(42) 記憶
「投薬された薬の量が抑えられていた様で、本当に良かったですね。量を過ごしていると、全身から出血して、亡くなった方も居たそうだし…鼻腔粘膜からの出血だけで済んだのは、不幸中の幸いだって内科の先生も言ってましたよ」
鷹栖総合病院の別館、精神科の鷹栖武蔵医師の部屋で、黒澤は出された珈琲のカップを握り締めて話を聞いていた。
「今回の内科の先生は、穏やかな方でね…何かあった時には、僕と連携を取って対処しますと申し出てくれたから、大丈夫だと思いますよ。何か不都合な事があったら、いつでも仰って下さい」
「ご配慮、ありがとうございます。今のところ、妃奈も落ち着いている様です」
「というよりは、思い詰めてるみたいですね…」
武蔵医師はホゥと溜め息を吐いて、壁の本棚を見詰めた。
「時々、彼女の様な人に出会う事があるんですよ…世の中の不幸を呼び寄せてしまう様な人にね。そういう人は、皆概して優しい人が多い…。高橋さんは、黒澤さんと出会っているから安心だけど、中には1人で堪えなければいけない人もいる…。追い込まれて絶望してしまう人も多いんですよ」
「……」
「落ち着いたら、彼女に何かさせて上げたらいいですね。勉強でも趣味でも…彼女は、本当は賢い子だから。今迄は、生きて行く事に必死で心のゆとりとか情緒を育てる事が出来なかったでしょうからね」
「…そうですね」
「何か、心配ですか?」
「一気に色々暴露されて、クスリや躰に傷を負って…目の前で人が死ぬ所を見たんです。APD意外にも何か影響が出るのではないかと…」
「PTSDの事ですか?出るかもしれません…でも、黒澤さんが心配しているのは、もっと違う事でしょう?」
「…それは…」
「昔の事を暴露されて、彼女の気持ちが離れるのが怖いですか?」
「……」
「ちゃんと黒澤さんの口から、真実を話して上げればいいんです。今の彼女なら、受け入れると思いますよ」
「…そうですね」
「何にせよ、これ以上彼女に辛い思いをさせない事です…絶対にね」
武蔵先生の言葉に頷くと、黒澤は部屋を辞して妃奈の病室に向かった。
今回は、入院当初から畳と布団を持ち込んだせいか、妃奈は大人しく布団で休み、投薬も治療も素直に受けている。
合成麻薬による粘膜からの出血も止まり、背中に受けた刃物による傷も、大きな物は縫合された。
首輪ばかりか鎖を付けた手枷迄されていた事に、関係者は一様に驚いたが、首輪による舌骨の骨折の治癒と、肝臓の数値が安定すれば退院は出来るそうだ。
だが黒澤としては、躰の傷よりも心の傷をこそ心配していた。
何故なら、あれ以来…妃奈は寝ている時も起きている時も、首から下げた鍵を握って離さないのだ。
入院当初から、黒澤の姿を見ても舌骨の骨折の為に声が出し辛いのか、口真似で『ごめんなさい』としか話さない。
「…妃奈…」
布団に横になる妃奈に呼び掛けると、うっすらと瞼を開き、黒澤の顔を見上げた。
「食事は摂れたか?ゼリーを買って来たんだが…」
コクリと頷く妃奈に、箱の中のゼリーを見せてやると、彼女は起き上がりオレンジのゼリーを取り出して膝に乗せた盆の上に置いた。
「…大丈夫だ…食事も…ちゃんと食べてる」
残りのゼリーを冷蔵庫に納める黒澤の背中に、何日振りかの妃奈の掠れた声が響く。
「だから、毎日来なくていい…又倒れたら、どうするんだよ」
「心配しなくても、もうすぐ年末休暇だ」
妃奈の布団の横に胡座をかくと、黒澤はネクタイを緩め盆に乗ったゼリーの蓋を取ってやった。
妃奈が一口食べて美味しいと言うのを聞き、少し安堵する。
「今日は、調子が良さそうだ」
「…うん」
「少し…話せるか?」
「…うん…いいよ」
俯いてゼリーを口に運ぶ妃奈に、黒澤は静かに語り掛けた。
「昔の事を…ちゃんと話そうと思う」
「…必要ない」
「だが…」
「必要ない。前にも、そう言ったじゃん」
「いや、やはり話して置く…お前の両親が殺されたのは…」
「…アタシのせいだ」
ポツリと妃奈の吐いた言葉は、感情も何もない声だった。
「違う!俺のせいだ!!」
「違わない…あの時……ゴミ置き場で濡れてた黒澤を…家に連れてったのは、アタシだったろ?」
「お前…記憶が…」
驚く黒澤を前に、妃奈は淡々とゼリーを口に運ぶ。
「…黒澤を送ってアパートに帰ったら、知らない男達が居たんだ。…お父さんとお母さんは、血塗れで倒れてて…アタシの事見上げて…」
