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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
51/80

(51) 妃奈の覚悟

その日、聖萌奈美(ひじり もなみ)は大きな紙袋を山程乗せた車を、実家の前に停めた。

養母である堂本の母から、ベビー服や粉ミルク、小さな子供が喜びそうな物を持って来て欲しいと連絡があったからだ。

まだ1歳前の男児を預かる事になったという事だが、体格が良く2歳児程の大きさがあるらしい。

「トランクの中の荷物を運んで貰えますか?」

「はい、承知致しました」

運転をしていた萌奈美専用の運転手は、後部座席のドアを開けると頭を下げた。

東日本最大の広域暴力団嶋祢会、その2次組織である堂本組の組長、堂本清和の養女になり、その下部組織の代表である聖夜(ひじり ないと)と結婚して1年。

今では、ツインタワーにあるカルチャースクールを取り仕切り、忙しくも幸せな日々を送っている。

堂本組の正門の辺りが妙に騒がしく、車から降り立った萌奈美は眉を潜めた。

「…何事(なにごと)?」

「お下がり下さい、奥様」

運転手が半身で庇うのを、萌奈美は片手で制した。

「大丈夫よ…それより…」

男達の怒鳴り声に混じり、女性の懇願する様な悲鳴を聞いて、萌奈美は正門に駆け寄った。

何事(なにごと)です?こんな往来(おうらい)で?」

「これは…お嬢さん、お帰りなせぇやし」

3人の男達が(そろ)って頭を下げる中、萌奈美は地面に座り込み泣いている女性を助け起こした。

「ただいま。それより、何事(なにごと)なんですか?」

「それは…」

男達が言い(よど)む中、白髪の若い女性が萌奈美に縋り付く。

「こちらのお宅の方ですか!?」

「えぇ」

「お願いです!!森田さんに…森田組長に会わせて下さいっ!!」

「えっ!?」

萌奈美は、夫である聖の仕事に(ほとん)どタッチしていない。

いくら会社経営の方式を取った所で、所詮(しょせん)ヤクザはヤクザなのだ。

()して聖は、堂本組の若頭補佐(わかがしらほさ)をしている。

若頭(わかがしら)である森田組長の名前を出したという事は、森田組の関係者という事なのだろうが…他の組の揉め事に首を突っ込む等、決してしてはいけない事だと、萌奈美は重々承知していた。

浅黒い肌に髪も眉も白く、堀の深い顔立ち…スレンダーな陰のある美女だ。

日本語が堪能だが、森田組長の経営する店で働く外国人の女性なのだろうか?

