(56) 驕慢
聖萌奈美が退室すると、座敷の中は異様な緊張感に満たされた。
部屋の隅から上座に座り直し、憎悪に満ちた眼差しを送って来る嶋祢蝶子。
座敷の反対側の末席からは、熱を帯びた視線を送る黒澤が座っている。
退室する間際、聖萌奈美は妃奈の手を握り優しく囁いた。
「妃奈さん、怖がらずに、言いたい事はちゃんと言わないと駄目よ」
「…奥方様」
「連城さん、ご無沙汰しています。妃奈さんの事、宜しくお願いしますね」
彼女の言葉に、黒澤の横に座る紳士が黙って会釈した。
「妃奈、こちらにいらっしゃるのが嶋祢会長、そのお隣が堂本組長だ。ご挨拶しなさい」
黒澤の言葉に、廊下に座る妃奈は手を着いて頭を下げる。
「…高橋…妃奈と申します」
皆から注がれる視線に躰が震え、顔を上げる事が出来ずにいると、座敷に居た黒澤が妃奈の横に来て並んで座り、正面に向かい手を着いて言った。
「嶋祢会長…以前よりお話しのありました、蝶子さんと私の婚約の件ですが…本日、正式にお断りさせて頂きます」
「何言ってるの、黒澤!?」
「今迄色々と誤解を招く様なお話しがされていた様ですが、本当に申し訳ありません」
「貴方と私の結婚は、もう決まっている事だわ!!今さら撤回なんて、許さないわよ!!」
嶋祢蝶子の言葉に、妃奈の隣からギリッという歯軋りが聞こえる。
「まぁ、落ち着きなさい、蝶子。黒澤…どういう事だ?お前は、蝶子との婚約を正式に受理したとの報告を受けていたが…違うのか?」
「どこからその様な出任せが出たのか、想像が付きますが…私は、最初からこのお話しはお断りさせて頂くと、森田組長にも蝶子さんにも、何度もお伝えしております」
「どういう事だ、堂本?」
「さて…私は最初から、本人の好きにしていいと言ってありますんでね。それは、会長も同じだと伺ってますが?」
「うむ。当人同士で話し合う様にと、言ってはいたが…」
少し顔を上げて前を窺うと、眉を寄せる嶋祢会長に堂本組長が苦笑を返し、視線を感じたのかチラリと妃奈を流し見た。
「以前、嶋祢会長にもお話し致しましたが、蝶子さんとの婚約が取り沙汰される前から、私は隣に居ります高橋妃奈と婚約しておりました。その事は、蝶子さんにも再三再四お話しをさせて頂いております」
「何よ!?その娘は、行方を眩ましていたんじゃない!私達の婚約を知って、逃げ出したって聞いたわ!!そうよね、森田!?」
「…御意」
「それは、森田組長の策略です!妃奈は、森田組長に脅されて…」
「大体…その娘、ホームレスだったそうじゃない?それを、黒澤が拾ってやったんでしょう?それを、何を勘違いしたんだか、弁護士と結婚ですって?笑わせないでよ!!図々しいにも程があるわ!!」
「……申し訳…ありません」
勝ち誇った様な笑い声を上げる嶋祢蝶子に、妃奈は頭を床に擦り付けた。
そうだ…どんな経緯があるにしても、自分がホームレスをしていた事実は…どんな生活を送って来たかという事実は、消しようがない。
「今引き下がるなら、見逃して上げるわ!!さっさと、この家から出て行きなさい!!」
妃奈が廊下から庭に降りようと膝をずらすと、黒澤の手が妃奈の手をガッチリと掴み睨み下ろす。
「必要ない、妃奈!!お前は、ここに居ろ!!」
「……でも…」
「お前は、俺の婚約者だ!!堂々とこの場に居ろ!!」
「……」
「そもそも、お前が俺の元から出て行かざるを得なかったのは、森田組長に脅されたからだろう!?お前の意思ではなかった筈だ!」
「…違います」
「…え?」
「それは、違います」
妃奈の言葉に、黒澤は眉を寄せる。
