(38) 追跡
蒲田にある菅原家の一人娘美子に、妃奈と会ったかと尋ねると、彼女は好奇心一杯の瞳で黒澤を見詰めて頷いた。
「今日妃奈と会って、どんな話をしたか、教えて貰いたいんだが?」
「えぇ〜?別にぃ…大した話してませんけどぉ〜?」
「今日会う事は、前からの約束だったんだろうか?」
「うぅん…妃奈がぁ、昼休みにぃ、アタシの携帯に電話掛けてきてぇ…そんで、ツインビルで会う事にしたんですぅ。あそこのカフェ、雑誌にも載っててぇ…」
妃奈から連絡しただと?
この娘とは、仲が悪いと幸村刑事が話していたが…それなのに、一体何の為に…?
「黒澤さんってぇ、弁護士さんで、妃奈の保護者って本当なんですかぁ?」
「そうだが?」
「妃奈と2人切りで生活してるんですよねぇ?」
「それが?」
「あの娘ってぇ…退屈じゃないですかぁ?あんまり喋んないしぃ…何考えてんのか、わかんない所あるしぃ…」
「…そんな事はないが…それより今日妃奈は、何の為に君を呼び出したのだろうか?」
「えぇ〜…それはぁ…」
「教えて貰えないか?」
「…じゃあ、教えたらぁ…お願い聞いて貰えますぅ?」
「私に出来る事なら、何でも聞こう」
「約束ですよぉ?…妃奈はぁ、アタシの彼氏の連絡先聞きに来たんですぅ」
「…彼氏の名前は?」
「茂木良介さんっていって…医大生なんですよぉ」
「茂木良介…西堀善吉の弟の!?」
「黒澤さん、知ってたんですかぁ?妃奈はぁ、良介さんの携帯の番号教えて欲しいってぇ…死んだ善吉の事でぇ、話があるって言ってましたけどぉ?」
善吉の事で、弟に何の話があるというのだろうか?
あの敷地の外に出る事を黒澤が極端に嫌がる事は、妃奈だって理解している筈だ。
黒澤が、烈火の如く怒る事も想定しているだろうに…その危険を犯して迄外出した理由が、西堀善吉の弟の連絡先を聞く為だと!?
妃奈は、善吉の弟には嫌われていると話していた。
なのに……解せない…何故?
「じゃあ、今度ぉ…黒澤さんの家に遊びに行っていいですかぁ?」
「ウチに?」
「妃奈がぁ、どんな生活してるかぁ…見てみたいしぃ」
「妃奈さえ承知すれば、構わないが?」
「大丈夫ですよぉ!アタシ逹、前は仲が悪かったんですけどぉ…今日和解したしぃ。何なら、良介さんと2人で伺ってもいいですかぁ?」
「そうだな…今はバタバタしているが…妃奈と正式に籍を入れたら、君達を招待しよう」
「…え?…セキ…って?」
「私は、妃奈の保護者であると同時に、妃奈の婚約者でもあるんだ」
美子の呆けた顔に笑顔を返すと、黒澤は会釈して菅原家を退散した。
「対象者、ツインビルから出て来ました」
「様子は?」
「携帯で…電話をしています」
「携帯持ってるのか…番号がわかれば、追跡出来るんだが…」
「あ…歩き始めました…このまま、尾行します」
「了解。撒かれるなよ」
携帯を畳みながら、三田村は電話とパソコン操作を同時にこなす上司を窺った。
夏目有、28歳…見た目だけでいうと女子学生にしか見えないこの上司は、かつて三田村が新人教育をしたキャリアだ。
今ではすっかり階級も抜かれ、警視なんて手の届かない所に行ってしまったが…突然古巣の新宿署に招集され、夏目が上司だと知った時には驚いた。
新しく新宿署の署長になった佐伯警視正の肝煎りで立ち上げられた特別班は、新宿署の中に潜む爛れた慣習に染まらぬ、署長直属の実行部隊だ。
当然署内からの風当たりも強いが、それよりも恐れられているというのが正直な所だろう。
各署から招集された一癖も二癖もあるメンバーに加わったこの年若い上司には『ブラッディ・メアリー』なんていう大層な二つ名が付けられないている。
2年程前に起きた爆弾テロ事件で、敵の火焔瓶で負傷した作戦本部長に代わり、負傷しながらも彼女が現場で作戦を立て直し、見事にテロリストを一網打尽にした。
その見事な手腕と共に、頭から血を垂らしながら薄ら笑いを浮かべていた等という尾ひれを付けて、勝手な噂は広まって行く。
もうひとつは、彼女の出自だ。
