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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
42/80

(42) 記憶

「投薬された薬の量が抑えられていた様で、本当に良かったですね。量を過ごしていると、全身から出血して、亡くなった方も居たそうだし…鼻腔粘膜(びくうねんまく)からの出血だけで済んだのは、不幸中の幸いだって内科の先生も言ってましたよ」

鷹栖総合病院の別館、精神科の鷹栖武蔵医師の部屋で、黒澤は出された珈琲のカップを握り締めて話を聞いていた。

「今回の内科の先生は、穏やかな方でね…何かあった時には、僕と連携(れんけい)を取って対処しますと申し出てくれたから、大丈夫だと思いますよ。何か不都合な事があったら、いつでも仰って下さい」

「ご配慮、ありがとうございます。今のところ、妃奈も落ち着いている様です」

「というよりは、思い詰めてるみたいですね…」

武蔵医師はホゥと溜め息を吐いて、壁の本棚を見詰めた。

「時々、彼女の様な人に出会う事があるんですよ…世の中の不幸を呼び寄せてしまう様な人にね。そういう人は、皆(がい)して優しい人が多い…。高橋さんは、黒澤さんと出会っているから安心だけど、中には1人で堪えなければいけない人もいる…。追い込まれて絶望してしまう人も多いんですよ」

「……」

「落ち着いたら、彼女に何かさせて上げたらいいですね。勉強でも趣味でも…彼女は、本当は賢い子だから。今迄は、生きて行く事に必死で心のゆとりとか情緒(じょうちょ)を育てる事が出来なかったでしょうからね」

「…そうですね」

「何か、心配ですか?」

「一気に色々暴露(ばくろ)されて、クスリや躰に傷を負って…目の前で人が死ぬ所を見たんです。APD意外にも何か影響が出るのではないかと…」

「PTSDの事ですか?出るかもしれません…でも、黒澤さんが心配しているのは、もっと違う事でしょう?」

「…それは…」

「昔の事を暴露(ばくろ)されて、彼女の気持ちが離れるのが怖いですか?」

「……」

「ちゃんと黒澤さんの口から、真実を話して上げればいいんです。今の彼女なら、受け入れると思いますよ」

「…そうですね」

「何にせよ、これ以上彼女に辛い思いをさせない事です…絶対にね」

武蔵先生の言葉に頷くと、黒澤は部屋を辞して妃奈の病室に向かった。

今回は、入院当初から畳と布団を持ち込んだせいか、妃奈は大人しく布団で休み、投薬も治療も素直に受けている。

合成麻薬による粘膜からの出血も止まり、背中に受けた刃物による傷も、大きな物は縫合された。

首輪ばかりか鎖を付けた手枷(てかせ)迄されていた事に、関係者は一様に驚いたが、首輪による舌骨(ぜっこつ)の骨折の治癒と、肝臓の数値が安定すれば退院は出来るそうだ。

