(50) 誘拐
「一体、どういう事よ!?子供なんて、聞いちゃいないわよ!?」
「申し訳ありません。私も与り知る所ではありませんでした」
隣で憤る嶋祢蝶子を宥めながらも、森田は臍を噛む思いだった。
あの娘が出て行った後も、黒澤は森田に逆らい続けた。
どれだけ好条件を提示しても、宥めすかしても、『私の結婚相手は、妃奈だけです!』と言って譲らない。
仕方なく黒澤の仕事を制限し、クライアントに圧力を掛け、事務所経営に支障が来す程追い込んでも、黒澤が音を上げる事はなかった。
最近嶋祢蝶子は、黒澤本人よりもあの土地に自分の店を早く出したい様で、事を急ぐ様に催促して来るが、この件に関しても黒澤は一切受け付けなかった。
長い膠着状態が続き、互いにうんざりしている所に…よりによって、あの娘が現れたのだ!
然も、黒澤の子供を伴って!!
冗談ではない!!
こちらの面目は、丸潰れではないか!?
日を置かず、森田は側近の中沢を連れて浅草にある松浪組を訪れた。
「宜しいのですか、組長?」
「やむを得ないだろう」
「しかし…」
「この時間、松浪組長も奥方も外出中の筈だ。その間に下働きの女が1人消える位、何でもない事だろう!?」
いつになく苛々と言い放つと、森田は松浪組の門に立つ構成員に、妃奈との面会を申し入れた。
程なくして庭に案内された森田は、そこに子供を抱いて踞る妃奈を見付けると、憎々しげに睨み付けた。
「…どの様な…ご用件でしょう?」
震えながら尋ねる妃奈に、形相の森田が尋ねる。
「何故、こんな場所に居る!?」
「…ぇ?」
「何故、松浪組に世話になっているのかと聞いている!」
「…偶然…山で、こちらの旦那様と知り合いました」
「偶然だと!?」
「こちらの…浅草の御本宅に伺う迄、この様な生業のお宅とは存じ上げませんでした」
「…よりによって、堂本の相談役のお宅に潜り込むとは…」
「存じ上げませんでした!先日…森田さんと佐野さんが、お知り合いだと…初めて知って…」
必死に弁解する妃奈を睨み付け、森田はそのまま視線を琥珀に移した。
「父親は…黒澤なのか?」
「この子は、私の息子です!父親は、おりません!!」
「…幾つだ?」
「じきに、1歳になります」
妃奈に抱かれた子供の顔を、初めてまじまじと見入る…褐色の肌に逆立つ程の豊かな髪。
1歳にしては大きく、固太りのしっかりとした躰付き。
そして、濃い眉の下の切れ長な目元…。
肌の色以外、何一つ母親に似ていない子供の容貌に…幼い頃の黒澤に瓜二つの容貌に、森田の髪は逆立った。
「…直ぐに、ここから立ち去れ!」
「……出来ません。この子の為にも、こちらで働く様にと…奥様にも、きつく言い渡されました」
「ならば…」
森田は妃奈に近付くと、無理矢理琥珀を取り上げた。
「何をなさいます!?返して下さい!!」
「子供が居なければ、ここを出て行くのは容易な事だろう!」
「返して下さい!!その子は、私の子供です!!」
「黒澤とは一切関わりないと、言い切れるのか!?」
「…それは…」
「黒澤は、はっきり自分の息子だと言った」
「……」
「…この子は、私が引き取る」
「なっ!?」
「お前では、育てられん…そうだろう!?」
「嫌ですっ!!その子は…琥珀は、私の子供ですっ!!」
「ここを出て、どうやって育てるというのだ!?子供を育てるのに、一体幾ら掛かると思っている?」
「……」
「この子に不自由な思いを、惨めな思いをさせる積りか!?」
「…でも…」
「土台、お前に子育て等、無理なのだ!精神的に脆いお前に、子育て等…先々、子供に迷惑を掛けたいのか!?」
「…貴方は…私から、何もかも取り上げるおつもりですか?黒澤さんも…琥珀も…」
