(6) 救急外来
「車ねぇんだろ、シュウ?」
「棗さん」
「乗ってけよ」
「いぇ…この後、寄る所がありまして…」
「病院だろ?」
「え?」
黒澤の肩に寄り掛かる様に手を着いてニヤリと笑う棗は、そのままビルの入口の方に黒澤を連れ出した。
「病院迄、送ってやるっつってんだよ…ってか、お願いされちまった」
「誰にです?」
「ウチのお嬢ちゃん」
「…堂本組長のお嬢さんにですか?」
「交通事故に遭って直ぐなら、車で来てないだろうからって…おっ、来た来た…」
黒いボルボが目の前に停まり、運転席から降りて来た茶髪の若い男が、後部座席のドアを開けた。
「で?どこの病院だ?」
乗り込んだ黒澤に、早速棗が尋ねる。
黒澤は観念して、小塚からのメールを確認し、病院の名前を告げた。
「わかった。聞こえたな、太一?救急外来に着けろ」
「ウィッス」
静かに発進した車内で、棗は持っていた紙袋を黒澤に渡した。
「何ですか?」
「弁当…さっき食ってた料理の詰め合わせ」
「…」
「お嬢ちゃんが作らせたんだよ。病院にお前の秘書が詰めてるって聞いて…食事に来る筈だった秘書が付き添うのは、余程の事だろうってな。食事する暇もねぇかも知れねぇって…持ってけ」
「…ありがとうございます」
「礼なら、お嬢ちゃんにいいな」
「幼いのに、気遣いの出来るしっかりとしたお嬢さんですね?」
途端に目を丸くして笑い出した棗に、運転席の若者迄がつられて笑う。
「アレでも、今年21なんだ」
「…そうでしたか…高校生かと…」
「だろ?出会った頃は、中坊みてぇでよ…」
そう言って、棗は懐かしそうに車窓を眺めて微笑んだ。
「堅気のお嬢さんが、堂本組長相手に凄い剣幕でしたが…」
「いつもの事だ。養女になる前に、自分の妾に欲しいって言う位入れ込んでたんだ。それをあのお嬢ちゃん、ウチの社長を守る為に売られた喧嘩を勝ち取って、養女に納まった。俺達より肝座ってるぜ」
「…」
「森田組長にも買われててな。堂本組長が暴走し過ぎると、上手くお嬢ちゃんを煽るんだ…今日みたくな」
「ぇ?」
「まぁ、お前の土地の件だけじゃねぇんだろ?気にすんな」
ニヤニヤと笑って黒澤の肩を叩く棗は、あの頃とちっとも変わっていない。
まだ父の元で見習い弁護士をしていた黒澤は、ある時父に寺嶋組長と引き合わされた。
その時、寺嶋組長と一緒にやって来たのが棗だったのだ。
年も近く、気さくに話が出来るこの人に、黒澤は極道との付き合い方や、彼等が何を考え世間に対してどういう思いを抱いているか…世間とのズレ等を教えて貰った。
「あの頃よく話題に出ていた方が、今の社長なんですよね?」
「…わかったか?」
「事務所を立ち上げると決めた時、寺嶋組長にご相談に伺って…近々、聖の組長が代替わりされるとお聞きしました。寺嶋組長の甥御さんが継ぐ事になると。その後直ぐに急逝されたと聞いて…」
「…そっか」
「寺嶋組長が、ご自分の所ではなく、森田組長の元に行く様にと仰って下さったのです」
「だろうな…あの頃、ウチは荒れてたから…」
「ご自慢の甥御さんだと仰っていましたが、寺嶋組長は正直継がせたくなかった様ですね?」
「堅気で居させてやりたかったんだろ?肉親の情ってヤツだ。その後擦った揉んだで…お嬢ちゃんが堂本の養女に納まって、ウチの社長が堂本の若頭補佐になって…ようやく落ち着いて来たって所だ」
「聖社長も、お若いのに大変な重責ですね」
「まぁな…でも、ウチの社長なら大丈夫だろ?お嬢ちゃんも付いてるしな」
「…微妙に睨まれていたのは、気のせいでしょうか?」
そう言うと、棗は肩を震わせて笑い出した。
「初対面のお嬢ちゃんが、笑顔で話題に食い付いて来たろ?それに…お前、一応堅気で…イイ男だからな」
「…」
「ウチの社長は、焼き餅妬きなのが玉に瑕なんだよ」
「…はぁ」
アハハと笑いながら、棗は懐から名刺を取り出して、黒澤に渡した。
『有限会社Saint興業 専務取締役 有限会社 Garden JUJU 代表取締役 棗修二』と書かれた名刺に、黒澤は眉を上げた。
「Saint興業の専務という事は、聖組の若頭ですか?」
