(61) 葛藤
腕の中の琥珀が、微睡みながらも時折啜り上げ、泣き声を漏らす。
これ迄、母親である自分から離れた事のなかった琥珀が、突然見知らぬ人間に連れ去られ、見知らぬ場所に独り連れて行かれたのだ。
大人でも不安な状況を、1歳にも満たない子供に味あわせてしまった苦い思いを、妃奈は歯噛みする思いで受け止めていた。
家に帰りリビングのドアを開けた途端、部屋の隅で指を咥えてドアを見詰めていた琥珀は、妃奈の方に腕を伸ばして立ち上がった。
そして、大声で泣きながらヨタヨタと歩み寄り、ぐちゃぐちゃの顔を擦り寄せて妃奈に抱き付いた。
「…琥珀…琥珀…ごめんね…」
帰ってから、何度琥珀に謝っただろうか?
自分は何故、この愛し子から離れ様だなんて思ったのだろう?
琥珀にこんなに不安な思いを、寂しい思いをさせて迄、自分が離れる意味なんてあるのだろうか?
黒澤の寝室に敷かれた畳に座り、琥珀を抱きあやす妃奈に、ベッドの上から声が掛かった。
「…なぁ……こっちに、来ないか?」
寂し気な瞳を向ける主は、上半身を曝してベッドに座り、妃奈と琥珀を見下ろしている。
「済みません…煩くて、寝れませんか?」
琥珀のハーフケットを掴むと、妃奈は琥珀を連れて部屋から出ようとドアノブに手を掛けた。
突然、カバリと背中から抱き付かれ、耳元に不機嫌な声が囁く。
「何故父親が、我が子を部屋の外に追い出すなんて思うんだ!?」
「…でも」
「でも、じゃない!!何で、お前は…」
そう言うと、黒澤は琥珀を抱いたままの妃奈を担ぎ上げ、ベッドの上に座らせた。
「……ぁ…あの…」
「寂しかったのは、琥珀だけだと思っているのか?」
「……」
妃奈の肩口に顔を埋め、黒澤は大きな溜め息を吐いた。
「…お前は、寂しくはなかったのか?」
「……」
「俺は寂しかった…例え様もなく…気が狂う程に…」
「…済みません」
小さな声で謝罪する妃奈に、黒澤は再び嘆息する。
「お前は、平気だったんだな」
「そういう訳では、ありません。だけど…」
「けど?」
「……黒澤さんと過ごした日々は…私には、特別な事だったから…」
「……」
「…独りで居る事も、寂しい事も、私には当たり前の事でした。いつもの生活に戻るだけ…そう思ってました。でも、この家を飛び出してからというもの…ここでの生活を思い返さない日はありませんでした」
「…妃奈」
「それでも、私には琥珀が居てくれました。それが、どんなに心の支えになった事か…」
琥珀の頭に頬擦りをしながら、妃奈はとつとつと話続けた。
「黒澤さんと琥珀の為に、この家には帰って来てはいけないと思っていましたが…いざ琥珀を抱いてしまうと…やはり、再び離れる事は出来そうにありません」
「当たり前だ!それが、親子の情って物だろう!?」
「そうですね…子供の幸せを願わない親は、居ないんです」
「当然だ!」
「だから…森田さんが、私達の事を反対するのも、当然だと思いませんか?」
「!?」
森田組長の名前を出した事で眉を潜める黒澤を、妃奈は潤んだ瞳で見上げながら問い掛ける。
「貴方の幸せを願っての事でした」
「…止めろ」
「私に身を引く様に言ったのも、琥珀を誘拐したのも…自分の血縁である、貴方と琥珀を思っての事です」
「止めろ、妃奈!!」
顔を引き攣らせ妃奈の肩を鷲掴みする黒澤に、妃奈は尚も問い掛ける。
「…どうすれば…いいですか?」
「…妃奈」
「死ぬ事も出来ず、森田さんと約束したのに、琥珀から離れる事も出来ず…かといって、琥珀から父親である貴方を取り上げる事も出来ず…貴方と森田さんの親子関係を取り戻して欲しいと願うのに、森田さんに悉く逆らってばかりの私は…一体、どうすればいいんでしょう?」
ハラハラと涙を流す妃奈に、黒澤はキスの雨を降らせる。
「大丈夫だ、妃奈…お前の事は、必ずわかって貰う!だから…約束してくれ」
「……」
「もう絶対に、俺から離れ様となんかするな!!」
「……」
「今度離れたら…」
強張った顔に大きな牙を剥き出しにして、黒澤は妃奈の肩に爪を食い込ませた。
「……俺は…俺は、お前を…殺す…」
「…シュウ」
「…そして…琥珀を殺して……俺も後を追う…」
震えながらそう言うと、黒澤は琥珀ごと妃奈の躰を抱き締めて、うわ言の様に妃奈の名前を呼び続けた。
妃奈が戻った事で、琥珀は直ぐに体調を戻し、明るい笑顔を見せる様になった。
心配した片目を引き攣らせる様なチック症状も、治まりつつある。
それでも、片時も妃奈の傍を離れ様とせず、甘えて抱っこをせがむ。
手術をした事で余計に食が細くなった妃奈は、自分の食事の殆どを琥珀に与えてしまうので、母子の体格は反比例の様に差を増しつつあった。
「ちゃんと自分の食事を摂れ、妃奈。琥珀の分が足りないなら、幾らでも食べさせてやる」
「…でも」
母親の食べている物を欲しがる琥珀に、妃奈は自分の皿から細かくほぐした魚を琥珀の口に運んでやる。
「大人の食べている物を欲しがるんですよ。坊っちゃんもそうでした」
「ウチは、兄弟で取りおうてましたわ。人数が増えると、生存競争も激しぃて…」
栞と田上の母親は、顔を見合せてコロコロと笑う。
