあ、親父の謹慎が解けた暁には、お前はここに戻って来るんだな?」
「……」
「どうなんだ、妃奈!?」
「…お許しが…森田さんのお許しが出たなら…」
目を伏せて答える妃奈の腕は、細く冷たく…吐かれた言葉同様に頑なな心は、揺るがぬ決心を秘めていた。
「…お前の、戻るべき場所は?」
「……」
「お前が戻るのは、俺の腕の中だろう!?忘れたか!?」
「…忘れはしません。でも……例え離れていても、想いは1つです」
「それは、再び家族一緒に暮らせる日が来ると…信じているという事だな!?」
「……黒澤さんが、そう望むのであれば…」
妃奈は腕に抱いた琥珀の首筋に顔を埋めると、小さな声を震わせて囁いた。
「幸せに…幸せになりなさい、琥珀。お前には、その資格があるのだから…」
妃奈は、しばらく琥珀を抱き締めていたが、意を決した様に栞に琥珀を預けると、呉々も宜しくお願いしますと頭を下げ、黒澤の視線から逃げ出す様に家を出て行った。
ツインタワーにある森田組を訪ねると、対応に出て来た中沢という男が、怪訝な表情を浮かべた。
「今日は、どの様なご用件ですか?」
この人は、森田組長の秘書の仕事をしている様で、以前森田組長が妃奈を連れ出した時にも行動を共にしていた。
「あの…森田さんは、もうお帰りになっていらっしゃいますか?」
「…いえ」
「それでは、ご自宅の方で待たせて頂きたいのですが」
「何の為に?」
「実は…」
妃奈は、堂本邸であった出来事を中沢に説明した。
中沢は怪訝な表情で聞いていたが、森田組長が謹慎を言い渡された件になると、顔を引き攣らせ妃奈の腕を掴み、組長室に引き摺り込んだ。
「何を言っている!?組長が謹慎などと…世迷い言を!」
「間違いありません」
「何故そんな事に…」
そう頭を抱えていた中沢が、次に顔を上げた時には、顔を歪め憎々しげに妃奈を睨み付けた。
「…やはり、お前のせいだ…あの時、組長に何と言われ様と、お前を始末して置くべきだった!」
気圧された妃奈が部屋の隅に後退さると、中沢はジリジリと追い詰める様に腕を伸ばし、妃奈の胸ぐらを掴んだ。
「お前のせいだ!」
「……」
「組長程の方が、お心を乱されるのも…あんなに信用されている堂本組長から謹慎をくらうのも…全て、お前のせいだろう!?」
「…申し訳…ありません」
胸ぐらを掴んでいた手が、妃奈の細い首筋を掴み、ギリギリと締め上げる。
「お前さえ消え去れば、組長が煩わされる事はないのだ!お前1人消す事など、造作もない!」
その声が耳から聞こえて来るのか、それとも皮膚から伝わって来るのか…。
唯わかっているのは、目の前の男が自分の首を締め上げ殺そうとしている事。
頭では、殺されるのも致し方ないと諦めているのに、躰は生を諦めまいと抵抗し、両手で相手の腕を掻き毟る。
息が詰まり、目は霞み、見開いた眼から涙を流しながら、金魚の様にパクパクと空気を求め喘ぐ妃奈の視界に、部屋の扉を開けて入って来た黒い影が映った。
「…何をしている、中沢?」
「組長!?」
中沢の手が離れた途端、妃奈は床に座り込み、えづく様に激しく咳き込んだ。
「…その娘には、手を出すなと言って置いた筈だが?」
「しかし、組長!?この女のせいで、組長が謹慎になったと聞きました!やはり始末を付けなければ、後に禍根を残します!この中沢にお任せ頂ければ、跡形もなく消してご覧に入れます!」
力説する中沢を軽くいなし、森田組長はプレジデントデスクの向こうにある椅子に深く腰を掛けると、デスクに置かれている箱から煙草を取り出した。
中沢は透かさず懐から出したライターを差し出し、森田組長の煙草に手を添えて火を点けると、一礼して一歩退いた場所に控えた。
ゆっくりと紫煙を吐いた森田組長は、ようやく息を整えた妃奈に一瞥をくれると、後ろに控えた中沢に言った。
「この娘には、手を出すな」
「組長!?」
「…事情が変わったのだ。こちらは、今や…松浪組長の養女になられる方だからな」
「ぇっ!?何ですか、それは!?」
驚く中沢と森田組長の冷たい視線に曝され、妃奈は首を振って森田組長に向かい反論する。
「いえ!まだ…森田さんのお許しを頂く迄は…松浪の養女の件も、黒澤さんとの婚約の話も…一旦、白紙に戻して頂きました!」
「…そうやって、点数を稼ごうというのか?」
「いえ!決して、その様な事は…」
「だから、お前は偽善者だと言うのだ!」
恫喝する森田組長に頭を垂れている妃奈を無視し、森田組長と中沢は今後の事について話し合いを始めた。
「組長の謹慎についての回状が、他の組にも廻るのでしょうか?」
「それはない。表面上、私の謹慎は病欠という扱いになっている。私の謹慎を知っているのは、堂本組長と松浪組長、松浪組の跡目を継いだ佐野と、聖だけだ。だが、謹慎である事に違いはない。私は、明日から自宅に籠る。後の事は、宜しく頼む」
「承知致しました。それで…この女は?」
「…お前は、もう帰れ」
紫煙と共に吐かれた言葉に、妃奈は頭を振った。
「いいえ!堂本組長のご命令です」
「必要ない」
「それでも…私は堂本組長より、森田さんのお世話をする様にと、申しつかりました」
森田組長は、フゥと息を吐き中沢に視線を戻す。
「…謹慎中、私の世話をさせる」
「組長!?大丈夫なんですか!?」
中沢の厳しい視線に曝され、妃奈は居住まいを正した。
「…堂本組長のご命令だ。問題ない」
そう言って立ち上がった森田組長は、妃奈に向かって顎をしゃくった。
妃奈は慌てて荷物を掴むと、先に進む森田組長の後を追う。
事務所を出て、廊下の突き当たりにあるセキュリティを抜けた小さなエントランスの奥、頑丈そうな扉の向こうに森田組長の自宅はあった。
和洋折衷のすっきりとした広いリビングの天井には、白木を格子に組んだ間接照明が明るく室内を照らし、ゆったりとした皮張りのソファーセットが置いてある。
リビングに置いてあるテーブル、そして続きにあるダイニングセットも食器棚も、飴色のメープル材を使った重厚だがシンプルなデザインの家具で揃えられていた。
「…綺麗に、していらっしゃるんですね」
「週に3回、ハウスキーパーが来る。それより、お前がここに来た所で、休む場所などないぞ」
そう言って廊下に出ると、森田組長は次々と部屋の扉を開けていった。
3LDKの部屋は、1つは物置部屋になっており、主寝室と続きの小さな和室は仏間になっていた。
「私の事は、心配いりません。部屋の隅を貸して頂ければ結構です」
フンと鼻を鳴らすと、森田組長は着ていた紋付き袴を脱ぎ捨て、妃奈の前で部屋着に着替えると部屋を出て行った。




