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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
53/80

(53) 追想

黒塗りのリムジンが到着し、後部座席の扉が開けられた途端、大きな声が掛けられる。

(ぼん)、お疲れ様でした!」

「お帰ぇりなせぇやしっ、(ぼん)!!」

「お帰ぇりなせぇやしっ!!」

恭しく頭を下げる男達に辟易(へきえき)した表情を浮かべた少年は、男達の間を()って屋敷の中に駆けて行く。

「陽子ッ、陽子ォ!!今、帰ったぁ!!」

少年の声に、屋敷の奥から愛嬌のある笑顔を浮かべた身重の女性が、廊下に出迎えた。

「お帰りなさいまし、坊っちゃん。学校は、如何でした?」

「つまんねぇ、あんな所!ねぇ、おやつは?」

「あらあら、困りましたねぇ…でも先ずは、旦那様と奥様にご挨拶ですよ。おやつは、それからです」

「…わかってる」

素直に聞き分けた少年は、障子の外に控える大柄な男を睨み付け、歯を剥き出して顔をしかめた。

「お前は付いてくんな、森田!」

敵意を表された男は、そんな子供の恫喝(どうかつ)を物ともせず、無表情で少年の後を追う。

男の名は、森田樹(もりた いつき)という。

大学を卒業して直ぐに組に入り、めきめきと頭角(とうかく)を表したらしい。

一昨年、少年の父親である組長から、世話役兼教育係になると紹介された時から、少年はこの男が気に入らなかった。

「ただいま帰りましたぁ」

「おぅ、帰ったか清和!ちゃんと勉強して来たか?」

座敷に(そろ)う両親に頭を下げると、着流し姿の少年の父親は、ニヤニヤとからかう様に一人息子に尋ねた。

「つまんねぇよ、あんな学校…」

「何言ってるの、清和!?あの学校に編入させるのに、どれだけ苦労したと思ってるの!」

「だってよぉ…先公は(うる)せぇし、クラスの奴等は、俺の事遠巻きに見て、悪口ばっかで…」

「お前がそんな言葉使いだから、先生方にお小言を言われるのよ?」

「だって…」

「あなたの言葉使いを真似るからだと、前から言ってるのに…」

妻の小言を笑っていなすと、父親は息子に言って聞かせた。

「清和、新しい集団に入るとな、誰がボスに相応しいか、皆戦々恐々(せんせんきょうきょう)なんだ。元からの知り合いは、皆(つる)んで様子を見てやがる。負けんじゃねぇぞ、清和!!」

「…わかってるって!それより、父さん!今日こそは、遊びに行ってもいいんだろ?」

少年の訴えに父親は眉を寄せ、後ろに控える森田を睨み付けた。

「森田、清和に言ってねぇのか?」

「申し訳ありません」

「先週からずっとだ!森田に聞いても、ダメだって言うばっかりだ!」

「ダメなものは、ダメだ!!」

「何でだよっ!?学校迄車で迎えに来るわ、学校の外でずっと森田に見張られてるわ…息が詰まる!!」

()(まま)言ってんじゃねぇぞ、清和!!」

「だって…」

「黙れ!部屋に籠ってろ!!」

父親の恫喝(どうかつ)に、少年は涙を浮かべて廊下に走り出る。

後を追おうとした森田を、堂本組長が呼び止めた。

「学校の方に、妙な奴等は居なかったか?」

「はい、今日の所は…」

「全く…佐久間の代替わりで、やっとあすことの小競り合いに一区切り着いたと思ったら、やれ面白くないのと言って来る()(まま)な身内や、新しく新宿で名を上げてぇ組がちょっかいを出して来るわ、周りが(うるさ)くて仕方ねぇ!!清和の気持ちもわかるが、家族を脅す様な手紙迄投げ込まれちゃなぁ…」

「清和は、堂本の大切な跡取りです!何かあってからでは、遅いじゃありませんか!」

「だから、森田を清和に張り付かせてんだろ?」

「森田、呉々(くれぐれ)も頼みますよ」

御意(ぎょい)

