(43) 森田 樹
黒澤は、優しい…昔も今も、変わらずにその優しさを示してくれる。
何も言わなくても、その腕は優しくアタシを包んでくれる。
アタシの寂しさを理解して、自分に腕を伸ばす様に諭してくれる。
世の中のわからない事や、自分の中のわからない感情にも、答えを与えてくれる。
与えて貰うばかりの関係に申し訳ないと言うと、そんな事はないと笑ってくれた…だからアタシは、黒澤に身を任せたんだ。
ここでも怖がるアタシに、どうやって心と躰を開くか、黒澤は手取り足取り教えてくれた。
予想に反して、黒澤はアタシの躰を宝物の様に扱った。
今迄、あんなにも大切に扱われた事はない…そして、あんなに恥ずかしかった事も…。
それでも、黒澤が雄の匂いを撒き散らしながら、アタシだけを見てくれる事が嬉しくて、黒澤の要求するままに抱かれた。
今アタシは、『幸せとは、こういう事なのだ』という思いを噛み締めている。
好きな相手に大切にされ、居場所を与えられ、何不自由のない生活をさせて貰っている。
外に出るのが怖くて、ずっと家に閉じ籠った生活をしているけれど、敷地の広いこの家では畑仕事も庭で躰を動かす事も出来たし、多少は事務所の建物で他人と触れ合う事も出来る。
小塚さんにインターネットも教えて貰って、色んな事を調べる楽しみも知った。
なのに…この、言い様のない不安は何だっていうんだろう?
いつも何かに追い掛けられている様な、暗い淵に引き擦り込まれる様な不安感…。
年が明けて、黒澤は以前にも増して仕事が忙しくなり、度々出張に出掛ける様になった。
休みの日にも、急に呼び出されて外出する事が増えた。
黒澤が傍に居て抱き込んでくれて、彼の匂いに包まれていたら、不安は少し和らいだ。
だけど、忙しい黒澤に傍に居て欲しいと言う事は出来る筈もなくて…。
最近黒澤は、家に居る時も眉間の深い皺が消える事がない。
アタシの事を優しく撫でて抱き締めてくれるけど、じっと何かを考え込んでいる。
きっと、アタシの事で迷惑を掛けているんだろうと思う。
でも、アタシに何が出来るんだろう?
黒澤の心を守りたい…だから、彼の要求通りに腕に収まる生活を続けているけれど、本当にそれだけしか出来る事はないんだろうか?
その人に会ったのは、1月も下旬に入る頃だった。
事務所の厨房で昼食を作る手伝いを頼まれ、出来上がった昼食を所長室の黒澤に届けている時にノックの音がして、小塚さんが顔を出した。
「所長、森田さんがお見えです」
「森田さんが?…わかった。通してくれ」
「畏まりました」
程無くして部屋に入って来たのは、六十搦みのきちんとした身なりの男の人だった。
その人が入室した途端ピリリと空気が張り詰め、ゆったりとソファーに座りながら、目の端でチラリとアタシの姿を見下ろした。
運んだ昼食を再びワゴンに乗せて退出しようとしたアタシの腕を取り、黒澤はその人に私を紹介しようとした。
「妃奈、私のクライアントの森田さんだ。ご挨拶しなさい」
「…初めまして。高橋妃…」
「…黒澤、部外者を事務所に入れるのは、感心しないな」
挨拶の言葉を遮り、アタシの事を見ようともせず、その人は黒澤に苦言を吐いた。
「森田さん!?」
黒澤はその人を睨み付け、部屋の中の空気が一気に険悪な物になる。
…この人は、アタシの事が気に入らないんだ…。
「…失礼致します」
アタシは深くお辞儀をすると、ワゴンを押して所長室から退散し、自宅に逃げ帰った。
人から疎まれる事には馴れている…今迄だって、アタシに好意を持つ人間なんて殆どいなかった。
だが、一度も会った事もない人間に疎まれるのは、正直キツイ…然も、相手は黒澤のクライアントなんて…。
「妃奈!?妃奈!!」
