(32) 気持ち
病室の前から気を失って運ばれた妃奈が目を覚ました時、処置室の彼女の枕元では、大人達が声を抑えて言い争いをしていた。
「…困るんですよ、本当に!当院の沽券にも関わります!」
「病院の体面なんて、そんな物は患者に何の関係もありませんよ」
「何を仰ってるんですか、武蔵先生!?貴方の病院でしょう!?」
「だからこそです。病院は患者の為にあるもので、病院や医者の体面等を気にしてはならない。況してや、彼女は入院患者だ。我儘で起こしている行動でない事は、先生方だってご存知の筈でしょう?」
「しかし…」
「ならばいっそ、別館の精神病棟で入院させた方がいいんじゃありません?そちらの看護師なら、彼女の様な奇行への対応も慣れているでしょうし、いざとなったら拘束服で点滴も食事も与えられますでしょう?勿論、行動も…」
「……何の…話?」
ノロノロと起き上がると、鷹栖武蔵が心配そうな表情で妃奈の顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい、高橋さん?気分はどうかな?」
「…普通。それより、何の話?」
「貴女の事よ、高橋さん」
妃奈の担当内科医が、腰に手を当て眼鏡を擦り上げて高飛車に言い放つ。
「ベッドでは休まない、食事や投薬も拒否する、看護師の言う事にも従わない…挙げ句、暴言を吐く。貴女のやっている事は、我儘な患者によるパワハラだわね!」
「…だから?」
「改める気はないのかしら?」
「ないって言ったら?」
「…」
「アンタ等の方こそ、どうなんだ?理由も言わず自分達のやりたい様に患者を弄くりまわして、言う事聞かなきゃ無理やり薬盛って治療して…挙げ句、集団で吊し上げって…これも虐めとかパワハラになるんじゃねぇのか?」
「何ですって!?」
「患者は、お前等の実験動物や玩具じゃねぇんだよ、オバサン!」
「そんなに文句があるなら、出て行けばいいわ!!」
妃奈を忌々しそうに睨む担当内科医を、鷹栖武蔵が窘める。
「先生…それは、医師の発言とも思えませんね」
「そうでしょうか?治療する気のない患者を面倒見る必要はないと思いますよ、武蔵先生。私達は、慈善事業をしている訳ではないんですから!そうですよね、事務局長!?」
「えぇ…まぁ…」
曖昧に返事をする事務局長と呼ばれたスーツを着た男性が、チラリと鷹栖武蔵と妃奈を見比べた。
「彼女は私の患者で、私は彼女の主治医です。先生は、彼女に主治医だと認められていますか?」
「それは…」
「その努力を怠っているのではありませんか?」
「……」
「私達医師は『先生』と呼ばれる事で勘違いしがちですが、医者という専門職に就いた職人なんです。人の上に立った様な勘違いを起こす様な事は、断じてあってはならない…肝に命じて下さい」
「…わかってます」
ふてぶてしく頭を下げると、担当内科医は他の医師達と共に踵を返して処置室を出て行った。
「悪かったね、高橋さん。彼女には、ちゃんと話して置くから」
「…別にいい」
「何なら、担当を替える様に内科に言って置くよ?」
「必要ない…出て行くだけだし」
「高橋さん!?」
「あのオバサンが言ってた事が本音だろ?治療しない奴に居座られたんじゃ、迷惑なんだろ?然も問題起こした奴なんて、とっとと出て行って欲しいに決まってる」
妃奈が事務局長に視線を向けると、彼は困った様に視線を泳がせ曖昧な笑みを浮かべた。
「心配すんなよ、出てってやるから…その代わり、頼みがあるんだ」
「何でしょうか?」
「あの部屋は、しばらく空けられない…黒澤が良くなる迄、使わせて欲しいんだ」