堂本夫人の言葉に、森田は深々と頭を下げる。

「済まねぇな。毎日の事で、お前ぇも大変だろう?」

「いえ…仕事ですから」

「あの()(まま)坊主にゃ、手を焼くだろうが…(わし)もかかぁも、年を取ってようやく出来た一粒種だ。まぁ、こらえてやってくれ」

「組長からのご恩を思えば、何程の事はありません」

少し口元を緩める森田に、堂本夫人が優しい声を掛けた。

「陽子も、来月には産み月…清和の()(まま)で、ぎりぎり迄働かせて申し訳ないわね」

「体調は?大丈夫なのか?」

「お陰様で」

「お前達、本当に祝言(しゅうげん)()げなくていいのか?」

「来月には、2人で籍を入れに行く予定です。私達には、それで十分です」

「まぁ、お前は陽子を追ってこの世界に入った奴だし、陽子はお前にベタ惚れだしな…本人達が良ければ、構わねぇんだが…ウチのかかぁが、気にしててな…」

「当たり前ですよ!女にとって結婚というのは、特別な物…高校卒業を待たずにウチに来た陽子にとって、森田への想いだけが、生きる(よすが)だったんですからね!?」

「……」

「大事にしてやるんですよ」

「肝に命じて…」

森田は再び、深々と頭を下げた。



おやつに出されたカステラを頬張りながら、少年は陽子の迫り出した腹をまじまじと見詰めていた。

仲村陽子(なかむら ようこ)は、忙しい母親に代わり、物心付いた頃からずっと少年の世話をしてきた女中だ。

美人という程ではないが、笑うと大きな八重歯に愛嬌があり、その明るい性格と共に少年のお気に入りだった。

一緒に風呂に入っていた陽子の腹が迫り出して来た時、流石(さすが)の少年も腹に赤ん坊が宿っていると理解した。

誰の子供だと問い詰めると、陽子は頬を染めて、自分の世話役の森田だと白状した。

その事が、少年が森田を嫌う決定的な要因になったのは、言う迄もない。

無口で強面(こわもて)、家庭教師も務める森田は礼儀にも厳しく、少年がどれだけ楯突こうとびくともしない。

「なぁ、陽子…本当に、辞めちまうのか?」

「そうですねぇ…来月には、赤ちゃんが生まれますからねぇ〜」

紅茶を淹れながら、陽子は少年に微笑み掛けた。

「辞めなくったっていいじゃん!?」

「…坊っちゃん」

「赤ん坊産むんだって、この家で産めばいいだろ!?」

「……」

「その後も、ここで育てりゃいいじゃん!!俺の部屋、陽子と赤ん坊と3人で使えばいいだろ!?」

「坊っちゃん、無理ですよ。陽子は、赤ちゃんの事で手一杯で、こちらのお宅の仕事が出来ませんし」

「無理じゃねぇよ!!俺、赤ん坊の面倒だって見るし、今迄みたいに、陽子に迷惑掛けねぇよ!だから、辞めるなんて言うなよ!!」

そう言って腹に抱き付くと、陽子は少年の少し長めの髪を優しく撫でた。

「お優しい事を…」

「…俺…陽子の事、一等好きだ!」

「あら、嬉しい!」

「本当だぞ!森田なんかより、俺の方が陽子の事好きなんだからな!!」

「困りましたねぇ…」

「…森田の事…好きなのか?」

「えぇ」

「俺より…も?」

「比べられませんよ」

そう言って、陽子はコロコロと笑う。

「何でだよ!?」

「…以前ね…陽子の家は、小さな工務店をしていたと、お話ししましたでしょう?」

「聞いた。家建てたり、ビル建てたりする会社だろ?」

「陽子の父は、工務店を経営していました。そして、森田さんのお父さんは、ウチの棟梁(とうりょう)だったんです」

棟梁(とうりょう)って何だ?」

「大工の一番偉い方です。ですからね…私達は、昔から良く知っていて…幼馴染みなんです」

「陽子ん家の会社って、潰れたんだろ?」

「…不良建材を掴まされて…借金で首が回らなくなって…。旦那様が経営する金融会社から借金をして…そのお世話で、陽子は新宿で働かせて頂いていたんです。けど…何せ、陽子は器量がもうひとつですからね。旦那様が、お屋敷に引き取って下さったんですよ」

