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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
48/80

(48) 相続と発覚

9月下旬迄暑かった今年の夏も、10月に入ってから立て続けに来た台風によって爽やかな秋の風に変わった。

下旬になると見る間に木々は色付き、テレビでは紅葉情報等が報道されている。

事務所の敷地にある楓や桜の木も、徐々に色を変えて行った。

妃奈に見せてやりたい…ステンドグラスの中だけではなく、世の中は美しい色に溢れているという事を、下を向いてばかりいた彼女は知っているだろうか?

「すっかり秋めいて来ましたなぁ」

「本当に…いい季節になりましたね」

「今後、こちらはどの様になさる計画なんですか?」

「いやぁ…欲しいと言われる方が結構いらっしゃるんですよ。立地も良いし、オリンピック迄後少しですからね。マンションの建設地には、最適な様で…」

事務所に使っていた元のメインダイニングには、ゆったりとしたソファーセットが置かれ、鶴岡明夫と清水月子の兄妹、そして彼等の連れて来た弁護士が、出された珈琲を飲みながら勝手な事を話していた。

バースデーパーティーの時、妃奈を傷付けた日出夫と文彦は、庭のテラスで何やら2人で話し込んでいる。

黒澤は何も言わずに、庭から部屋の時計に視線を移した。

昨夜、磯村から妃奈が見付かったと言われた時の驚きと喜び。

「何故直ぐに言わなかった!?何処にいる!?」

「教えないわ。約束したの」

「何故!?」

「彼女の気持ちが…」

「気持ち?帰りたいに決まってるだろう!?妃奈は、無理矢理出て行かされたんだぞ!!」

黒澤の匂いに包まれていないと安心出来なかった妃奈が、クローゼットに籠って寝ていたのを起こした時の言葉が思い出される。

『…嫌だぁ…どこにも…行きたくない…』

『黒澤と一緒に…一緒に居る…ここに居る…』

あの頃、黒澤の居ない時を見計らう様に森田組長が度々妃奈を訪ね、彼女を脅していたのだ。

寝惚けた妃奈が吐いた言葉…あれは、妃奈の本音に間違いない!!

「妃奈の帰る場所は、ここしかないだろう!?」

「…黒澤には、会えないって言ったのよ、彼女」

「そんな事は、どうでもいい!!連れ帰って説得する!場所を教えろ!!」

「駄目よ」

「磯村!?」

「…おいそれと訪ねられる場所じゃないのよ」

「何だと?」

「…彼女…松浪組に居るの」

「松浪組…って、浅草のか?」

「そう、堂本組の相談役の松浪寅一組長が、彼女の面倒見てるのよ」

「……森田組長から預かったという事か!?」

「違うみたいよ?森田組長の名前を出したら、あっちの若頭(わかがしら)が驚いてたから」

磯村にたしなめられる様な視線を向けられ、黒澤は幾分落ち着きを取り戻した。

「…元気なのか?」

「会ったら驚くわよ?すっかり大人になって…綺麗な…女性になってたわ」

「そうか…」

「松浪組の若頭(わかがしら)をされている佐野さんって方が、明日連れて来て下さるそうよ」

「……」

「松浪組長と奥方が、貴方とは会えないって(かたく)なに言い張るあの娘を、懸命に説き伏せてくれたらしいわ」

「…来るんだな?」

「えぇ…その前に、黒澤に話して置く事があるのよ」

「何だ?」

「驚かないでね……彼女…子供が居るの」

「…ぇ?」

「男の子だそうよ」

「だが…戸籍や住民票には、何も……無戸籍…なのか?」

「多分ね。逃げ回ってたんだもの。彼女、松浪組でも姓を隠して、下の名前だけで過ごしてたの。それに、子供も物置小屋で1人で産んだって…自分で産湯(うぶゆ)に入れてから、倒れたんだそうよ。直ぐに医者を呼んで貰って、事なきを得たそうだけどね」