「黒澤さんとは?」
「ここの病院に金払ってくれてる奴だよ!アタシの事で無理し過ぎて倒れたんだ…ちゃんと治療して、休ませてやって欲しいんだ!」
事務局長に掛け合う妃奈に、鷹栖武蔵が優しく声を掛けた。
「勿論黒澤さんには、あの部屋で治療して、ゆっくり休んで貰うよ。約束する」
「…頼むよ」
「でも、君の退院はまだ無理だよ。もう少し体力が戻らないと…」
「それこそ無理な話だ。ここに居ても、良くなる気がしない…」
「…高橋さん」
「ここの奴等がどう思ってるかなんて、先刻承知なんだよ、武蔵先生。それに、これ以上黒澤に無駄な金使わせたくないんだ」
「……」
「…そんな顔すんなよ。アンタには世話になった。感謝してるからさ、武蔵先生」
苦笑した鷹栖武蔵は、真剣な眼差しで妃奈の肩に手を置いた。
「退院しても、僕が君の主治医である事には代わりないからね。ちゃんと通院して来るんだよ?」
「来ないよ、多分」
「何故だい?」
「アンタに相談するには、金が掛かるんだろ?」
「…高橋さん、やっぱり黒澤さんの所から出て行く積りなのかな?」
「あそこにも、戻れないって言ったじゃん」
「…いいのかい、それで?」
「……別にいい…慣れてるし…」
「君は、黒澤さんの所に居たいんだろう?」
「……黒澤の所は…心地いい……安心出来るし…」
「君はね、黒澤さんの事が好きなんだよ?」
「……」
「黒澤さんを大切に思ってるだろう?」
「……」
「黒澤さんが倒れて、心配だったろう?」
「…心配」
「昨夜も黒澤さんが熱を出して、必死に看病していたんだね?」
「…熱…高くて……早く冷さないと、死んじまうって思って…」
「だから、テラスの雪で冷やしたのかい?」
「水道の水じゃ、追っつかなかったんだ!」
「熱が下がったのは、いつ頃?」
「…多分…明け方」
「無茶するなぁ」
「……」
「君は、黒澤さんを守ろうと必死だったんだね」
「……」
「それが、人を好きになるって気持ちだよ」
鷹栖武蔵の言葉に、妃奈は俯いて目を泳がせた。
「どうしても黒澤さんの元を離れたいと言うなら、新宿署の幸村刑事に相談するといい」
「…幸村?…少年係のか?何でサツなんかに…」
「役所関係の事も良く知ってるだろうし、力になってくれるよ。僕からも話して置くから」
「…一応覚えとくよ。でも…多分行かない…もう、少年係なんかと関係ねぇし…」
「でもその前に、ちゃんと黒澤さんと話し合わないといけない…わかるね?」
「……わかった」
妃奈は俯いたまま小さく頷いた。
過労だと診断され、3日間の入院宣告と投薬を受けた黒澤の元に妃奈が戻って来たのは、その日の夜の事だった。
車椅子に乗せられた妃奈は、病室に入るなり飛び下りて部屋の隅にうずくまる。
「少し辛い思いをされましたので、慰めて上げて下さいね」
看護師はそう言って、車椅子を押して出て行った。
「…妃奈」
「……」
「おいで、妃奈…何があった?」
「……別に」
俯いたまま首を振り嗄れた声で答える妃奈は、そっと自分を抱き締める素振りを見せた。
「…それより、黒澤…躰は大丈夫なのか?」
「あぁ…言っただろう?少し疲れが出ただけだ」
「…ごめん」
「何故、お前が謝る?」
「……」
「妃奈が悪い訳じゃないだろう?俺の体調管理が不十分だったからだ」
「……ごめんなさい」
少し震える声で謝る妃奈は、黒澤に怯えた様な視線を寄越す。
まだ声は掠れているが、ちゃんと話が出来る様になった事に黒澤は安堵して言った。
