(47) 琥珀
その日、田上士郎は調査の為に浅草に来ていた。
黒澤のクライアントである政治家の息子が、浅草寺 界隈で接触事故を起こしたのだ。
新車を傷付けられ頭に血が上ったアホ坊は、事故相手に粋がって見せた。
だがその相手が、よりによって本職のヤクザだったらしく、可愛がられた挙げ句法外な金額を要求されたらしい。
「そんなん、そのアホ坊が悪いんちゃいますのん?」
「…田上さん、仕事ですよ」
無言で書類に目を落とす黒澤の隣で、小塚が田上をたしなめる。
「そやけど、兄さん!?なんぼなんでも、そないなアホ坊の尻拭いみたいな事を…」
「田上、いいから…行ってこい」
「……」
田上は憮然として所長室を退室すると、ガランとした事務所を見回した。
以前は沢山の事務机が並び、弁護士と事務員や調査員、厨房にも数名の調理師が働き、2階には警備や派遣部の人間もひしめき合っていた。
あの活気のあった職場が…何故こんなに寂れてしまったのか…。
原因は、あの女に違いない!
時折事務所を訪ねて来る、高慢ちきな女…。
田上や栞、小塚や磯村の事までも、小間使い位にしか考えてない女!!
「嶋祢会長の末娘の蝶子さんが、又婚約されたそうだな?」
「お相手は、森田組長の所の弁護士だそうだ」
「上手くやったというか、気の毒というか…」
「今回は蝶子さんも乗り気で、嶋祢会長から婿養子の話も出ているらしい」
色々な噂が飛び交っているが、当の黒澤本人は眉間に皺を寄せ、さも迷惑そうに嶋祢蝶子を追い返す。
森田組長の肝入りであるこの縁談に全く乗り気ではなく、悉く逆らう黒澤に対して、森田組長はこの2年近くもの間にあらゆる制裁を加えて来た。
その1つが、圧力を掛けクライアントの契約を打ち切り、事務所の仕事を減らす事だったのだ。
元々森田組傘下の企業や店舗の多くをクライアントに抱えていた事務所は、たちまち経営に行き詰まり、数多くの弁護士や事務員を手離す事態に陥った。
事務所は開設当初のメンバーに戻り経営を続けているが、事務所の土地を管理している黒澤個人は、火の車状態なのである。
それでも文句1つ溢さずに堪えているのは、行方不明になっている妃奈を必ず捜し出し、連れ帰るという信念に取り憑かれているからだろう。
本来のクライアントの相談や折衝事以外の…アホ坊の尻拭い等を甘んじて請け負うのも、事務所の維持と一緒に働く仲間の生活を守る為なのだが…黒澤にそんな仕事をさせたくないというのが田上の本音だった。
「まだまだ、青いわね…士郎」
磯村からは、いつもそう揶揄される。
「黒澤が、腹を括ってやってる事よ?アンタが、とやかく言う問題じゃないわ」
小塚は、皆が出て行ったがらんどうの事務所の2階に住居を移し、黒澤に家賃を払っていた。
栞もアパートを引き払い、自暴自棄な生活をする黒澤と生活を共にしている。
磯村が、今迄借りていた広いマンションから手頃な大きさのマンションに移る事を決めたのを機に、田上は一大決心をして磯村に告白し同居を申し出た。
「…馬鹿じゃないの?家賃浮かせる為の、苦肉の策な訳?」
「ちゃいますって、ネェさん!!俺の気持ちは、いっつも言うてますやん!?」
「信用性ゼロな告白なんて、聞く耳持たないわよ」
初めて会った時から、田上は勝ち気で美しい年上の弁護士に恋心を抱いていた。
だが、黒澤の元カノである磯村は、当時はまだ黒澤に心を残しており、田上の度重なるアプローチを蹴り続けていた。
