(60) 退院
To 妃奈 sub 済まない
妃奈へ
先程武蔵先生より、しばらくの間面会謝絶にして、妃奈を治療に専念させる事にしましょうと言われ、俺も同意した。
しばらくは顔を見せに行けないが、許して欲しい。
以前妃奈が使っていた携帯を、再び契約して使える様にしておいた。
使い方を覚えているか?
家に説明書も取ってあると思うので、今度探して差し入れる様にする。
喉を痛めた妃奈と、これでやっと会話が出来ると思うと嬉しくて仕方がない。
妃奈が思っている事、考えている事、感じた事、何でもいいからメールして欲しい。
何時でも構わないから…お前のメールを待っている。
黒澤鷲
From 妃奈 sub Re:済まない
本当に申し訳ありませんでした。
説明書は、必要ありません。
To 妃奈 sub 気にするな
愛する妃奈。
相変わらず素っ気ない程短いメールに、懐かしい様な、寂しい様な、微妙な心持ちでいる。
今回の一連の出来事に、妃奈を巻き込んでしまった事、本当に申し訳なく思っている。
全ては、俺と森田さんとの行き違いが招いた事だ。
だから、妃奈が責任を感じる必要は何もない。
今は躰を休めて、早く良くなれ。
俺と琥珀の待つ家に帰って来るのを、心待ちにしている。
黒澤鷲
From 妃奈 sub Re: 気にするな
お花とゼリーの差し入れ、ありがとうございます。
黒澤さんのお躰の具合は、もう宜しいのでしょうか?
琥珀は、元気にしていますか?
To 妃奈 sub 写真を送る
愛する妃奈へ。
差し入れを気に入ってくれた様で、安心した。
耳鼻咽喉科の医師から、しばらく声を出さない様に言われたそうだな?
喉の炎症の為に、食べ物を受け付けなかったそうだが、俺が差し入れたゼリーは完食したと武蔵先生から聞き、嬉しかった。
好みの味を知らせてくれたら、今度探して差し入れ様と思う。
琥珀は、元気にしている。
栞と、大阪から助っ人に来てくれた田上の母親にも良く懐いている。
それでも物音がすると、妃奈が帰って来たのかと家中お前の姿を探し回り、居ない事がわかると俯せて身を丸め、寝る迄泣き続けている。
写真は、比較的機嫌が良い時を見計らって、栞に撮って貰った。
最近ようやく、俺に抱かれる事にも慣れた様だ。
俺の躰の事は、心配ない。
俺が撃たれた事で妃奈には酷く心配させたが、元々殺傷力の低い小さな拳銃だったんだ。
長く入院する事になったのは、弾の摘出手術後の感染症と、炎症の為の発熱が引かなかった為だ。
完璧に治療して退院したから、心配する事は何もない。
それよりも、お前が気に病む方が心配でならない。
愛している、妃奈…早く良くなって帰って来い。
黒澤鷲
From 妃奈 sub Re:写真を送る
写真と差し入れ、ありがとうございます。
琥珀の元気そうな姿に安心しました。
根津さんと、田上さんのお母様に宜しくお伝え下さい。
届けて頂いた書類は、申し訳ありませんがお返し致します。
琥珀の書類は、書き込んでおきました。
出来れば、琥珀を黒澤さんの籍に入れてやって下さい。
宜しくお願い致します。
To 妃奈 sub 婚姻届
愛する妃奈。
お前が心配する事は、何もないと言っただろう?
嶋祢蝶子との婚約話は、完全になくなった。
嶋祢会長や堂本組長も、了解して下さった事だ。
嶋祢蝶子が狙っていた妃奈の土地の件も、全て白紙に戻った。
後は、妃奈が俺の元に戻って、琥珀と3人で家族になるだけだ!
何の不都合がある!?
お前は、俺の幸せを願っているんじゃなかったのか?
妃奈の居ない人生なんて、俺にはもう考えられない!
愛しているんだ、妃奈!
俺の幸せを願うなら、婚姻届にサインして欲しい。
それとも、お前の俺への気持ちは、もう冷めてしまったのか?
そうは考えたくない事だが、夜も寝れない程不安だ。
黒澤鷲
From 妃奈 sub Re: 婚姻届
申し訳ありません。
私の中で、黒澤さんへの気持ちが冷める事はありません。
絶対に、ありません。
ですが、それと書類にサインをする事は、又別の話です。
黒澤さんと、琥珀の幸せを、心から祈っています。
琥珀の事を、宜しくお願い致します。
To 妃奈 sub 無題
愛する妃奈。
お前の気持ちが、わからない。
一体妃奈は、何を考えている?