歴史は繰り返す…親子揃って無戸籍児とは、一体何という因縁(いんねん)だろう…。

「…父親は?」

「黒澤でしょう?覚えがないの?」

「妃奈は、何と言っている?」

「…自分の子供だって…それ以上は、何も話さないわ」

「……」

「それより、鶴岡達に何かされたみたいよ?」

「何だと!?」

「何も話さないけど、間違いないと思うわ」

眉を潜める磯村に、黒澤はギリッと歯を鳴らした。

後少しで、時計の針が3時指す。

「そろそろ始めませんか、黒澤さん?」

「待ち人は、来そうにもありませんな」

ハッハッと笑い声が重なり合う事務所に、リンゴンと(おごそ)かなドアベルの音が響く。

栞と田上が事務所を駆け出すと、程なくして一組の男女が姿を現した。

黒いスーツを(いき)に着崩し、顎髭(あごひげ)(たくわ)えた壮年の男を磯村が出迎える。

「本日は、ありがとうございます、佐野さん」

「いやぁ…今日は、唯の付き添いだからな」

そう言って、佐野と呼ばれた男は(おび)える妃奈の背中を押した。

「さっき迄、ずっと泣いててな…目玉が溶けるかと思ったぜ」

「……」

「ほら、行ってこい。俺は、ここに居てやる。帰って、親父に報告しなきゃなんねぇしな」

妃奈は俯いたまま頷くと、黙って磯村に誘導されて黒澤の隣に座った。

固唾(かたず)を飲んで見守る他の面々は、顔を引き()らせて妃奈を凝視(ぎょうし)する。

「それでは、始めましょうか?」

テラスに居た日出夫と文彦も席に着き、強張った顔で妃奈を睨み付けた。

「貴殿方が懸念されていた、高橋妃奈さんの同席が叶いました。従って、亡き鶴岡聡氏の遺言通り、彼の資産は全て高橋妃奈さんが相続される事になります」

そう黒澤は宣言し、磯村が用意した用紙に妃奈がサインをする姿を見守った。

苦々しく見ていた鶴岡明夫が、自分達の弁護士をせっつく。

「先生!?」

「いやぁ…話が違うじゃないですか、鶴岡さん。高橋さんは、この場に来られないんじゃなかったんですか?」

「しかし…何とかなりませんか!?」

「法定相続分の請求ですか?ならない訳じゃありませんが…黒澤さん、こちらが法定相続分の請求をした場合、そちらはどの様に対応されますか?」

「徹底的に争いますよ。大体、先々代の鶴岡喜三郎(つるおか きさぶろう)氏は、鶴岡家の財産を子供達に等分に相続させたのです。それを、自分達の分を使い果たしたから従兄弟の財産を狙うなんて、虫のいい話だと思いませんか?図々しいにも程がある」

「まぁ…そちらには、遺言書もありますしね」

「先生!?」

「貴殿方、直ぐにでも現金が必要なんでしょう?黒澤さんが徹底的争う姿勢を示されたのだから、裁判を起こしても長引きますよ?それに、取れない確率の方が高い。取れたとしても、費用諸々で赤字が出てもおかしくないし、裁判費用だって馬鹿になりませんからね」