「そういえば、坊っちゃん。琥珀君のお誕生祝いは、どうするんです?」
「誕生祝い?」
「本当は、先月でしたけど…坊っちゃんも妃奈さんも入院してましたし、琥珀君の体調も優れませんでしたしね」
「子供の祝いは、大切やからね。妃奈さん、お宮参りはどこに行かはったん?」
「…お宮参り…ですか?」
「そう。お宮参り」
微妙な顔をする妃奈に、栞が持っていた湯呑みを置いた。
「もしかして、行ってないんですか?」
「……はい」
「お七夜は?」
「……」
「お食い初め…百日の御祝いは?」
「………」
「じゃあ、初節句は?」
矢継ぎ早な田上の母親の質問に、妃奈は黙って下を向いた。
「別に気にする事はない。どれにしても、迷信的な物だろう?」
「何言うてはるんですか、坊っちゃん!?今迄何もしてはらへんのやったら…、月遅れでも初誕生は祝ぅた方がえぇに決まってますがな!なぁ、栞姉さん?」
「そうですねぇ…」
顔を上げない妃奈を気遣いながら、栞が黒澤に笑い掛けた。
「子供の成長を祝う行事ですからね。どうです、クリスマスに皆さんをお呼びして御祝いされては?」
「そうだな…どうだ、妃奈?」
妃奈は俯いたまま、小さく頷いた。
「坊っちゃん、何方をお招きになりますか?」
「事務所のメンバーと…松浪組の方々にも、一応声を掛けるか…」
「森田さんは?」
栞の言葉に、妃奈がピクリと反応する。
「何と言っても、お祖父様ですからね。良い機会ではありませんか?」
「……そうだな」
栞の薦めに従い、その日の夕方、黒澤は森田組を訪ねた。
「…久し振りだな」
「ご無沙汰致しております」
以前と何も変わらない様に見える森田組長だが、堂本組長からも制裁を受け、嶋祢組長に多額の慰謝料を支払ったと聞き、黒澤としても内心複雑な思いがある。
「元気そうだな?」
「お陰様で」
「今は、どうしてるんだ?」
「先日、ようやく妃奈が退院致しましたので、親子でのんびり過ごしてますよ」
「えらく長い間入院していたんだな?」
森田組長の言葉に、黒澤は固く手を組んだ。
「酷い潰瘍で、胃を1/3摘出しました。それに、私が死んだと誤解させてしまい、精神的にも追い詰めてしまいましたので…」
「…相変わらず、弱い事だ」
「私達のせいです。私達親子が、彼女から幸せを奪い追い詰めた…そう思いませんか?」
「……」
「妃奈と結婚します」
「…好きにすればいい…そう言ったではないか」
「それじゃ、駄目なんです!」
黒澤の言葉に、森田組長は片眉を上げる。
「祝福して欲しいとは言いません。貴方だって、堂本組や嶋祢組を巻き込んだ今回の騒動で、かなりの制裁を受けたと聞きました。気持ちが治まらないとは思いますが…せめて、結婚に同意、賛成して頂けませんか?」
「同じ事だろう?これ以上、私に折れろと言うのか?」
「折れて下さい」
「黒澤!!」
森田組長の怒号に、黒澤は胸を張った。
「貴方が折れて下さらないと、妃奈は結婚を承知しないのです」
「…何だと?」
「私が死んだと誤解した妃奈は、琥珀を里子に出そうとしました。私の生存を確認して後も、私の籍に琥珀を入れて欲しいと言い、自分は身を引く積もりでした。自分が居ては、将来琥珀の妨げになると思い込んでいた。そう思わせたのは、貴方ですね?」
「…間違った事は、言っていない。あんなに精神的に弱い母親では、後々禍根を残す事になる」
「そのせいで、琥珀に影響が出てしまってもですか?」
「…何?」
「母親と離された事で琥珀も体調を崩し、チック症状が出て、おかしくなり掛けたんです」
「……」
「妃奈は、琥珀の為に家に戻る決心をしました。ですが、貴方の気持ちを慮り、婚姻届にサインをしようとしません。未だに、貴方との約束を反故にしてしまった自分を責めている!」
「私のせいだと言いたいのか?」
「違いますか?」
「……」
「妃奈は、一言も恨みがましい事を言いませんでしたよ。自分が死ねば、私達の関係が…普通の親子関係に戻ると信じていた」
「馬鹿な!」
「妃奈も、普通の親子関係という物を知りませんからね…血縁があれば、打ち解ける事が出来るという幻想を抱いているのでしょう。自分の血縁には、遺産争いの為に命を狙われ、何度も殺されそうになったというのに…」
「……」
「一体、妃奈の何が気に入らないんです?」
「……」
黙して語らない森田組長に溜め息を吐くと、黒澤は内ポケットから手帳を取り出した。
「琥珀の誕生祝いを、1ヶ月遅れで祝う事にしました。クリスマス・イブにと考えていますが…ご予定は如何ですか?」
「…あの女も一緒なのだろう?」
「当たり前です!妃奈は、琥珀の母親ですよ!?」
「ならば、私は遠慮させて貰う」
頑なな態度を示す森田組長に、黒澤は再び大きな溜め息を吐いた。
「又、以前の様な…冷戦状態に戻りたいんですか?」
「私の立場では、これ以上軟化する事は出来ない。これからも堂本組若頭を名乗る以上、嶋祢会にも堂本組にも、けじめを着けなければならないのだ」
「くだらない」
「何とでも言え…それが、極道というものだ」
「…わかりました」
手帳をしまうと、黒澤は立ち上がり森田組長に一礼した。
「又、伺いますよ…親父」




