(49) 松浪家
「…成る程な。それで?その相手の男ってのは、どんな奴だった?」
松浪寅一は、妻である忍と共に、フェニックス弁護士事務所から帰った佐野から、事の顛末を聞いていた。
「先程も話しましたが、森田組の弁護士なんですがね…何というか…火の玉みたいな野郎です」
「本当に、妃奈の躰を傷付けたのは、その男じゃないんだろうね!?」
先程から真っ赤な顔をして聞いていた忍が、膝を乗り出して意気込んだ。
「あたしゃ、その男が妃奈を傷付けた張本人だったら、あの子も琥珀も絶対に渡しゃしないよ!?」
「いゃ…それはありませんって、姐さん。黒澤は、妃奈にベタ惚れって感じでしたし、琥珀の事も喜んでるみてぇで…見てるこっちが恥ずかしくなっちまう程の可愛がり様でした」
「妃奈は?どうだった?」
「最初こそ逃げ腰で、嫌がってる様に見えましたがね。俺達には見せねぇ様な顔してましたからねぇ…惚れてんだと思います」
「じゃあ、例の約束ってのは…」
「十中八九、森田組長と何かあったんだと思いますね。森田組長の詰め寄り方も、半端なかったですから…」
「う〜ん」
嶋祢会長の末娘である蝶子と、森田組の弁護士の縁談が持ち上がったのは2年前。
その後、一向に話が進まない事を不思議に思ってはいたが…まさか、あの蝶子が横恋慕しているとは知らなかった。
「千太郎も、今度こそは蝶子を落ち着かせたいと思ってたんだがなぁ…」
「嶋祢会長がですか?」
「あぁ…今度は、蝶子もその気になっている様だし、相手の男を婿養子にしてもいいって話になってた筈だ。まぁ、互いに大人だし、本人達に任せてるとは言ってたがな」
「だけどね、寅!?その弁護士と妃奈の間には、琥珀が居るんだよ!?その弁護士も妃奈を想ってるんなら、蝶子は岡惚れしてるって事だろ?」
「まぁ…なぁ…」
「何とかしてやれないのかい、寅!?横車押してるのは、森田組長なのかい?それとも、堂本組長なのかい?」
「落ち着け、忍!…まだ、何もわかってねぇ」
「落ち着いてなんかいられないよっ!あたしゃ、あの子達が不憫で…妃奈は、帰ってからずっと泣き通しなんだよ!?」
出会った時から妃奈は、ほとんど感情を表に出す事のない娘だった。
子供を産む前には、縁側で語り掛ける様に腹を撫で、唯遠い目をして空を眺めいた。
子供が生まれてからは、時折琥珀と自分の額を着けて、静かに目を閉じている様な娘だ。
その妃奈が、新宿に行く前から、そして帰ってからもずっと琥珀を抱いて泣いているという…。
妃奈が感情を表したのは、初めて浅草の本宅に連れ帰った時に逃げ出そうとした時と、先日女弁護士が訪ねて来る前に、琥珀を抱いて暇乞いをした時だけだ。
どれだけ尋ねても、妃奈は『話せません』『約束しました』『申し訳ありません』と言って泣きながら暇乞いをし、頑として口を割らなかった。
松浪が妃奈をヤクザな家業であるこの家に留め置いているのは、山で命を救って貰った恩があるからだ。
1年半前、1人で奥多摩の庵に釣りに行き、足を滑らせ川の中で動けなくなっていた所を、山の中で1人生活をしていた妃奈に助けられた。
身重で身寄りのない妃奈の生活を守ってやる事が、命を助けられた者の仁義だと思ったのだ。
春から秋の川釣りが解禁されている時には、奥多摩の庵を管理させ、秋から春迄は浅草の本宅で住込みの下働きをさせている。
無口で愛想のない娘だが、文句も言わず独楽鼠の様に良く働く妃奈を、忍も組員達も甚く気に入った。
子供に恵まれなかった松浪夫婦にとって、孫の様な琥珀が生まれた事も、忍を喜ばせた一因だった。
大人の色気を持つ妃奈が自分の年齢を言わなかった為、勝手に20半ばだと思い込み、若頭である佐野と娶らせ様と思っていた位だ。
一度佐野と同衾を申し付けたが、翌朝佐野が苦笑いをして、手を付けられなかったと報告して来た。
妃奈はきっちりと洋服を着込み、一晩中琥珀を抱いたまま部屋の隅に座っていたらしい。
「無理に手を出したら、自害でもしそうでしたんで…」
そう佐野は笑っていたが、その後も変わりなく妃奈親子を可愛がっている。
妃奈親子を佐野の部屋で生活させ、周囲へも佐野へ娶らせ様としている事が伝わり、妃奈に手を出そうとする輩からは牽制になった様だ。
頭に血が上った忍を下がらせると、松浪はニヤニヤと笑う佐野に声を掛けた。
「佐野、おめぇはいいのか?」
「何がです?」
「何って、おめぇ…妃奈を娶る話に決まってんじゃねぇか」