「…そんな」

「それよりは、相続される高橋さんと話し合ったら如何ですか?私は、この辺りで退散させて頂きます。鶴岡さん、今迄の経費は後日郵送にてお知らせ致します」

「先生、待って下さい!!ここでまとまった金額を押さえないと、私達は…」

慌てる鶴岡明夫と清水月子は、退散しようとする弁護士を押し留める。

「前にもお話しましたが、私は金融会社との折衝(せっしょう)は致しませんよ?命が幾つあっても足りませんからね。それでは、失礼します」

弁護士は一同に頭を下げ、そそくさと退散した。

慌てる鶴岡明夫を尻目に、清水月子は猫撫で声で妃奈に擦り寄って来る。

「ねぇ、妃奈さん?貴女、その若さでこの土地をどうしようと考えてるのかしら?」

妃奈は、俯いたまま首を振った。

「ウチの文彦はね、優秀な成績で大学を卒業して、大手不動産会社に就職したの。文彦に土地の運用を任せてみてはどうかしら?」

尚も首を振る妃奈に、月子は妃奈の手を取ろうと近寄った。

「何も、土地を取り上げようって言うんじゃないのよ?やっぱり、こういう事に詳しい文彦と一緒になって、行く行くは…」

「…嫌…嫌です!…止めて下さい…」

手に触れられた途端に、妃奈は(おび)えて小さな悲鳴を上げた。

「止めて頂きましょう!!」

黒澤が隣から妃奈の躰を庇う様に抱き寄せると、控えていた小塚が月子と妃奈の間に割って入った。

抱き寄せた途端、妃奈はピクリと痙攣(けいれん)し、俯いたまま微かに震えている。

(おび)えられているのは、自分に対してもなのだろうか?

妃奈の膝に乗った手を握り込み、顔を覗き込もうとすると、妃奈は震えながら顔を背けた。

「月子!?勝手な事を言うんじゃない!!自分達だけ甘い汁を吸う積もりか!?」

「何言ってるの、兄さん!そんな事を言い合ってる場合じゃないわ!」

「いいや!お前は文彦を餌に、その娘を取り込む算段なんだろう!?そうは行かない!!妃奈さん、少しでいいんだ。ほんの5億…いや、3億でいい。融通(ゆうずう)して貰えないか?」