この寒い中、上着も着ずに木製の突っ掛けを履いただけの姿の女性は、再び地面に平伏す様な状態で萌奈美に懇願した。

「お願いします!!森田さんに、訪ねて来る様に言われたんです!こちらに…多分、こちらにいらっしゃると伺って、無茶を承知でお訪ねしました!!」

「…いらっしゃるの?森田さん?」

小さく頷く男達を確認して、萌奈美は女性を再び助け起こした。

「先ずは、中に入って貰えますか?」

「ありがとうございます!!」

「勘違いしないで下さいね?こんな所で騒がれては、堂本の家に迷惑が掛かります。森田さんとは、お約束されているんですね?」

「約束というか…でも、必ず会って下さる筈です!大切な…大切な人の命に関わる問題なんです!」

「わかりました。本来森田組の事に、私が関わってはいけないんです。会って貰えるかはお約束出来ませんが、貴女が訪ねて来られた事は、必ずお伝えします。お名前は?」

「…妃奈…高橋妃奈と申します」

「高橋さん?…わかりました。少し待っていて下さい」

門を警備していた人間に、森田組長に取り次ぐ様に言うと、萌奈美は女性を玄関に入って直ぐの応接室に案内し、自分は奥の養母の部屋に急いだ。

「遅くなりました、萌奈美です」

「お入りなさい」

「失礼します」

(ふすま)を開けると、養母であるしずかが柔らかな笑みを(たた)えて出迎えた。

「ごめんなさいね、萌奈美。忙しくしていたのではない?」

「いいえ。仕事も一段落着いた所でしたので平気です。それより、どうしたんですか?急に子供を預かる事になったって…」

「森田さんがね、連れていらしたのよ」

しずかはそう言うと、苦笑混じりに押入れの襖をそっと開けた。

「…こんな所に?」

「ぐずって、隠ってしまったの」

座布団を仕舞ってある押入れの隅に、小さな影が(うずくま)っている。

「…ほら、お姉さんが、オモチャやおやつを持って来てくれたわよ?出ていらっしゃいな?」

「…うぅ〜…」

ぐずる様な(うめ)き声を上げ、小さな影は身動ぎもしない。

「ほら…出ておいで。怖くないから…」

萌奈美はそう言うと、押入れに入り込んで小さな躰を抱え出した。

「やぁ〜っ!かっかぁ〜!」

そう言って泣き出した幼児を見て、萌奈美は目を見開いた。

逆立つ黒々とした髪、そして浅黒い褐色の肌。

「この子…」

先程の女性の子供なのではないか?

子供を抱きあやしながら、萌奈美はしずかに尋ねた。

「…名前は?何と言う名前なんです?」

「琥珀君と言うそうですよ」

「苗字は?まさか、高橋と言うんじゃ…」

「さぁ?名前しか聞いてないのだけれど…」

ガサガサと袋の中から子供用のジュースを出し、ちいさなパックにストローを差すと、しずかは琥珀の口元に差し出した。

泣いていた琥珀はカプリとストローをくわえ、一気に吸い上げる。

「あらあら…やっぱり喉が渇いてたのね」

「ずっと、泣いていたんですか?」

「えぇ…森田さんが連れて来た時には、引付けを起こす程にね」

ホゥと溜め息を吐き微笑むしずかは、萌奈美から琥珀を受け取ると膝に乗せて抱きあやした。

「…かっかぁ…かっかぁ…」

琥珀は指をしゃぶりながら、涙を溜めて呼び続ける。

「可哀想に…きっと、お母さんの事を呼んでいるのよ」

「私、少し心当たりがあるんです」

「そうなの?」

「えぇ…実は…」

萌奈美が話を続け様とした時、遠くで子供の泣き声がした。

「あれは…花だわね」

「私が行きます」

琥珀を抱いたしずかを残し、萌奈美は立ち上がり部屋の外に出た。

子供の泣き声を追って裏庭に出ると、萌奈美の義理の妹である花が空を見上げて泣いていた。

「あ〜ん、ママぁ〜」

「花?どうしたの?」

「お姉ちゃまぁ〜」

花はそう言って、萌奈美に抱き付いて来る。

「どうしたの、花?」

「血がね…血が…」

「えっ!?」

どこか怪我をしたのかと驚く萌奈美に、花は玄関の方を指差した。

「…花を、お願いします」

心配して顔を出した女中に花を預け、萌奈美は裏庭から玄関に向かった。



「失礼致します。若頭(わかがしら)…」

「何だ?」

「客人が来てます」

「客?そんな予定はないが」

浅草の松浪組に居た高橋妃奈から強引に子供を奪い取り、直接堂本組に車を回した。

身を()()らして泣く子供には、ヤクザでも敵わない…女性の、(しか)も子育ての出来そうな信頼出来る女性となると、森田の知る中では6人しか居ない。

その内の2人は鬼籍に入り、1人は療養中であり、1人は森田を毛嫌いし、もう1人は…多分今頃、烈火のごとく怒っているに違いない。

残る1人である、堂本しずかに子供を預けに来た所、夫で組長の堂本清和に見咎(みとが)められたのだ。

「で?どこの子だ?おめぇの子って事はねぇだろう?」

この人のこういった所は、昔とちっとも変わらない。

楽しい事を見付けた悪戯小僧の様に、ニヤニヤと森田をいたぶってくる。

「…知人の子供です」

「で?」

「それだけです」

「嘘が下手になったな、森田。俺の守役だった時とは、大違げぇだ」

「組長が、見抜く眼をお持ちになっただけの事でしょう」

「そりゃそうだ。で?誰の子を、しずかに面倒見させてんだ?」

要は、恋女房に他人の子供の面倒を見させるのが気に入らないのだ。

森田は、言葉巧みに仕事の話に誘導し、堂本から子供の記憶を消しに掛かった。

そんな最中の来客の呼び出しに、森田は不機嫌に尋ねる。

「誰だ?」

「高橋と名乗ってます。若い…外人みてぇな女です」

何故ここがわかったのか…松浪の奥方の入れ知恵か!?