「まぁな。ついでに、花屋の社長もやってる」
「成る程…『Garden JUJU』ですか」
「柄じゃねぇんだが…歌舞伎町の中で商売してる。何かあったら、いつでも来てくれ」
「ありがとうございます」
車は静かに病院の敷地に入り、救急外来の前で停車した。
「…シュウ」
「はい」
「お前…親父さん達の仇、追ってんだって?」
「…えぇ」
「そうか…俺は、力になりてぇと思ってる。だが、お前はどうだ?」
「…」
「あの事件…多分、聖の本家も絡んでた。お前、ウチの社長や俺を信用出来るか?」
「…」
「下手すりゃ、堂本組長や…森田組長も絡むかも知れねぇ。お前…そん時は、どうするよ?」
「全て明らかにしてから…その後の事は、それから考えます」
「…そうか。何かあったら、いつでも言って来いよ」
「ありがとうございます」
黒澤はそう言って頭を下げると、車を降りた。
「所長、こちらです」
救急外来の待合室で小塚が立ち上がるのを見て、黒澤は早足に近付いた。
「どういう事だ?左腕と肋骨の骨折だけだったんじゃないのか!?」
「それが…医者の話では、他にも疾患がある様で、かなり弱っているそうです。担当医に、お会いになりますか?」
「会おう」
小塚が救急外来入口のインターホンで看護師を呼び出すと、程なくしてカルテを持った医師が現れ、別室に通された。
「先程付き添われていた方にも話したのですが、患者さんの病状は、ご家族の方以外にはお話し出来ない決まりないんですがね…」
「彼女の両親は、既に他界しています」
「貴方は、彼女のご親戚ですか?」
「いぇ…申し遅れました。私は、こういう者です」
黒澤が名刺を差し出すと、医師は驚いた様に名刺と彼の顔を見比べた。
「弁護士さんでしたか…」
「彼女は私の亡くなった知人のお嬢さんで…退院後は、私の元に引き取ろうと考えています」
「そうですか。わかりました…ご説明致しましょう」
「お願いします」
医師はレントゲン写真やCTスキャンの画像をパソコン画面に呼び出すと、ペン先で骨折部分を示しながら説明を始めた。
「ご覧の様に、左上腕骨と肋骨に数ヵ所骨折が見られます。幸い骨折での内臓への損傷はありませんでしたので、肋骨はコルセットで、腕の骨折はギプスでの固定で済むと思います。脳震盪を起こしていますが、脳の方に異常は認められませんでした。しかし…」
「何か、問題が?」
「内臓疾患の方が深刻なのです。付き添われて来た方に伺ったのですが、路上生活をしていた様ですね?極度の栄養失調と不摂生の為に、消化器だけではなく、肝臓にもかなりの負担が来ています。それに、多分…心臓にも疾患を抱えていますね…」
「心臓?」
「詳しくは、専門的な検査をしなければならないんですがね…かなりの不整脈が出ています」
「…」
「ご本人も自覚があったと思うんです。だから、あんな薬を自分から摂取するとは、考えにくいんですがね…」
「薬ですか?」
「…」
「何の……まさか!?」
「ごく軽いドラッグだと思われますが…きっと無理矢理に飲まされて…強姦されたのだと…」
「えっ!?」
「強姦された直後だった様です。拘束の痕や、口にはガムテープの痕もありましたし…殴られた鬱血痕や、背中に煙草で焼かれた痕もありましたから…」
「…」
「然も、今回だけではなかった様で…全く、酷い事をする奴がいるものです!一応、洗浄と感染症の薬を投与しましたが、後日改めて産婦人科に受診された方が良いですね。先程連絡して来た警察の方にも、一応事情は説明して置きました。もうじき、おみえになるそうです」
「…わかりました」
憔悴した黒澤に、医師は優しく声を掛けた。
「付き添われますか?」
「中に入っても?」
「えぇ…構いませんよ」
廊下で心配そうに待つ小塚に、黒澤は声を掛けた。
「済まなかったな、小塚…今日は、もう帰っていい」
「所長は?」
「俺は、このまま彼女に付き添う。お前、食事は?」
「ぁ…いぇ、まだ…」
先程渡された紙袋を小塚に渡し、黒澤は苦笑しながら言った。
「弁当だ。一緒に会食した堂本組長の娘が、お前の為に用意してくれた」
「えっ!?」