「…俺の命を片に取られて…脅されたんだろう?」
「……」
「今日ここに来たのも、琥珀と俺の命を片に取られたからだろう!?お前が手首を切って自害しようとしたのも、森田組長に脅されて…」
「何だと!?妃奈!!お前、自害しようとしたのか!?」
上座に座る松浪組長の怒号に、妃奈は逃げ出す様に膝を下げた。
「…申し訳ありません…ですが、誤解です。私は…森田組長から、何も脅されていません」
「何言ってる、妃奈!?」
「…本当に…本当に…あの家を出たのも…手首を切ったのも、私の意思です」
「……妃奈」
低い唸り声を上げ、黒澤は逃げ出そうとする妃奈の手を尚もきつく握り締めた。
「高橋さん」
先程、聖萌奈美と挨拶を交わしていた紳士が、膝をずらして妃奈の方に向き話し掛ける。
「私は、弁護士の連城と言います。今回、松浪忍さんと黒澤さんの依頼で、貴女の代理人として、この場に居ります」
スッキリと背筋を伸ばして座る紳士に、妃奈は頭を下げた。
「…代理人…って…何でしょう?」
「貴女の弁護をする人間だと思って頂いて構いません」
「…弁護…ですか?私は、何も…」
裁判でもないのに、一体何を弁護しようというのだろう?
妃奈が訝しむ視線を送ると、連城という弁護士は片方の唇を少し上げた。
「…成る程。しかし、私の依頼人は貴女ご自身ではありませんので、引続きこの場に参加させて頂きます」
「……」
「貴女は…黒澤さんとの婚姻を、望んでいらっしゃらないのですか?」
連城の質問に、皆の視線が一斉に妃奈に突き刺さる。
「…そ…それは…」
「どうなんです?」
ゴクリと唾を呑み込んで、妃奈は隣の黒澤を見上げる。
この男性と結婚出来るなら…琥珀と3人で、静かに暮らして行けるなら…どんなにか…。
眉間に皺を寄せた黒澤を見上げる妃奈の瞳から、涙が零れ落ちる。
「…諦めるな、妃奈…」
「……」
「素直になれ!思いのままに!!」
妃奈は、ゆるゆると視線を落とすと、廊下に額を擦り付けた。
「……私は…黒澤さんに……幸せになって欲しいだけです…」
「…何よ、それ?」
嶋祢蝶子の馬鹿にした様な声が響き、彼女は上座からズカズカと妃奈の前に進むと、妃奈の躰を庭に蹴り落とした。
「何をするッ!?」
黒澤は嶋祢蝶子に掴み掛かり、庭に控えていた小塚が妃奈に駆け寄り抱き起こす。
「大丈夫か、妃奈ッ!?」
焦る黒澤の隣で、彼に腕を捕まれた嶋祢蝶子がヒステリーを起こした。
「痛いわ!!離しなさいよっ!!」
拳を握り締めた黒澤に佐野がそっと近寄ると、目配せをして嶋祢蝶子の身柄を引き取った。
「馬鹿じゃないの!?この期に及んで、そんな綺麗事、聞きたくないわ!!」
「……」
「だったら、黒澤の為に死んで見せなさいよ!それも出来なかった死に損ないの癖にッ!!」
「この女ッ!!」
手を挙げようとした黒澤に、佐野が嶋祢蝶子を庇い避ける。
「……嶋祢のお嬢様」
庭で小塚に庇われた妃奈は、躰を起こして地面に正座すると、座敷の入口に立つ嶋祢蝶子に呼び掛けた。
「何よ?」
「お嬢様は…幸せにして下さいますか?」
「はぁ?」
「…黒澤さんと結婚したら、お嬢様は、黒澤さんを幸せにして下さいますか?」
「馬鹿ね!黒澤は、私を幸せにする為に結婚するのよ?幸せになるのはこの私であって、黒澤じゃないわ!決まってるじゃないの!!」
「何を勝手な事を!!」
怒り心頭の黒澤に、小塚が頭を振って抑える様に促す。
「……では、黒澤さんの元に引き取って頂く琥珀を……貴女は、可愛がって下さいますか?」
「妃奈!?何て事を!!」
怒りの矛先を妃奈に向け、黒澤が妃奈を睨み付ける。