だが黒澤としては、躰の傷よりも心の傷をこそ心配していた。

何故なら、あれ以来…妃奈は寝ている時も起きている時も、首から下げた鍵を握って離さないのだ。

入院当初から、黒澤の姿を見ても舌骨(ぜっこつ)の骨折の為に声が出し辛いのか、口真似で『ごめんなさい』としか話さない。

「…妃奈…」

布団に横になる妃奈に呼び掛けると、うっすらと(まぶた)を開き、黒澤の顔を見上げた。

「食事は摂れたか?ゼリーを買って来たんだが…」

コクリと頷く妃奈に、箱の中のゼリーを見せてやると、彼女は起き上がりオレンジのゼリーを取り出して膝に乗せた盆の上に置いた。

「…大丈夫だ…食事も…ちゃんと食べてる」

残りのゼリーを冷蔵庫に納める黒澤の背中に、何日振りかの妃奈の掠れた声が響く。

「だから、毎日来なくていい…又倒れたら、どうするんだよ」

「心配しなくても、もうすぐ年末休暇だ」

妃奈の布団の横に胡座(あぐら)をかくと、黒澤はネクタイを緩め盆に乗ったゼリーの蓋を取ってやった。

妃奈が一口食べて美味しいと言うのを聞き、少し安堵する。

「今日は、調子が良さそうだ」

「…うん」

「少し…話せるか?」

「…うん…いいよ」

(うつむ)いてゼリーを口に運ぶ妃奈に、黒澤は静かに語り掛けた。

「昔の事を…ちゃんと話そうと思う」

「…必要ない」

「だが…」

「必要ない。前にも、そう言ったじゃん」

「いや、やはり話して置く…お前の両親が殺されたのは…」

「…アタシのせいだ」

ポツリと妃奈の吐いた言葉は、感情も何もない声だった。

「違う!俺のせいだ!!」

「違わない…あの時……ゴミ置き場で濡れてた黒澤を…家に連れてったのは、アタシだったろ?」

「お前…記憶が…」

驚く黒澤を前に、妃奈は淡々とゼリーを口に運ぶ。

「…黒澤を送ってアパートに帰ったら、知らない男達が居たんだ。…お父さんとお母さんは、血塗れで倒れてて…アタシの事見上げて…」

「もういい!!」

「あの人が言ってた事なんて、(ほとん)ど覚えてない…覚えてるのは…ここで見聞きした事、全部…忘れろって……思い出したら、殺しに来るって…」

「もういいんだ、妃奈…」

きつく目を閉じる黒澤の横で、妃奈の無感情な声が続く。

「変なんだ…アタシ…」

「……」

「本当の両親の事も、あの毛利って人の事も……黒澤の事も…全部思い出したのに……なんか、自分とは遠い…本の中の出来事みたいなんだ」

「…妃奈」

「コレ…宝箱の鍵…」

妃奈は胸から下がった鍵の中から、貸金庫の鍵を黒澤に見せた。

「済まない、妃奈…その鍵は、お前が倒れている時に使わせて貰った」

「…そう」

「お前が、引き続き持っていてくれ」

「…わかった」

「あの時…毛利の言った事は、嘘じゃない」

「もういいって言ったろ?」

「いや…言わせてくれ」

妃奈は何でもない様に(よそお)い、手元のゼリーを掻き回す。

「俺の兄貴も、森田組の弁護士だった。当時兄貴は、森田組長の依頼で堂本組内の事を調べていた。その中で、新宿署の組織対策課の課長だった毛利剛の不正を発見して…検察に摘発(てきはつ)しようとしたんだ」

「……」

「毛利と手を組んでいた菱川組が、その情報を嗅ぎ付け…俺の親父と兄貴を殺し…家に火を放った」

「えっ!?」

「俺は…兼ねてから兄貴に言われていた鍵を持ち出して、命からがら逃げ出した。お前に出会ったのは、その時だ…逃げるのに疲れ果て、このまま死ぬかもしれないと思っていた時、お前が救いの手を差し伸べてくれた」

「…そんな事…あれは…」

「その小さな手に(すが)ったばかりに…お前の両親は殺され、お前は記憶を失う事になったんだ」

「……」

「本当に済まない」

「…いいよ、もう…」

妃奈は最後の一口をツルリと口に入れると、器の乗った盆を枕元に置いた。

「…昔の事だろ?」

「……」

「それに、その後…探してくれたんだろ?」

「妃奈のお父さんと約束した。妃奈が困っている事があったら、必ず助けると…」

俯いたままの妃奈に、黒澤は以前から気になっていた事を質問した。

「そういえば、お前…俺の事、どこまで覚えてたんだ?」

「忘れてたよ…きれいさっぱり」

「だが…あれは覚えてたんだろう?」

「何?」

「…Princes(プリンセス) Amber(アンバー)

「っ!?」

「…俺の…小さな『琥珀姫』」

スルリと首筋に手をやると、妃奈は真っ赤になって首を振った。

「違うっ!あれは…」

「あれは?」

そう言いながら、黒澤は尚も妃奈に詰め寄って、頬と首筋をスリスリと撫でる。

「あれは…夢の中の王子様が…」

「夢の中?」

「…夢で…いつも出てくる人に、言われてただけだ」

無意識に閉じ込められた記憶が、夢の中の王子様という形で現れていたという事なのか…。

妃奈の肩に腕を回して抱き寄せてやると、彼女は身を固くして黒澤の胸に額を付けた。

「…ごめんなさい」

「何を謝る?」

「…色々…迷惑かけたろ?」

「そんな事はいい…だが、何故黙って家を出た?」

「……良兄ちゃんに…」

「茂木良介か?」

「…自首を…する様に…説得に行ったんだ」

「…ライターが送られて来た時点で、茂木良介が犯人だとわかってたのか!?何故言わなかった!!」

「……」

「妃奈!!」

「…確かめたかった」

「……」

「アタシのせいなんだ…」

「え?」

「アタシが…兄ちゃんに言ったんだ……アタシばっかり頼るなって。良兄ちゃんを頼れって……アタシが言った。だから、兄ちゃん…良兄ちゃんに会いに行ったんだ!だから、殺されちゃったんだ!!」

「…妃奈」

「…兄ちゃん…あの火事の時、アタシが見付けたライター取り上げて言ったんだ。誰にも言うなって…犯人、良兄ちゃんって決まった訳じゃないって。良兄ちゃんの為に、黙ってろって…。でも、兄ちゃん…予感してたのかもしんない……だから、アタシ宛にライター送って来たんだ!」

「だからって…そんな相手に1人で会いに行くなんて!お前だって、殺されるかもしれなかったんだぞ!?」

「…兄ちゃんに…頼まれた気がしたんだ。『良介の事を頼む』って。ライター…アタシに送って来たのって、そういう事だろ?だから、自首させようと思って……まさか、坂上と連んでるなんて思わなかった」