長い付き合いの中で、口では厳しい苦言を吐く磯村の本当は優しく女らしい部分も、強がって見せる癖に弱く涙脆い部分も、充分理解している。
「ネェさん、マジで…」
「煩いわよ、士郎!!」
「…弘美さん…ホンマに好きなんです!弘美さんの事…俺、精一杯守りますからっ!!」
「……」
「弘美さんっ!?」
「……バカ」
何とか磯村と同居する事を認めて貰った田上だが、恋人同士になれたかというと…そこは中々に難しく…。
年上という事もあり、陥落しそうでしないもどかしい状況に、田上は一喜一憂する日々を送っていた。
帰りに人形焼きか、揚げ饅頭でも買って帰ろうか…そう思いながら、事故現場周辺を聞き込みに回る。
「あぁ、それなら…多分、松浪組の人じゃないかねぇ?」
「松浪組ですか…相手の方の名前、わかりますか?」
「さぁ?だけど事故った兄ちゃんが伸されてる時に、松浪組の佐野さんが通り掛かってさ。殴ってた兄ちゃん達がヘコヘコしてたからね…」
「佐野さん…ですか?」
「そうだよ。松浪組の若頭さん。それよりね、アンタ…昔気質の松浪の親分さんには、私達も世話になってるんだよ。町の揉め事、祭りの采配、商店街や地域の商店を大手ディベロッパーから守ってくれたり…あの人には、ホント…足向けて眠れないね!」
確か、浅草界隈を仕切る松浪組といえば、地元テキ屋の元締めをしていた先代組長が嶋祢会発足にも携わり、現組長も嶋祢会若頭迄上り詰めた人物だった筈だ。
しかし会の勢力分散を懸念し、幼馴染みである嶋祢会長の為にその地位をあっさりと棄てた逸話のある人物で、現在は堂本組の相談役をしている。
これは…厄介な相手に喧嘩を売ってくれたものだと溜め息を吐きながら、田上は浅草寺の裏手、言問通を渡ってすぐの所にある、嶋祢会系暴力団松浪組組長、松浪寅一の自宅兼事務所を訪れた。
立派な門構えの純日本家屋のそれは、まるで由緒ある旅館の様な佇まいだ。
しかし出入りする人物の容貌は、やはり一般人とは違っており、田上はいつもの様に保険会社の調査員に成り済まし、門の前に立つ構成員に声を掛けた。
「済みません…こちらに、佐野さんと仰る方がいらっしゃるとお聞きして、伺ったんですが…」
「誰だ、お前?若頭に何の様だ?」
怒鳴り付けられるかと思いきや、思いの他優しい対応にホッとする。
他の組の事務所を訪ねた時には、問答無用で殴られた事もあったからだ。
「私、こういう者でして…」
予め作ってある保険調査員の名刺を渡して、田上は愛想笑いを振り撒いた。
「実は、こちらのお身内の方と追突事故を起こされた方が、私共の保険にご加入頂いておりまして…。相手の方に是非お話を伺いたいと思いまして、事故現場で聞き取り調査をしていた所、こちらの佐野さんとお知り合いらしいという話をお聞きしたんです」
「……へぇ…若頭の知り合いねぇ…。わかった。聞いて来てやるから、ちょっと待ってろ」
「ありがとうございます」
構成員に腰を折った田上は、ホッとして頭を上げると、屋敷の白壁に眺めるでもなく目をやった。
杉板を貼った白壁が長く続き、中程には小さな潜り戸が設けてある。
まるで、時代劇のセットの様だ…そう思っていると、不意にその潜り戸が開き、1人の女性が現れた。
片側で髪を束ねた白髪の女性は、近くに停まった車から大きな荷物を下ろし、屋敷の中と車を何度も往復している。