「琥珀って…確か、貴女の息子の事よね?」
「そうです」
「愚問だわね」
フフンと鼻で笑うと、嶋祢蝶子は腰に手を当てて妃奈を見下した。
「そんなの、速攻施設に預けるか、養子に出すに決まってるじゃないの!!何で、この私が、貴女の息子の面倒なんて見なきゃならないのよ!!」
「……琥珀が…黒澤さんの息子でも…ですか?」
「当たり前でしょう?私、子供って大嫌いなのよ!煩いし、臭いし、手間は掛かるし、我が儘だし!大体、貴女が勝手に産んだんでしょ?人に押し付け様とする位なら、いっその事一緒に死ねばいいのよ!!」
「蝶子!!言い過ぎだ!!」
松浪組長の怒号に、嶋祢蝶子は両手を拡げ肩を竦めて見せる。
「……琥珀も……私と同じ…要らない子供…?」
「違う、妃奈!!琥珀もお前も、俺の宝だ!!決して要らない人間なんかじゃない!!」
黒澤の言葉が、洞窟の奥から聞こえる様に頭の中を反響する。
琥珀は…光りの中を歩んで行けると…信じていたのに…。
それでも、子供の幸せを願うのは…母親の性で…。
「……森田さん…」
「何だ?」
「……もう一度…もう一度、チャンスを頂けませんか?」
「何だと?」
片眉を上げる森田組長に、妃奈は手を合わせ拝む様に懇願した。
「私は…何度も何度も、森田さんとの約束を破って…ご迷惑をお掛けしましたが……今度こそ、今度こそ、目の前から消えてなくなります!!」
「妃奈!?」
「今度こそ、立派に死んで見せます!!ですから…ですから、後生です!黒澤さんと、琥珀を…お願いします!守って下さい!!」
「何バカな事言ってるんだ、お前はっ!?」
妃奈の悲痛な叫びに、黒澤は庭に飛び降りると、思い切り妃奈の頬を張った。
「お前が死んでどうなる!?俺に、幸せになって欲しいと言った…あれは、嘘か!?」
「…お願いします!森田さん!!お願い…後生です!」
「いい加減にしろ、妃奈!!今話すべきは、親父じゃない!!俺だろうが!?」
「約束したんです…森田さんと…貴方を守って下さる様にと…琥珀も…守って下さいと!!だから…」
「お前が居なければ、俺の幸せ等ありえない!!何故わからない!?」
「家族が…」
「お前は家族だ!!」
「違います!!」
「……何…だと?」
眉を寄せる黒澤が、妃奈の両腕を掴んで揺さぶりながら吼える。
「どういう事だ!?琥珀と俺とお前…立派な家族だろう!?」
「…貴方と、琥珀…それに、森田さんは、血の繋がった家族です……けど…私は違う…」
「お前は、琥珀の母親だろうが!?」
「…私は…私は、必要ない…」
「妃奈!!」
「…私は……琥珀の……妨げになる…」
胃の底からせり上がる物に耐え兼ねて、妃奈は黒澤の腕を振りほどくと口元を手で覆った。
ゴボリという音と共に、堪え様もなく指の間から溢れ出す赤黒い吐瀉物に、黒澤と小塚が眼を見張る。
「妃奈!!お前!?」
「高橋さん!?大丈夫ですか!!」
気遣う2人に頭を振って、妃奈は袖口で口を抜い、森田組長を見上げた。
「……森田さん!!」
「…迷惑だ」
「!?」
掌を返した森田組長の答えに、妃奈は悲痛な叫び声を上げた。
吐血しながら絶望した様な声を上げる高橋妃奈を、森田は何とも言えない表情で見詰めていた。
あの娘…病を抱えていたのか…。
黒澤が来た時点で、黒澤には連絡していないと言った高橋妃奈に、まんまと騙されたと腹を立てたが…それだとて想定内の事だった。
想定外だったのは、連城の出現と黒澤の裏切り…そして、嶋祢会長一行のお出ましだ。
今日は厄日か…いや、そうとばかりは言えない。
黒澤が…初めて公の席で、自分を父親だと認めたのだ!
