(35) 形見
腹の上で、妃奈が静かな寝息を立てる…腕を黒澤の腰に回し、安心仕切った様に眠るその場所は、あんなに嫌がっていた黒澤のベッドの上なのだ。
妃奈の重さと熱に心地良く酔い、彼女の髪を撫で梳きながら、黒澤はやっと妃奈に安住の場所を与える事が出来た事に満足していた。
妃奈の心を手に入れた…まだまだ先にと思っていたプロポーズも出来た。
まさか、妃奈が黒澤の事を守ろうとしていたとは、意外だったが…案外妃奈は、母性本能が強いのかもしれない。
それにしても、自分から愛を乞う様な立場になるとは…今迄は放って置いても、金と名誉と容姿に誘われて女逹が擦り寄って来た。
欲しがる物を与えると、女逹は自ら身を捧げて来た。
そこには恋愛の駆引き等一切存在しなかったし、女性の扱いが余り得意ではない黒澤には、機嫌を取る等煩わしいだけの事だった。
大学時代に付き合った磯村にさえ、駆引き等しなかったと思う。
だが…14歳も年の離れた妃奈を相手に、黒澤は必死なのだ。
この娘の態度に一喜一憂し、本気で心配して奔走し、宥めすかし…そうする自分が嫌いじゃない。
妃奈に恋い焦がれる男としても、彼女を守り幸せにしてやりたいと思う保護者的な立場としても、黒澤は両方の想いで妃奈を愛しているのだと思う。
まだまだ不安定なこの娘を、安心させ教育し…一体妃奈は、どんな女性に成長して行くのだろう?
今でさえ、あの色香を醸し出すのだ…早い内にプロポーズしたのは、正解だったかもしれない。
しかし、まさか躰の関係を拒否されるとは思わなかった。
然も、あの言い草…。
無防備に股の間に横たわり、腹の上で寝息を立てる妃奈は、まだまだ子供だ。
可愛いな…甘えられると、昔の妃奈と重ねて見てしまう。
きっと比べてはいけないのだろうが…トロトロに甘やかしてやりたい…そして、あの笑顔を取り戻してやりたいと思う。
遠慮がちなノックの音がして、声音を抑えた小塚の声がした。
「所長、起きていらっしゃいますか?」
「あぁ…入れ」
「…宜しいのですか?」
1階にも、部屋の前にも妃奈が居ない事を懸念して、遠慮がちに小塚が尋ねる。
「大丈夫だ」
「失礼致します」
ドアを開けて入室した小塚は、黒澤の腹の上で寝入る妃奈の姿に目を見張った。
「話していたら、この体勢のまま寝込んでしまった」
「事務所で宣言された事…お話しになられたのですか?」
「あぁ、話した」
「上手く行かれた様ですね?」
「正直、ホッとした。まぁ受け入れたとしても、直ぐに不安になるんだろうがな…」
「大丈夫ですよ」
「…今後もフォローを頼む事になるだろうが、宜しく頼む」
「承知致しました」
小塚は、微かな笑みを湛えて会釈した。
「ところで所長、高橋さんに例の手紙の件、お話しになりましたか?」
「いや…まだだ」
「先程、新宿署の夏目様よりお電話がありました」
「夏目…あぁ、担当だと言って来た刑事か…」
「所長が入院中にも連絡がありました。警察も、手詰まりの状態なんでしょう」
妃奈が逮捕され病院に戻った日、事務所に妃奈宛ての手紙が届いた。
料金不足のその手紙の中には、何やら固い小さな箱の様な物が入っている様で、結構な重さがあった。
届いた日付や宛名書きから、もしや事件に関係があるのではないかと思ったが、受取人の妃奈が確認出来る状態ではなかった事もあり、黒澤が預かっている。
先日、新しく事件の担当になったという刑事が、黒澤の所に電話を寄越した。
警察の失態を詫び、その後の妃奈の体調を気遣う姿勢は買ったが、電話の相手が若い女性だった事に、相変わらず警察が事件を軽く見ている様な気がして、黒澤は冷たく対応していた。
妃奈宛ての手紙の事を一応報告すると、是非確認させて欲しいと言うのだ。
渋々、妃奈の確認を取ってから警察に提出すると約束したのだが…。
「又、妃奈に辛い思いをさせるのは、忍びないな…」
「差出人の名前がありませんでしたが…やはり所長は、西堀善吉からの手紙だと思われるのですか?」
「…彼以外、妃奈宛てに手紙を出す人物が居るとも思えないしな」
妃奈の髪を撫でながら、黒澤は静かに言った。
「妃奈が起きる迄、待ってくれ。夕方には警察に行く…その積りでいてくれ」
「承知致しました」