消え入りそうな声で呟いた妃奈は、涙を溜めて森田を見上げ、悲痛な叫びを上げる。
「何故、あの時に殺して下さらなかったんです!?そうしたら、こんな思いをせずに済んだのにっ!!」
「お前が…私との約束を違えるから、この様な事になるのだ!」
「あれは…あれは、致し方なかったのです!どうしても、あの場に私が行かなければならない事情があったのです!!」
「お前が子供を連れて姿を現した事で、黒澤が折れる事は絶対になくなってしまった…」
「……」
「お前との約束も、反故にされたと思っていいな?」
「それは…それだけは、お願いします!!何とか…」
「お前自身が、反故にしたんだぞ!?」
「お願いします、森田さん!!黒澤さんとは、2度と会いません!!だから、どうか…どうか、黒澤さんの命だけは…何とか守って差し上げて下さい!!」
琥珀を抱く森田の足元に縋る妃奈が、懇願の叫びを上げた時だった。
「何を騒いでるんだい、妃奈?おちおち休んでもいられやしない…」
屋敷の奥から出て来た女性が、妃奈と森田の姿を見て片眉を上げる。
「おや、誰かと思えば…」
「…ご無沙汰致しております、奥様。どこか、お加減でも?」
琥珀を抱いたまま舌打ちを呑み込み、森田は浴衣に丹前を羽織った松浪忍に頭を下げた。
「今日は、朝から頭痛が酷くてね…折角の吉様の公演だったんだけど、断念したのさ」
「忠臣蔵ですか?」
「そうさね…所で、森田さん。ウチの庭先で、何してるんだい?」
元は、その美貌ときっぷの良さで鳴らした辰巳芸者である忍は、並のヤクザ等怖れもしない。
浴衣に丹前を羽織り腕を組んだ姿は、まるで弁天小僧吉之助の様だ。
「お庭先をお騒がせして、申し訳ありません。何、単なる内輪揉めです。お捨て置き下さい」
「内輪揉め?聞き捨てならないね、森田さん。そこに控える妃奈は、ウチの身内だよ?」
「いぇ…こちらで拾われる以前、この娘はウチの弁護士に世話になっていたのですよ。申し訳ありませんが、引き取らせて頂きます」
「何か誤解がある様だから言って置くけどね…妃奈は、ウチの組長の恩人なんだよ。組長の許可なしに連れ出されると、あたしが怒られちまう。それに、決して地べたに這いつくばらせていい女じゃないんだけどね」
腕を組んだまま対抗する忍に、森田は頭を下げた。
「わかりました。それでは、この娘は置いて参ります。しかし、この子は引き取らせて頂きます」
「何だって!?」
「この子は、ウチの弁護士である黒澤の子供です。黒澤は、今ウチと少しトラブルがありましてね…この子は、引き取らせて頂きますよ」
「いゃ…嫌です、森田さんっ!!お願いですっ!!琥珀を返して下さいっ!!」
縋る妃奈から身を躱すと、森田は妃奈に向かってキツい視線を投げた。
「この家から出ろ!!」
「……」
「そして、選べ…お前が反故にした責任を取らせるのは、黒澤か、それとも息子か…」
「そんな…」
「どちらか答えが出たら、私を訪ねて来るがいい。お前が、決めきれるのならばな」
「嫌です!!どちらかなんて…そんな事、出来ません!!」
「お前が招いた事だ…お前が選んで差し出すがいい!!」
「嫌ですっ!!嫌ぁーーーっっ!!」
踵を返す森田の背中に、妃奈の悲鳴が追い縋る。
母親の渾身の叫びに、腕の中の子供がビクリと痙攣し、身を反らし火の付いた様な泣き声を上げた。
「何なんだい、全く!?失礼にも程があるよっ!!誰かっ!?組長に連絡入れとくれっ!!」
庭先で泣き崩れる妃奈を見下ろし、忍は奥に声を掛けた。
「姐さん、どうしました!?」
「組長は!?今日は、どこに行ってるんだい!?」