遠目に見るそのスッキリとした見覚えのある立ち姿に、田上は思わず目を凝らした。
「……嘘…やろ?」
思わず駆け寄ろうとした時、玄関から先程の構成員が顔を出す。
「入んな…若頭が、会って下さるそうだ」
「…そう…ですか。ありがとうございます」
通された和室に応接セットを置いた部屋で、田上は苦み走った壮年の男の前に立たされた。
「まぁ、座んな。話、聞こうじゃねぇか」
黒いスーツを着崩して正面に座る男は、田上を見詰め髭を蓄えた顎を撫でながら質問した。
「で?あん時の事故で、何か不手際でもあったってぇのか?」
田上が渡した名刺をピラピラと振りながら、佐野は獲物をいたぶる様にニヤリと笑う。
本来は隠密活動の方が得意なんだが…と思いながらも、他の事も確かめたい一心で、田上はヘコヘコと揉み手をして愛想笑いを浮かべ、事の次第を説明した。
暇だったのか、面白そうに田上を迎え入れた佐野は、事情を納得すると相手の素性も当時の様子も、事細かに説明してくれた。
「だけど、ありゃアンタん所の客が悪い。車間距離を詰めてカマ掘ったのは、そちらさんの様だからな。素人相手だと警察沙汰になる所、今回はウチの様な生業の者が相手だから示談金だけで済まそうっていうんだ。まぁ…どちらがいいか、そちらさんでゆっくり相談するんだな」
「ありがとうございます。私共は御相手様の車両状況を確認させて頂き、社の方に報告させて頂きます。示談に関しては、それからという事になると思いますが…」
「ま、ウチの方からも連絡しとく。こっちも、素人さん相手に手を挙げちまったみてぇだしな。無茶な金額にならねぇ様に釘を刺しとくから、安心しな」
「重ね重ね、ありがとうございます。宜しくお願い致します」
人徳者である松浪組長の教育は、下の者にも徹底されているのだろう。
言葉は荒いが、無抵抗の素人に手を出す様な事はなさそうだ。
「…失礼します」
そう声が掛かり、佐野の返事と共に襖が開けられる。
現れた白髪の女性が廊下に土下座で一礼すると、そっと部屋に入って来た。
盆に乗せた日本茶を田上の前に置いた、その褐色の手…間違いない、妃奈だ!
「…どうぞ」
伏せ目がちに頭を下げる妃奈に、田上は声を掛け様として飲み込んだ。
もし今声を掛けた事で、又逃げられでもしたら…。
田上は黙って頭を下げ、妃奈の様子を見守った。
「何だ、妃奈…お前がお茶汲みなんて珍しいな?」
妃奈は俯いたまま、ペコリと頭を下げた。
「チビは、どうした?」
「……庭に…」
妃奈は俯きがちに、チラリと縁側の向こうの庭に目線を移した。
そう言えば、こんな生業の事務所にも関わらず、庭で男達の声に混じり、子供のはしゃぐ声が聞こえる。
田上はジットリと汗を掻き、注意深く庭を窺った。
妃奈は田上に何も言わず、入って来た時同様静かに退室して行った。
「…今の方は?」
「あぁ…この時期だけ、ウチで賄いしてるんだが…どうかしたか?」
「いぇ…お綺麗な方…ですね?」
「何だ、兄ちゃん?気に入ったのか?」
「…いぇ…まぁ…」
「若けぇが、良く働く娘だ。あれで、もうちっと愛想が良いといいんだがな。それでもアイツは、組長と姐さんのお気に入りなんだぜ」
「…左様ですか」
「恐ろしく無口な娘でな…あれでも子持ちなんだわ」
ハッハッと笑う佐野の言葉に、田上はゴクリと喉を鳴らした。
じゃあ…外に響く子供の声は、やはり妃奈の子供の…。
こんな事、とても黒澤に報告出来たものではない!!