玄関から大声でアタシの名前を連呼して帰った黒澤は、アタシの姿を見付けて抱き締めた。
「済まない、妃奈」
「何が?」
「さっきの…」
「あぁ…いつもの事じゃん。それに、何で黒澤が謝んの?」
アタシを胸に抱き込んだままフゥと溜め息を吐き、黒澤はアタシの髪を愛おしそうに撫でた。
「…少し、森田さんと揉めてる事があってな…」
「何だよ…八つ当たり?」
「まぁ…そんな所だ」
アタシが見上げると、黒澤は済まなさそうに苦笑して額に口付けを落とした。
何でもない様に振舞いながら、アタシは胸の鍵を握り締め、必死で不安を飲み込んだ。
数日後、黒澤の出張中にアタシ宛の荷物が届いた。
立派な箱に入った、真っ赤に熟した大きな苺…。
送り主の名前は、『森田樹』と書いてある。
黒澤も小塚さんも不在な為、直ぐに事務所に居るオバチャンに電話をした。
自宅の方迄来てくれたオバチャンは、送られて来た苺を見て目を輝かせた。
「立派な苺ですねぇ。この時期に進物用の苺なんて、お高いと思いますよ?」
「どうすればいいかな?」
「生物ですし、頂いたらいいんじゃないかしら?」
「でも、何でアタシに贈ってくれたんだろう?チラッと会っただけの人なのに…」
「それは、妃奈さんが所長の婚約者だからじゃないですか?」
そう言って、オバチャンはコロコロと笑った。
「しかし、森田さんも粋な事をなさいますねぇ…とても、組長さんとは思えない…」
「ぇ?…あの人、ヤクザの組長なのか?」
「そうですよ。ご存知ありませんでしたか?」
「…知らない」
「所長のクライアントの中でも一番大きな取引きをしている方で、一番大切な方です」
そうなんだ…だけどあの人は、アタシの事が嫌いなんだと感じたのに…。
「…お礼…言った方がいいんだよね?」
「そうですね。お手紙か、お電話をした方が宜しいでしょうね」
「…わかった」
オバチャンが事務所に帰ると、アタシは口の中で何度も復唱しながら、配送伝票に記された電話番号を押した。
「…はい」
「あの…森田さんですか?」
「……」
「……森田組の…森田さんの電話で、間違いないですか?」
「…そうだが」
「アタシ、高橋と言います」
「…どちらの高橋さんかな?」
訝しむ様な受け答えに、思わず電話を切りそうになるのをこらえながら、アタシは生唾を飲み込んだ。
「…弁護士の黒澤さんの所でお世話になっている、高橋妃奈です」
「あぁ…」
そう言って、電話の相手は誰だか理解した途端に、軽くあしらう様な声を出した。
「…あの…今、苺が送られて来ました」
「そうか」
「…ありがとうございます」
「あぁ」
「……」
「……」
会話が続かない程、気まずい物はない。
大体、チラリと顔を合わせ、挨拶さえまともにさせて貰えなかった相手なのだ。
一体何故プレゼントを贈ってくれたのか、皆目検討がつかない。
取り敢えずお礼も言ったのだから、これで義理は果たしたと思い、アタシは挨拶して電話を切ろうとした。
「…ぇっと…一言お礼をと思って、お電話しました。それでは…」
「待ちなさい」
「ぇ?」
「君とは一度、ゆっくりと話してみたい。私の事務所迄、来て貰えるかね?」
「ぁ…いぇ…ごめんなさい」
「…何?」
「…済みません…行けません」
「…これは、驚いた…君ごときが、私の誘いを断るとは…」
電話の向こうの不機嫌な声に、アタシは慌てて謝った。
「済みません!黒澤の許可がないと、アタシ…外に出るのは…」
「それでは、私にわざわざ出向けと!?君は、そんなに偉い人物なのか?」
「いぇ…そんな…」
「一体、何様の積りなんだか…黒澤に許可を取ればいいのだな!?」
黒澤の大切な仕事相手を怒らせてしまった…然も、相手はヤクザの組長なのだ!!
