(52) 黒澤の覚悟
萌奈美嬢が栞と琥珀を伴い、高橋病院の待合室に到着した時、妃奈は既に傷の縫合を終えて病室に寝かされていた。
「坊っちゃん、妃奈さんの様子は!?」
「大丈夫だ…一応はな」
「どういう事ですか?」
萌奈美嬢の質問に、黒澤は渋い表情を浮かべて答えた。
「出血量が多かった事もあるのですが、妃奈はこれ迄も度々大きな出血をして来た為か、酷い貧血でヘモグロビンの数値も低いそうです。…精神的に脆い所もあるので、以前入院していた総合病院に転院させて頂こうと、今手続きをお願いしている所です。栞、済まないが、このまま琥珀を松浪組に連れて行ってくれ。松浪の奥方には、話を通してある。しばらく琥珀を匿って頂けるそうだ」
「病院へは?」
「小塚が、もうじきここに来る」
栞の腕の中でグズっていた琥珀は、ベッドに寝かされた妃奈の姿を見て、自分もベッドに寝ると駄々を捏ねる。
「…かっかぁ…かっかぁ…」
自ら妃奈の脇の下に潜り込み、妃奈の服を掴んだまま、琥珀は指をしゃぶりながら直ぐに寝てしまった。
「ずっと、お母さんの事を呼んで泣いていたんです。やっと安心したんでしょうね」
萌奈美嬢の言葉を聞きながら、黒澤はそっと琥珀に毛布を掛けてやった。
「黒澤さん、彼女は…」
「高橋妃奈と言います。以前お話した、私の婚約者ですよ」
「じゃあ、琥珀君は!?」
「私の息子です」
「なら、何故森田さんが、あんな暴挙に出るんですか!?貴方は、森田組の弁護士でしょう?」
「全く…私が、聞きたい位なんですがね」
黒澤が溜め息を吐いた時、病室のドアをノックして、高橋福助医師が入って来た。
「鷹栖総合病院に連絡したぞ。受け入れOKだそうだ」
「ありがとうございます」
「何かコネでも持ってんのか、アンタ?そうやすやすと受け入れて貰える病院じゃねぇぞ?」
「妃奈は以前から、あの病院に入退院を繰り返していますので…」
「そういう事か…で、子供も連れていくのか?」
「いや…」
「黒澤さん、琥珀君も一緒に連れて行って上げた方が良くないですか?」
萌奈美嬢は、安心して眠り込む琥珀を撫でながら、黒澤に意見した。
「妃奈さん、黒澤さんと琥珀君の為に死のうとしてたんです。琥珀君の事を、ずっと案じていました。琥珀君もずっとお母さんを求めてて…離しちゃいけない気がするんです!」
「…しかし」
「森田組の人が、拐いに来る事を懸念しているのであれば、私も連れて行って下さい!私が人質になれば、森田さんだって無茶な事は出来ないでしょう?」
「いや、しかし…」
躊躇する黒澤の前で、萌奈美嬢は携帯を取り出し短縮番号を押した。
「…あ、聖さん?私です。えぇ、今堂本の家なんだけど…私、今から黒澤さんの人質になる事にしたから、連絡して置うと思って。……大丈夫よ、そんなに怒鳴らないで、耳が痛いわ!違います!!私が人質になるって申し出たの。ちょっとね…森田さんのやり方に、腹が立って…しばらく帰らないかもしれないわ。何なら、聖さんも一緒に来る?…えぇ、居るわよ?ちょっと待ってね……黒澤さん、聖さんが話したいって」
そう差し出された携帯を、黒澤は渋々受け取り耳に当てた。
「…お電話代わりました。黒澤です」
「聖です。萌奈美が…無茶な申し出をした様で、申し訳ありません」
「いえ…こちらこそ、何と申し上げたらよいか…」
「何故そんな事になっているのか、説明をお願い出来ますか?」
聖社長の落ち着いた声に、黒澤は森田組長が琥珀を誘拐した事、そして妃奈が琥珀と自分を守る為に、堂本組長宅で自殺未遂をした事を説明した。
「…成る程、萌奈美が食い付きそうな話ですね。立場上、私が貴方に加勢する事は叶いませんが、萌奈美は堂本の養女である事でフリーに動く事が出来る。彼女も、それがわかっていて行動しているのでしょう」