「確か、日本橋の…嶋祢会長の権妻さんの所です」
「あぁ…妾宅に行ってるのかい。って事は、嶋祢会長が上京してるんだね?」
「へぇ、その様で…」
「佐野は?一緒に行ってるのかい?」
「へぇ」
「わかった。誰か、あたしの部屋から、携帯持って来ておくれ!!」
そう奥の者に言い付けると、忍は庭で泣き崩れる妃奈に声を掛けた。
「妃奈、しっかりおしっ!!あんたがしっかりしないと、琥珀を取り戻せないよっ!?」
庭に突っ伏していた妃奈は、しゃくり上げながら魂が抜けた様に座り込んでいる。
女中が持って来た携帯を掴むと、忍は佐野の携帯に連絡を入れた。
「…佐野かい?あたしだよ。組長は?一緒なんだろ?…いいから、直ぐに代わっとくれ!!…寅かい!?今、森田が来てね…そうだよ、乗り込んで来たんだよ!妃奈は無事だよ…だけど、琥珀を…琥珀を、連れて行っちまったんだよぅ!!」
それから忍は、捲し立てながら森田とのやり取りを松浪に報告した。
「森田の所は、男所帯だからね!?子供の世話なんか出来やしない!どうせ、百人町の堂本組に行ったに決まってるよ!!寅、琥珀を取り返しておくれ!!」
所が、電話の向こうで意に染まない返事がなされたのだろう。
忍は、烈火のごとく怒り出し、悪態を吐き始めた。
「何言ってんだい、寅!?元はといえば、蝶子が横恋慕したのが悪いんだろ!?千太郎にも、責任がないとは言えないんだよ!?大体、森田組長ともあろう者が、素人の小娘相手に脅すわ子供を誘拐するわ…極道の風上にも置けない所業だろう!?それを監督、意見するのが、相談役としてのあんたの務めじゃないのかい!?もういい、わかったよっ!!あんたが当てにならないなら、仁に出張って貰うまでさね!!」
プリプリと怒りながら電話を切ると、忍は続けて携帯の番号を押した。
子供の居ない松浪夫婦が、かつて養子に迎えようと考えていた男がいる。
連城仁…施設で育ち、荒れていた高校時代に松浪と知り合い、度々家に呼んで食事を共にした。
体格も面構えも申し分なく、喧嘩も滅法強かった仁は頭も良く、東大の法学部に現役で合格したのだ。
大学生になってからは、先輩の妹である椿の面倒を見ながら司法試験を合格し、卒業後は何と検事になる道を選んだ。
この選択には、流石の松浪も折れざるをえなく、しばらく関係を絶っていた。
その後渡米し、帰国後は実業家やネゴシエイター、弁護士として活躍し、現在は幼い頃から面倒を見ていた椿と所帯を持ち、幸せな結婚生活を送っている。
「…仁かい?あたしだよ。あぁ…元気にしてるよ。椿も変わりないかい?…そう、そりゃ良かった。時にお前、今、日本に居るのかい?そう!!良かった!!ちょっとね、頼まれてくれないかね?…あぁ、仕事だよ。ウチのね、下働きの娘なんだけどね…ちょっと訳ありでね。子供が、誘拐されちまったんだよ。あぁ…いや、だからね…そう、そう。相手は、わかってるのさ。あたしの目の前で、連れて行かれたんだからね。そう…同業者さ。森田だよ、堂本の所の…お前も面識があるだろ?そう、その森田が、ウチの妃奈の…そう、妃奈…高橋妃奈……えっ!?知ってるのかい!?そうだよ、黒澤って弁護士の…その黒澤との間に出来た子供をね、連れて行っちまったんだよ!!今だよ、今さっき!!」
それから忍は、連城に事の顛末を早口で説明した。
「悪いけどね、直ぐにこっちに来てくれるかい!?それから、知り合いなら、黒澤って弁護士にも伝えてやってくれるかい?え?寅!?いいよ、あんな役立たずっ!!悪いね、頼んだよ!!」
松浪は、組のトラブルには決して仁を頼らない。
だが、妃奈は素人の娘だ。
仁を頼った所で、文句は言わせない!!