親族は皆、検察や警察官僚…叔父は、警察庁刑事局長なんていう要職に就いている。
本人もハーバード大学を飛び級で卒業し、東大の大学院を悠々卒業して国家公務員Ⅰ種をトップで合格したというサラブレッドだからだ。
プシッと音がして、夏目はモニターを見詰めたまま、トマトジュースの缶を開けた。
眉間に皺を寄せる三田村の視線に気付き、夏目は缶を掲げて小首を傾げる。
「…飲みますか?」
「いや、結構」
「そういえば、お嫌いでしたっけ?」
「……」
夏目はクスリと笑うと、デスクでパソコンにかじりつく部下に、高橋妃奈の携帯番号を渡して、位置情報を確認する様に指示を出した。
もう、調べたのか…先程三田村に来た報告を聞いて、いち早く手配と手続きを済ませている。
「警視殿は、相変わらずの、ながら仕事ですか?」
「止めて下さい、その警視殿って言うの…それに、作業していても耳は聞こえてますから」
パソコンのモニターに目を落としていた夏目が、フィッと三田村に視線を上げた。
「ようやく、ながら仕事していても叱られない立場になりましたしね」
新人教育の時に三田村に叱られた事を思い出したのだろう…少し悪戯っぽい笑みを浮かべた夏目は、三田村に手招きしてモニターを指差した。
「コレ…どう思います?」
「さっきから、何を見てるんだ…ですか?」
ついついタメ口をきいてしまい、口を押さえる三田村を気に留める様子もなく、夏目はクスリと笑った。
「署内限定のね、裏サイトを作ったんですよ」
「裏サイトだとぉ?」
「そう…外に出せない様にセキュリティを組んで、無記名で書き込める掲示板です。ほら、学校裏サイトなんか、よくあるじゃないですか?」
「…そんな幼稚な物を…」
「最初は、食い付き悪いのかもって思ってたんですよ。所が、そうでもなかった様で…今、署内じゃ皆、フラストレーション溜まってますからね…」
モニターには、上司や署内の体制についての愚痴や意見等が、次々と書き込みされて行く。
「…コレ…リアルタイムなのか?」
「そうですよ。皆、暇なんですね…」
「お前…いゃ、警視が考えられたんですか?」
「だから…階級で呼ばなくてもいいですよ。夏目でも、皆の様にお嬢ちゃんでも構いませんし…」
「そんな訳にもいかねぇだろ?」
「…昔の様にユウでいいですって…因みに、コレを考えたのは署長ですよ。システムを組んだのは、和田君です」
「……」
「見て欲しいのは、内容です。結構なヤバいネタが、上がってますよ」
「…毛利剛のか?」
「えぇ…『OB、Mのネタ』って書き込んだら、出るわ出るわ…」
「…信憑性は?」
「署内ネタですからね。火の無い所に煙は立たない…100%じゃなくても、30%は堅いんじゃないですか?」
「…で、内容は?」
「色々あります。高橋妃奈さんの事件に絡む物、息子である坂上恭に絡む物…ですが、一番ヤバいのはコレです」
マウスでクリックされた画面に出た文字に、三田村は絶句した。
「コレは…」
「押収品の横流し…頻繁に行われていたみたいですね?退職した後も、強要されていたと出ています。それと、コレ…」
次にクリックした画面には、『H.D』と書かれてあった。
「何だ…ですか、『H.D』って?」
「三田村さん、『ヘブンズ・ドア』って合成麻薬、知ってますか?」
「いゃ?」
「5年前に新宿で起きた事件で摘発された合成麻薬です。嶋祢会系の堂本組傘下の三上組とAsia製薬、香港や上海やロシアのシンジケート迄も巻き込んだ事件で…殺人と誘拐事件も起きてました」
「あぁ…広域になった事件だった…ですよね?」
「『H.D』は、当時のAsia製薬社長が自社で開発した合成麻薬です。巷で出回っている『スピード』より効き目が凄いらしく、当時のAsia製薬社長の渡海世志は、三上組と組んで独自の販売ルートを開拓しようとしてました」
「…詳しいな?その事件に絡んでた…んですか?」
「いぇ、当時私は本庁勤務でしたから…。この事件、佐伯署長が組対にいらっしゃった時に、陣頭指揮を取って解決された事件です」