小塚は一礼すると、寝室のドアを静かに閉めた。
夕刻近くに目覚めた妃奈に、黒澤は例の手紙を見せた。
透明の保存袋に入れられた手紙の宛名を見て、妃奈は取り乱して泣き出した。
「西堀善吉の字なんだな?」
頷きながら手紙を奪い取ろうとする妃奈に、黒澤は手紙を遠ざけ妃奈の腕を封じ込めた。
「駄目だ、妃奈…これは、大事な証拠になる」
「嫌だっ!!返せよっ!!」
「聞き分けろ、妃奈」
「嫌だぁっ!!兄ちゃんの…形見だ…」
「中に入っている物がわかるのか?」
「兄ちゃんの…兄ちゃんのだぁ…」
泣き続ける妃奈を宥め、黒澤は新宿署の夏目という刑事に、今から伺うと連絡を入れた。
妃奈を伴い乗り込んだ車の中で、運転席の小塚がミラー越しに後部座席を窺った。
「やはり、西堀善吉からの手紙でしたか…」
「保存袋に入れておいて正解だった。妃奈の指紋が付いていたら、又警察に痛くもない腹を探られるからな」
「中身は、確認されなかったんですか?」
「警察に開封させた方が、納得するだろう」
小塚と話す黒澤のスーツの袖を、妃奈が遠慮がちに引っ張った。
「……直ぐ、返して貰える?」
「証拠品として、押収されるかもしれないが…」
「嫌だ!だったら、渡さない!」
「…わかった。交渉してみよう」
新宿警察署の前で、黒澤は妃奈と2人で車を下りた。
「それでは所長、私は駐車場の方で待機しておりますので」
「わかった。終わったら連絡する」
小塚が車を発進させると、黒澤は後ろに控えた妃奈を伴い、警察署の入口に向かおうとした。
すると、こちらを窺っていた入口で警備していた制服警官が、真っ直ぐ黒澤達の方に近付いて来る。
訪問部署を尋ねられるのかと思った黒澤は、やって来た警官が妃奈に向かって何も言わずに警棒を振り上げた事に度肝を抜いた。
「妃奈ッ!!」
怯えて固まったままの妃奈の腕を引くと、黒澤は彼女を後ろ手に庇った。
「何をするっ!?」
空振りをした警官は、もう一度妃奈と黒澤に向かって警棒を振り上げる。
黒澤は妃奈を突き飛ばしながら正面から相手の側面にスィッと入り込むと、警官の腕を掴み、腕で背中を押す様な形で警官を倒し、彼の腕を後ろに捩じ上げた。
何が起こったか訳がわからずワァワァと騒ぐ警官に、入口で警備していた他の制服警官や、署内から出て来た職員逹が戸惑っている。
「何故妃奈を襲う!?」
「クソッ!!離せっ!!公務執行妨害で、逮捕するぞ!!」
「何が公務執行妨害だ!?何もしていない民間人を、いきなり警棒で殴り掛かる事の、どこに正義がある!?」
押さえ込まれて暴れる制服警官は、怯えて立ち竦む妃奈に向かって悪態を吐く。
「お前が…お前が悪いんだッ!!」
「……」
「お前のせいで…署内が…仲間が…何故だ!?何故、お前なんかの為に!?」
「ふざけるなっ!!妃奈には、何の責任もないだろう!!彼女は、お前逹警察の被害者だぞ!?」
取り押さえた警官を他の警官逹が拘束し、署内に引き摺って行く。
黒澤は、引き攣った顔で呆然と立ち竦む妃奈に近付くと、腕を取って顔を覗き込んだ。
「…大丈夫か、妃奈?怪我はないな?」
「……」
「妃奈?」
「…ぁ…あぁ…平気だ」
微かに震えながら、妃奈は強がって見せる。
騒然とする建物の中から出て来た、携帯電話を耳に当てた体格の良い男が、黒澤に小走りに近寄って来た。
「黒澤さんですね?弁護士の…」
「そうですが、貴方は?」
「夏目の部下で、三田村と言います。お迎えに上がりました。こちらにどうぞ…」
建物に入った途端に突き刺さる、冷たい視線…。
黒澤は妃奈を庇う様にして、案内する三田村刑事に従った。
案内された2階のドアの前で、黒澤は三田村刑事に声を掛けた。
「…ここですか?」
「えぇ…先程の不始末についても、署長直々に謝罪したいそうです」
「……」
「失礼します。黒澤さんと高橋さんをお連れしました」
中から入れと声が掛かると、三田村刑事は2人を部屋の中に誘い、自分は部屋の隅に立っている秘書の様な女性の隣に並んで立った。
署長席から立ち上がり頭を下げる新署長は、前回黒澤がこの部屋に乗り込んだ時、警察の面々から少し離れた所に立っていた男だった。
「…貴方は…」
「前回は、ご挨拶もせず申し訳ありませんでした。新しく署長になりました、佐伯と申します。どうぞ、こちらに…」