「止めておいた方がいいわ、妃奈さん。兄さんに貸しても、ビタ一文(いちもん)返して貰えないわよ」

「月子!何て事を…」

「あら、本当の事じゃない!」

目の前で繰り広げられる(みにく)い争いに、黒澤の手の内で妃奈の手が固く握り締められる。

「いい加減にしろっ!!」

黒澤の恫喝(どうかつ)に、言い争っていた2人はピタリと口をつぐむ。

「…祖父の…祖父の遺産は…貴殿方には、渡しません」

小さいが、ハッキリした声で妃奈は言った。

「何故!?35億よ?土地だけでも30億を下らないのよ!?少し位、私達に融通(ゆうずう)してくれたって…」

「嫌です!」

「妃奈さん、頼む!!後生だから融通(ゆうずう)してくれ!!でないと、私は会社も家も…何もかも失ってしまう!」

足下に土下座する鶴岡明夫に、妃奈は低い(うな)り声を上げた。

「…貴殿方の息子達が…私に何をしたか……貴殿方は、()うにご存知ですよね?」

明夫と月子の顔色がサッと変わり、先程から黙って成り行きを見ていた日出夫と文彦の顔が、再び強張った。

「…何をした?」

「……」

「妃奈に…私の婚約者に、何をした!?」

激昂(げきこう)した黒澤は立ち上がり、足元で這いつくばる鶴岡明夫の胸ぐらを掴み引き上げた。

「ひぃ~っ!?わっ…私は…何も…」

「嘘を言うんじゃないっ!!」

大きな犬歯を剥き出して鶴岡明夫を締め上げる黒澤の腕に、妃奈がぶら下がる様にして懇願(こんがん)する。

「駄目…駄目です、黒澤さん!止めて下さい!」

「…黒澤…さん…だと?」

黒澤の形相に、妃奈は(おび)えて俯いた。

「お前達は、又過ちを繰り返すのか!?」

「所長、それ以上は…」

鶴岡達に向かって怒りをぶちまける黒澤に小塚が制止の声を掛けると、黒澤は尚更(なおさら)腕に力を込めて鶴岡明夫を吊り上げ、炎の様な眼差しを他の人間に向けた。

「お願い、止めて!お願い…シュウ…」

瞳を潤ませて震える妃奈の言葉に、黒澤がようやく手を離すと、鶴岡明夫はヒィヒィ言いながら日出夫の元に這って逃げた。

シンと静まり返る室内とは対照的に、庭では小さな子供のはしゃぐ声が響く。

まるで仔犬の様に転がりながらヨチヨチと歩く子供の後を、田上が笑いながら追い掛ける。

子供を捕まえた田上が、そのまま天に向かって腕を伸ばすと、子供はキャッキャと笑い声を上げた。

「彼女に言っても無駄ですよ」

書類封筒を振りながら、磯村が鶴岡明夫と清水月子に宣言する。

「高橋さんが相続された35億の遺産は、彼女の希望により…全て黒澤弁護士に…『フェニックス弁護士事務所』に寄付されます」

「何だって!?」

「そんな…馬鹿な事を…」

悲鳴を上げ黒澤と妃奈を睨み付ける人々の視線に堪えかね、妃奈はブルリと身を震わせる。

「…妃奈…お前…」

青天の霹靂(へきれき)の様な磯村の宣言に、黒澤が妃奈の顔を覗き込もうとした時だった。

突然、文彦が庭に走り出ると、田上が地面に下ろしたばかりの子供に向かって突進した。

息と共に叫び声を呑み込んだ妃奈の視線の先で、田上は再び子供を抱き上げると、文彦に強烈な回し蹴りを食らわせ組伏せる。

妃奈が慌てて子供に向かって庭に駆け出そうとすると、今度は日出夫が隠し持っていたナイフを振り(かざ)し、妃奈を捕まえ羽交い締めにした。

「貴様っ!?」

「こっ…コイツの命を助けたかったら、かっ、金出せよっ!!」

妃奈にナイフを突き付けると、日出夫は黄色い髪を振り乱して叫ぶ。

黒澤は何も言わず、妃奈と日出夫に近付いた。

「くっ、来るなよっ!!コイツがっ、どうなってもいいのかっ!?」

向かって来る黒澤と、捕まえ羽交い締めにした妃奈の交互にナイフを向けて叫ぶ日出夫に、黒澤は有無を言わさずその頭を片手で鷲掴(わしづか)み、もう片方の手で妃奈を引き剥がした。

「お前…本当に…俺に…殺されたいらしいな?」

「や…やめろ…」

「お前達は知っていた筈だ!亡くなったお前の叔父に当たる人物が、かつて妃奈の母親にした事を…その為に、一家心中をせざるをえなかった事を!!なのに、又繰り返したのか!?お前達は!?」