「ふぅ〜ん」

陽子の膝枕で頬を膨らます少年を優しく撫でながら、陽子は思い出話を続けた。

「いっちゃん…森田さんは、昔から凄く賢くて…いっつもドジな私の事、心配してくれて……良い大学を出て、大企業にだって就職出来たのに…私の事を心配して、こちらへの就職を決められたんですよ」

「…よく、わかんねぇや」

「そうですね。坊っちゃんにも、いずれ素敵な方が現れますよ」

「陽子にとって、森田が素敵な人なのか?」

「えぇ!!とても、素敵な人です!」

「…ふぅ~ん。やっぱり、わかんねぇや。森田って、いっつも怖い顔してるし…全然優しくなんてねぇしぃ!」

少年が膝枕から顔を上げて頬を膨らますと、陽子はクスクスと笑いながら膨らんだ頬を突っついた。

「可愛い顔が、台無しですよ?」

「可愛いって言うなよ!!」

「でも、とても綺麗で可愛いですよ?陽子は、うらやましいです」

「こんな、女みてぇな顔…大嫌いだ!」

「陽子は、大好きですよ。坊っちゃんのお顔」

スリスリと両頬を挟み込む様に撫でられると、その気持ちよさに少年の顔も綻む。

「…失礼致します」

そう言って障子を開け、森田が一礼して部屋に入って来た。

「外に行ける様になったのか?」

「いえ、部屋で大人しく過ごす様にとのご命令です」

「何だよ!俺の気持ちを父さんに聞いて貰うのが、お前の仕事だろ!?」

「それは違います、(ぼん)

「何でだよ!」

「私の仕事は、組長の意向を坊に納得させ、堂本組の跡継ぎとして、分別ある大人になる様に(ぼん)を教育する事ですから」

「…つまんねぇ奴!」

如何様(いかよう)に仰られても結構です。しかし、組長の命令は絶対ですので…」

「お前の言う事なんか、聞いてやるもんか!」

「組長のご命令です、(ぼん)