初めて、黒澤の口から『親父』という言葉を聞いた。
高橋妃奈の事で必死になっている黒澤は、気にも止めていない様だったが…。
「彼女の病気の件、ご存じだったんですか?」
連城に尋ねられ、森田は黙って首を振った。
「儂も知らなかった…多分、忍も知らなかったにちげぇねぇ。佐野、おめぇは?」
「…以前、あんまり食わねぇんで尋ねると、胃が張って食えねぇとは言ってましたが…こんな、血を吐く程とは…」
「あら、でも…手間が省けて、良かったじゃない?」
嶋祢蝶子の不用意な発言に、男達の非難の眼差しが注がれる。
この娘は、昔からこうだ…空気を読む事も、人を気遣う事もまるでない。
自分の感情のままに動き、思っている事以上の暴言を撒き散らす。
幼い頃からの悪行を周りが許して来た結果が、40を過ぎても駄々っ子の様な女性を造り上げたのだ。
聖萌奈美の言葉は、的を射る…子供の教育を間違っていたのだろう。
対して、半分の年齢でしかない高橋妃奈は、真逆なのだ。
自分の幸せだけを考える嶋祢蝶子と、相手の幸せだけを考える高橋妃奈…。
確かに前者も迷惑千万だが、後者の様な破滅的な愛情では、黒澤が幸せになるとは到底思えない。
庭では、黒澤が懸命に高橋妃奈を説き伏せ様としているが、彼女は頑として受け入れず、自分が死ぬ事で決着を着けると言って譲らない。
話の流れから、高橋妃奈が黒澤に助けを求めなかったのは、どうやら本当の事の様だ。
然も、森田が彼女を脅した事実を、高橋妃奈はオブラートに包み込み、全て自分の意思だと言ってのけた。
この期に及んでとは、よく言ったものだ…自分が死ぬ事で、黒澤と森田の親子関係を修復させようとでも言うのか?
黒澤の持参した告発文書がある為に、黒澤にも高橋妃奈にも傷を負って貰っては困るのに…迷惑な話だ。
況してや、一介の三次団体の弁護士である黒澤に、二次団体のトップである堂本組長が脅された等という事実を、嶋祢会長に知られる訳には絶対にいかない。
「不謹慎だぞ、蝶子!」
「あら、だって本当の事でしょう、叔父様?このまま放って置いたら、あの娘…遅かれ早かれ死ぬでしょうし、こちらが手を汚さずに済むじゃないの」
松浪組長の言葉に悪びれる事なく答えると、嶋祢蝶子はこの事態を楽しむ様に笑った。
「黒澤さんの気持ちは、はっきりなさっている様ですが…この状況で貴女はまだ、黒澤さんとの婚約を望まれるのですか?」
「当たり前じゃないの!!」
連城の質問に、嶋祢蝶子は胸を張って答える。
「ですが、婚姻されても黒澤さんからの愛情を得られるとは思えませんが?」
「貴方も、愛情信論者なのかしら?」
「そうですね。貴女は違う様ですが?」
「私は、欲しい物を手に入れたいだけよ。単純明解でしょ?」
「成る程…では、貴女が黒澤さんを手に入れたい理由とは何ですか?」
連城の言葉に、嶋祢蝶子は庭先に居る黒澤に視線を移した。
「私の隣に立つに、相応しいと思ったからだわ」
「ほぅ?どんな所が?」
「そうね…今迄私が結婚した男達は、日和見主義の軟弱な男達ばかりだったのよ。彼等は優しかったけれど、唯それだけ…お父様の意向に言いなりになるだけの、情けない男達だったわ。けれど、黒澤は違った…お父様に敬意を払いこそすれ、言いなりになる様な男じゃなかったわ。それに、あの体格と容姿…私の隣に立たせるのに相応しいでしょ?貴方も素敵だけれど、一度は抱かれてみたいと思える男じゃない?」