「へぇ…それで?」
「首謀者の渡海の自宅とAsia製薬本社、三上組に隠されていた『H.D』は、新宿署に押収されました。そしてAsia製薬は、『H.D』に関する全ての資料を警察に提出しました…新宿署の組織犯罪対策課に…」
「おい!?それって…」
「当時の組織犯罪対策課の課長は、毛利剛です。勿論、Asia製薬から提出されたデータは、本庁に提出されました…が、もしも提出される前にコピーが取られていたら、どうなります?」
「…そんな事実…あるんですか?」
夏目は机の引き出しから分厚いファイルを取り出すと、山の様に付箋の付いたページを繰り、その1ページを三田村に見せた。
「ここ数年の新宿署で起きた事件の中で、少し気になる物をピックアップしてたんですが…一昨年の末に、会社員と女子大生の誘拐事件があったんです。これも、嶋祢会絡みの事件だったんですが…その時の被害者が、合成麻薬を盛られたんです。当時、横浜を中心に出回っていたsexドラッグで『HDS』という経口タイプのドラッグだったんですが、この『HDS』…『H.D』の改良型だったんです」
「……」
「『H.D』は粉末タイプ…吸引か注射するタイプの合成麻薬だったらしいんですが、もっと手軽で効き目も各自で調節出来る経口タイプに改良されていました。元三上組の松島という男が、横浜で出頭してそう自白しています。ですが、クスリの詳しい情報等を知っている筑波組組長と桐生会会長、誘拐犯の聖皇輝も揃って死亡していますから…結局、情報がどこから流れたか、有耶無耶になってるんですよ」
「…関係があると…睨んでるんですか?」
「まだ…わかりませんけどね」
パタンとファイルを閉じると、夏目は再び三田村を見上げた。
「近頃、新宿界隈で話題になっているドラッグに、似た様な物が出回ってるんです。経口タイプなのは『HDS』と同じですが…効き目が当初の『H.D』と同じ様に、かなりキツイ物らしくて……先日、とうとう死人が出てしまいました」
「…コピーされた製造技術で作られているというのか!?」
「かなり特別な製造方法で作られているドラッグなんだそうです。素人には、到底作り切れる物ではないというのが、化捜研の見解です。今のところ、効果の絶大さと出回っている数が少ない事で、幻のドラッグと言われ、出所がわからないという厄介な代物なんですよ」
「…そんなに、副作用がある物…なんですか?」
「規定量なら問題はありませんが…刺激を求め量を増やすと、躰中の粘膜から出血して血が止まらなくなり、出血多量で死に至るんだそうです。刺激を求める為に死ぬなんて、考えられませんが…」
夏目は、そのドラッグも毛利の周辺から流れていると見ているのだろうか?
「先ずは、目の前の事件を追いましょう。和田君、高橋妃奈さんの現在位置は?」
「諏訪通りを歩いています…どこに行くんでしょう?」
「…戸山公園か?」
「あそこは、彼女のテリトリーではない筈です。彼女は、新宿中央公園界隈が根城だそうですよ?」
怪訝な顔で見詰める三田村の視線に、夏目はヘラリと笑った。
「そう、幸村先輩が仰ってました」
こんな笑顔が出来る様になったのかと、三田村は少しホッとした。
6年前…まだ研修中の夏目を襲った出来事は、本来なら大スキャンダルだったのだが、本庁の命令で完全オフレコにされた。
あのまま潰れてしまうのではないかと、密かに心配していたのだが…。
「それにしても、おかしいと思いませんか?」
「何が…ですか?」
「高橋さんの弁護士、黒澤氏…保護者って事で、一緒に暮らしているんでしたよね?この間会って、どう思いました?」
「どうとは?」
「あの2人、男女の関係にあるんでしょうか?」
「えっ?」
「その辺りの心の機微は、私より三田村さんの方が詳しいでしょう?」
警察を全く信用していない娘と、それを気遣う様に宥める弁護士…だが、あの抱き方や抱かれ方…双方共に妙に慣れてなかったか?