「申し訳ありません…奥様を捲き込む様な事になってしまい…」
「自分から言い出したんでしょう?」
「えぇ、まぁ…」
「昔から、正義の味方みたいな娘ですからね。理不尽な事には、正面切って噛み付くんです…見掛けは小さいが、結構な狂犬ですよ」
「……」
「しかし、妻がする行動には、間違った事はないんですよ。人道的に、常識的に正しい事を、大声で叫ぶ…極道の養女になり私の妻になっても、その姿勢は一つも揺るぎません」
「…聖社長…」
「気の済む迄、付き合わせてやって下さい。貴方にとっても、その方が良さそうだ…但し…」
「何でしょう?」
「無傷で、返して下さい。小さな傷一つ付けても、私は貴方を許しません…」
電話の向こう側に、瞳を据えた聖社長の顔が浮かんだ。
かつて『Silver Fox』と異名を取ったナイフの達人で、堂本組長の懐刀であるこの人は、大学生だった奥方を見初めてバイト先に通い詰め、ほとんど拐う様にして口説き落としたのだと、棗が話していた。
見掛けは子供の様だが、冷静沈着な才媛である奥方に、聖社長は骨抜きにされているのだと…。
「…肝に命じて…」
「萌奈美に、代わって頂けますか?」
携帯を萌奈美嬢に返すと、やり取りを見ていた福助医師がニヤニヤと黒澤に尋ねた。
「聖の奴、何だって?」
「…え?」
「俺と棗…あそこの若頭なんだがな、それに聖とは、中学時代からの腐れ縁でな。で、聖の奴何だって?」
「萌奈美さんの思う通りに、させてやってくれと」
「ハッ!相変わらず、メロメロだな!アンタの旦那は!」
携帯を切った萌奈美嬢は、ムッとして福助医師を睨み舌を出して言った。
「愛されてますからね!!福助先生も、早くお嫁さん貰ったら?」
「おぉ!最近、俺にゾッコンの女が居てな…嫁にしてくれって、せがまれてる」
「良かったですね、奇特な方が見つかって」
「誰だと思う?」
ニヤニヤと挑発する福助医師に、萌奈美嬢が怪訝な顔を見せる。
「…花だよ」
「花ですって!?いい加減にして下さいよ、福助先生!!」
「俺は、大歓迎だぜ?先生のお嫁さんになる〜って、毎回熱いキスを…だなぁ」
「もうっ!!お話にならないわ!行きましょう、黒澤さん!!」
「いいのか、お嬢ちゃん?今から行く場所も、アンタの大嫌いな病院なんだぜ?」
「もう平気になりました!こちらに伺わないのは、聖さんが心配性なだけで…」
頬を染め反論する萌奈美嬢に、福助医師は両手を上げた。
「わかった、わかった…最後は、いつもノロケ話だ。さぁ、とっとと病人を連れて行ってくれ!直ぐに寝台車を用意するから」
「いえ…私は、堂本組長の所に戻らなくてはなりません。栞、後を頼めるか?」
「わかりました。聖の奥様と琥珀君と共に、病院に向かいます。その後の事は、小塚さんと相談して行動致しますので、ご安心下さい」
「宜しく頼む」
静かに眠る妃奈の頬をスルリと撫でると、黒澤は意を決して病室を後にした。
黒澤が堂本組の正面玄関に着いた時、門内は騒然とし、構成員達の顔は緊張の為に皆強張っていた。
「森田組の弁護士の黒澤です。堂本組長と、森田組長にお会いしたい」
「組長は、只今来客中です」
「存じ上げております。弁護士の連城さんが、いらっしゃってますね?私も同じ用件です。同席させて頂きたい」
「…しかし」
取り次ぎの構成員が躊躇していると、背後から声が掛かった。
「どうしました、黒澤さん?」
「聖社長!?何故ここに?」
「堂本組長に…義父に、呼び出されたのです。萌奈美が、義父にも電話を入れた様で…」
「成る程…」
「どうぞ、お上がり下さい。ご案内致します」
どれだけ黒澤が爆弾を持っていても、堂本組長や森田組長に会えなければ、交渉する事も何も出来ない。
萌奈美嬢は、こうなる事を見越して堂本組長にも電話を入れ、聖社長を呼び寄せたのだろうか?