ルージュを引いた真っ赤な唇が、フフフと笑う。
「それにね…私、自分の店を東京に持ちたいの。自分の足で集めた、気に入った商品を置く、セレクトショップを開く予定なのよ。もう準備も進めてるわ!黒澤の事務所のある、あの土地の物件…立地も、広さも、雰囲気もピッタリなのよ。きっと、私の理想の店になるに違いないわ!!」
「勝手な事を言わないで頂きたい!!私は貴女のペットではないし、未来永劫貴女を抱く事等あり得ない!!それに、あの土地は絶対に貴女の好きな様にはさせないと、何度も申し上げている筈です!!」
庭から座敷に向かって吼える黒澤に、嶋祢蝶子は意に介さない様に振る舞った。
「もう、決まっている事よ」
「いい加減にして頂きたい!!こんな不毛な話し合い等、もう沢山だ!!」
辟易した様な黒澤の叫びに、松浪組長が首を振りながら言った。
「もう、いいだろう…千太郎?話は出尽くした。そろそろ、幕を引いちゃどうだ?」
「…そうだな」
溜め息を吐いた嶋祢会長が、娘に冷たい視線を送る。
「諦めなさい、蝶子」
「お父様?」
「このまま強引に黒澤と結婚したとしても、お前は幸せにはなれない。というか、今さらだが…お前に結婚は向かない様だ」
「何言ってるの、お父様!?あの男も、あの土地も、私の物になるって決まってるのよ!!」
激して立ち上がり、庭先の黒澤を指差しながら、嶋祢蝶子は叫び続ける。
「この私が、決めた事よ!!貴方は、黙って従っていればいいのよ!!」
「…言いなりになる男は、もう沢山だと言いながら、ご自分の言う事には、素直に従えと仰るのですか?」
連城がクスクスと苦笑しながら問い掛けると、嶋祢蝶子は真っ赤になって足下のバッグを掴み、連城に向かって降り下ろした。
「…足癖ばかりでなく、手癖も悪い様だ」
余裕でバッグを受け止めた連城が、呆れた様な笑みを浮かべる。
「煽るんじゃねぇよ、Panther。黒澤!!嶋祢会長から、お許しが出た。お前からも、お礼を申し上げろ」
「お兄様迄、何て事言うの!?」
「しょうがねぇだろ、蝶子?お前の親父が決めた事…お前ごときが、覆せるとでも言うのか?」
「…それは…」
言いたい放題の嶋祢蝶子が、唯一逆らえない相手…それが、父親であり嶋祢会のトップでもある、嶋祢千太郎その人だ。
「…黒澤、嶋祢会長からの温情だ。ありがたくお受けしろ」
堂本組長の言葉に、黒澤は庭先に正座すると、深く頭を下げた。
「ありがとうございます!!嶋祢会長!!」
「代わりにと言っては何だが…お前の持っている土地を、蝶子に渡してやってはくれまいか?この娘も、それで腹の虫を治めるだろう…どうだ?」
「嫌よ、お父様!!」
逆らう嶋祢蝶子に、嶋祢会長が父親としてキツイ眼差しを送って黙らせた時、庭先から黒澤の抑えた声が掛かった。
「…申し訳ありません、嶋祢会長。それは、出来かねます」
「黒澤!?」
森田の怒号と共に、嶋祢会長と堂本組長は眼を見張り、松浪組長と佐野は黙って下を向いた。
「お前…折角、嶋祢会長が折れて下さるって言うのに…そりゃ、ねぇだろ?」
堂本組長の呆れた様な言葉にも、黒澤はたじろぐ事なく背筋を伸ばし、真っ直ぐな視線を嶋祢会長に送る。
「申し訳ありません。ですが…あの土地は、私がどうこう出来る代物ではないのです」