「もういい!!」
「あの人が言ってた事なんて、殆ど覚えてない…覚えてるのは…ここで見聞きした事、全部…忘れろって……思い出したら、殺しに来るって…」
「もういいんだ、妃奈…」
きつく目を閉じる黒澤の横で、妃奈の無感情な声が続く。
「変なんだ…アタシ…」
「……」
「本当の両親の事も、あの毛利って人の事も……黒澤の事も…全部思い出したのに……なんか、自分とは遠い…本の中の出来事みたいなんだ」
「…妃奈」
「コレ…宝箱の鍵…」
妃奈は胸から下がった鍵の中から、貸金庫の鍵を黒澤に見せた。
「済まない、妃奈…その鍵は、お前が倒れている時に使わせて貰った」
「…そう」
「お前が、引き続き持っていてくれ」
「…わかった」
「あの時…毛利の言った事は、嘘じゃない」
「もういいって言ったろ?」
「いや…言わせてくれ」
妃奈は何でもない様に装い、手元のゼリーを掻き回す。
「俺の兄貴も、森田組の弁護士だった。当時兄貴は、森田組長の依頼で堂本組内の事を調べていた。その中で、新宿署の組織対策課の課長だった毛利剛の不正を発見して…検察に摘発しようとしたんだ」
「……」
「毛利と手を組んでいた菱川組が、その情報を嗅ぎ付け…俺の親父と兄貴を殺し…家に火を放った」
「えっ!?」
「俺は…兼ねてから兄貴に言われていた鍵を持ち出して、命からがら逃げ出した。お前に出会ったのは、その時だ…逃げるのに疲れ果て、このまま死ぬかもしれないと思っていた時、お前が救いの手を差し伸べてくれた」
「…そんな事…あれは…」
「その小さな手に縋ったばかりに…お前の両親は殺され、お前は記憶を失う事になったんだ」
「……」
「本当に済まない」
「…いいよ、もう…」
妃奈は最後の一口をツルリと口に入れると、器の乗った盆を枕元に置いた。
「…昔の事だろ?」
「……」
「それに、その後…探してくれたんだろ?」
「妃奈のお父さんと約束した。妃奈が困っている事があったら、必ず助けると…」
俯いたままの妃奈に、黒澤は以前から気になっていた事を質問した。
「そういえば、お前…俺の事、どこまで覚えてたんだ?」
「忘れてたよ…きれいさっぱり」
「だが…あれは覚えてたんだろう?」
「何?」
「…Princes Amber」
「っ!?」
「…俺の…小さな『琥珀姫』」
スルリと首筋に手をやると、妃奈は真っ赤になって首を振った。
「違うっ!あれは…」
「あれは?」
そう言いながら、黒澤は尚も妃奈に詰め寄って、頬と首筋をスリスリと撫でる。
「あれは…夢の中の王子様が…」
「夢の中?」
「…夢で…いつも出てくる人に、言われてただけだ」
無意識に閉じ込められた記憶が、夢の中の王子様という形で現れていたという事なのか…。
妃奈の肩に腕を回して抱き寄せてやると、彼女は身を固くして黒澤の胸に額を付けた。
「…ごめんなさい」
「何を謝る?」
「…色々…迷惑かけたろ?」
「そんな事はいい…だが、何故黙って家を出た?」
「……良兄ちゃんに…」
「茂木良介か?」
「…自首を…する様に…説得に行ったんだ」
「…ライターが送られて来た時点で、茂木良介が犯人だとわかってたのか!?何故言わなかった!!」
「……」
「妃奈!!」
「…確かめたかった」
「……」
「アタシのせいなんだ…」
「え?」
「アタシが…兄ちゃんに言ったんだ……アタシばっかり頼るなって。良兄ちゃんを頼れって……アタシが言った。だから、兄ちゃん…良兄ちゃんに会いに行ったんだ!だから、殺されちゃったんだ!!」
「…妃奈」
「…兄ちゃん…あの火事の時、アタシが見付けたライター取り上げて言ったんだ。誰にも言うなって…犯人、良兄ちゃんって決まった訳じゃないって。良兄ちゃんの為に、黙ってろって…。でも、兄ちゃん…予感してたのかもしんない……だから、アタシ宛にライター送って来たんだ!」
「だからって…そんな相手に1人で会いに行くなんて!お前だって、殺されるかもしれなかったんだぞ!?」
「…兄ちゃんに…頼まれた気がしたんだ。『良介の事を頼む』って。ライター…アタシに送って来たのって、そういう事だろ?だから、自首させようと思って……まさか、坂上と連んでるなんて思わなかった」
「…茂木良介は、坂上に脅されていたそうだ」
「え?」
「西堀善吉は、弟に会いに行くと仲間に話していたらしい。彼が殺されたとニュースになって直ぐ、坂上は茂木良介にコンタクトを取って、脅したんだそうだ」