それに…切れ者で通っている森田を相手に、並の弁護士では歯が立たないだろう。
世界中を飛び回って仕事をしている仁が、日本に居てくれて良かった。
何しろ私達の仁は、日本で一番腕の立つ弁護士と言われているのだから…。
「良かったよ、妃奈…力強い味方が来てくれる……妃奈?妃奈!?どこに行ったんだい!?」
先程迄庭先に座り込んでいた妃奈の姿はそこになく、忍は大声で人を呼んだ。
「妃奈は!?誰か、見なかったかい?」
首を傾げる組の者の中で、1人が小さく手を上げた。
「さっき、裏木戸から出て行きましたが…買い物にでも出たんじゃねぇですか?」
「大変だ…あんた達、直ぐに捜して連れ帰っとくれ!!」
「へいっ!」
バラバラと走り去る組の者の背中に、忍は手を合わせた。
「頼むよ…早まった事をするんじゃないよ、妃奈!?」
「…奥様」
水差しを乗せた盆を持った女中が、心配そうに声を掛けた。
「あの…頭痛の方は、大丈夫ですか?」
「…ぇ?」
「お薬を、お持ちしましたが…」
「そんな物!?ふっ飛んじまったよっ!!」
妃奈は、取り去ったエプロンを握り締め、ひたすら走っていた。
庭履きの木製の突っ掛けの音が、辺りにカラコロと響き渡る。
街中に似つかわしくないその音に、そして泣きながら走る白髪の異国の女性に、街行く人々が振り返る。
いつもなら、妃奈が一番避ける目立つ行為を物ともせずに、彼女はひたすら先を目指した。
自分のせいだ…自分が、森田組長との約束を守らなかったから!!
黒澤ばかりか、幼い琥珀迄危険に曝す結果になってしまった!!
黒澤や琥珀の命に比べたら、あんな土地や財産等、あの親戚達にやってしまっても良かったのに…。
我が手に入らずとも、欲に目が眩んだ結果の失態だ!!
…黒澤に…琥珀の事を頼むと…自分が迎えに行く迄頼むと言われていたのに…自分には、そんな当たり前の約束すら守る事が出来ない…。
森田組長の言った様に、自分には琥珀の母親になる資格がないのだろうか?
金も…身寄りも…安定した仕事も住まいも持てず、琥珀に十分な事もしてやれず…いずれは学校に上がる琥珀に、十分な教育もさせてやれないのではないか?
琥珀は、そんな母親をどう思うだろう?
生まれて来た事を…母親のエゴで産んでしまった事を、いずれは呪い、恨むのだろうか?
黒澤は…どう思ったのだろう?
いきなり子供を連れて来た自分の事を…。
黒澤と離され、一緒に暮らす家族が欲しいと、愛する黒澤の子供が欲しいと願った妃奈の自分勝手な想いと寂しさを、迷惑だと思っているのではないか?
…私は…琥珀と家族でいる資格はない…?
激しい吐き気に襲われて、妃奈は近くにあった公園のトイレに駆け込んだ。
胃がひっくり返る様な吐き気と共に、赤黒い吐瀉物をトイレに流す。
洗面所で口を濯ぐと、額から流れる脂汗と口元を手に持ったエプロンで拭い、妃奈は鏡に映る涙目の自分の顔と対峙した。
…黒澤は、琥珀を自分の息子だと言ってくれた…。
今は、その言葉に縋るしかないのだ!!
黒澤を…そして琥珀を守るには、黒澤の想いを信じるしかないのだ!!