「誰が引き入れた?」

「ぁ…あの…萌奈美お嬢さんが…」

取り次ぎに来た組員とのやり取りを聞き、再びニヤニヤと笑う堂本に一礼すると、森田は高橋妃奈の待つという応接間に向かった。

「何故、この家に入り込んでいる!?」

応接間で所在無く(たたず)んでいた高橋妃奈は、部屋に入るなり不機嫌な声を上げる森田に飛び上がる。

「お前が入り込んでいい家ではない!」

そう詰め寄る森田に、高橋妃奈は縁側に出て居住まいを正し、森田を見上げた。

「…琥珀は…琥珀は、無事なんですか?」

「…私に会いに来たという事は、どちらを差し出すか決心したという事だな?」

森田の質問を無視した答えに、彼女は眉根を寄せ反論した。

「貴方は…それで宜しいのですか?」

「何?」

「御自分の血を分けた御子息と孫の命を天秤に掛けて…本当に宜しいのですか?」

「今更、何を…」

「貴方が消し去りたいと思っているのは、黒澤さんでも琥珀でもない…私ですよね!?」

「……」

「貴方は、黒澤さんの幸せを願っていたのではないんですか?なのに、何故貴方ご自身が、黒澤さんの命を断とうとされるんです!?貴方が黒澤さんを守って下さると言うから、私は彼の元を離れたんです。それに、彼の血を受け継いだ琥珀の命を失う事になれば、黒澤さんは不幸になってしまいます!琥珀は、こんな事で失っていい命じゃない!」