田上は、曖昧な笑みを浮かべたまま、松浪組の事務所を退散した。
「それで?黒澤には、何て言ったの?」
「言える訳ありませんやん!?子供がおりますねんで?」
「何故?」
「何でて…ネェさん…」
呆れた様にこちらを窺う磯村に、田上は疲れた溜め息を吐く。
「男の子なの?それとも、女の子?」
「…さぁ?」
「その子、幾つ?」
「知りまへんがな!」
「何故?黒澤の子供かもしれないでしょう?」
「そやかて、ネェさん…兄さんの子供やったら、妃奈ちゃんかて兄さんの元で産まはるやろ?態々出て行く様な事も、せぇへんやろし…」
目の前に煮える鍋を突っつきながら、田上は口を尖らせた。
「だって、あの娘が出て行ったのは、森田組長の差し金な訳でしょ?」
「でも、兄さんは…子供の事なんか、何も言うてまへんでしたで?」
「……」
「もし、兄さんの子供やったら、お腹に出来た時に直ぐ言うんちゃいます?兄さんの事や…デレデレになって報告してたと思いますで?」
「…まぁ…ねぇ…」
「あの、坂上って奴の子かもしれへんし…もしかしたら、出て行った後に知り会うた奴の子かもしれへんし…」
ここに来る前の妃奈の生活や、その後に起こった事件で妃奈の身に起こった事を思い出し、田上は眉を寄せた。
「無事やったんは、ホンマに喜ばしい事やけど…兄さんに知らせるんは、諸々確認してからの方がえぇんちゃいます?」
「…そういう訳にも行かないのよ」
磯村は、ビールの入ったグラスを煽り、溜め息を吐いた。
磯村弘美が松浪組を訪ねた時、最初はなかなか妃奈への面会を許されなかった。
下っ端の構成員と揉めた磯村は、埒が明かないと上の人間との面会を申し入れたが、対応に出て来た若頭の佐野は、苦笑いを浮かべて妃奈を代弁した。
「本人が会いたくねぇって言ってんだ。仕方ねぇだろうよ?」
「私が弁護士として会いに来たと、ちゃんと伝えて頂けたんでしょうか?」
「あぁ…先生の名刺を見せたらしいからな」
「それじゃ、伝わってないのよ…」
「訳わかんねぇ事言ってねぇで、お引き取り頂きたいんだがな、先生?」
「…それでは、もう一度だけ…伝えて頂けませんか?というより、今から書く手紙を彼女に渡して下さい。それでも彼女が会いたくないというのであれば、大人しく退散致します」
「わかった、わかった…何でもいいから、サッサと書いてくれ」
磯村は、鞄から取り出した便箋に急いで要件を認めると、控えていた構成員に渡した。
「ちゃんと、彼女に読んで貰って下さいよ!?」
受け取った構成員は頷くと、室内に一礼して出て行った。
「先生、聞いてもいいかい?」
「何でしょう?」
「…妃奈は、アンタのクライアントなのか?」
「まぁ…そうですね」
「どんな生活してた奴なんだ?」
「?」
怪訝な表情を浮かべる磯村に、佐野は続ける。
「妃奈は、去年の秋にウチの組長が奥多摩の庵から連れ帰った女だ。どういった経緯なのか、俺達は何も聞いてねぇが、組長も姐さんも、妃奈の事を気に入って可愛がられてる。若いが気遣いも出来る働き者だ…だがな、人見知りなのか恐ろしく無口で、自分の事は何も話さねぇ。名前聞いても『妃奈』と言うだけで、先生に聞いて、今日ようやく『高橋』って苗字だとわかったくれぇだ」
「…身許を隠してたって事でしょうね」
「おまけに、寝る時には武士みてぇに座って寝るんだ」
「…まぁ…それは、前からですね」
「そうなのか?外国の血が入ってるのはわかるが、初めて来た時には、結構な言葉使いのじゃじゃ馬で、毎日女中頭に扱かれてた。今では一人前の女中として、ちゃんと役立ってはいるが…。仕事と子育ては、きちんとやるんだ。だが、後はボーッとしてて…まるで浮き世に過ごしてるみてぇでな。そのくせ、今時1人で子供産むなんて、俺達でも考えられねぇ事を平気でやらかす」
「えっ!?1人でって…」