「止してくださいよ、親父…妃奈は、今日20歳になったばっかしで…私の娘って言っても、可笑しくない歳ですぜ?」
「けど、おめぇ…気に入ってたろ?」
「ありえませんって…昨日迄10代だったなんて、犯罪でしょう?それに、妃奈は黒澤の事をずっと想ってたんだと思いますぜ?あの涙は、恋しい男と引き裂かれた涙でしょうし…私の出る幕はありませんや」
「まぁ…おめぇがいいなら、何も言わねぇがな」
「…蝶子お嬢さんにも、会っちまいましたしね」
「……」
かつて嶋祢会の若頭をしていた松浪は、会長である嶋祢千太郎とは竹馬の友になる。
勿論、嶋祢千太郎の3人の子供達の事も良く知っており、子供の頃から慕っている堂本清和に会う為に嶋祢蝶子が仙台から上京した折りには、よく松浪の家に逗留させていた。
だが、当の堂本清和からは全く相手にされず、その内に清和には、しずかという恋人が出来た。
先代の堂本組長は、何とかして息子と蝶子の縁談をまとめ様としたが、息子である清和は頑として受け付けなかったのだ。
結局先代が亡くなり、堂本の組長を襲名した席で、清和はしずかと籍を入れる事を発表した 。
勿論その裏には、今後の嶋祢会と堂本組の事を懸念した松浪が、嶋祢千太郎に口添えした曰くがあるのだが…治まらなかったのが、蝶子の気持ちだ。
結婚前から清和個人や、恋人であるしずかに対しての嫌がらせが激しかったが、籍を入れた時にはそれが爆発した。
合口片手に堂本組に乗り込もうとした蝶子を止めたのが、当時松浪組の本部長をしていた佐野だった。
蝶子が振り上げた合口を自が身に受け、命懸けで彼女を組伏せて籠絡し宥めたのだ。
当然、嶋祢会長の娘を手込めにしたと当時は大騒ぎになったが、当の蝶子が『自分から誘った』と白状した為、大事には至らなかった。
それからも度々浮き名を流す蝶子は、1つの恋が終わる度に上京し、佐野を誘っている。
佐野がこの歳迄独身を貫いているのは、蝶子が落ち着く迄はと身を律しているからに他ならない。
組の後を任せ様と思っている松浪にしてみれば、早く身を固めさせてやりたいと思うのだが…。
「おめぇ…いっその事、蝶子と身を固める気はねぇのか?」
「何仰ってるんです、親父!?滅相もありませんや…わかっていらっしゃるでしょうに…」
「……」
「親父が、妃奈を私にと考えて下さったのは、琥珀がいたからでしょう?」
「蝶子も、あの歳だ…今更子供なんて、考えてねぇだろ?」
苦笑いして頭を掻く佐野は、蝶子と関係を持ち何の裁きも下されないと決まって直ぐに、ケジメとして自ら子供の出来ない躰にした。
佐野とは、そういう義理堅い男だ。
「蝶子お嬢さんは、私の事など何とも思ってらっしゃいませんや」
「だが、蝶子は…毎回、おめぇの所に来るじゃねぇか」
「それは…唯の腐れ縁ってヤツですよ、親父」
佐野の言葉に、松浪は開け放たれた障子の向こうに広がる庭を眺めた。
このままでは、誰もが傷付き報われない…。
何とかしてやりたいが…だれも助けを求めて来ない今の状況では、何ともしてやれない…況してや、他の組の内輪の話に割って入る事は出来ないのだ。
「黒澤が、全て終わったら挨拶に来ると言ってました」
「…そうかい」
「必ず妃奈親子を迎えに行くから、それ迄宜しく頼むと言われましてね」
「……」
「柄にもなく、待ってやりてぇと思っちまったんですよ」
「おめぇ、そりゃ…父親の心境か?」
「そうなんですかね?そうしたら、琥珀は私の孫って事になりますが…」
まんざらでもなさそうに髭を撫でる佐野を、松浪は苦笑しながら見詰めた。
しかし、妃奈が35億もの資産家だったとは…それを又、惜し気もなく黒澤に渡してしまい、蝶子がその土地を狙っているとは…。
又、一波乱あるのではないかと思うと、松浪の顔はいっそう曇るのだった。
山の静謐な空気に浸る生活をしていると、都会の猥雑さに驚かされる。
一日中絶え間なく響く車の音やクラクション、人々のざわめき、救急車や消防車のサイレン…。
人工物の音とは、こんなにも心をざわつかせる物だったのかと、改めて認識した。
ホームレスをしていた頃は、そんな事思いもしなかったのに…。
庭木から舞う落葉を掃くと、その葉を追って琥珀が笑い声を上げて走る。
この屋敷に来て一番の収穫は、琥珀が良く笑う様になった事だ。
山で2人きりの静かな生活では、成長する子供にとっては刺激がない。
琥珀の為には、やはり都会で生活する方が良いのだろうか?