そう言って、黒澤と妃奈を応接セットに誘うと、佐伯署長は深く頭を下げた。
「到着早々、警備の警官がとんでもない事をしでかした様で…本当に申し訳ありませんでした」
「一体、どういう事なんですか!?貴殿方は、前回の失態から何も学ばなかったという事ですか!?」
「全く面目ない…どうぞ、お座り下さい。詳しく説明致します」
促されて席に着くと、佐伯署長は妃奈に向かって頭を下げた。
「又、怖い目に遭わせてしまって…本当に申し訳なかったね」
「……」
「体調は、もう良くなったのかい?」
「…別に」
妃奈はチラリと佐伯署長を見上げると、隣に座る黒澤のスーツの裾を握り、フィッと顔を背けた。
そんな妃奈に穏やかな笑みを浮かべた佐伯署長は、黒澤に向かって厳しい表情を見せた。
「ご存知の様に、前回の失態で署長以下、副署長、刑事課長は懲戒免職になりました。署内では、連日署員への監察官の面接が行われ、件のOB関係者の洗い出しに追われています。残念ながら、末端迄は中々処分出来ないというのが実状でしてね」
「だからといって…」
「許される事ではない事は、重々承知しています。だが、新宿署の全ての警察官を辞めさせる訳にも行きません。不夜城を抱える新宿では、毎日恐ろしい数の犯罪が行われ、我々は日々取り締まりに奔走しています。今回高橋さんの事件に直接関わった刑事逹は、全て署外、若しくは他の部署に転属させました。件のOBと通じていた者も洗い出し、順次降格、転属等の処分が下されます。勿論、先程の警察官は懲戒免職の上、逮捕致します」
「……」
「これで、鞘に収めて頂けませんか?」
そう言うと、佐伯署長は人懐っこい笑顔を見せた。
「今回妃奈が巻き込まれた事件に関しても、有耶無耶にしてしまうお積りですか?」
「そんな事はありません。その為に、西堀さんの事件、そして吉田理乃さんの事件を、彼女に任せる事にしました」
佐伯署長が、部屋の隅に立つ眼鏡を掛けた小柄な女性を呼び寄せた。
「…ご挨拶が遅くなりました。事件を担当させて頂きます、特別班の夏目と申します」
20歳そこそこにしか見えない女性は、黒澤に恭しく名刺を差し出した。
『新宿警察署 特別班 班長 夏目有警視』と書かれた名刺を見て、黒澤は驚いて目の前の女性をガン見した。
警視だという事は、キャリアなのだろうが…一体幾つなんだ、この女!?
それに警視なら、一般の警察署では署長になれる程の階級だ。
警視庁に次ぐ大きさを誇る新宿署でも、副署長の地位は約束されるだろうに…一介の班長とは…。
名刺を持ったまま固まる黒澤に、佐伯署長はニンマリと笑って話し出した。
「彼女の階級に、疑問をお持ちですか?」
「いぇ…その様な事は…」
「私の自慢の部下でしてね…今回、本庁より呼び寄せたのです」
大柄で体格の良い佐伯署長の隣にちんまりと座る夏目警視は、上司の言葉に小さく会釈した。
「先程署長からもお話しがあった様に、高橋さんに絡んだ事件は、私の班が捜査を担当させて頂く事になりました。宜しくお願い致します」
「…妃奈の事件という扱いなんですか?」
「正直にお話しすると、高橋さんの…というよりも、毛利剛氏の絡んだ事件という事になります。先日黒澤さんから提出して頂いた会話記録に因れば、他の事件の犯人を高橋さんに擦り付ける様な内容がありました。我々としては、高橋さんと毛利剛氏の関係から洗い出して行く積りでおります」
「……」
「何か、気になる点でも?」
黒澤の怪訝な表情に、夏目警視が眼鏡の奥から感情のない視線を向けた。
先日の電話での違和感…若い女性の担当という事で癪に障ったとばかり思っていたが…丁寧な言葉使いや対応ではあるが、彼女の感情が殆ど読み取れないのだ。
事件を解決するぞという気概が、全く感じられない。
キャリア特有の、この場所は通過点だとでもいう、やる気のなさとも少し違う様な気はするのだが…。
「失礼だが、夏目さん…貴女には、事件を解決するお積りはあるのですか?」
「どういう意味でしょう?」
「貴女が優秀な警察官だからといって、毛利剛に取り込まれないという保証がありますか?」
「それなら心配ありませんよ、黒澤さん。私が保証します」
ニヤニヤと笑う佐伯署長の横で、夏目警視は感情の起伏のない声で黒澤に言った。