「自分で産んだんだよ、裏庭の物置小屋で。赤ん坊の泣き声を聞き付けたウチの奴等が見付けた時、妃奈は血塗れになりながら、子供の臍の緒をひっ括って切ってやがった」
「……」
「驚く俺達の前で、たらいに張った水に魔法瓶の湯を入れて、赤ん坊を産湯に入れて…バスタオルで包んだ赤ん坊を姐さんの手に渡すと、安心したみてぇにぶっ倒れやがったんだ」
これ迄も、黒澤や他の者達を信用せずに、自分の殻に閉じ籠る事の多い娘だった。
奇行も多かったが…思い返すと、それらは全て黒澤の迷惑にならない様にという気遣いから来る行動だった。
身許を隠す為に、苗字を言わなかったのは理解出来る。
彼女の住民票は、未だ黒澤の自宅住所のままだ。
多分、子供の為の色々な手続きも出来てはいない…母子手帳の交付も、出生の届けも出されていないだろう。
出産も、先立つ物がなかった為だろうが…それにしたって、そんな命懸けの無茶をするなんて…。
驚き絶句する磯村に、佐野は眉を寄せた。
「…妃奈の男ってのは、そんなに酷い奴なのか?」
「……何故です?」
「姐さんに聞いた…アイツの躰、酷い傷だらけだそうだな?男から逃げてるんじゃねぇのか?」
「違います!!寧ろ…彼は、彼女を助け様として…彼女の行方を、ずっと捜し廻っていたんです」
「…わからねぇな」
「あの傷は、他の男による物です。彼女の婚約者は、彼女を傷付ける様な男ではありません」
「婚約者が居るのか?じゃあ、何故逃げ回ってる?」
「…それは…」
磯村が答えに窮した時、襖の向こう側がら声が聞こえた。
「…失礼します」
そう言って襖を開けた妃奈を見て、磯村は唾を飲み込んだ。
妃奈が出て行ったのは、一昨年の2月末だった。
あれから1年8ヶ月…何の飾り気もない白のブラウスにスラックス、廊下に頭を付けて土下座していた妃奈が顔を上げると、片側の肩に下がった白い三つ編みが揺れた。
華奢な事も俯きがちな所も変わらない…だが、その落ち着いた所作と内から輝く様な色香、そして魂を半分持って行かれた様な危うさにドキリとする。
「…ご無沙汰致しております…磯村先生」
静かに部屋に入り磯村の向かえの席に座った妃奈が、蚊の鳴く様な小さな声で挨拶する。
「…えぇ…久し振りね。元気そうで、安心したわ」
丁寧な言葉遣いに再び驚きながらも、磯村は先を続けた。
「佐野さん、申し訳ありませんが、高橋さんと2人にして頂けませんか?」
「ん~…だが、俺にも上に報告の義務があるからな…」
佐野が顎髭を撫でて唸ると、妃奈が再び蚊の鳴く様な小さな声で、同席して欲しいと懇願した。
「それで…どういう事でしょう、磯村先生?依頼が遂行出来ないというのは?」
先程書いた手紙をテーブルに置くと、妃奈はやっと磯村と視線を合わせた。
「言葉通りよ…このままでは、あの鶴岡と清水親子に、遺産は全て持って行かれるわ」
「何故ですか?譲渡書類も、遺言書も作成したのに…」
「あっちも、弁護士を立てて来たのよ」
「ちょっと待て!話が見えねぇ。どういう事だ、妃奈?」
隣で話を中断させた佐野が、妃奈を見下ろして尋ねるが、彼女は膝の上で固く手を握り言葉を詰まらせた。
「彼女には、亡くなった祖父から受け継ぐ遺産があるんです」
磯村が妃奈を代弁し、掻い摘まんで説明する。
「直系の孫である彼女の20歳になる誕生日に、それらの遺産を受け継ぐ事が出来ると遺言されているんですが…他の親戚が、自分達の取り分を主張しているんです」
「遺産騒動って事か…っつうか、20歳の誕生日って、妃奈!!お前ぇ、未成年なのか!?」
俯きがちに頷く妃奈に、佐野は頭を抱えた。
「ここに来た時は!?」
「…18です」
「ギリでセーフか…。ったく…言えよ!自分の名前と年位よぉ!」
「…申し訳ありません」
ブツブツと文句を言う佐野を無視して、磯村は話を進める。
「…あの土地は…黒澤さんの物です!他の誰にも、渡す気はありません!」
小さいが、ハッキリと言い切る妃奈を見て、磯村はホッと胸を撫で下ろした。
