(31) 特別室
鷹栖総合病院の6階の一角にある特別室棟…棟の入口には常に警備員が立ち、病院スタッフも面会人も、許可のある者しか立ち入る事が出来ない。
病室は付き添う者の宿泊も可能な、ホテルと見紛う設備を誇る程の豪華さだ。
優秀な医師やスタッフも然る事ながら、このセキュリティの万全な高級な病室が、政財界のお偉方がお気に召している理由の1つである事は間違いないだろう。
警察から戻って来た妃奈は、病院側からの要請で特別室の一室に移転した。
ここなら、病院に入り込むマスコミも警察もシャットアウトする事が出来るという事なのだろう。
ノックしてドアを開けると、中に居た栞が笑顔で迎えてくれた。
「様子は?」
「今日は、落ち着いてますよ」
黒澤のコートと鞄を受け取りながら、栞は優しい声で話す。
「少しスープも飲む事が出来て…2時間程休めたんですよ」
「…胸水は?」
「えぇ。先生が、休んでいる間に…」
「呼吸は?大丈夫だったのか?」
「先生が、胸水の量も減って来たので、もう大丈夫だと仰っていました」
刑事に捕獲された時に強かに打ち付けられた為、妃奈の肺には胸水が溜まってしまう…本来なら安静にしておかなくてはならないのだが、相変わらず妃奈は部屋の隅に座り込み、投薬も食事も、睡眠も拒み続け、時折意識を飛ばす。
「坊っちゃんの着替え、こちらに置いておきますね」
「…いつも済まない…お前も疲れたろう?帰ってゆっくり休んでくれ」
「坊っちゃんも、ちゃんと休んで下さいね。お顔の色が悪いですよ?」
「……」
「妃奈さんと一緒で、お休みになれていませんでしょう?」
「…俺は大丈夫だ」
「ご無理はいけません!少しでもお休みになって下さい」
そう言うと、栞はそっと病室を出て行った。
確かに最近オーバーワークかも知れない…通常業務の他に警察との折衝、夜には病院で一晩中妃奈を説得している。
毎日小塚が差し入れるドリンク剤では、どうにもならない程に疲れが溜まっているのは事実なのだが…。
「…妃奈」
壁に向かってボンヤリと座る妃奈の背後に座り、そっと置かれた手に触れる。
ピクリと指先が痙攣し逃げ様とする手を、優しく握り込んでやる。
「…ただいま、妃奈」
「……」
「今日は寒い…さっき雪が降り出した。東京の初雪だそうだ」
病室に置かれていた応接セットを出し、畳を敷き詰めて布団を敷いてやっても、妃奈がその場所で休んだ事等ないのだが…暖房を嫌がる妃奈の病室は薄ら寒く、リノリウムの床は更に冷たいに違いない。
「栞が布団を敷いてくれた。一緒に…あっちで話さないか?」
「……」
喉を痛めて以来、妃奈は何も話さない。
医師の診断で、しばらく声を出さない様に言われたが、もうそろそろ話してもいい筈なのだが…。
「…妃奈」
「……」
そっと腕に触れるとヒクリと緊張する躰に、後ろから静かに問う。
「…俺に触れられるのは…嫌か?」
しばらく逡巡する様子を見せて、妃奈は小さく首を振った。
「……抱き締めてもいいか?」
頭を垂れ、妃奈は再び首を振る。
「西堀善吉の死は、お前のせいじゃない…妃奈が責任を感じる必要はないんだ」
「……」
「妃奈は何も悪くない…妃奈は俺の言い付けを守って、会わないと言っただけだ。悪いのは…俺だ」
「……」
「俺を恨め、妃奈…これ以上、自分を責めるんじゃない…」
微かに震えながら静かに涙を流す背中を、抱き締める事が出来たなら…そう思いながら、黒澤はそっと妃奈の背中を撫で下ろしてやる。
「…寒いだろう?ちょっと待ってろ…」
確か栞が、妃奈の為に綿入りのガウンを持って来ていた筈だ…そう思いながら立ち上がった黒澤の視界がグニャリと歪んだ。
「…クッ!?」
立ち眩みか?