「お前なんか、大嫌いだ!!」

少年は再び陽子の膝に顔を埋め、森田と陽子は顔を見合せて溜め息を吐いた。



「居たか!?」

「こっちには、いらっしゃいません!!」

「捜せっ!!何としてでも、捜し出すんだ!!」

叫ぶ堂本組長の前には、殴られ血塗れになって土下座する少年と、仏頂面の青年が庭先に並んで座らされていた。

「どういう事なのか、ちゃんと説明しろ!!」

堂本組長の恫喝(どうかつ)を聞きながら、森田は(ほぞ)を噛む思いだった。

(ぼん)が森田に怒りを(あらわ)にした為に、陽子に後を任せて席を外した。

丁度その時来客中だった堂本組長から呼ばれ、外国からの客の通訳をする為に、森田は組長と共に客間に居たのだ。

陽子はしばらく(ぼん)(なだ)めていたが、夕食の支度の為に席を立たねばならず、部屋の前を通り掛かった三上に、(ぼん)と一緒に居てやって欲しいと頼んだらしい。

三上は堂本組長の親戚筋に当たる青年で、陽子は安心して任せられると判断したのだろう。

「俺は、ちゃんとあの女中に頼まれて面倒見てたさ!だけど、俺だって忙しいんだ!子守りなんて誰でも出来る仕事だから、コイツに任せただけだ!!」

目の下に出来たアザを擦りつつ、三上は組長に不満をぶつけた。

「大体、子守りは森田の仕事だろ!?お前、仕事サボって何してたんだ!?」

「森田は、(わし)と一緒に客の相手をしてた」

「何だって!?何で…何で伯父貴(おじき)は、そうやって森田ばっかり…」

三上は、組長が同じ年頃で何の後ろ楯もない森田を可愛がる事に、以前から不満を抱いていた。

組内に派閥(はばつ)を作り、何かと森田の足を引っ張ろうとしているが、組長は組内での余計な争いは好まず、()して派閥(はばつ)を作る事も良しとしていなかった。

いざという時に一枚岩でなければ、いつ寝首を()かれるかわからない…極道(ごくどう)とは、そういう世界だからだ。

「森田は、(わし)の所に来た香港からの客人の通訳をしてた!てめぇに、そんな芸当が出来るのか!?えっ!?三上!!」

「……」

「甘えんのも、大概(たいがい)にしやがれ!!さっさと、清和を捜しに行け!」

「…伯父貴(おじき)…俺は…」

「言って置くがな…清和にもしもの事があったら、エンコ詰めさせるだけじゃ済まねぇぞ!」

伯父貴(おじき)!?」

「行けっ!!」

組長の言葉に、三上は震え上がりながら走り去る。

残された血塗れで転がる少年に、森田は近付いて膝を折った。

「…滝、話せるか?」

「……森田…さん…」

まだ子供の様なこの滝という少年は、今年中学の卒業を待たずして組に入って来た。

本人(いわ)く、自分は勉強も嫌いで(ほとん)ど不登校だった。

このまま卒業しても、まともな学校にも職業にも就ける訳がない。

それよりも何よりも、今迄自分をバカにして来た連中を見返して、強い男になりたいのだと言っていた。

しかし事務所の仕事には全く役に立たず、吃音(きつおん)も激しい滝は、組の者達のいい憂さ晴らしの対象になっていた。

どうやら不得手(ふえて)なのは学業ばかりではなく、コミュニケーションのスキルもかなり低いと思われる。

見かねた森田が、組長と奥を取り仕切る女中頭(じょちゅうがしら)に相談し、屋敷の下働きとして働かせていた。