頭蓋骨を掴んだ指に力を込めると、指先にミシリという感覚が伝わり、黒澤は口を引き上げて歯を剥き出して()えた。

「望み通り、握り潰してやるッ!!」

「ギャアァァーッ!!」

「止めて、止めてくれっ!金は諦める!!だからっ、だから、日出夫は…日出夫だけは助けてくれ!!」

再び土下座を繰り返す鶴岡明夫の悲鳴にも似た懇願に、黒澤は見下す様な眼差しを投げる。

「妃奈親子に…今後一切、手出しをするな!」

「わかった…誓う、誓うから…」

黒澤が投げ捨てる様に日出夫の躰を放すと、日出夫は父親に庇われながらも頭を抱えたまま悪態を吐いた。

「クッソ…お前のせいだ!!何で、何も関係ねぇ奴に…遺産渡しちまうんだ!?馬鹿じゃねぇのか!!」

黒澤の背に隠れる様にしていて聞いていた妃奈が、ビクリと痙攣(けいれん)した。

「死に損ないめっ!!お前さえ…お前さえ、あの時死んでりゃ…こんな事にならなかったんだっ!!」

「貴様っ!?」

黒澤の(こぶし)(うな)ると日出夫の躰が吹っ飛び、その躰を庇う様に鶴岡明夫が頭を下げながら抱き締める。

妃奈は視線から逃げる様に庭に飛び出すと、いつの間にか庭に出て子供を守る様に立つ佐野の足下から我が子を腕に抱いて座り込み、ひたすら名前を呼び続けた。

「…琥珀…琥珀…」

抱かれた子供は、母親に頬擦(ほおず)りされ嬉しそうな笑顔を見せている。

「警察に連絡を入れます。宜しいですね、所長?」

携帯を操りながら話す小塚の声に、黒澤は憎々しげな視線を鶴岡親子に投げて言い放つ。

「勿論だ…今日の事に加え、妃奈にした事もじっくり糾弾(きゅうだん)されるがいい!」



間もなく到着した警察に、鶴岡、清水両親子が連行されると、黒澤は後処理を小塚に任せ、妃奈の腕を掴んで所長室に連れ込んだ。

「…妃奈」

「……」

「妃奈!」

視線から逃れる素振りを見せる妃奈の肩を掴むと、彼女は(おび)えた様に後退(あとずさ)る。

(おび)えるな…怒ってる訳じゃない…」

「……」

「心配してたんだ…どうしてたんだ、お前…」

「……」

黙して何も語らない妃奈の頬に手を添え、そっと上を向かせる。

大人に成長し、母親になり、滲み出す様な色香と危うさを漂わす様になった妃奈に、黒澤は思わず喉を鳴らした。

「…妃奈…」

「…駄目です」

黒澤の胸に手を当て顔を背ける妃奈を、黒澤は強く引き寄せた。

「…駄目だ…許さない…」

強引に唇を塞ぎ、(むさぼ)る様な口付けを与えた…(あえ)ぐ様に空気を求める妃奈の唇を、何度も(ふさ)ぎ舌を絡める。

涙を流す妃奈の膝がカクンと力をなくすと、黒澤は彼女の躰を支える様に抱き締めた。

「…愛してる…妃奈…」

「…駄目…」

「愛してる…愛してる、Princes(プリンセス) Amber(アンバー)…」

「…駄目です…離して…」

「もういいんだ…帰って来い、妃奈…」

「駄目です…」

「何故!?」

駄々を()ねる様にフルフルと首を振る妃奈に、黒澤はキスの嵐で応酬(おうしゅう)する。

「…約束…約束しました」

「誰と!?」

「……」

「…森田組長か?」

「黒澤さんは、結婚されると…お聞きしました」

「誰と!?婚約者のお前を差し置いて、一体誰と結婚するって!?」

「……」

「お前は、それを鵜呑(うの)みにしたのか!?」

「違います!それでも…約束…したんです…」

「そんな約束…もう、無効だろう!?子供迄居るのに!」

「あの子は…あの子は、私の子供です」

「歳は?何月生まれだ?」

「……」

「父親は…俺だろう!?」

「…あの子に…父親は居りません。あの子は、私の子です」

「名前は?」

「……」

「……さっき『琥珀(こはく)』と呼んでいた」

「……」

「間違いないだろう!?何故否定する!!」

「……」

「帰って来い…お前達の帰る場所は、ここしかないだろう?」

自分の肩を掴んで震える妃奈は、あの時…西堀善吉のライターを警察から持ち帰った時と同じ様に、自分の(から)に閉じ籠っているのだ。

「俺との約束は?」

「……」

「俺の心を守ると…お前は、俺に約束した。その約束よりも、大切な物があるのか?」

「……それでも…約束…約束しました」

「お前…一体、何を約束させられた?」

むずかる妃奈を捕まえ揺さぶると、妃奈はハラハラと涙を流してしゃくり上げる。

「もう二度と…黒澤さんに会うことも…ここに来る事もないと思ってました。でも…この土地をどうしても…あの人達にだけは、取られたくなくて……黒澤さんに、どうしても渡したくて…」

「お前の遺産だ!俺が受け取る等、出来る筈もない!!」

「貴方に…差し上げると……以前にも、お約束しました」

「だが…」

「私は要らない…私には、必要ない。私では…守り切れない」

「俺が守ってやる!土地も、お前も、琥珀の事も!!俺に守らせろ、妃奈!!」

「……」

「…妃奈」

ユルユルと首を振ると、妃奈は自分の肩に置かれた黒澤の手に自分の手を重ねた。

「…私には…記憶があります。黒澤さんに優しくして貰った事、命懸けで守って貰った事…この腕の温もりも、貴方の匂いも…貴方に、惜しみない愛を注いで貰った事も…全部覚えてます。それに、私には琥珀が居る…それだけで、私は十分です。他には、何も要らない…」