アタシは恐怖に震えて、携帯を握り締めた。
「…済みません…本当に……失礼します」
アタシはそう言って、相手が答えるのを待たずに電話を切った。
直ぐに携帯が音を鳴らして震え、さっき自分が押した番号を示す。
怖くなって電源を落とし、家の電話のコードも引き抜くと、アタシは黒澤の部屋のクローゼットに潜り込んだ。
ここには、黒澤の匂いが残っている…黒澤の匂いに包まれていれば、アタシは幸せでいられる…。
胸元の鍵を握り締め、アタシは深く深呼吸した。
怒らせてしまったと思った相手は、それから度々アタシの事を訪ねて来る様になった。
毎回、高そうな菓子や果物を持参して来るが、決まって黒澤の居ない時を狙った様に訪ねて来る。
事務所の人間の前では穏やかな笑みを湛える森田組長は、自宅で2人切りになると、途端に厳しい顔でアタシを威圧する。
「まだ、決心はつかないか?」
「…嫌です」
毎回、同じ様なやり取りが繰り返される。
「何も心配する事はない。生活費もマンションも、全てこちらで用意する」
「……」
「場所も、君の好きな所に用意しよう。リゾート地でも、何なら海外でも構わない」
「…嫌です」
「君が、一生不自由しないだけの金も用意しよう。だから…」
「お金なんて…要りません」
「何故だ?」
「アタシには、必要ない」
「…何が不満だ?」
「……」
「私は、黒澤の幸せを願っているだけだ」
この言葉が一番辛い…森田組長は、黒澤の事を本当に大切に思っているのだ。
だから、アタシに…黒澤の元から離れて生活をする様にと、度々説得に来る。
頑としてこの家から出て行かない私に、森田組長は手を替え品を替え、色々な条件を提示して来た。
「…黒澤は、近々結婚する事になるだろう」
「ぇ?」
思いも寄らなかった言葉に、アタシは森田組長の顔を窺った。
「相手は、嶋祢会会長のお嬢さんだ」
「?」
「と言っても、君にはわからないだろうが…黒澤にとって、これ以上ない程の縁談だ」
「…黒澤は…承知したんですか?」
「いや、断ると言って来た」
「なら…アタシがここに居たって、問題ないんじゃ…」
「黒澤は、君の為に断っている」
「……」
「君が、黒澤の足を引っ張っている」
「……」
そんな事は、わかってる!!
黒澤がアタシの事を思ってくれている事も、アタシが黒澤の足を引っ張っている事も…アタシ自身が、一番良くわかっている。
俯いて唇を噛むアタシに、森田組長は穏やかに話し掛けた。
「手荒な方法は取りたくない。君には、自分の意思で黒澤の元を離れて欲しい」
「…アタシがここに居るのは、黒澤の意思です」
「だから…それは、君の為に…」
「それでも!!…黒澤が望んでくれるなら、アタシはここに居ます!」
「……」
「もう、黒澤を裏切りたくない…黒澤の心を守るって約束しました!!黒澤の傍に居る…黒澤から離れないって、約束したんです!!」
「君は、それが本当に黒澤の為になると思っているのか?」
「そんな事知らない…アタシは、黒澤の望む事をしてるだけです!黒澤がアタシに出て行けって言うなら、今すぐにでも出て行くし…」
「……」
「黒澤はアタシに居場所をくれて、愛してるって…アタシ達、婚約したんです。20歳になったら、一緒になろうって…」
「その結婚は、黒澤を…そして、周りの人間をも不幸にする」
「別に…結婚なんて出来なくてもいいんです!唯、黒澤の傍に居られたら、それでいい…」
「君が黒澤の傍に居る限り、黒澤は縁談を断り続ける」
森田組長は立ち上がり、アタシの隣に座り直した。
「君が黒澤の事を想っているなら、黙って身を退いて欲しい」
そう言ってアタシの肩に手を置いた森田組長から、上等なコロンの香りと共に嗅ぎ慣れた匂いがフワリと香る。