「何があったか、包み隠さず話しやがれ!」

「ぁ…おっ…オレ…オレ…」

組長の恫喝(どうかつ)に震え上がり萎縮(いしゅく)する滝に、森田が再び落ち着いた声を掛ける。

「ゆっくりでいい、滝。落ち着いて、何があったか話をするんだ」

「…森田さん」

「大丈夫だ。話せるな?」

(さと)される様に頭に手を置かれると、滝はコクリと頷いて居住まいを正した。

「…みっ…みみ…三上さんに言われて…ぼっ…ぼぼ(ぼん)の…相手を…しっ…しろって…言われて…」

「それで?何をしていた?」

「おっ…オレが…ざっ…ざざ座敷に上がる訳に行かないって……そっ…そしたら(ぼん)が…かっ…かか隠れんぼしようって……お前が…鬼だって…」

「……それで清和は、お前を()いて出て行ったんだな!?」

「ももも…申し訳ありませんっ!!」

「もういい!!…森田、そいつを奥に連れて行け!」

御意(ぎょい)…手当ての後、共に捜索に向かいます」

「…死ぬ気で捜し出して来いっ!…(わし)は、かかぁの様子を見て来る…」

坊の姿が屋敷から消えたと聞いてから、堂本夫人は仏間に籠って一人息子の無事を願い、一心に先祖に手を合わせているという。

如何に極道(ごくどう)(あね)といえど、我子を案じる母親に代わりはないのだ。

そしてそれは、心を尽くして世話をして来た陽子も同じ事だった。

滝と共に奥に向かい、女中に滝の手当てを頼むと、森田は小走りで(ぼん)の部屋に向かった。

「…いっちゃん、いっちゃん…どうしよう…」

涙に暮れた陽子の手を取ると、森田は声を抑えて陽子を(さと)した。

「陽子、陽子…落ち着け、躰に(さわ)る」

「坊っちゃんは?まだ、見付からないんでしょう!?」

「…大丈夫だ。皆が懸命に捜している」

「私のせいだわ!私が、いっちゃんに頼まれたのに!私が坊っちゃんに付いてれば、こんな事にならなかったのに!!」

「大丈夫だ、陽子…落ち着いて…」

両腕の中に泣き濡れる陽子を収め、森田はそっと陽子の背を擦ってやった。

幼い頃からドジで泣き虫で、それでも屈託(くったく)のない笑顔を向け追い駆けて来る陽子から、目が離せなかった。

父親の勤める工務店が、不良建材を掴まされて倒産したという知らせと、森田の両親が自殺を図ったという知らせが、大学の下宿先に届いたのは同時だった。

父親の遺書には、自分の紹介した業者の為に、陽子の父親に多大な迷惑を掛けてしまったと書かれてあった。

両親の葬儀に現れた陽子の両親の沈痛な表情、泣き()らした顔をした陽子の顔…。

やがて、借金の為に陽子が身売りをしたと聞いた森田は、大学を卒業したその足で堂本組の門を叩いた。

高学歴の素人(しろうと)の青年が、いきなり組の門を叩いた度胸と、その後の働きを認めた堂本組長に気に入られ、森田は(ぼん)の世話役を仰せつかり、陽子との事も特別に認めて貰ったのだ。

堂本組長の恩義の為にも、何としてでも(ぼん)を探し出さなければ…。



下働きの滝を(だま)くらかし、息の詰まりそうな屋敷を抜け出した少年は、当てもなく新宿の街を歩いていた。

今頃は、自分が居なくなった事がバレて、大騒ぎになっている事だろう。

森田の鼻を明かしてやったと思うと、自然に足取りも軽くなる…ざまぁみろだ!