「貴女なら、そう言うと思っていたわ。じゃあ、11月1日に事務所に来てくれるわね?」
「…それは…」
途端に尻込みする妃奈に、磯村は溜め息を吐いた。
「今更、あの親子に会いたくない気持ちは察するけど…」
「……」
「貴女が出て行って直に、弁護士を寄越して来たのよ。まるで、貴女が行方不明なのを知っている口振りだった。彼等と接触したの?」
妃奈は何も言わずに、そっと自分の右肩を撫でた。
「貴女が出て行った理由も、概ね理解してるわ。森田組長から、黒澤の縁談の事…言われたんでしょ?」
妃奈の隣に座る佐野の眉が、ピクリと上がる。
「あれから事務所も色々あって…今は、設立当初のメンバーで細々とやってるわ」
「…ぇ?」
「黒澤はね、今もまだ独身のままよ。2年近くもの間、貴女を捜し続けて…貴女の帰りを、ずっと待ってる」
「…だって…結婚するって…」
「あの男が、婚約者の貴女を差し置いて結婚すると…本気で思った訳?」
「……」
「例え相手が、嶋祢会の…断り辛い相手だったとしても…黒澤なら、どんな手段を高じても断ると思わなかったの!?」
「……」
「貴女、馬鹿よ…黒澤に、あの男に…あれだけ愛情を注いで貰っていたのに…」
固く口を結び何も答えない妃奈に、磯村は溜め息を吐く。
彼女が頑固なのは、今迄の付き合いでわかっている。
だが、納得させて妃奈か黒澤のどちらかに遺産を相続させなければ…黒澤ばかりか、事務所の存続にも、皆の生活にも関わる問題なのだ。
それに、何よりも…森田組長に楯突きながら、壊れそうな精神状態で妃奈を捜し続ける黒澤の事が、事務所のメンバー全員の一番の心配事だった。
自暴自棄になり、無茶な生活を続ける彼の躰も精神状態も、もうギリギリの所迄追い詰められているのだ。
「…子供が居るんですってね?」
「……」
「父親は?黒澤なんじゃないの?」
「……」
「貴女が、黒澤以外の男の子供を産むなんて、考えられないわ。そうなんでしょ?」
「……あの子は…私の子です」
「マリア様じゃあるまいし…1人じゃ子供は出来ないのよ?相手は…まさか、坂上なんて事はないでしょうね!?」
「……」
「…子供が居るなら、貴女自身が遺産を相続すれば良いんじゃないの?」
フルフルと首を振ると、妃奈はキュッと手を握り締めて答える。
「要りません…あの子に、あんな醜い争いに…危険な目に遭わせたくありません」
「…やっぱり、何かされたのね?」
「……」
「貴女がそれを証言すれば、彼等は遺産の権利を剥奪されるの。貴女の希望通り、黒澤に贈与する事に何の支障もなくなるわ」
「……」
「全く…貴女が頑固なのは知ってるけど…何が駄目な訳?あそこに居るのは、もう貴女の理解者ばかりで、誰も貴女を責める人間なんていないわ!貴女だって、本当は黒澤の元に帰りたい筈よ!?」
「…帰れません」
「何故!?」
「…約束…しました。黒澤さんには…もう会えません…。お願いです…黒澤さんには、ここに居る事を…秘密にして下さい」
「……」
「…私が約束を守らないと……もう1つの約束も…」
そう言って、妃奈は身を小刻みに震わせた。
「なぁ、先生…取り敢えずウチの組長に報告して、コイツを説得するから…今日の所は、引き上げて貰えねぇか?」
佐野の言葉に、磯村は頭を下げた。
「宜しくお願い致します。11月1日午後3時に、事務所に来させて下さい。関係者が集まり、正式な相続の署名手続きを行います」
「わかった。俺が責任を持って連れて行く。それでいいな、妃奈?」
何も答えず俯いたままの妃奈の頭に手を置く佐野を見て、磯村はドキリとした。
まさか、この2人…いや、妃奈の気持ちは、未だ黒澤にある様に見えた。
どうやら妃奈を気に入っているのは、松浪組長や奥方だけではないという事なんだろうが…。
「そん時には、コハクも連れて行くからよ」
「は?」
「コハクだ。宝石と同じ字で『琥珀』…それが、コイツの…妃奈の息子の名前だ」