「…茂木良介は、坂上に脅されていたそうだ」

「え?」

「西堀善吉は、弟に会いに行くと仲間に話していたらしい。彼が殺されたとニュースになって直ぐ、坂上は茂木良介にコンタクトを取って、脅したんだそうだ」

「…そっか…そうだったんだ……でも、きっと…アタシのせいだ…」

「違う、妃奈!!お前は、被害者だ!!」

鍵を握り締めて震えながら、妃奈は黒澤から距離を取ろうとした。

「だって…良兄ちゃんも、坂上も…あの襲って来た警官も……皆、アタシのせいだって言ったッ!!」

「…それは」

「…黒澤の事だって…アタシは裏切った」

「裏切った?何を?」

「……黒澤の…心を守るって…約束したのに…」

「その事か…いいんだ。お前が、こうやって帰って来てくれた」

「何がいいんだよっ!?坂上に犯されてっ!!背中に……印まで刻まれて…」

「…知ってたのか?」

妃奈の背中には、無数の傷の他に意図的に付けられた傷が刻まれていた。

明らかに『KYO』と読める傷は、坂上の名前を刻んだ物で…坂上の所有物である事を示している。

どれだけ妃奈に執着(しゅうちゃく)していたのだろうと、正直その傷を見た時にはゾッとした。

だが…その坂上も、最後は妃奈を庇う様にして死んだ。

決して認めたくはないが、坂上も妃奈を愛していたのではないか…それが、歪んだ愛情だったとしても…。

「…他の男の名前…刻まれた女なんて…」

「そんな傷、直ぐに治る。跡に残る様なら、ちゃんと消してやる。心配するな。それよりも…」

妃奈の両肩を掴み、黒澤は顔を覗き込んで言った。

「お前が、そうやって…独りで気持ちを抱え込む事が心配なんだ」

「……」

「ちゃんと話せと言ったろう?辛い事は半分に、喜びは倍になる…」

「…何で?」

「何が?」

「何で…アタシなんかの事…」

「お前がいい」

「…こんな…汚れきった女…」

「お前じゃなきゃ、駄目なんだ」

「……」

「お前の悩みには、俺がちゃんと答えを出してやるから……な?」

ようやく小さく頷くと、妃奈は消え入りそうな声で呟いた。

「……もぅ…戻れないと…思ってた」

「ちゃんと戻って来れた。それでいい」

黒澤は、しっかりと妃奈の躰を抱き込んでやった。

「…怖かったか?」

コクリと胸の中の妃奈が頷く。

「戻りたかったか?俺の所に?」

再び、コクリと妃奈は頷いた。

「…俺の事、好きか…妃奈?」

何の躊躇(ためら)いもなくコクリと頷くと、妃奈は黒澤の胸に顔を擦り寄せた。

黒澤は妃奈の顎に手をやると、クイッと上に引き上げて再び言った。

「言葉にしろ、妃奈…俺の事、好きか?」

「……うん」

「好きって言えよ」

「……好き」

「…やっと言ったな」

潤んだ瞳を見詰めながら、黒澤はゆっくりと唇を落とし、深く舌を絡めた。



妃奈が退院したのは、年末もぎりぎりになってからだった。

クリスマスも病院だったので、本当はリゾート地にでも行ってゆっくりと過ごさせてやりたかったが、妃奈は自宅から外に出る事を極端(きょくたん)に嫌がった。

外に出ると、怖い事が起きる…あんなにも外に出たいと望んでいた彼女の意識の中に、そんな恐怖を植え付けてしまった様だ。

相変わらず言葉数は少なく、胸に下げた鍵を握り締める事を止めないが、以前よりは格段に角が取れて丸くなった様に思えるのは、記憶を取り戻したからだろうか?

シャイで黒澤に甘える事に躊躇(ちゅうちょ)しながらも、家に居る時にはおずおずと近付き、そっとソファーに座る黒澤の背後や足下に(うずくま)る。

触れそうで触れない距離を保ち、そのまま放置するとスルリとどこかに逃げて行く。

「…どこに行く?」

立ち上がった妃奈に腕を伸ばすと、彼女は少し寂しそうに首を振った。

「……邪魔かと思って」

「…おいで」

手を取ってやると、妃奈は素直に黒澤の腕に収まる。

「言っただろう?寂しいなら、寂しいと言っていいんだ」

「…大丈夫だ…黒澤が傍に居る」

「それでも不安なんだろう?」

キュッと黒澤の袖を掴み、妃奈はフルフルと首を振った。

「済まない。忙しくて寂しい思いをさせているのは、俺だ」

「そんな事ない」

「指輪…婚約指輪、買いに行かないか?」

「…要らない。コレ貰ったから」

そう言って、妃奈は胸に下げた鍵を黒澤に見せた。

「磨いたら、ピカピカになった」

「それは、金じゃない。唯の真鍮(しんちゅう)の鍵だ」

「それでもいい…コレが一番の宝物だ。アタシの居場所の鍵だ」

大事そうに鍵を撫でる妃奈の顔が、柔らかに綻ぶ。

そんな鍵1つで喜ぶならば、もっと早くに渡してやればよかったと後悔しながら、黒澤は妃奈を抱き込んで唇を(ふさ)いだ。

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