「……」

「消えてなくなるのは、邪魔者だけで十分でしょう?私の命…貴方に差し上げます。だから…黒澤さんと琥珀の事は、どうぞ助けて下さい!!」

高橋妃奈の命など、正直どうだっていいのだ。

唯、この娘が視界から消え去りさえすればいい…森田の顔を見てビクビクと(おび)える高橋妃奈を、(おど)しを掛ける事で追い払いたいと思っていたのだ。

だが…まさか、自分の命を差し出しに来るとは思わなかった。

眉間の皺を深くする森田に、覚悟を決め落ち着きはらった高橋妃奈が言葉を掛ける。

「1つだけ、お願いがあります」

「…何だ?」

「琥珀は…黒澤さんに預けて頂けますか?」

「……」

「黒澤さんと結婚されるあの方は…琥珀を、可愛がって下さるでしょうか?」

「…お前は、それでいいのか?」

森田の質問に、高橋妃奈は小首を傾げた。

「私と暮らしても、琥珀が幸せになれないと言ったのは、森田さんでしょう?」

「……」

「…琥珀は、いつか私を…身勝手に産んで死んでしまった母親を、恨むのかもしれません。でも、育てて下さる方が優しい方なら、あの子は幸せになれると思います」

「……」

「黒澤さんが、根津さんに育てられた様に…そう思いませんか?」

「…そうだな」

「黒澤さんも、幸せになれますか?」

「ぇ?」

「あの方と結婚したら、黒澤さんは幸せになれますか?」

「…何故…そんな事を聞く?」

「あの人…やつれた様に見えました。私の事で、沢山迷惑掛けたからだと思います。仕事も…上手く行ってないんですか?」

「……」

「幸せになって欲しいんです…その為に、あの家を出たんです。黒澤さんと琥珀に、幸せになって貰いたいんです」

「…お前は?それでいいのか?」

再びの森田の質問に、高橋妃奈はコクリと頷いた。

「私は、幸せになれますから…」

「何故!?」

「何故って…私が死ぬ事で、黒澤さんと琥珀は生きて、幸せになれるんでしょう?」

「……」

「2人を守る事が出来るなら、私は幸せなんです」

達観した様に答える高橋妃奈に、森田は大きな溜め息を吐いた。

「……黒澤は?」

「…何ですか?」

「黒澤は、知っているのか?お前がここに来ている事を?」

「……いいえ」

高橋妃奈は、森田から視線を外すと首を振った。

「何故だ?黒澤に助けを求めなかったのか?」

「…はい」

森田の怪訝(けげん)な表情に、高橋妃奈は視線を反らしたまま小さく(つぶや)いた。

「そんな事をすれば…黒澤さんは、貴方を……許せなくなる…」

「……」

「ここに伺ったのは、私の意思です。誰に強要されたのでもない…あくまでも、私の意思で…」

念押しする様にに訴える高橋妃奈は、スッと森田に向かって手を差し出した。

「何だ?」

「持ってないんですか?拳銃とかナイフとか?」

森田が黙って床の間の横にある違い棚に視線をやると、高橋妃奈は立ち上がり、違い棚の引戸を開け中に置かれていた合口(あいくち)を取り出した。

白木の(さや)を取ると、鈍い光を放つ刃先に、彼女はゴクリと生唾を飲む。

「…畳を…この屋敷を、血で汚すな」

森田の言葉に、高橋妃奈は黙って素足のまま庭に下りると、森田に向かって正座をし、左手首に刃を(かざ)した。

「…最後に…琥珀に会わせて…」

震える声で懇願する高橋妃奈に、森田は冷たく言い放つ。

「止めておけ…未練が残る」

「……そう…ですか…」

この場に至って、震える声でそう納得してしまう高橋妃奈が、森田には理解出来なかった。

怖いなら、泣き叫べばいいのだ!

逃げ出せばいいではないか!?

それを、曖昧(あいまい)な気持ちで死ぬ事が幸せだと言ってのける、この無謀(むぼう)さは何なんだ!?

葛藤を続ける森田の前で、高橋妃奈は何の躊躇(ためら)いもなく、手首に当てた刃を引いた。



幼い頃から()み嫌って来た自分の躰の中で、唯一(ゆいいつ)人並みだと思って来た部分…それが、躰を流れる血液だった。

白人も黒人も、黄色人種にも等しく流れる赤い血が、妃奈の躰にも流れている。

左手首から流れる赤い血は、妃奈の白いTシャツの袖を染め、肘の辺りからポタリポタリとジーンズに赤黒い染みを広げる。

妃奈は、うっとりと溢れ出る血を眺めていた。

「…昔は…血が怖くて…仕方ありませんでした」

「……」

「…でも今は…この紅い色が、私も皆と同じ人間なのだと…証明してくれる…」

「酔っているのか?」

「そんな事…」

「それでは、死ねない」

結構な勢いで溢れていた血は、段々と勢いが弱くなり、今にも止まってしまいそうだ。

走っている様な脈拍と、荒く短くなる呼吸…そして、不機嫌な森田組長の顔…。

妃奈が再び合口(あいくち)を構えた時、子供の泣き声が響き渡った。

赤いジャンバースカートに白いカーディガンを着た幼女が、庭の奥に駆けて行くのを見た森田組長は、小さな舌打ちをして妃奈を睨み付ける。

妃奈が慌てて合口(あいくち)を左手首に突き立てると、先程とは比べものにならない量の血が流れ出した。

「何してるの!?」

若い女性の声に、妃奈は突き立てていた合口を傷から引き抜いた…と、鮮血が辺りに飛び散り、寒さと共に一気に血圧が下がり、妃奈は朦朧(もうろう)としてその場に倒れ込んだ。