奥様は電話で、森田組長は琥珀を百人町の堂本組に連れて行くだろうと言っていた。
新宿の百人町にある堂本組…あそこなら知っている…前を通った事がある。
松浪組と同じ様に高い白壁に囲まれた、大きな旅館の様な屋敷だった筈だ。
公園から出た妃奈は、新宿方面に向かって再び走り始めた。
「君は、一体何をしている?あの娘を守って、幸せにしてやるんじゃなかったのか?」
「は?…何の話ですか?」
突然電話を掛けてきた連城仁から、呆れた様な言葉を投げ掛けられ、黒澤は面食らいながら携帯電話を握り締めた。
「高橋妃奈さんは、今、松浪組に世話になっているそうだな?」
「え?えぇ…事情がありまして…」
「どんな事情があるにせよ、結婚もせずに自分の子供を産ませた女性を、他人に預けるとは…関心しないな」
「…何故、そんな事迄…」
「病院には?鷹栖総合病院には、連れて行っているのか?」
「…いぇ」
「何をしているんだか…全く…」
電話の向こうで溜め息を吐く連城にむかついて、黒澤は思わず楯突いた。
「貴方にそんな事を言われる筋合いはありません!」
「私も関わりを持った娘だ…そして、これからはクライアントになる娘だ。だから聞いている…詳しい事がわからなければ、依頼を受ける訳にはいかないからな」
「依頼を?連城さんがですか?何故!?」
「…彼女の息子が…君の息子だそうだが…誘拐されたそうだ」
「えっ!?」
「今日の昼、松浪組に森田組長が現れて、彼女と松浪組長の奥方の目の前で、琥珀君を連れ去ったらしい」
「何故!?何故です!!妃奈は!?」
「…行方不明だ。その後直ぐに、姿を消した」
膝から力が抜け、黒澤は携帯を握ったままソファーに沈んだ。
又なのか…又、失ってしまうのか…。
それもこれも、全て森田組長の…!!
「森田組長は、何故そこまでの行動を取るのだ?」
電話の向こうで、連城が疑問を口にした。
「松浪組の奥方から、嶋祢会長の娘との縁談話を、君が断り続けているのは聞いた。しかし、もう2年も同じ様な状態なのだろう?何故今更、森田組長が誘拐等割りの合わない事をするのだ?」
「…色々あるのですが…先日、私の事務所で妃奈に会って、子供の存在を知ったからでしょう」
「隠していたのか?」
「と言うより、私も先日…初めて知りました」
「どういう事だ?」
「妃奈は…約2年前に家出をして…ずっと行方がわからなかったのです。まさか、私の子供を産んで育てていたなんて…」
「…相変わらず甘いな、君は…」
「貴方に何がわかります!?」
「少なくとも、彼女が君の元を離れた理由は聞いている」
「何なんですか、一体!?」
「聞いてないのか?」
連城の驚いた様な言葉に、黒澤は勢い込んで尋ねた。
「森田組長に、何かを約束させられたらしいのですが、何度尋ねても妃奈は頑として答えないのです!一体何を約束させられていたのです!?」
「…どうやら、君の命を片に取られた様だ」
「何ですって!?」
「彼女が、君の元を去る事が条件だったのだろう。それが再会を果たし、尚且つ子供が居ると知り、君が縁談を絶対に受け入れないと悟ったという事だ。森田組長は、琥珀君を誘拐して、彼女に松浪組を出て行く様に脅し…君の命か琥珀君の命、どちらかを差し出せと言ったらしい」
「…そんな事をしたら…妃奈は…きっと…」
妃奈の考えている事を想像し、黒澤はブルリと震えた。
「森田組長は、今どこに!?」
「奥方の話だと、多分堂本組に居るのではないかという事だ。私も、今からそちらに向かう」
「妃奈も、多分堂本組に向かっていると思います。連城さん、私からも改めてお願いします。妃奈と琥珀を…助けて下さい!」
「君は、どうする?」
「私も、準備をして直ぐに向かいます!!」
「わかった。向こうで落ち合おう」
「宜しくお願い致します」
携帯の電源を切ると、黒澤は金庫から書類を取り出し、数枚のコピーを作成して用意してあった封筒に入れた。
「小塚、皆を集めてくれ」
準備が整うと、黒澤は封筒を事務所の面々に渡した。
「何ですのん、兄さん?」
「厳重に封がしてありますが?」
「いいか、よく聞いてくれ。最悪、事務所を閉める事になる重要な話だ」
「何があったの?」
分厚い封筒を持つ手に力を込めながら、磯村が眉を潜めた。
「琥珀が…森田組長に誘拐された」
「何ですって!?」
「妃奈さんは!?無事なんですか!?」