「…妃奈…」

そう言って彼女は、黒澤の手に頬擦(ほおず)りをして涙を流した。



琥珀が心配だからと、私は活火山の様に想いをぶつけて来る黒澤から逃げる様に所長室を出て、洗面所に駆け込んだ。

胃と背中に鉄板でも入った様な重苦しさと、迫り上がって来る物に耐えきれず、便器にコールタールの様な胃液を嘔吐(おうと)する。

…しばらく治まっていたのに…暗い気持ちで洗面所から出ると、心配そうな黒澤が待ち構え、私の手を握り肩を抱き寄せた。

()っくに結婚していると思っていた黒澤が、私を変わらずに想い続け、ずっと捜していてくれた事に驚いた。

私は、黒澤を裏切ったのに…溢れる程の彼の想いを、何も言わず…短い手紙1枚で置き去りにしたのに…。

この2年近くで、私も出産して母親になったが、黒澤も色々あった様だ。

沢山の事務机と人々で溢れていた事務所は閑散(かんさん)とし、黒澤の側近である小塚さん、根津さん、田上さん、そして磯村先生の姿しか見えない。

黒澤自身も、余計な肉が削ぎ落とされ、躰もシャープになった。

まるで、獲物を捕らえる猛禽類(もうきんるい)の様な眼を光らせ、弁護士というより…ヤクザの様な容貌だ。

私を見詰める瞳も、掴まえる手も腕も、そして与えられる口付けも…まるで灼熱(しゃくねつ)の炎の様に私を包んだ。

こんなになってしまったのは、やはり私のせいなんだろうか…?

悲しくて、申し訳なくて…でも嬉しくて…。

警察が引き上げた事務所には、事務所の面々と佐野さんが、琥珀をあやしながら談笑していた。

この場所に琥珀と共に戻る事が出来たなら…ふと、そんな思いに(とら)われ、思わず涙ぐむ。

「妃奈?」

「話し合いは済んだ?何?又泣かしてるの?」

磯村先生の声に、黒澤はポケットからハンカチを出して私の涙を押さえながら言った。

「泣く位なら、何故素直にならない?帰って来い、妃奈」

「……」

「いいから、2人共こっちに座って…手続き、済ませて頂戴(ちょうだい)!」

黒澤は私の腰を抱いたままソファーに座ると、佐野さんに黙礼して磯村先生に視線を移した。

「大体、何故そんな話しになっている?聞いてないぞ!」

「私が個人的に彼女から()け負った案件だもの。言う訳ないじゃない」

「いつ!?」

「彼女が入院してる時よ。まだ、警察に逮捕される前」

「何だと!?そんなに前の話なのか!?」

「まぁ…その時には、貴方個人に譲渡(じょうと)って事になってたんだけどね。先日、電話で彼女と相談して、事務所に寄付って事にしたわ…まぁ、相続税対策ね。どちらにしても、貴方の事務所なんだから…この土地も、家財一式貴方の物になるわ」