そう思った瞬間、黒澤の躰は膝から崩れ落ちた。
「ヒッ!?」
ドサリという音とただならぬ様子に振り向いた妃奈は、大きく目を剥いて涙を溜める。
「…っ…ぁっ…ぁっ…」
「…大丈夫だ…心配ない…」
「…っ…」
膝行って黒澤に近付くと、妃奈はガクガクと震えながら黒澤の頬に触れ、怯えた目で顔を覗き込んだ。
「…大丈夫だ…少し…疲れが出ただけだ」
震える指先を握ると、妃奈は手を引いて口元を抑え、目を泳がせてくぐもった唸り声を上げた。
「…少し、手を貸して貰えるか?」
その言葉に何度も頷き、妃奈は黒澤の腕を肩に回すと、敷いてある布団に殆ど這う様にして介助した。
布団に座らせると、黒澤の上着を脱がせ、ネクタイを引き抜き、Yシャツのボタンをはずし掛けた所で、妃奈は手を引いて黒澤の元を離れ、着替えの袋からスウェットを出して枕元に置いた。
「…済まない…ありがとう」
手を取ろうとすると、妃奈はスルリと逃げて立ち上がり、少しふらつく足で又元に居た部屋の隅に戻ってしまう。
「…こっちにおいで、妃奈」
フルフルと首を振り、妃奈は壁に背中を付けてズルズルと座り込むと、膝を抱えて心配そうな視線だけを黒澤に向けた。
妃奈は、自分との距離をどう考えているのだろう?
触れ合う事も出来ず葛藤しているのは、自分だけ…それは、彼女に自覚がなく心が育っていない以前の話なのではないだろうか…?
黒澤は疲れ果てた躰を横たえ、静かに目を閉じた。
黒澤が倒れた…あんなに強靭な肉体を持つ男が、妃奈の力を借りないと布団に這って行けない程に弱ってしまった。
自分のせいだ…兄ちゃんを死に追いやっただけでなく、唯でさえ忙しい黒澤に迷惑を掛けて追い詰めてしまったからだ…。
部屋の隅で膝を抱えながら、妃奈は自分を責め苛んでいた。
布団に横になった黒澤は、直ぐにいびきを掻いていたが、しばらくすると苦し気に唸り声を上げ始めた。
側に寄ると息を荒げ、発熱したのか汗を掻いている。
妃奈はベッドの横にあるサイドボードから体温計を取り出し、そっと黒澤の脇に挟んだ。
ピピッという音に取り出すと、39度を越えている…体力が落ちた所に今日の寒さで、風邪を引いたのだろうか?
バスルームの洗面器に水を張り、タオルを浸して黒澤の枕元に運ぶと、妃奈はタオルを絞り苦し気な息を繰り返す黒澤の額に置いた。
しかし、熱の為にタオルは直ぐに温まってしまう。
…どうしよう…熱が引かなければ、黒澤は死んでしまうかもしれない…!?
これでは、何度水を取り替えても埒が明かない!
妃奈は洗面器とタオルを持って、テラスに通じる窓を開けた。
特別室には、部屋毎に広いテラスが付いており、小さな庭の様に植木やガーデンテーブル等が置いてある。
妃奈の病室のテラスは、落ち着いた日本庭園の様な赴きで、植木や小さな灯籠に縁台迄置いてあった。
部屋の中より外に置いていた方が、タオルが冷えるに違いない…そう思って出たテラスは、一面銀世界に変わっていた。
雪が降って来たと病室に来た時黒澤が言っていた…好都合だ!
妃奈は洗面器にタオルと雪を入れて絞り、病室からビニール袋を持って来ると雪を詰めて小さな氷嚢を作った。
そっと枕元に戻ると、黒澤の額に冷えたタオルを乗せ、その上に雪を詰めた氷嚢を乗せる…すると黒澤はフゥと溜め息を漏らし、穏やかな表情を見せた。
…良かった…気持ち良さそうだ。
それから妃奈は、一晩中テラスと枕元を往復し、黒澤の額を冷やし続けた。
あの娘は、何故あんな所に座って居るんだろう?