だからといって、少年に(つる)む様な友達が居る訳ではない。

普段、学校以外で同じ年頃の子供と交わる事が少ない少年は、公園や繁華街のゲームセンター等を覗き、溜め息を吐いた。

つい先日少年が転校した有名私立学校の生徒が、新宿の繁華街等で遊ぶという事は無いに等しい。

大概(たいがい)学校で約束しあい、誰かの家に行って遊ぶ事が多いからだ。

意気(いき)揚々(ようよう)と歩いていた少年の足取りは、だんだんと重くなって来た。

今頃、父さんは怒っているだろう…それに、母さんや陽子は心配しているに違いない。

陽が傾き掛け、繁華街が夜の顔を見せ始める頃、少年はトボトボと帰宅の途についた。

百人町に入り見馴れた町並みにホッとした少年の耳に、切羽詰まった声が掛かり、少年はギョッとして立ち(すく)んだ。

「坊っちゃん!?危ないッ!」

大きな腹をものともせずに駆け寄る陽子と少年の間に、シルバーグレイのバンが滑り込む。

驚く少年の目の前で開いたバンのドアから出て来た男が、片手で口を押さえ付け少年を抱え上げると、バンの中に押し込んだ。

「坊っちゃん!!坊っちゃん!!貴方達、いったい何を!?」

陽子の叫び声や男女のもつれ合う様な声がしばらく続き、急にバンの反対側のドアが開く。

「入れ!!」

男の命令する声と共に、陽子がバンに乗り込んで来た。

「陽子!?」

「ご無事ですか、坊っちゃん!?」

陽子は少年の躰を抱き締めると、緊張しながらもホッとした笑顔を見せた。

陽子の後から男が乗り込み、ガラガラとバンのドアを閉めると、車は急発進で走り出した。



「……ちゃん、坊っちゃん…」

陽子の声に重い(まぶた)を開けると、少年は(うめ)き声と共に不満を口にした。

「…つぅ…!?陽子!?どこだよ、ココ?」

陽子の膝枕から起き上がった少年は、冷たい剥き出しのコンクリート壁に囲まれた部屋を見渡した。

「わかりません。どこかの、工場跡みたいです」

「誰なんだ、アイツ等!?」

「…わからないんです。申し訳ありません」

白い顔をして申し訳なさそうに頭を下げる陽子に、少年はバツが悪そうに首を振った。

元はと言えば、少年が父親の言う事を聞かず、勝手に家を飛び出した事が原因なのだ。

少年の父親の職業を考えれば、こういう事も当然考えられる…その為に付き人や世話役が付けられているというのに…。

「…ごめん…陽子…」

「そんな!坊っちゃん…」

「……ごめん…」

「いいんですよ、そんな事。陽子が、ちゃんと坊っちゃんに付いてさえいれば、こんな事にならなかったんです…」

「でも…」

「坊っちゃんが外で遊びたいと思うのは、子供なら当然な事なんですから」

「……」

涙を滲ませて項垂(うなだ)れる少年を、陽子は優しく抱き寄せた。

「でも、旦那様と奥様には、きちんとお()びしなければなりませんよ。きっと、死ぬ程心配なさってますからね」

「…わかってる」

「いっちゃん…森田さんにも、ちゃんと謝れますか?」

「……」

「組の方々も、本当に坊っちゃんの事を心配して、ずっと捜し廻っていたんですよ」

「……わかってる」

口を尖らせて外方(そっぽ)を向く少年に、陽子は優しく微笑み掛けた。

「大丈夫ですよ。もうじき森田さんが迎えに来てくれます」

「え?」

「少し前に男達が、事務所みたいな所からお屋敷に電話していました。森田さんと、旦那様に話をしていましたから」

「…森田が…迎えに来るのか?」

「えぇ、そう言ってました」

森田の言い付けを守らなかった為に、自分ばかりか陽子に迄危険な目に合わせてしまった。

森田は、いつにも増して怒っているに違いない…少年が苦虫を噛み潰した様な顔をして俯いた時、コンクリートの部屋にある唯一の扉が、叫び声の様な軋む音を響かせて開いた。

「…出ろ」

顔を覗かせた男に顎をしゃくられながらせかされ、部屋と同じ様なコンクリートが剥き出しの廊下を進んだ先の広い柱だらけの空間に、数人の男達が(たむろ)っていた。

「もうすぐ、お前の父親の使いがやって来る。それまで、大人しく待っていて貰おう」

パイプ椅子に座って煙草の煙を吐く男に、少年は恐ろしさより怒りが沸き上がり、無謀(むぼう)にも男達に向かって悪態(あくたい)を吐いた。

「お前達、誰だよ!?こんな事して、ただで済むと思ってんのか!?」

流石(さすが)に堂本のガキだ。ちっこいが威勢がいいな」

「お前等なんか怖くねぇよ!!さっさと、俺達を離しやがれ!」

「そういう訳にはいかないんだよ、坊っちゃん。俺達は、お前の父親に用事があるんでね」

「父さんの事なんて知らねぇし、関係ねぇよ!!」

大人相手に()(まく)る少年に、男の1人が眉を寄せて手を上げ様とすると、隣に立つ陽子が少年を庇い、バシンという音と共に少年の目の前に倒れた。

「何すんだよ!陽子、大丈夫か!?」

「…大丈夫です…何て事ありません」

「くっそ…お前らぁっ!!」

立ち向かおうとする少年を再び陽子が自分の躰で覆い被さる様に庇うと、男達が両側から陽子の躰に殴る蹴るの暴行を加えた。

「止めろよっ!!陽子、いいから放せ!じゃないと、陽子がっ!陽子がっ!」

躰の下で少年が叫んでも、男達の暴行は止まず、陽子も又少年をがっちりと抱いて離さない。

とうとう少年は、半泣きになって男達に許しを乞うた。

「最初からそうやって大人しくしてりゃ、誰も痛い目に()わないんですよ、坊っちゃん?」

躰の上で(うめ)き声を上げる陽子を気遣いながら、少年は大人との圧倒的な力の差に(ほぞ)を噛んだ。

自分の立場上、周囲の大人は常に自分を守ろうと立ち回る。

子供であっても自分の軽卒な行動は、常に廻りに居る大人に迷惑を掛ける…自分の大切な者を傷付ける。

少年は、悔し涙で濡れた目で男達を睨み付けた。

コイツ等の顔…絶対に忘れない!!