だが…先日、黒澤の事務所で森田組長に詰め寄られた事を思い出し、妃奈はブルリと震えた。
鶴岡日出夫と清水文彦に崖から落とされ、奇跡的に命が助かって後も、妃奈は里には下りず山で1人暮らしていた。
森田組長や鶴岡達に見付からない様に用心した事もあったのだが、もう人の悪意に曝されるのは懲り懲りだったからだ。
それに…黒澤を守る為とはいえ、唯一心を許した愛しい人との別れが、妃奈を自暴自棄にさせた。
このまま、静かに土に還ればいい…そんな気持ちになっていた妃奈が、再び生きる気力を取り戻したのは、琥珀を宿している事を核心してからだった。
あの崖からの転落でも生き抜いた強い生命力、何より黒澤との間に出来た愛し子なのだ!
何としてでも産み育てたい…その気持ちが、妃奈を奮い立たせた。
無人だった炭焼き小屋を見付け、木の実や木の芽、魚を捕りながら、しばらく生活していた。
次第に大きくなる腹を撫でながら出産の事を案じていた頃、川に釣りに来て足を滑らせ動けなくなった老人を助けたのだ。
幸い骨折はしていない様で、足首を固定し、老人の持つという川釣りの為の庵に送り届けてやった。
1人きりで動く事も儘ならない老人を放って置く訳にも行かず、怪我が治る迄はと世話をした事が切っ掛けで、庵の管理を任された。
時折川釣りに訪れる老人や客人の世話をして過ごす生活は、穏やかで…妃奈は、久々に人間らしい暮らしを満喫していた。
だが、川の解禁が終わる9月末に、釣りに訪れた老人から、3月迄庵を閉めると言われたのだ。
「おめぇも、それ迄は本宅に来るといい。出産の為にも、その方がいいんじゃねぇか?」
そう言われて、車で連れて来られた家を見て驚いた。
大きな屋敷に、厳つい面構えの男達…極め付けが、門柱に掲げられた『松浪組』と書かれた金看板!
慌てて逃げ出そうとした妃奈は、呆気なく男達に捕まり、松浪老人の前に突き出された。
「驚いたか?そういやぁ、おめぇに素性を言ってなかったな?」
「……」
「だが、おめぇ…儂の背中の観音さん、拝ませてやったろ?」
「……本物の…ヤクザなんですか?」
「まぁなぁ…と言っても、儂はもう一線を退いてるがな。だが一応は看板も揚げてるし、子分も居る」
「……」
「おめぇ…ここを出て、どっか行く当てあんのか?」
妃奈は、黙って首を振った。
「なら、ここで下働きしながら子供産んで、生活すればいいじゃねぇか」
「…いいんですか?」
「その代わり、生活はキツいぞ?ウチのかかあは気性が激しいし、女中頭は礼儀に厳しいので有名だからな」
「……」
「どうする、妃奈?」
子供を産み育てるには、どうしても安定した生活が必要だ…とても路上生活では育てられない。
区役所に言ってシェルターや仕事を紹介して貰うにしても、素性を明かさなければならない。
下手をすれば、育児能力がないと判断され、子供を取り上げられるかもしれない。
それに、素性を明かした事で森田組長や黒澤に居場所を知られたら、又逃げ出さなければならなくなる…それならば、子供が大きくなる迄世話になる方が得策なのではないか?
身寄りのない、素性の怪しい妊婦を雇う所等、そうそうあるとは思えない。
例え、それがヤクザな家業だったとしても、それが何だというのだ!?