気持ちがあって、琥珀という子供迄居るのに、結婚を拒む理由とは一体何だ?
妃奈に会いたい。
妃奈に触れたい。
抱き締めて、キスをして、撫でてやれば、お前は本当の気持ちを話してくれるだろうか?
面会謝絶で声を出せない今の状態では、儘ならない事ではあるが…。
妃奈の気持ちが知りたい!
妃奈が、何を思い悩んでいるか知りたい!
妃奈の気持ちが見えなくて辛い。
お前が今、何を考えているのか書いて欲しい。
頼むから、お前の辛さを俺にも分けてくれ!
黒澤鷲
From 妃奈 sub Re: 無題
申し訳ありません。
私という存在が、どれだけ周囲の方々にご迷惑を掛け、不幸を呼び寄せて来たかを考えると、自分だけが幸せになる事など恐れ多いのです。
私の様な女が黒澤さんの近くに居る事で、これから先も貴方が中傷されたり危険な目に遭いはしないかと、不安でなりません。
琥珀は、黒澤さんの元を飛び出した後に、私の中で宿っている事がわかりました。
奥多摩で、あの親戚達に崖から落とされても、私の中でしっかりと生きてくれた命です。
琥珀を宿している事がわかったから、私は今日迄生きて来る事が出来ました。
貴方からの授かり物である琥珀を産み育てる事が出来た日々は、私にとって宝物の様な日々でした。
ですが、いずれは琥珀も私の様な母親が居る事を疎ましくなる日がやって来ます。
私のエゴで産んでしまった事を、私の血を継いでしまった事を、琥珀が後悔する日がやって来ます。
私という存在が、黒澤さんや琥珀の妨げになる日が必ずやって来ます。
私は、それに耐えられないでしょう。
だから、これ以上琥珀と黒澤さんの元には居られないのです。
黒澤さんと琥珀の幸せだけが、私にとって大切な事なのです。
わかって下さい。
To 妃奈 sub わからない
愛する妃奈。
わからないし、わかりたくもない!
妃奈は今迄、苦労を重ねて生きて来た。
周囲の思惑に翻弄され、辛い日々を送って来た。
それでも、周囲の人々の幸せを願って、自分の幸せを置き去りにして生活して来た。
そんな妃奈が人並みの幸せを手に入れる事を、俺は誰にも何も言わせない!!
妃奈と結婚したからといって、俺が中傷される事など何もないし、誰にも何も言わせない。
返って妃奈の方が、暴力団弁護士と結婚する事で中傷を受けるだろう。
お前は、それに耐えてくれるだろうか?
琥珀も、暴力団弁護士を父親に持つ事で、世間に中傷されるだろう。
かつて、自分が同じだった様に…。
だが、同じ立場だったからこそ、話も出来るし上手く導いてやれると思う。
俺達の結婚には、何の支障もない。
お前の不安は、俺が全て取り除いてやる。
今迄もそうだった。
お前の不安も疑問も、俺が全て答えを教えてやっただろう?
これからも、同じだ。
俺が、全てを教えてやる。
世の中の事も、男女の愛も、幸せになる方法も…俺だけが、お前に教えてやれる!
だから俺の腕の中に戻って来い、妃奈!!
Princess Amber…お前を、心から愛している。
黒澤鷲
From 妃奈 sub Re: わからない
ありがとうございます。
お気持ちは、本当に嬉しくて、申し訳ない気持ちで一杯です。
ですが、私達の結婚を…私が幸せになる事を、快く思わない方がいらっしゃる内は、黒澤さんの元には帰れません。
申し訳ありません。
To 妃奈 sub 琥珀の事
黙っていようかとも思っていたんだが、琥珀はずっと体調を崩している。
小児科の医者に診て貰った所、母親と離された事による不安が原因だそうだ。
鷹栖先生にも相談し、妃奈と会わせる事も考えたが、見舞いの短時間会わせて連れ帰るのでは、琥珀の為には良くないという判断で家で過ごしている。
我慢強いのは母親譲りか、部屋の隅で指を咥え、妃奈がドアを開けて帰って来るのを一日中じっと待っている。
夕刻には熱を出し、うわ言でお前を呼んでいる。
最近は起きる事もダルそうだが、部屋の隅で待つ事を止めようとしない。
無理に寝床に連れて行くと、泣き叫んで抵抗し、元の場所に連れて行けと駄々を捏ねる。
本当にお前にそっくりだが、1歳児の体力的な事を考えると心配でならない。
1日も早くお前が帰って来る事を、琥珀も俺も待っている。