「いいから、こっちにおいで…俺は3日程入院する事になった。丁度いい機会だから、2人でゆっくり休もう」
「……わかった」
妃奈はそう言って徐に立ち上がり、病室の扉を開け様と手を掛けた。
「…何してる、妃奈?」
不機嫌に響く黒澤の声に、妃奈は扉を向いたまま答える。
「外で寝る。黒澤は、ゆっくり休め」
「何言ってるんだ、お前は!?」
「何が?」
振り向いた妃奈は、無表情な顔を黒澤に向けた。
「何故、お前が外に出る!?」
「…何怒ってるんだ、黒澤?」
不思議そうに尋ねる妃奈に近付くと、黒澤は彼女の腕を掴み強引に畳に座らせた。
「黒澤?」
「妃奈、いい加減にしないか!!」
「……」
「お前は、何で…」
「……」
黙って黒澤を見上げる妃奈に、黒澤は彼女の肩を掴んで揺する。
「妃奈は何も悪くない…妃奈が責任を感じる必要はない!!」
「…わかったから、黒澤…ちゃんと休め」
「わかってない!!何、取りなそうとしてる!?何故俺が、何も知らない奴に諭される様な事を言われなきゃならない!?」
「落ち着けって、黒澤…布団に入って横になれよ」
「お前もだ、妃奈!」
妃奈の躰を布団に組伏せると、途端に嫌悪感に満ちた表情で妃奈は身を竦ませた。
「……済まない…」
「……」
「…妃奈…俺は…」
「…黒澤…アタシは、普段通りにしてるだけだ」
「え?」
「黒澤の家に居る時と同じ事をしている。何が不満だ?」
「……」
「アタシは、家に居る時も座って寝てた。黒澤は部屋の中で、アタシは廊下で寝てた。黒澤に、家に居る時と同じ様にゆっくり休んで欲しい…だからアタシは廊下で寝る。大丈夫だ。黒澤の睡眠を邪魔する奴は、アタシが蹴散らしてやる!この部屋には、誰も入れない…アタシが守ってやる!だからゆっくり休んで元気になれ」
「……」
「……何か、間違ってるか?」
曇りのない真っ直ぐな瞳で見上げられ、黒澤は溜め息を吐いた。
「間違っていたのは、俺だ」
「何が?」
「妃奈との接し方を…間違えていた様だ」
妃奈を組伏せていた黒澤は、ゆっくりと躰を落とし、彼女の躰を抱き締めた。
「最初から…こうしておくべきだった」
「……」
「そうだ…最初から妃奈は、俺の腕の中でしか休めなかったのに…」
腕の中でむずかる妃奈の躰を絡め取る様に抱き締めると、黒澤はゆっくりと妃奈の髪を撫でてやった。
「妃奈は…俺の腕の中に居ればいい」
「……」
「資格がないとか言うのはなしだぞ…もう、妃奈を解いてやる積りはないからな。お前はずっと、俺の中で…」
「だ…駄目だ、黒澤!これじゃ、お前が休めない!」
「…妃奈」
「アタシはっ、黒澤に休んで欲しいだけだっ!」
腕の中で暴れながら、妃奈がむずかって叫ぶのを、黒澤は強引に唇で口を塞いだ。
「…っ」
「誰が、守って欲しいなんて言った!?」
「…だって」
「俺は、お前に守って貰おうだなんて思ってない!!」
黒澤の腕の中で、妃奈の躰がビクッと痙攣した。
「妃奈…わかってくれ。俺は、お前を守りたいんだ…」
「……」
「愛してるんだ、妃奈…」
黒澤の言葉に妃奈は顔を背け、徐々に力を抜いて行った。
だが、彼女の躰は黒澤に添う事はなく、唯グニャリと人形の様に脱力してしまったのだ。
「…妃奈?」
「……」
「どうした?」
「……」
「何だ!?どうしたっていうんだ!!ちゃんと話せ!!」
「……」
それから妃奈は、どれだけ尋ねても何も言わず、唯グニャリとした無気力な躰を黒澤に預け、時折静かに涙を流す。
相変わらず妃奈は、大事な事は何も話さない…腕の中に居る妃奈の心が見えないもどかしさに、黒澤は悶々とした夜を過ごした。