「聖、参上致しました」
「入れ!」
「失礼致します」
案内された奥座敷には、上座に座る堂本組長、森田組長の前に、黒地のブリティッシュスーツをスッキリと着こなした長身の男が座っていた。
聖社長は森田組長の隣に座り、黒澤は下座に座る連城の隣に座り頭を下げた。
「遅くなって申し訳ありません、連城さん」
「いや…高橋さんも、琥珀君も、取り戻したそうだな?」
「えぇ、こちらの聖社長の奥方に、ご尽力頂きました」
「それで、その萌奈美迄人質に取ったってか、黒澤?それがどういう事か、わかって行動してんだろうなぁ!?」
堂本組長の恫喝に、聖社長が助け舟を出す。
「それは、萌奈美が自ら進んで人質になると言ったそうです。お騒がせして、申し訳ありません」
「そんな事は、わかってる…アイツは、そういう所はフリーダムだからな。俺が言いてぇのは、何故それを留め置いてるかって事だ!?」
養女とはいえ、自ら自慢の娘だと紹介された萌奈美嬢を人質にしているのだ。
堂本組長の怒りは、当然の事だった。
黒澤は、静かに深呼吸して背筋を伸ばした。
「私は、身内の危機に対応しただけです。何度となく振り上げられる刃に警告をしたのですが、森田組長は一向に聞き届けて頂けない様で…本日は、決着を着けようと参上致しました。萌奈美さんには、ご協力を頂いております」
「大体どういう事だ、森田?何故Panther迄出張って来る?」
「プライベートな問題です。組長のお気を煩わす事ではありません」
「萌奈美を人質に取られてんだ。幾らアイツが自分から人質になったとしても、そういう訳にいかねぇだろ!?おい、Panther!!お前、本当は何しに来た?森田と、森田の所に来た客に用があると言った切り、黙り込みやがって…そろそろ話しやがれ!」
青筋を立てる堂本組長を前に、連城はゆっくりと視線を森田組長に移した。
「森田さん…貴方は今日、浅草の松浪組長宅で、高橋妃奈さんの息子、琥珀君を誘拐しましたね?」
「誘拐?森田が?」
「誘拐された琥珀君は、こちらに囚われていた様ですが?」
「…確かに、森田が子供を連れて来て、しずかに預けたとは聞いてるが…その女から、奪って来たのか?何で?」
問われた森田組長は口をつぐみ、代わりに憎々しげに睨む黒澤が、堂本組長に答えた。
「高橋妃奈は、私の婚約者です。連れ去られた琥珀は、私と妃奈の息子です」
「黒澤、お前…子供が居るのか!?」
驚く堂本組長に、森田組長が深々と頭を下げる。
「申し訳ありません、組長……嶋祢会長にも、蝶子お嬢さんにも、何と言ってお詫びすればよいか…」
「だが、お前……黒澤が囲ってた女は、とうに出て行ったと言ってなかったか?」
「御意」
「それは…それは、貴方が妃奈を脅して、出て行く様に仕向けたからでしょう!?」
「…どういう事だ?」
訝しむ堂本組長に、連城が静かに答える。
「森田組長は、黒澤さんの命を片に取り、高橋妃奈さんを脅した様です。黒澤さんの元を離れなければ、彼を殺すと。だが、その時には既に彼女は懐妊していました」
「1人で産んで、育ててたのか?ちょっと待て…さっき、松浪組長宅でって言ったよな?何で松浪の親父が出て来る?」
「高橋妃奈さんは、松浪組の従業員です」
「何だと!?」
堂本組長が唸り声を上げると、森田組長が再び頭を下げた。
「申し訳ありません、組長!高橋妃奈の件は、私が責任を持って処分致しますので…」
「冗談じゃない!!」
森田組長の言葉に、大きな犬歯を剥き出して黒澤が吼える。
「妃奈にも、そして琥珀にも、もう指一本触れさせやしないっ!!」
「堂本組長、森田組長は、先程息子を追ってここまで来た高橋妃奈さんに、自殺を強要した様ですよ?合口で手首を切らせ、それでも死にきれない高橋さんに、動脈迄切らせた。聖萌奈美さんは、そんな高橋妃奈さんを庇って助けた様ですね」
「Panther…お前…」
「私は、松浪忍さんと黒澤さんより依頼を受け、高橋妃奈さんの代理人としてここに居るのですよ、堂本組長」
連城の言葉に、頭を下げていた森田組長が、ギリリと奥歯を噛んだ。
「私は、何も強要などしていません!あの女が勝手にした事です!それに、その女も子供も、既に黒澤の元に戻ったのであれば、何の問題もないのではありませんか、連城さん?」
「例えそうであっても、貴方が琥珀君を誘拐した事実は、消えないでしょう?それにしても、何故ですか、森田さん?」
「……」
「松浪の奥方に、黒澤さんの縁談の件はお聞きしました。もう、何年も膠着状態にある縁談だとか…。なのに何故貴方程の方が、自らそんな暴挙に出てしまったのですか?」