「認めないぞ!」

「何言ってるの?彼女の意思よ」

眉間に皺を寄せた黒澤は、隣に座る私の顔を覗き込んだ。

「やはり受け取れない、妃奈。お前の遺産だ」

「……」

「俺が…どんな思いでお前を捜したと思ってる!?どんな思いで、この土地を守って来たと思ってるんだ!!」

「…貴方に…差し上げると…」

「妃奈の物だ!!」

ハッハッと(あえ)ぐ様に息をする私に、佐野さんが透かさず声を掛けてくれる。

「妃奈、息を深く吸え!お前、又倒れるぞ!?」

小塚さんが差し出す紙袋を受け取った黒澤が、過呼吸を起こした私の背中を抱いて口元に袋を当ててくれる。

「妃奈…ゆっくり息を…深く吸って…」

フワリと香る黒澤の匂いに、ボゥッとする私の顔を見ていた磯村先生が、苦笑いしながら黒澤に言った。

「受け取ってやりなさいよ。黒澤が自分の手元で守ってた方が、彼女だって安心だろうし。どうせ彼女を手元に引き取っても、貴方が管理するんでしょ?」

「それとこれとは、話が違う…」

そう黒澤が渋っていると、根津さんと遊んでいた琥珀が私の足元に寄って来た。

私が抱き上げ様とすると、隣から伸びた大きな手が、不器用に琥珀を抱き上げる。

「…琥珀」

黒澤に宙吊りにされた琥珀は、隣に私がいる事で安心したのか、キャッキャと笑い声を上げた。

「坊っちゃんの、お小さい頃に…瓜二つですよ」

根津さんにそう言われ苦笑いした黒澤が、琥珀を抱き締めた時だった。

「お邪魔するわよ!」

事務所のドアが勢い良く開くと、その場に居た全員の顔が強張った。

まだ秋だと言うのに、大きな襟の着いた豹柄の毛皮を着た女性が、我が物顔で事務所に入って来ると、その場に居た面々を見渡して(ととの)った片眉を上げた。

「何?皆揃って…今日は、何かあるのかしら?」

黒澤は琥珀を抱いたまま黙って立ち上がると、硬質な声音(こわね)で対応した。

「何か、ご用ですか?」

「あら、用がなきゃ来てはいけないのかしら?そこの貴女、私にもお茶を頂ける?」

そう言って彼女はズカズカとソファー迄やって来ると、スルリと毛皮のコートを脱ぎ捨て、皆が立ち上がったソファーの中央に優雅に座った。

慌てて厨房に駆け込もうとする根津さんに、黒澤が声を掛ける。

「必要ない、栞」

「しかし、所長…」

「必要ない。蝶子さん、用がないなら、お引き取り願おう」

蝶子と呼ばれた女性は、今からパーティーにでも出掛ける様な、スパンコールを散りばめたネックストラップのシフォンドレスの裾を気にも留めずに足を組んだ。

そしてキラキラとしたバックの中から煙草を取り出してくわえると、佐野さんに向かって顎を突き上げる。

「何で、こんな所に貴方が居るのよ、佐野?」

「ご無沙汰致しております、蝶子お嬢さん。何、私は野暮用(やぼよう)ですよ」

佐野さんが、苦笑いしながら彼女の煙草に火を点ける。

「…ふぅん」

彼女はそう言って、琥珀を抱いた黒澤に向かって煙を吹き掛けた。

琥珀がケホケホと咳をすると、黒澤は琥珀を(いたわ)りながら彼女に冷たい視線を投げ付ける。

「…それで?誰よ、その子?」

「私の息子です」

「…はぁ?」

「私の息子だと申し上げました。それより、煙草を消して頂きましょう!!子供が居るのに…不謹慎(ふきんしん)極まりない!!」

「…聞いてないわよ、子供なんて…どういう事よ!?」

「どうもこうもありませんよ。貴女には、全く関係のない話だ」

2人のやり取りで、この蝶子と呼ばれる女性が黒澤の結婚相手なのだとわかった。

黒澤は否定したけれど、やはり結婚話はあるのだ。

それを、黒澤は断り続けているのだ…。



「…か…帰ります」

妃奈は慌てた様にソファーに置いてあったバックを手にすると、琥珀に腕を伸ばした。

その時…

「…邪魔をするぞ」

事務所の入口から声が掛かり、入って来た森田組長は、中の面々を見て眉を上げた。

「森田!?一体、どうなってるのっ!?」

蝶子の言葉に、森田組長は黒澤が抱いている琥珀を見て眉を潜め、隣に立つ妃奈に詰め寄った。

「…お前が、何故ここに居る!?」

「…済みません…」

「ここで何をしているのかと聞いている!!」

「…もっ…申し訳…ありません!!」

妃奈が(おび)えて壁際に逃げるのを追い詰める森田組長に、黒澤は琥珀を栞に預けて割って入った。