Princess Amber…お前は俺達にとって、無くてはならない女性だという事を自覚するべきだ。
黒澤鷲
琥珀の様子を知らせた事で、妃奈は積極的に治療を受け、食事を摂り、1日も早く退院出来る様に努めた。
そして、12月も半ばを迎える頃、妃奈は大人しく黒澤の車に乗って帰途に着いた。
「…琥珀は?相変わらずですか?」
「あぁ…出る時に、お前を連れて帰って来ると話してやったんだが…1歳じゃ、まだわからないだろうな」
「そんな事は、ありません。ちゃんと話してやると、理解します」
「そうなのか?」
「…そうやって、生活して来ました」
そう妃奈は俯いて、指先を擦り合わせた。
「寒いか?暖房の温度を上げるか?」
「いぇ…そうではなくて…少し、寄って頂きたい所があるんですが…」
「どこに?」
「…浅草の…松浪のお屋敷に…」
チラリと視線を寄越す妃奈の色香にドキリとしながら、黒澤は誤魔化す様に咳払いをして尋ねた。
「お前達の荷物は、全て運んで来たぞ?」
「…そうではなくて……不義理をしたままですから…」
「……」
「本当なら、直ぐにでも琥珀の元に帰ってやりたいのですが…帰れば、当分外出は無理になると思いますので…」
「…わかった」
そう言うと、黒澤は車を路肩に停め、サイドブレーキを引いた。
「1つ聞いておきたい事がある」
「…何でしょう?」
「松浪組の…佐野さんの事だ。結婚話があったというのは、本当なのか?」
「…その様です。旦那様から、佐野さんの部屋で寝起きする様にと言われました」
衝撃的な告白に、バンドルを持つ手が汗ばんだ。
「……そういう…関係にあったのか?」
「は?」
「だから……佐野さんと…」
「ありません」
「……」
「ありません…が、佐野さんから、組の皆さんには、そう思わせて置く様にと言われました。その方が、私の為だと言われました。佐野さんには、私も琥珀も本当にお世話になって…大切にして頂きました」
俯いたまま話す妃奈の睫毛が、微かに震える。
「……信じられませんか?」
「いゃ…信じる」
そう言うと、黒澤はシートベルトを外して妃奈の顎を捉えた。
「…お前を信じる」
そう言って身を乗り出すと、大きく目を見張りシートに仰け反る妃奈の唇を食んだ。
「…こんな所で!?」
「何言ってる?どれだけ待ったと思ってるんだ」
「だからって…外から丸見えじゃないですか!!」
「それがどうした?」
「……」
絶句する妃奈の唇をもう一度塞ぐと、黒澤は逃げ惑う妃奈の舌を捉え思うままに口腔を蹂躙した。
赤面し涙目になってトロンとした表情を見せる妃奈に満足すると、黒澤は再びシートベルトを装着して車を発進させた。
「妃奈!!お前、躰はもう大丈夫なのかい!?」
松浪組長宅の座敷に上げられた黒澤と妃奈に、松浪組長の奥方である忍夫人が心配そうに尋ねた。
「この度は、勝手な事を致しまして…本当に申し訳ありませんでした」
畳に額を付けて謝罪する妃奈の隣で、黒澤も一緒に頭を下げた。
「いいんだよ、そんな事!琥珀が連れて行かれちまったんだ。母親としては、当然の行動さね。それより、血ぃ吐く程躰壊してたって方が重大だよ!何で言わなかったんだい!?」
「…申し訳ありません」
「全く…水臭いったらありゃしない!」
「お陰様で、手術もして頂き…無事に退院する事が出来ました」
「まぁ、良かったよ。本当に…。それで?お前達の結婚の日取りは、もう決まったのかい?」
「……それは…」
言い淀む妃奈に変わり、隣から黒澤が助け船を出す。
「書類上の事や、妃奈の体調…それに片付けなければならない事が多々ありますので…それらを全て終えた後にと考えております」
「片付ける事?」
「妃奈の遺産の件です。正式に妃奈の物になりましたが、詳しいリストを作成し、書類を作らなくてはなりません。それに、現在私共の暮らす家は、子育てには不向きなので…いっその事、土地の運用の事を考えて、マンションでも建てようかと考えておりまして」
「そりゃ、随分と先の話だね?」
チラリと妃奈を窺いながら、忍夫人は不満気な声を出した。
「はっきりとした日取りが決まり次第、こちらには必ずお知らせ致します」
「絶対だよ!妃奈も琥珀も、可愛いウチの子供や孫と一緒なんだからね!?」
そう忍夫人が声を上げた時、座敷の襖が開けられ、松浪組長と佐野が姿を現した。