「…宜しくお願いします」
そう言って、妃奈は松浪組の屋敷に住込みで働く事にした。
仕事は忙しく、躾もそれは厳しい物であったが、松浪組の人々は情に厚い人間ばかりだった。
琥珀を出産した時も直ぐに医者が呼ばれ、倒れた妃奈を手厚く看病してくれた。
子供を産んだ事で疎まれると思いきや、松浪夫婦を始め組員も女中仲間も、揃って琥珀を可愛がってくれる。
ありがたい事に、春になり奥多摩の庵に帰るのを引き留められる程だったのだ。
「秋には、必ず帰って参ります」
そう約束させられ、約半年間琥珀と2人で奥多摩の生活を送った。
浅草の本宅に帰って来たのは9月の末…大きくなった琥珀と2人、妃奈は温かく迎え入れられた。
親子程年の差がある佐野と、夫婦にならないかという話が飛び出した時には流石に驚いた。
松浪組長が、佐野と一夜を共に過ごす様にと命令したのだ。
だが、妃奈が無言で抵抗すると、佐野は妃奈に無体な事は何もせず、その後も変わらずに琥珀を可愛がってくれる。
組長の命令で、親子2人佐野の部屋で生活をする様になっても、佐野の態度は何も変わらなかった。
「皆が誤解してても無視しとけ。その方が、お前にとっても都合が良いだろ?」
若頭である自分との結婚話は、他の組員達の牽制になると言われ、妃奈は甘んじてそれを受け入れた。
皆が、妃奈と琥珀に温かい…そんなぬるま湯の様な生活が一変したのは、田上が事務所を訪ねて来てからだ。
来客の為にお茶を運んだ妃奈は、田上の姿に息が止まりそうになった。
互いに何も言わず、素知らぬ振りで別れたが、田上が妃奈に気付かない訳がない。
妃奈は、その日の内に松浪夫婦に暇乞いを願い出た。
「何言ってんだい、妃奈!?ここでの暮らしに、何か不満があるっていうのかい!?」
目を吊り上げて、忍が妃奈に声を荒げた。
「とんでもありません!こちらの皆様には…本当に良くして頂いて…」
「じゃあ、何だっていうんだい!?」
「…申し訳ありません」
「ここを出て、どこか行く当てがある訳でもないんだろ?」
「…それは…」
「第一、琥珀はどうするんだい!?」
「……」
「言っちゃぁ何だけどね、妃奈…お前の様に身元を隠して、然も子持ちの女を雇う所が、余所にあると思うかい?」
「……」
「そりゃね、探しゃあね…あるだろうよ。だけど、それが子育てするのに相応しい場所か…あんただって、わかってる筈だよ!?」
忍の言い分は、尤もだ…親子2人、ここ以上に大切にされ受け入れて貰える職場等、ありはしない…だが…。
「…約束したんです」
「誰とだい?」
「…お話し…出来ません」
「何を約束したっていうんだい!?」
「…申し訳ありません」
「それは、あんたが素性を隠してる事と、何か関係があるのかい?」
「……」
「まぁね…ウチだって、子育てに相応しい場所ではないんだろうけどねぇ。それでも…」
「いぇ!!決して、その様な事は…」
「なら、話は簡単だ。今迄通り、ここに居るといいんだよ」
「…奥様」
「それが、琥珀にとっても一番いい選択なんだ。親なら、子供の幸せを一番に考えるべきだろ?いいね、妃奈!?」
「……ありがとうございます、奥様」
忍に押し切られる様に言いくるめられ、引き続き松浪組に世話になる妃奈の元に磯村が訪ねて来たのは、その数日後の事だった。
そして、黒澤の事務所での出来事…。
森田組長と佐野は、知り合いの様だった。
それに佐野は、黒澤と結婚する筈の女性とも知り合いの様だった。
黒澤は、もう逃げるなと…必ず迎えに行くからと言っていたが、本当にこのままここで待っていていいんだろうか?
松浪組の方々に、迷惑を掛ける事にならないだろうか?
「おっ、ここに居たか、妃奈…お前に客人だぜ?」
門で警備を担当する組員が、琥珀に手を振りながら話し掛けて来た。
「お客様ですか?…私に?」
「今、こっちに来て貰うからよ。それにしても、お前…えれぇお方と知り合いなんだな?」
言われた途端、背筋に寒気が走り抜けた。
「…どなたが…お見えになったんですか?」
「堂本組の若頭だ。新宿の森田組長だよ。直ぐに案内して来らぁ!」
走り去る組員の背中を見詰めながら、妃奈は琥珀を手元に引寄せ、抱き締めた。