「私の事が、お気に召しませんか?」
「……」
「しかし、現在の新宿署の状況で、私以外に適任者は居ないと思います」
「どういう事でしょう?」
「先程署長の話にも出ましたが、現在新宿署内では毛利氏と繋がりを持つ人物を洗い出しています…が、まだまだ全員を調べた訳ではありません。正直な話、隠し覆す人間もいるかも知れませんし、多少関与があっても居残る人間も居るでしょう。それに警視庁としても、それだけの多人数を新宿署だけに投入するという訳にも参りません。毛利氏の影を100%消すという事は、出来ないという事です」
「……」
「私は、今回署長の移動と共に新宿署に着任しました。そして署長は、今迄の新宿署の柵に囚われる事のない部署として、署長直属の捜査を担当する特別班を作られました。現在の刑事課の下では、まだまだ毛利氏の影響が強いかも知れませんからね」
「…成る程」
「私の部下も、全員他署から着任しました。私を含め、出世欲には無縁のアウトロー逹ですが、腕が確かな事は保証致します」
「わかりました」
黒澤はそう答え、チラリと隣を窺った。
妃奈はプィと外方を向き、不満気な視線だけをチラリと寄越す。
「高橋さんにも、二三質問させて頂きたいのですが、宜しいですか?」
「……」
「西堀善吉さんを殺害した人物に、お心当たりはありますか?」
「……」
「それでは、毛利剛氏と面識はありますか?」
「……」
「…お答え頂けませんか?」
夏目警視を無視した妃奈は、黒澤の袖を引っ張って駄々を捏ねた。
「…早く帰ろう、黒澤」
「妃奈?」
「サツなんて嫌いだ…息が詰まる」
妃奈の言葉に、佐伯署長は苦笑いして頭を掻き、夏目警視は淡々と質問を繰り返す。
「ご協力頂けませんか、高橋さん?」
「……」
「西堀さんを殺害した犯人を逮捕する為に、是非お聞かせ頂きたいのですが?」
「…アンタ等に協力するなんて、真っ平御免だ!!」
妃奈がこれ以上噛み付く前に、黒澤は妃奈の言葉に横から割入った。
「お察し下さい、夏目さん。妃奈は今迄何度も、警察に煮え湯を飲まされて来たんです。貴殿方に対する不信感は、計り知れない物がある…彼女に対する質問は、後日文書にて提出して下さい」
「わかりました。ご協力お願い致します。それで、高橋さんに送られて来た手紙というのは?」
「こちらになります」
黒澤は懐からビニールの袋に入った未開封の手紙を見せた。
「但し、お見せするには条件があるのですが」
「何でしょう?」
「証拠品としての押収は、見合せて頂きます」
「…それは」
「妃奈は、宛名書きを見て、西堀善吉さんからの手紙だと断言しました。今ここで開封し、中身をお調べ頂くのは結構ですが、引渡しは出来かねます」
「渡さない!!絶対に!!」
妃奈の叫びに、夏目警視は佐伯署長の了解を得て頷いた。
「それでは、お預かりして鑑識で調べさせて頂きます」
「駄目だ!!」
再び叫ぶ妃奈に、黒澤が優しく宥める。
「大丈夫だ、妃奈。調べるだけだから」
「嫌だ!!そう言ってコイツ等何でも取り上げるんだ!!もう絶対に騙されない!!」
「…妃奈」
「絶対嫌だ!!この部屋から持って出るなら、渡さない!!帰ろう、黒澤!!」
半泣きになって叫び立ち上がろうとする妃奈を、黒澤は肩を抱いて背中を撫でてやる。
「…申し訳ありませんが、本人の希望ですので…」
黒澤が頭を下げると、佐伯署長が手を振って笑った。
「いやいや…不信感を持たれる様な事をした警察の責任です。お気になさらず…。とはいえ、調べない訳にも行かないのでね…三田村、鑑識を呼べ。この部屋で調べればいい」
「了解しました」
三田村刑事は、署長席の電話を取ると鑑識を呼び出した。
程なくして現れた鑑識官が丁寧に封筒を調べ、慎重に中身を調べると、使い込まれたジッポーライターが剥き出しのまま出て来た。
「それだけか?手紙の類いは?」
「ありません。ライターだけです」
鑑識官がライターの指紋を採取しながら答えると、佐伯署長は唸りながら妃奈に尋ねた。
「このライターは、西堀善吉さんの物で間違いないんだね?」
封筒からライターが出て来た瞬間から口に手を当てていた妃奈は、佐伯署長の質問にコクリと頷き涙を流した。