何も答え様としない森田組長に、黒澤が憎々し気な視線を投げる。
「私は最初から、この縁談はお断りすると言い続けて来ました。嶋祢会長にも、堂本組長にも、当人同士の話し合いで決めて良いと、お許しも頂いています。それなのに…森田組長は、堂本組の為に私に人身御供になるのが当然だと、ごり押しをしていたのです。私に対して、仕事の制裁を下されるのはいい……私はまだ、森田組の弁護士ですから。だが、まさか妃奈に対しても、脅しを掛けていたなんて……命を奪おうとしていたなんて!!」
「それは違う!」
「何が違うんです!?私は、絶対に許さないと言っておいた筈だ!!」
「……」
「私の事を、いつまでも侮られては困る…」
黒澤は、内ポケットから出した封筒を正面に座る堂本組長の前に差し出した。
「…これは?」
「私の覚悟です」
堂本組長は、封筒から出した数枚に及ぶ書類に目を落とすと、無表情で隣に控える森田組長に渡した。
「…っ!?黒澤ッ!?貴様ッ!!」
「申し上げた筈です…再三の忠告を無視されたのは、そちらでしょう!?」
「それは?」
黒澤の隣に座る連城が、静かに堂本組長に尋ねると、彼は黒澤に視線を定めたまま、落ち着いた声で答える。
「告発文書だ…ウチの組が、ここ数年間関わった事が、詳細に書かれてある」
「…ほぅ」
「黒澤…お前、これをどうする積もりだ?」
「申し訳ありませんが、交渉材料に使わせて頂きます」
「何が望みだ?」
「嶋祢蝶子さんとの縁談を、白紙に戻し…私の家族と事務所の仲間に、今後一切手を出さないで頂きたいのです」
その言葉にギリリと歯軋りを響かせた森田組長は、手の中の書類を握り締め黒澤に恫喝する。
「貴様ッ!?言わせて置けば、いけしゃあしゃあと…そこに直れ!!手打ちにしてくれる!!」
「宜しいのですか、森田組長?私や妃奈、そして琥珀にもしもの事があれば、その書類と同じ物が、警視庁と検察庁に送られる事になりますが?」
「何だと!?」
「そればかりではない…ネットにも、同じ物が出回り、どれだけ貴方が手を回そうが、世論に押されて警察が介入せざるをえない事態に陥るでしょう!!」
「貴様ッ!?」
「やめろ、森田…どうやらお前、黒澤を本気で怒らせた様だな?」
「申し訳ありません、組長!!この落とし前は…」
「だから、無理強いするなって言っただろうが…お前が色気を出すから、ややこしい事になったんだぜ?」
「組長…しかし…」
ハァと大きな溜め息を吐き、堂本組長は黒澤に語り掛ける。
「黒澤…お前ぇも、わかってやれ。森田の行動は、ウチの組の繁栄を願うばかりじゃねぇ。お前の為を思っての事だと、わかってんだろ?」
「どういう事でしょう?」
「ここだけの話だがな…この2人は、壮大な親子喧嘩をしてんだよ、Panther」
ハハハと声を上げる堂本組長に連城が眉を寄せた。
「…親子ですか…だが、森田さんは独身ではありませんでしたか?」
「若い頃に…色々あってな」
ニヤニヤと笑う堂本組長に、黒澤は眉間の皺を深くした。
「やめて下さい、堂本組長!!この男が私の父親など、虫酸が走る!!」
「…黒澤」
「私の親は、生みの母である仲村陽子と、育ててくれた黒澤の両親だけです!!戸籍にも、森田樹の名前など、欠片も出て来ない!!」
黒澤の剣幕に、堂本組長は驚いた表情を見せ、隣に控える森田組長を窺った。
「森田…黒澤に、陽子の事を話したのか?」
「…いぇ…ですが、黒澤は知っている様です」
「どこまで?」
「……」
「話してやってねぇのか!?」
黙り込む森田組長に、堂本組長は溜め息を吐く。
「馬鹿じゃねぇか!?お前ぇが、そんなんだから…」
「別に話して頂かなくても結構です。その男は…私の生みの母を見殺しにし、産まれたばかりの私を捨て…そして、私に結婚を強要し、琥珀を誘拐し…妃奈を…妃奈を殺そうとしているんです!!」
「違う!!」
「何が違う!?アンタの行動が、全てを物語ってるだろうが!?」
肩で息をして言い合う森田組長と黒澤に、堂本組長が首振った。
「……済まねぇ…黒澤…」
「組長!?」
「…済まねぇ」
「組長、止めて下さい!!」
「構わねぇ。黒澤には、ちゃんと話してやらなきゃなるめぇよ?」
「しかしッ!?」
必死に抵抗しようとする森田組長の様子に、連城が声を掛けた。
「どういう事です、堂本組長?」
訝しむ様に尋ねる連城に少し笑みを返すと、堂本組長は眉間に深く皺を寄せた黒澤を真っ直ぐに見詰め、深く頭を垂れた。
「お前ぇの母親…仲村陽子を殺したのは、森田じゃねぇ……この俺だ」