「旦那様、ご無沙汰致しております」
「おぅ、妃奈。やっと退院して来たか」
「この度は、色々とご迷惑をお掛け致しまして、本当に申し訳ありませんでした」
「何、いいって事よ。おい、佐野」
そう松浪組長が顎をしゃくると、隣に控えた佐野が袱紗に包んだ分厚いのし袋を妃奈の前に置いた。
「…旦那様、この様な事は!?」
「何言ってる、妃奈。儂の気持ちだ」
「ですが…」
「なら、黒澤に渡してやれ。お前の入院手術代だ」
「松浪組長、それは…」
黒澤が眉を寄せるのを受け流すと、松浪組長は懐から煙草を出しながら、事もなげに言った。
「黒澤、妃奈は儂の所の女中だ。まだ退職願を受け取っちゃいねぇからな」
「それは、そうですが…」
「ウチの従業員の入院費を儂が払う…何の不都合がある?」
松浪組長は、黒澤の内情を察してくれたのだろう。
分厚いのし袋の膨らみは、100万はありそうだ。
「…それでは、ありがたく頂きます」
分厚いのし袋を懐にしまい、黒澤は深々と頭を下げた。
「黒澤、お前…堂本からの沙汰は出たのか?」
「いぇ…年明けの年賀の席の前に、森田組長と共に顔を出す様にと言われております」
「そうか…お前、いっそウチの弁護士になる気はねぇか?」
松浪組長の言葉に、黒澤は少し目を見張り、口元を緩めた。
「ありがたいお申し出ではありますが…今回ばかりは、堂本組長のご沙汰を甘んじて受ける覚悟をしておりますので…」
「儂も詳しくは知らされてねぇが…結構な爆弾を持ち込んだそうだな?」
「……」
「まぁ、森田も金で片を付けて引続き若頭を務めるみてぇだし、堂本組としちゃ安牌な沙汰だったみてぇじゃねぇか」
「…そうですか」
「何だ、聞いてねぇのか?」
驚いた顔を見せる松浪組長に、黒澤は苦笑を返す。
「森田組長からは、出るに及ばずと言われておりますので…年明け迄は、個人的なクライアントの依頼のみを受ける気楽な身分です」
「…まぁ、お前にしても病み上がりだしな。年明け迄、妃奈共々気楽に過ごせばいいかもしれねぇな」
「そうさせて頂きます」
2人の話を聞いて不安そうな顔を見せる妃奈に、黒澤と松浪組長は笑顔を向けた。
「何、不安そうな顔してんだ、妃奈?」
「旦那様…嶋祢のお嬢様は、どうしておいでですか?」
「蝶子か?アイツは今、海外に居る」
「……」
「森田から、たんまり慰謝料をぶん取ったらしいからな。外国で豪遊してんだろ?なぁ、佐野?」
「へぇ、その様です」
「森田も、蝶子の扱いには慣れてるからな。心得たもんだ。心配いらねぇ」
松浪組長の言葉に、妃奈は身を固くして俯いた。
「それより、妃奈…お前ぇ、儂に何か言う事があるんじゃねぇか?」
「……」
「ウチを出て、黒澤の所に嫁ぐんだろうが?」
「それがね、寅…まだ、結婚しないって言うんだよ」
忍夫人の言葉に松浪組長は眉を潜め、佐野は呆れた様に嘆息した。
「お前ぇ、何考えてる?」
「申し訳ありません。色々とありまして…」
「どうせ、妃奈がゴネてんだろ?そうだな、妃奈?」
「……」
佐野の言葉に俯いた妃奈が、次に吐かれた言葉にビクリと痙攣した。
「何気にしてんだ?森田組長の事か?」
「!?」
「…そうなのか、妃奈?」
「……」
「森田さんの事は、気にしなくていい。妃奈との結婚の事は、伝えてある」
「……何と…仰ってましたか?」
「好きにすればいいと、言っていた」
「……それは…賛成はしないという事ですね…」
「妃奈!?」
フルフルと黒澤に首を振ると、妃奈は松浪組長に手を着いた。
「旦那様、奥様…今迄、本当にお世話になりました。琥珀と2人、人並み以上の生活が出来たのは、お2人のお陰です。本当にありがとうございました」
「お前ぇは、儂の…この、松浪寅一の命を救ってくれた。こんな事位じゃ返せねぇ程の恩があるんだぜ?これから先も、何か困った事があったら、何時でも力になるから言って来な」
「ありがとうございます、旦那様」
「本当だよ、妃奈!遠慮なんかするんじゃないよ?たまには、琥珀と一緒に顔を見せに来ておくれ」
「ありがとうございます、奥様。佐野さんにも、本当にお世話になりました」
「いいって事よ…幸せになるんだぜ」
妃奈は何度も何度も畳に額を付けて、3人に感謝の言葉を連ねた。