絶対に、絶対に…。

ニヤニヤと少年を見下ろしていた男達の顔が、カツン、カツンと近付いて来る靴音に強ばった。

靴音の主は、何も言わずドスンと重そうなスーツケースを下に落とすと、パイプ椅子に座っている男に向かって地の底から響く様な不機嫌な声を掛けた。

「…人質に危害を加えないという約束じゃなかったか?」

「ちょっと、坊っちゃんにお仕置きをしようとしたんですがね…まぁ付き添いの女が全て引き受けたんで、約束通り坊っちゃんに傷は付けていませんよ」

「…(ぼん)、ご無事ですか?」

森田の問い掛けに、少年はヒステリックな叫び声を上げる。

「俺は平気だ!でもコイツ等、陽子の事メチャクチャにした!」

少年は陽子を抱き起こし、白い顔をして脂汗を流しながらも微笑む陽子を気遣った。

「……大丈夫か、陽子?」

森田の言葉に、陽子は黙って頷き微笑み返す。

「そろそろ、取引と行きましょうか?」

パイプ椅子に座る男の言葉に、森田は足元のスーツケースを男に蹴って滑らせた。

仲間の男が透かさずスーツケースを開けると、少年が見た事もない様な量の札束がギッシリと詰まっている。

男達が頷き合いスーツケースを閉じると、パイプ椅子に座っていた男は立ち上がり森田に向かって手を差し出した。

「では、もう一つのブツも頂きましょうかね?」

森田は内ポケットから封筒を取り出すと、男を睨み付け怒号(どごう)を吐く。

「こんな物…何の役にも立たない!!」

「そんな事は、ありませんよ。歌舞伎町一帯でヤクを(さば)く権利を譲渡(じょうと)するという書き付け…(しか)も、嶋祢会の本部長、堂本組長直筆の書き付けだ。その名前が十分モノをいう」

「お前達、こんな事をして無事で済むと思っているのか?お前達も、その背後にある組も…」

「当然、勝算があるからに決まっているでしょう?ご(たく)はもう沢山だ。おい!」

男の呼び掛けに、少年の後ろに立っていた手下が森田に近付き、手に持っていた封筒を奪い取る。

「では、お約束通り人質は解放しますよ。我々が出た後に、好きにお帰り下さい。唯…後を付けようなんて馬鹿な考えは、起こさない事です。それよりも、その女を病院に運んでやった方が良さそうだ」

「何っ!?」

目を剥く森田の視線の先には、(あえ)ぐ様な息をする陽子が…そのスカートの裾が、まるで粗相(そそう)をした様に濡れている。

「陽子っ!」

走り寄る森田とすれ違い様に、男は鼻でフッと笑い、スーツケースを抱えた手下を連れ廃墟から去って行った。



無事に帰宅した事を喜ぶ家族や女中達、組員達の顔を、少年はまともに見る事が出来なかった。

意気消沈する少年に、父親は取引の事は心配するなと豪気(ごうき)に笑い、母親にちゃんと謝る様にとだけ声を掛けた。

母親は少年の顔を見るなり、その頬に強烈な平手打(ひらてう)ちを食らわせ、少年の躰が(きし)む程の力で抱き締めると声を上げて泣いた。

夜半、屋敷の奥の座敷に森田と陽子が帰って来たという女中達の囁きに、少年は居ても立っても居られずに廊下を走った。

陽子が帰って来た…陽子が、陽子が!!

しかし…その部屋から微かに香る線香の香りに、少年の躰は縮み上がった。

そっと障子を開けたその先に、少年が見た物…それは、白い布を顔に被され布団に横たわる陽子の姿だった。

そして少年は、生まれて初めて大人の男が悲しみに泣く姿を見たのだ。

産着を着せられた赤ん坊を抱き締め、歯を食い縛り声を殺して泣く森田の姿を…。

その日から、少年は急激な成長を遂げる。

勉学や運動に加え、堂本組の跡目(あとめ)を継ぐ自覚も芽生えた。

組内の事、嶋祢会との関係、堂本組が治める新宿界隈(かいわい)の事、そして治める配下の組の事…。

教えを乞うのは父親ではなく、全て教育係である森田からだった。

我が身を守る術も、心構えも、何事もなかったかの様に少年に寄り添う森田から、全て学び取って来たのだった。


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