「今日中に食べた方がいい」
「…ありがとうございます」
頭を下げ紙袋を受け取る小塚の肩を叩き、黒澤は妃奈のベッドに向かった。
救急で運ばれた患者が並ぶ病室の一番端に、妃奈の寝かされたベッドがあった。
薄緑の甚平の様なパジャマを着て左腕を固定された妃奈は、眉間に皺を寄せ浅い苦し気な息を繰り返す。
心電図を取る為のコードや点滴が付けられた華奢な躰が痛々しい。
薄暗い路上ではわからなかったが、17歳だというのにガサガサに荒れた肌、鎖骨と肋が浮き出た躰、痩けた頬に落ち窪んだ目…そして顔を覆い隠す程に伸びた、脱色したかの様なボサボサの白髪…。
どうしても、先程迄一緒に食事をしていた、薔薇色の頬で微笑んでいた萌奈美嬢と比べてしまう。
思わず胸で布団を握り締める妃奈の手に触れた途端、枕元の心電図の機械がけたたましい音を立てた。
「…ぅ…」
「妃奈、妃奈!?大丈夫か!?」
その声に反応する様にうっすらと開けられた瞳を覗き込んで、黒澤は少し安堵した声を掛けた。
「大丈夫か、妃奈?」
「……だ……れ…」
微睡みから抜け様と瞳を揺らす妃奈の問い掛けに答え様とした黒澤は、次の瞬間思い切り手を払い退けられた。
その時の妃奈の表情を、黒澤は一生忘れないだろう…。
強張った躰がガクガクと震え、怯え切った暗い瞳に涙が溜まる…と、いきなり黒澤と周囲を見回して起き上がると、痛みに耐えかねて上半身を布団に突っ伏した。
「駄目だ、妃奈…まだ、起き上がらない方が…」
手を貸して寝かせ様とする黒澤を思い切り撥ね付け、妃奈は鋭い敵意のこもった眼差しを投げ付けた。
「触んなッ!!誰だよっ!?」
絶句する黒澤に、妃奈は自分の躰を確認し、忌々しそうに眉を寄せた。
そして、躰に付けられたコードや点滴をむしり取ったのだ。
「駄目だ、妃奈!!」
「お前、誰だっ!?」
「…シュウだ……俺の名前は、黒澤鷲…」
「……」
「…弁護士だ」
「…弁護士?……あぁ…事故の?心配すんなよ…訴えたりなんかしねぇし」
蓮っ葉な言葉を吐きながら、妃奈はしきりに前髪で顔を隠す。
「違う、妃奈…」
「違うって、何?事故った相手の弁護士じゃねぇの?じゃあ…婆ぁの手先か!?」
「…ぇ?」
「全く…最近の弁護士は、死体の確認に来んのかよっ!?御愁傷様だったな!又、棺桶に入り損ねたって、婆ぁに伝えとけよッ!!」
「……」
余りの騒ぎに、看護師が部屋から退室する様に勧告しに来た。
「…君は、何か勘違いしている」
「何が!?」
「今日は興奮している様だ。明日、改めて…落ち着いて話そう」
そう言うと、黒澤は妃奈の枕元に名刺を置いた。
「今日は、ゆっくり休みなさい」
そう言って踵を返した黒澤の背中に、妃奈が声を掛けた。
「…あのさ」
「…」
「ごめん…アンタは、自分の仕事してるだけなんだよな…」
「…いゃ、だから…」
「婆ぁに伝えといてよ」
「ぇ?」
「…心配しなくても、放っといたら直に死体になって転がるってさ…直ぐに…金は手に入るって…」
「……」
「それより義父さんの事、ちゃんと看病してって…婆ぁに言っといて!」
妃奈はそう言うと、ゴロリと横になって布団を被った。
翌日の昼過ぎ、妃奈が病院から逃げ出したと連絡が入った。
「…何やってるんだ、一体…」
骨折も内臓疾患も、心臓の疾患も…薬も食事も儘ならない状況で、どんなに苦しい思いをしているだろう…。
況して、躰を襲われる環境で…昨夜の話では、誰かが妃奈の死を待っているという。
妃奈…お前は、どんな生活を送って来たんだ…。
俺は…お前に、何をしてやれる?
どうやって償えばいい?
新宿署の交通課で事故報告をした後、生活安全課で捜索願いを提出した黒澤は、溜め息を吐いて廊下に出た。
「…黒澤さん、弁護士の黒澤さんですよね?」
グレーのスーツに身を包んだ、長身の女性が黒澤を呼び止めた。
「そうですが…貴女は?」
「昨夜お会い出来る筈だったのですが、急に仕事が入ってしまって…」
「は?」
「失礼しました。少年係の幸村と申します。高橋妃奈の事で、少しお話を伺いたいのですが」
そう言うと、幸村刑事はニッコリと笑った。