「大丈夫っ!?すぐに、医者を呼ぶわ!」

「……いぇ…」

「何言ってるの!?森田さん、これはどういう事ですか!? 」

「お庭先を汚してしまい、申し訳ありません」

表で会ったこの家の娘だという小柄な女性は、自分のハンカチで妃奈の傷口を押さえ、側に落ちていた妃奈のエプロンで腕を(しば)った。

そして、黒い巻き毛を揺らしながら森田組長に食って掛かる。

「この家には、幼い子供が居るんです!人情沙汰(にんじょうざた)は止めて下さいと、お願いした筈ですが!?」

「…私が、手を下した訳ではありません」

「貴方の目の前で起こった事です!貴方が、彼女にさせた事ではないのですか?」

「違います」

「では、私が彼女を助けても、何の支障もありませんね!?」

そう言い切った彼女の綺麗な花柄のアンサンブルが、自分から噴き出す血で汚れていくのが、妃奈には耐えられなかった。

「誰か!?すぐに、福助先生を呼んで!!急いで!!」

騒ぎに顔を出した構成員や屋敷の人間が、バタバタと走り回る。

「大丈夫よ?すぐに止まるから、安心して!!」

「…汚れます…お召し物が、汚れ…」

「何言ってるの!?」

「お願いします…このまま…死なせて…」

「貴女、この家に死にに来たの?」

「…はい」

驚いた顔を見せた娘から、妃奈は身をよじり逃げ出そうとした。

「…貴女、琥珀君のお母さんじゃないの?」

「琥珀…琥珀は、無事ですか!?」

妃奈の答えに、娘は厳しい顔を見せて森田組長に詰め寄った。

「どういう事ですか、森田さん!?母親から、子供を取り上げて自害させるなんて!?」

「貴女には、関係のない事です。捨て置いて頂けませんか、萌奈美お嬢さん」

ドスの効いた森田組長の声に、萌奈美と呼ばれた女性が不機嫌に口を結んだ時、廊下の向こうから声が掛かった。

「お取り込み中、申し訳ありません。若頭(わかがしら)、新たな客人が…」

「待たせておけ!」

「それが…組長が、直ぐに呼ぶ様にと…そっちの娘も、一緒に連れて来いと仰ってます」

「何だと!?誰が来た?」

「何でも、弁護士だそうで…組長のお知り合いの様です」

「弁護士?黒澤か?」

「いぇ…組長は、パンサーとか呼んでました」

途端に苦虫を噛み潰す様な表情を浮かべた森田組長は、縁側から靴も履かずに飛び降りると、いきなり妃奈の胸ぐらを締め上げた。

「森田さん!?何してるんですか、止めて!!誰か、止めさせてっ!」

萌奈美の悲鳴に、大きな影が踊り出た。

一瞬で妃奈を締め上げていた腕を(ねじ)り上げ、森田組長を(ひざまず)かせると、萌奈美と駆け付けた栞に抱き抱えられる妃奈に声を掛けた。

「大丈夫か、妃奈!?」

黒澤の声に妃奈は何度も頷くと、真っ赤に染まった腕を差し伸べる。

黒澤は直ぐ様妃奈を腕に抱くと、彼女の名を呼びながら、血飛沫(ちしぶき)で汚れた顔を拭ってやった。

「妃奈、妃奈…何故、こんな事に…」

「…琥珀…琥珀を…」

「大丈夫だ!!琥珀は、必ず取り戻す!」

「私、連れて来ます!!」

事情を察した萌奈美が駆けて行くのを見届けると、妃奈は安心した様に黒澤の手を握った。

「…貴方と…琥珀は……私が…守る……だから……琥珀を…おね…が…い…」

「何言ってる、妃奈!?」

「…お…ねが……い…」

「妃奈!?妃奈っ!!しっかりしろっ!!」

「はい、はい、ごめんなさいよ?患者は?この娘か?」

白衣を着たこの家の主治医、高橋医院の息子である高橋福助(たかはし ふくすけ)が、妃奈の手首の傷を確認しながら脈を取り、瞳孔反射(どうこうはんしゃ)を診る。

「動脈やっちまったのか…失血性ショック起こしてるな。直ぐに縫合(ほうごう)して輸血する。連れて来い」

白衣を(ひるがえ)す福助の後を、黒澤は妃奈を抱いて追おうとして足を止めた。

「森田さん…私は以前、妃奈の身に何かあったら、許さないと申し上げましたよね?」

「……」

「首を洗って、待っていて頂こう!!」

黒澤はそう言い捨てると、堂本邸の裏口に続く高橋医院に向かった。

「大丈夫ですか、森田さん?」

砂利の上に肩を落として溜め息を吐く森田に、栞が声を掛ける。

「…何故、貴女がこんな所に?」

「貴方に、文句の一つも言ってやろうと思いましてね」

「……」

「貴方のご希望通り、強い男になられましたでしょう?」

「確かに…素人にしておくには、惜しい腕です」

「私が、直々に指導しましたからね。当然と言えば、当然の結果でしょう。ですが、強いのは腕っぷしばかりではありませんよ」

「…誰に似たのか、あの頑固さは…」

「貴方にそっくりでしょう?」

「……」

黙り込む森田組長に、栞が静かな声音で言葉を紡ぐ。

「あの時、坊っちゃんを私に預けながら、貴方が仰った事…覚えていらっしゃいますか?」

「…強い男に、育てて欲しいと…」

「それから?」

「……」

「幸せに…人並みの幸せを、与えてやって欲しいと…あの時貴方は、そう仰ったんですよ、森田さん 」

黙って立ち上がり、土埃を叩いて栞を見下ろす森田組長に、栞は尚も質問する。

「貴方が考える、人並みの幸せとは何ですか?」

「……」

「坊っちゃんにとっての幸せとは、何だと思われますか?」

「……」

「もう、子供じゃないんです」

「…わかっている」

「では、そろそろ子離れなさいませ」

栞の言葉に眉を寄せると、森田組長は縁側に上がり、屋敷の奥に消えて行った。



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