「……どういう事だ?」
「あの土地は、私の土地ではありません」
「はぁ!?」
堂本組長が素頓狂な声を上げる横で、松浪組長が嶋祢会長に小声で耳打ちをする。
「…何!?……そこの娘の土地なのか!?」
「何だと!?…だが…お前…」
俄には信じられないと言った表情を見せる堂本組長が、森田に事の次第を問い詰める様な視線を向けて来るのを、森田は黙って首を振った。
だが…これで合点が行く……黒澤が、あの土地に執着した理由…。
もしも黒澤自身の土地ならば、堂本組長から破格の金額で譲って欲しいと話が持ち上がった時に、あっさり売り渡していた事だろう。
「…あの土地は、妃奈の祖父が彼女に遺した遺産です」
黒澤の隣に座る高橋妃奈が、何か言いたそうに黒澤を見上げるのを、彼は片手で押し留めた。
「だが、お前…事務所を開いて…お前の土地だって噂も…」
「私が土地を相続したという噂が流れた時、敢えて否定しなかったのは…その方が、都合が良かったからです。成人する迄遺産を受け取る事が出来ないという遺言を残された妃奈は、当時まだ行方不明で…親族に命を狙われる危険がありました。彼女の亡くなった祖父から、妃奈の未成年後見人に指名された私は、妃奈を捜索すると同時に、あの土地の管理を任されました。あそこに事務所を構えたのは、土地を管理する為と、いずれ支払う事になる税金対策の為です」
「…成る程…相続税の為に、賃貸契約を結んでいたという事ですね?」
合点がいった様な連城の言葉に、黒澤が頷く。
「何だ…そういう事だったのか……ってか、松浪の親父、ご存知だったんですか?」
「儂も、ついこの間知った所だ。妃奈は、奥多摩で儂の命を救ってくれた恩人だ。身重の躰で、山の中で独り暮らすのを不憫に思って雇い入れたんだが、名前以外の苗字も年齢も、勿論子供の父親の名前も、何も明かさずに生活していた。全てが明らかになったのは、黒澤の所の弁護士が訪ねて来てからだ」
「総資産35億…妃奈は、物凄い資産家ですよ」
ニヤニヤと顎髭を撫でる佐野に、松浪組長が笑いながら言った。
「こんな事なら、さっさと佐野に娶らせとけば良かった…なぁ、佐野?」
黒澤が眉を寄せる姿を、松浪組長が楽しそうに眺めるのを見て、佐野は苦笑しながら黒澤に弁明する。
「何、妃奈が自分の年齢を言わねぇもんで…まさか、未成年だとは思わずに、そんな話が出ただけですよ…」
「…許さないわ…」
上座で立ったまま話を聞いていた嶋祢蝶子は、ツカツカと座敷を出ると廊下で仁王立ちし、庭に正座する黒澤と妃奈を見下ろした。
「皆で寄ってたかって、私の事を馬鹿にして……私が…この私が、こんなホームレス上がりの女に劣ってるって言うの!?然も、実は資産家でしたって!何なのよ、一体!?」
「全くの言いがかりは、止めて頂きたい!貴女を馬鹿にした事実など、ありはしない」
「…婚約は、破棄されたんでしょ!?慰謝料として、あの土地、寄越しなさいよ!!」
「そもそも、私達は婚約すらしていませんし、妃奈を傷付けた慰謝料を頂きたい位なんですが?」
「何なの!?全く!!」
「それに、私の土地ではないと申し上げた筈です!」
怒りに震える嶋祢蝶子は、父親に向かって叫び声を上げた。
「何とかしてよ、お父様!?」
「だが…何とかって言っても、なぁ…千太郎?」
「…う~む」
「仁、そこんとこ…どうなんだ、実際?」