「…そっか…そうだったんだ……でも、きっと…アタシのせいだ…」
「違う、妃奈!!お前は、被害者だ!!」
鍵を握り締めて震えながら、妃奈は黒澤から距離を取ろうとした。
「だって…良兄ちゃんも、坂上も…あの襲って来た警官も……皆、アタシのせいだって言ったッ!!」
「…それは」
「…黒澤の事だって…アタシは裏切った」
「裏切った?何を?」
「……黒澤の…心を守るって…約束したのに…」
「その事か…いいんだ。お前が、こうやって帰って来てくれた」
「何がいいんだよっ!?坂上に犯されてっ!!背中に……印まで刻まれて…」
「…知ってたのか?」
妃奈の背中には、無数の傷の他に意図的に付けられた傷が刻まれていた。
明らかに『KYO』と読める傷は、坂上の名前を刻んだ物で…坂上の所有物である事を示している。
どれだけ妃奈に執着していたのだろうと、正直その傷を見た時にはゾッとした。
だが…その坂上も、最後は妃奈を庇う様にして死んだ。
決して認めたくはないが、坂上も妃奈を愛していたのではないか…それが、歪んだ愛情だったとしても…。
「…他の男の名前…刻まれた女なんて…」
「そんな傷、直ぐに治る。跡に残る様なら、ちゃんと消してやる。心配するな。それよりも…」
妃奈の両肩を掴み、黒澤は顔を覗き込んで言った。
「お前が、そうやって…独りで気持ちを抱え込む事が心配なんだ」
「……」
「ちゃんと話せと言ったろう?辛い事は半分に、喜びは倍になる…」
「…何で?」
「何が?」
「何で…アタシなんかの事…」
「お前がいい」
「…こんな…汚れきった女…」
「お前じゃなきゃ、駄目なんだ」
「……」
「お前の悩みには、俺がちゃんと答えを出してやるから……な?」
ようやく小さく頷くと、妃奈は消え入りそうな声で呟いた。
「……もぅ…戻れないと…思ってた」
「ちゃんと戻って来れた。それでいい」
黒澤は、しっかりと妃奈の躰を抱き込んでやった。
「…怖かったか?」
コクリと胸の中の妃奈が頷く。
「戻りたかったか?俺の所に?」
再び、コクリと妃奈は頷いた。
「…俺の事、好きか…妃奈?」
何の躊躇いもなくコクリと頷くと、妃奈は黒澤の胸に顔を擦り寄せた。
黒澤は妃奈の顎に手をやると、クイッと上に引き上げて再び言った。
「言葉にしろ、妃奈…俺の事、好きか?」
「……うん」
「好きって言えよ」
「……好き」
「…やっと言ったな」
潤んだ瞳を見詰めながら、黒澤はゆっくりと唇を落とし、深く舌を絡めた。
妃奈が退院したのは、年末もぎりぎりになってからだった。
クリスマスも病院だったので、本当はリゾート地にでも行ってゆっくりと過ごさせてやりたかったが、妃奈は自宅から外に出る事を極端に嫌がった。
外に出ると、怖い事が起きる…あんなにも外に出たいと望んでいた彼女の意識の中に、そんな恐怖を植え付けてしまった様だ。
相変わらず言葉数は少なく、胸に下げた鍵を握り締める事を止めないが、以前よりは格段に角が取れて丸くなった様に思えるのは、記憶を取り戻したからだろうか?
シャイで黒澤に甘える事に躊躇しながらも、家に居る時にはおずおずと近付き、そっとソファーに座る黒澤の背後や足下に踞る。
触れそうで触れない距離を保ち、そのまま放置するとスルリとどこかに逃げて行く。
「…どこに行く?」
立ち上がった妃奈に腕を伸ばすと、彼女は少し寂しそうに首を振った。
「……邪魔かと思って」
「…おいで」
手を取ってやると、妃奈は素直に黒澤の腕に収まる。
「言っただろう?寂しいなら、寂しいと言っていいんだ」
「…大丈夫だ…黒澤が傍に居る」
「それでも不安なんだろう?」
キュッと黒澤の袖を掴み、妃奈はフルフルと首を振った。
「済まない。忙しくて寂しい思いをさせているのは、俺だ」
「そんな事ない」
「指輪…婚約指輪、買いに行かないか?」
「…要らない。コレ貰ったから」
そう言って、妃奈は胸に下げた鍵を黒澤に見せた。
「磨いたら、ピカピカになった」
「それは、金じゃない。唯の真鍮の鍵だ」
「それでもいい…コレが一番の宝物だ。アタシの居場所の鍵だ」
大事そうに鍵を撫でる妃奈の顔が、柔らかに綻ぶ。
そんな鍵1つで喜ぶならば、もっと早くに渡してやればよかったと後悔しながら、黒澤は妃奈を抱き込んで唇を塞いだ。