「森田さん!貴方、妃奈に何を約束させたんですか!!」

黒澤の問い掛けを無視して、森田組長は尚も妃奈に詰め寄った。

「…お前の子か?」

「……」

「私の子供です!!私と妃奈の息子です!!」

黙する妃奈に代わり、鼻息荒く答える黒澤の背後で、妃奈のか細い声がする。

「…私の息子です…父親は、おりません。琥珀は…私だけの息子です」

「妃奈ッ!?」

「帰ります…もう二度と…お目に掛かる事はありません。お世話になりました」

妃奈は森田組長と黒澤に深々と一礼すると、栞から琥珀受け取り抱き締めた。

「ご無沙汰しております、森田組長」

「お前は…松浪組の…」

若頭(わかがしら)をしております、佐野です」

そう言って、佐野は森田組長に頭を下げた。

「今日は?何故ここに居る?」

「いぇ…この娘の付き添いでしてね」

佐野は黒澤に目配せし、森田組長に向き直った。

「この娘は、ウチの組で面倒見てるんで…」

「何だと?」

「妃奈は、ウチの親父と(あね)さんに、滅法(めっぽう)可愛がられておりましてね。まさか森田組と(えん)のある娘だとは、今日迄知りもしませんでした」

「知らなかったというのか?」

「えぇ。妃奈は、日頃から無口で…コイツの苗字も年齢も、つい先日知った所でしてね」

「……」

「取敢えず、今日は連れ帰ります。親父にも、報告しなきゃなりませんし…」

そう言って、佐野は森田組長に一礼すると、妃奈の背中を押して事務所から出て行った。

「佐野さん!!」

後を追い掛けた黒澤は、エントランスで佐野と妃奈を掴まえた。

「申し訳ありません…助かりました」

「いゃ…俺は別に、何もしてねぇけどな…」

「後日、改めて松浪組長にご挨拶に伺いたいのですが、宜しいですか?」

「その前に、全て片を付ける必要があるんじゃねぇか?」

「えぇ…そうですね」

「いざとなったら、ウチの親父に相談するといい。嶋祢会長とは深い(えにし)のある方だし、蝶子お嬢さんもオシメの頃から知っていなさる」

「ありがとうございます。ですが…出来るだけ、身内で治めたい話ですので」

「…そうだろうな」

佐野はニヤリと笑って、黒澤の肩を叩いた。

「必ず2人を迎えに参ります。それ迄、妃奈と琥珀の事を…宜しくお願い致します」

「おぅ」

「妃奈は、不安になって琥珀と逃げ出そうとするかも知れませんが…それだけは、何としてでも阻止(そし)して下さい」

「大丈夫だろ?前もそんな事があったが、姐さんにこっぴどく叱られてた。琥珀の事を考えたら、仕事と住居共になくす事は出来ねぇだろうしな」

「そうですね」

「大丈夫だ。組の者にも言っておく」

「ありがとうございます。それと、妃奈の遺産の件ですが…」

「どうするんだ?やっぱり、アンタが受け取る方が良いんじゃねぇか?」

「まだ時間がありますので、ゆっくり考えます。それに、今私がこの土地を受け取るのは、得策ではないので」

「どういう事だ?」

「…蝶子さんが、この土地を手に入れたがっているので…」

「…成る程な」

「申し訳ありません。いずれ又、連絡を入れさせて頂きます」

黒澤はそう言って佐野に一礼すると、妃奈と琥珀の元に走り寄った。

「妃奈、心配するな。必ず迎えに行く」

「……」

「それ迄、琥珀の事を頼む。いいな?」

「…駄目…です…」

「今度は必ず迎えに行く、約束だ!!」

そう言って、黒澤は妃奈を固く抱き締めた。

「約束だ、Princes(プリンセス) Amber(アンバー)…琥珀の事を頼むぞ」

「…でも」

「もう逃げるな。後少しだけ…俺に時間をくれ」

「……」

「愛してる、Princes(プリンセス) Amber(アンバー)…俺の気持ちは、未来永劫変わらない」

「…」

「もう一度呼んでくれ、妃奈…他人行儀な呼び方じゃなく…」

「……」

「…俺の名を呼べ、妃奈…」

「……シュウ…」

「待っててくれ」

涙を流す妃奈の唇を奪い、続いて抱かれている琥珀の額に口付けると、黒澤は佐野の車の後部ドアを開け2人を乗せた。

「宜しくお願い致します」

パパッとクラクションを鳴らし、車は門のアーチをくぐり抜けた。

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