松浪組長の質問に、連城が澄まして答える。
「高橋妃奈さんの土地である以上、この問題に件の土地がやり取りされる必要性は、全くありません」
「…だよなぁ?」
「というか、お話しを伺う限り…この婚約話は一方的なものであり、黒澤さんが慰謝料を払う必要性は全くありませんが?」
「煩いっ!!煩いわよ!」
嶋祢蝶子は、連城に近付きながら手に持ったバッグを投げ捨てると、中から取り出した掌の中に収まる様な小さな拳銃を彼の眉間に突き付けた。
「蝶子!?」
「バカな事は止めろ!!」
父親と松浪組長が叫び、動じない連城の前には、バタフライナイフを構えた聖が躍り出た。
「…退け、聖!」
「申し訳ありません、堂本組長…私は連城さんに、一方ならぬ恩義がございます。この方を死なせる訳には参りません!!」
聖の行動に溜め息を吐き、堂本組長は嶋祢蝶子に語り掛ける。
「落ち着け、蝶子。お前、この男に拳銃なんか突き付けたら、一生ブタ箱に入れられるぞ?」
「煩いわよ!誰もかれも…皆で私の事馬鹿にしてるんでしょ!?」
「誰も、馬鹿にしてねぇだろ?」
「いいえ、貴女は馬鹿です…嶋祢蝶子さん」
拳銃を突き付けられた男は、低いバリトンの声を響かせる。
「自覚しなさい!貴女は、何もわかっていない」
「…何…よ…何よ?!私は…私は、幸せになりたかっただけだわ!!何がいけなかったっていうのよ!?」
嶋祢蝶子の叫びに、男達は一様に眉を潜めた。
「虚勢を張り、自分の気持ちばかりを押し付けて、他人を思い遣る事の出来ない貴女に、誰が幸せを与えてくれるというのですか?」
「だって…だって、誰も…私の事なんか見てくれない!!嶋祢会長の娘としてしか、私の事を見てくれないじゃない!?」
「…蝶子」
「お兄様が悪いのよ!?お兄様が、私の事を見てくれなかったからっ!?」
「お前…今さらそんな昔の事を持ち出しても、仕方ねぇだろ!?」
堂本組長の辟易した顔に、嶋祢蝶子は泣きながら連城に向けていた拳銃をゆっくりと下ろした。
ナイフを構えていた聖も、嶋祢会長も松浪組長も、ホッとして肩の力を抜く中、嶋祢蝶子はフラフラと廊下から庭に降りると、今度は妃奈に銃口を向けた。
「…やっぱり、貴女…許せないわ…」
「止めて下さい、蝶子さん!!」
逃げ様としない妃奈を庇い、黒澤が銃口の前に身を曝す。
「…何で…こんな女に、私が負けなきゃいけないの?それに、佐野と結婚話があったって…何なのよ、一体!?」
「止めなさい、蝶子!!」
「佐野はねぇ…佐野は、一生私に尽くすと誓ってくれた男よ?!何があったって、私が望んだら傍に来てくれるって誓ったの!!…なのに何故、私から取り上げ様としてるのよ!?」
化粧が落ちるのも気にせずに、グチャグチャに泣きながら、嶋祢蝶子は拳銃の安全装置を外した。
「…お嬢さん、蝶子お嬢さん…自分は、ここに居ります。自分は、蝶子お嬢さんの元に居りますぜ!?」
佐野の声を聞いても、嶋祢蝶子はブツブツと口の中で何やら呟き、黒澤はクルリと銃口から背を向けて、背後の高橋妃奈を抱き締めた。
あぁ…やはり今日は厄日だ…。
庭に乾いた破裂音が響くと、硝煙の匂いが漂い、撃った反動で嶋祢蝶子の手から拳銃が落ちる。
その銃を拾う聖と交差して、佐野が上着を脱いで嶋祢蝶子に着せると、彼女の肩を抱き座敷へ連れ戻した。
「…シュウ?…シュウ!?」