それにあの男…彼女を囲い込む様に撫であやしていた…あれは、男として接している様に見えた。
「…多分」
「やはりそうですか…黒澤氏は、彼女が入院中にも24時間監視を付けていたそうです」
「…そりゃ、何とも…」
「恐らく、毛利親子を警戒する為でしょうが…そんな人が、自宅に戻ったからといって、彼女を独りで自由に外出させると思いますか?」
「…あそこは、事務所兼自宅になっていて、24時間警備員が門に張り付いてるんですよね?」
「そう…常に警備員に見張られている状態の彼女が外出するなら、誰か護衛の人間を付けるか、車を出すか…すると思いませんか?」
「…確かに…あの男なら、しそうですね」
「なのに、高橋さんは独りで外出しています。メールの写真で確認しましたが、ツインビルで会っていたのは菅原美子さん。彼女の養育里親の家の娘です。久し振りに会って、お茶をしたという事なのかもしれませんが…もう暗くなろうとする時間に、自宅とは反対方向に向かう理由とは何でしょう?」
「…彼女は、元ホームレスです。窮屈になって逃げ出したという事は、考えられませんか?」
「逃げ出す様な関係に見えましたか?」
「……」
黙り込む三田村に、夏目は温くなったトマトジュースの缶を飲み干して言った。
「あの後、署長と話していて思ったんですが……高橋さんは、ホシを…知っていたんじゃないかと思うんです」
「えぇっ!?」
「あのライター…被害者である西堀善吉さんの物だという事でしたが、彼は煙草を吸わないんですよ」
「……」
「鑑識の結果、使い込まれた古いタイプのジッポーでしたが、中にオイルは残っていませんでした。ライターの外側からは、ガイシャの指紋しか出ませんでしたが、中のインサイドユニットからは、ガイシャの物ではない2人分の指紋が検出されました。更にフリントホイールから検出されたDNAは、ガイシャの物と似通っていました」
「…って事は、血縁者って事ですか?」
「インサイドユニットに残る古い指紋は、多分…ガイシャの父親の物ではないでしょうか?年代物のジッポーは、亡くなった父親の物なのかもしれません。今、ガイシャの周囲の人間に、あのライターの写真を持って聞き込みに行って貰ってます」
「でも…仮にそうだとして…何故ガイシャは、ライターを高橋妃奈に送って来たんです?亡くなった父親の形見なら、実の弟に渡したいと思うんじゃないですか?」
「それを、敢えて高橋さんに送った理由こそ…答えなんじゃないでしょうか?」
「……」
「高橋さんが向かっているのは…もしかしたら、ホシの所なのかもしれません」
学生の頃からプロファイリング技術を学んで来た夏目の判断は、入庁以来外れた事がないという。
「どうする!?泳がせるのか!?」
勢い込んだ三田村の問いに、夏目は眉を潜めた。
「確証が無いのは、もどかしいですね…今話した事は、状況証拠による机上の空論でしかないんです」
「……」
『現場の証拠、足で探した証拠でホシを追い詰めて歌わせる…捜査とは、そういうものだ…』そう言って夏目を教育したのは、三田村自身だ。
プロファイリングに長けた彼女に対し、きっと今迄何度となく言われて来た言葉であろう『机上の空論』…かつて三田村も、そう言って彼女を揶揄した。
優秀な実績を上げながらも夏目が慎重過ぎるのは、自分のせいかも知れない…そう三田村は、臍を噛んだ。
「取り敢えず、尾行を続けて…彼女の行き先を予測します。後…盗聴機とかって、用意出来ますか?」
「直ぐに手配する!」
「それと、車両を1台と…誰かに変装して貰うかもしれません」
「…わかった。そっちも、手配しよう」
「先ずは、高橋妃奈さんの身の安全を第一に…危険と判断したら、直ぐに保護して下さい」
夏目の言葉を聞く間もなく、三田村は部屋を飛び出した。