驚いて顔を上げたアタシに、森田組長は深い溜め息を吐いた。
「色々ある事は、聞いている。だが、巡り合わせが悪かったのだ」
「……」
「君は、まだ若い。今から、幾らでも出会いがあるだろう。だが、黒澤位の年齢や地位になると、人生を立て直すのは容易な事ではない」
「…ぇ?」
「黒澤は、私の顧問弁護士を辞めると言って来た。だがそれでは、事務所の運営は成り立たないだろう」
「……」
「黒澤は、暴力団の顧問弁護士を辞めるという事を理解していない。組に深く関わる者として、今後どの様な制裁がされるか…」
「…命を…狙われると…いう事ですか?」
「そういう事も…考えられるかもしれない」
「…嫌…嫌です…」
「……」
「嫌ですっ!!嫌だっ!!」
「…君…」
突然叫び出したアタシを、驚いた様に宥める森田組長にむしゃぶりつく。
「嫌だ!!だったら、アタシを殺せばいい!!ヤクザの組長なんだろ!?それ位、簡単な事じゃん!!何で黒澤が殺されるんだよ!!」
「落ち着きなさい、何も決まった訳ではない」
「アンタなら、黒澤を殺さない様に命令出来るんだろ!?それとも、アタシが気に入らないから命令しないとか…だったら殺せよ!!今すぐにアタシを殺せっ!!」
「…落ち着きなさい」
図らずも森田組長に抱き締められる形になり、アタシはその胸元から香る匂いにボゥッとなった。
森田組長はアタシを優しく撫で下ろし、深い声音で囁いた。
「私だとて、権力が及ばない上から命令されれば、止める事等不可能だ。そうならない様に、最善策を取ろうとしている。何せ黒澤の縁談相手は、我々嶋祢会のトップのお嬢さんだ」
「……」
「無理を言っているのは、重々承知している」
「……」
「君を葬る事を、考えなかったかと言えば嘘になる。だが、君が死ぬ必要はない。君は唯、黒澤から離れてくれればそれでいい」
「……殺せよ…黒澤が納得しないのは、アンタだってわかってんだろ?」
「……」
「アンタになら…殺されてもいいや」
フィと見上げた顔には、眉間に深い縦皺が寄っていた。
「アンタ…黒澤と、唯のクライアントって関係じゃないんだろ?」
「……」
「黒澤と…どういう関係?」
「…何故?」
「だって…同じ匂いがするんだ…」
「……」
「もしかして、親戚?…父親とか?」
「……」
「……そっか」
アタシは起き上がって、森田組長に向き直った。
「…いいよ…どこへでも連れて行けよ」
「…いいのか?」
「父親に反対されたんじゃ…しょうがないじゃん」
「……」
「1つ知りたいんだけど…あの仏壇の人達は?」
「あれは、育ての親だ」
「この事…黒澤のお母さんは…知ってんの?」
「…母親は…とうの昔に死んでいる」
「…そう」
「他に知りたい事は?」
森田組長の問いに、アタシは真っ直ぐに見詰め返して尋ねた。
「黒澤は…アンタの事…父親だって知ってんの?」
「……知っている」
「…そぅ…知ってて…逆らってくれたんだ」
肉親よりも、アタシを選んでくれた…それだけで十分だ。
「アタシさ…この半年、物凄く幸せだった。そりゃ、色んな事あったけど…幸せって…嬉しいって、どういう事か忘れてたけど……それでも黒澤は、アタシの事愛してくれたんだ」
「……」
「やっと、嬉しいって…幸せだって…思える様になったんだけどさ」
「…済まない」
「謝らないでよ…その代わり、約束して!黒澤を守って!!絶対に、死なせないで!!」
「わかった…約束しよう」
「良かった…アタシも…嬉しい。黒澤の心は…守れなかったけど……代わりに…命を…守れるから……さ…」
涙腺が壊れた様に流れ出る涙を、アタシはひたすら拭った。