呻き声を漏らす黒澤の懐の中で、高橋妃奈の呼び掛ける声がする。
「……大丈夫だ……大した事は…ない…」
「所長!?」
「シュウ!!嫌だっ!!シュウッ!!シュウッ!!」
半狂乱になって叫ぶ高橋妃奈が、再びゴボリという音と共に吐血する。
「チッ…森田!!」
堂本組長の舌打ちと呼び掛けに、森田は遠巻きにしていた構成員や女中達に命令を下した。
「爆竹を鳴らせ!!宴会の用意だ!急げッ!!」
やがて、庭のあちらこちらで爆竹が鳴り響く。
これで、先程の発砲音が外で聞かれていたとしても、言い訳か立つ。
爆竹は、宴会の余興…当局への言い訳だが、これが案外罷り通る。
但し、死人が出なければの話だ。
嶋祢会長一行は、浅草の松浪組長宅に向かう為に、速やかに裏の車寄せに誘導させた。
庭では、踞る黒澤と高橋妃奈に付き添う小塚に、裏口から呼ばれた高橋福助医師が事情を聞いている。
「福助、どうだ?黒澤さんの容態は!?」
心配そうに見守る聖の問いに、福助医師が眉を寄せる。
「今日は、何なんだ!?一体どうなってるんだ、聖!?」
「わりぃな、福助…色々あってな」
怒りを表す福助医師に、堂本組長が謝罪する。
「…黒澤さんの怪我は…ウチで何とかなる程度の物ですがね。こっちのお嬢さんの方は、到底無理ですよ」
黒澤に縋り付き泣き叫ぶ高橋妃奈に、福助医師はガーゼに染み込ませた薬を嗅がせて気を失わせた。
「これ以上血を吐かれたら、本当にヤバそうだ。潰瘍だか何だか知らねぇが…聞いてねぇぞ!」
「申し訳ありません。誰も知らなかった様で…」
「何にしろ、さっさと黒澤さんを運んでくれ!!そっちの娘は、とっとと鷹栖総合病院に運ぶんだな」
担架を持って来た構成員が黒澤の躰を手際良く乗せ高橋医院に運ぶのを見送ると、小塚は携帯電話を取り出した。
「待て、黒澤の秘書!!」
堂本組長が、携帯を持つ小塚の手首を捕まえる。
「どこに掛ける?」
「事務所の仲間の所です」
「…黒澤が持参した、告発文書の事は…知っているな?」
「勿論です」
「今回の事は、不可抗力だ。堂本組としては、黒澤の言い分を受け入れる積もりだった」
「わかっています。だからこそ、電話を掛けさせて下さい」
「何を言う積もりだ?」
「ここでの会話は、全て外部で録音しています。しかし、所長が撃れた状況迄はわからない…ウチの事務所の者が、早まって手紙を投函しない様に止めなくてはなりません!!」
小塚の言葉に、堂本組長は手を離した。
「あの書類をどうするのかは…所長の判断を仰ぎたいと思います」
「…そうか」
そう言うと、堂本組長は聖と共に屋敷に入って行った。
「貴方は、どうされます?」
いつの間にか庭に出て来た連城が、電話を掛け様とする小塚に声を掛けた。
「私は、所長に付き添います」
「ならば彼女は、私が鷹栖総合病院に連れて行きましょう」
「ぇ?…しかし…」
「私は、高橋妃奈さんの代理人です。それに、彼女の主治医は私の知人ですので…ご安心下さい」
小塚は安心した表情を浮かべると、宜しくお願いしますと頭を下げて、電話を掛けながら高橋医院に駆けて行った。
連城が高橋妃奈を抱き上げて、森田に会釈して出て行くと、様子を見ていた構成員達が庭の血溜まりに土を掛けて消して行く。
そして、いつもの日常と変わらない風景が戻り…森田は、一頻り大きな溜め息を吐いた。