「あぁ…唯、行方がわからない。多分、森田組長を追って、堂本組に行ったんだろうが…」
「向かわれますか?」
小塚の言葉に、黒澤は静かに手を上げて制した。
「…私に、もしもの事があった場合…今配った封筒を開けて、中に入っている封書を投函してくれ」
「もしもの事って…坊っちゃん、一体何をなさるおつもりですか!?」
「妃奈と琥珀を、取り返しに行くだけだ」
「坊っちゃん…」
「いいか、お前達は絶対に中身を見るな!中に納めてある封書を、唯投函するだけでいい。そして各々、自分の生活を守ってくれ」
「…所長」
心配そうに眉を潜める面々に、黒澤は笑顔を向ける。
「心配するな、無事に帰って来る。それは、唯の保険だ。小塚、車を出してくれ」
「承知しました」
小塚の後を追う黒澤に、磯村が声を掛ける。
「黒澤!!ちゃんと帰って来なさいよ!?」
「勿論だ」
「帰って来ないと、承知しないわよ!!」
「兄さん…コレ、持って行って下さい」
「何だ?」
「隠しマイクとGPSが埋め込んでありますねん」
田上はそう言って、カフスボタンを黒澤の袖口に着けた。
「俺は、離れた場所で待機してますよって…録音は?」
「そうだな…頼んだ」
「わかりました。ほな、一足先に出ますんで…呉々も、無茶だけはせんとって下さいよ?」
「わかってる」
田上が事務所から出ると、涙を溜めた栞が上着を抱えて追い縋った。
「待って下さい、坊っちゃん!栞も参ります!!」
「何言ってる!?お前は、ここで待て」
「いいえ!!妃奈さんが出て行くのを止められなかったのは、栞に責任があります!」
「それは…前も話しただろう?栞が責任を感じる事はない。あれは、森田組長の策略だ」
「いえ…それに、栞は…森田組長に申し上げる事があるのです」
「何を?」
「…栞と森田組長の約束事です。それをきちんと果たして頂く為にも、栞は同行致しますよ!」
「…栞」
「それに、妃奈さんと琥珀ちゃん、2人は抱えられませんでしょう?小さい子供の面倒は、女性でなくては…」
「危険なんだ…頼むから」
「自分の身は、自分で守れますよ!!まだ坊っちゃんにも引けを取りません!何なら、手合わせ致しますか!?」
栞の剣幕に、黒澤は苦笑して折れた。
確かに、妃奈と琥珀2人を庇って行動するには少し無理がある。
「わかった…何かあった時には、栞は琥珀を頼む」
「承知しました。参りましょう、坊っちゃん!」
栞を伴ってエントランスに現れた黒澤の姿を見て、小塚は眉を上げた。
「…私も同行致します」
「いや、お前には頼む事がある」
「何でしょう?」
「先ずは、車を出してくれ。銀行に向かう」
「承知致しました」
銀行に到着した黒澤は貸金庫室に入り、内ポケットに入れていた封筒を取り出した。
先程皆に渡した手紙の原本と、もう1枚の封書を…『遺言書』を、自分の契約している貸金庫に納め、事務所の通帳と印鑑を取り出した。
そして、ネクタイのノットを緩めシャツのボタンを外すと、首から下げていた鍵束を外す。
妃奈がいつも下げていた鍵のネックレス…その中の貸金庫の鍵で、もう1つ契約している金庫を開けると、黒澤は先の金庫に入れていた妃奈名義の通帳と土地の権利書等を移し、双方の金庫を閉めた。
そして、妃奈のネックレスの鍵で開けた金庫の名義を、黒澤から妃奈名義に書き替えたのだ。
車に戻ると、黒澤は事務所の通帳と印鑑、そして貸金庫の鍵を小塚に渡して言った。
「もしもの時には、兼ねてから打ち合わせしてある様に、宜しく頼む」
「…承知致しました。お預かり致します」
「百人町に…堂本組に向かってくれ。お前は私達を送った後、田上と合流して状況を把握し行動して欲しい。それと…最悪の場合、お前に渡した封筒に入っているUSBのデータを…拡散させろ」
「…万事、お任せ下さい」
各々沸き上がる不安と緊張に、自然と顔が強張る。
堂本組の前に到着した時、小塚はいつもの様に先に降りると後部座席のドアを開けた。
そして降り立った黒澤に、軽く頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ」
「あぁ」
「お帰りを、お待ちしております。ご連絡下さい」
「…わかった」
小塚が車に戻り発進するのを見届けると、黒澤は緊張する栞の肩に手を置いて、堂本組の門を潜った。