特別室棟の廊下に座り込む高橋妃奈を、赤井大和は不思議に思って眺めていた。
「こんな所に座って貰っては困るんですよ、高橋さん!」
先程から特別室棟の看護師長が、病室の扉の前で座り込みを続ける高橋妃奈を病室に戻そうと説得していた。
「……」
「ちゃんと病室に入って下さい!ほら…」
そう言って病室の扉を開けようとした看護師長の手を払い退け、高橋妃奈は彼女を睨み付けて掠れた声で応戦した。
「…ギャンギャン煩せぇよ、ババァ…」
「はぁっ!?」
「耳障りな声で叫ぶなっつってんの。他の入院患者にも、迷惑だろ?」
「なっ…何言ってるの、貴女!?」
これは、結構な悪態振りだ…警察に逮捕された時も凄かったが、あれは非常事態だったからという訳ではないらしい。
看護師長が、廊下の隅のパイプ椅子に座っている赤井に、彼女を部屋に戻せと目配せして来る。
迷惑な話だ…こっちは正体がバレない様に変装してるっていうのに…。
仕方なく彼女達に近付いて、赤井は高橋妃奈に声を掛けた。
「…高橋さん、病室に戻りませんか?」
「…誰?」
「ここの職員です」
「大きなお世話だ…アタシがどこに居ようと勝手だろ!」
「貴女ねぇ!?」
「文句があんなら、アタシを病院から追い出せばいい…アンタ等だって、そう思ってんだろ!?」
目を三角にする看護師長に、赤井は笑いを噛み殺して助言した。
「精神科の…武蔵先生にご相談された方が、いいんじゃないですかね?」
「全く…じゃあ、連絡を入れて来ますから、彼女を病室に戻して置いて下さいね!」
去って行く看護師長の後ろ姿に、高橋妃奈はボソリと吐いた。
「…荷物じゃねぇっての…」
「病室に入る気は?」
「ねぇよ…勝手に開けんな!」
仕方なく、赤井は彼女と同じ様にドアの前に座り込んだ。
「黒澤さんは?中に居るんだろ?」
「…何で知ってる?」
「昨夜会ったからな…ケンカでもしたのか?」
「……黒澤は…寝てる」
「は?」
「…具合…悪いんだ」
「大丈夫なのか?」
「…多分…明け方には、熱も下がった」
「…そっか」
特別病棟では、24時間面会が可能な上、付き添いの宿泊が可能な設備が整っている。
高橋妃奈が入院して1ヶ月以上…黒澤という弁護士は昼間仕事をして、どんなに遅くなっても毎日見舞いに来ていた。
彼女が釈放されて特別病棟に入ってからは、夜から朝迄は一緒に病室で過ごし、一晩中彼女に語り掛けている。
あれでは躰を壊してしまうと思ってはいたが…とうとう体力も限界だったのだろう。
隣に座る高橋妃奈は、赤く腫れた足の指を手で擦りながら、チラリと白衣を着た赤井を見上げ、掠れた声で尋ねた。
「アンタ、医者…じゃないんだろ?」
「何で?」
「医者って、みんな頭デッカチの運動オンチなんじゃないのか?」
「え?」
「アンタみたいなマッチッョな奴…医者には見えない」
さっきの様なアバズレ的な言葉ではなく、幾分柔らかな物言いなのだが…凡そ年頃の娘が話す様な言葉ではない、何とも不思議な言葉使い…。
「えらく偏見的だな?」
「……」
「まぁ…病院には、医者以外にも沢山の職員が居るからな」
「…何か、運動してるのか?」
「若い頃から、格闘技全般…色々な」
「へぇ…」
「興味あるのか?」
「…黒澤と…似た様な匂いがする」
「匂い?」
「…黒澤も、何かやってる」
「あの人も体格良いからな…何をやってるんだ?柔道、空手…健闘か?」
「さぁ…よくわかんないけど……練習してんの、凄く…綺麗だ」
「綺麗?太極拳か?」
「わかんない…でも、凄く強い…みたいだ。ナイフ持ってる仲間と…練習してても…誰も敵わない」
「そりゃすげぇな!俺も学生時代から、休みになると武者修行に出た…学校卒業してからは、海外にも遠征に行ったもんだ。一度、手合わせして貰いたいな」
「……」
「…おぃ?」
「……悪い…ちょっと……疲れた…」
「おぃ、部屋に戻った方が…」
「開けるな!」
「……」
浅い息を繰り返す高橋妃奈は、小さな声でハッキリと拒否すると、ズルズルとドアに添って床に崩れた。
「おぃ!?」
「…開けんな…絶対……黒澤が…」
「わかったから」
廊下の向こうからパタパタという足音が聞こえ、ハァハァと息を荒げて白衣の人物が走って来る。
「…大和…君…」
「武蔵先生!早く!!」
「…高橋さん…高橋さん、わかるかい?何でこんな所に…」
心配そうな表情で高橋妃奈を覗き込む鷹栖武蔵は、この病院の院長の息子で、赤井の親友の兄でもある。
「中で黒澤さんが、具合悪くて寝てるそうです」
「えっ!?大丈夫なのかい?」
「何か、明け方には熱が下がったって言ってました。疲れが溜まってたんじゃないですかね?」
「…そう」
「最後迄、扉を絶対開けるなって言って…大丈夫なんですか?」
「息が浅い…熱も出てる。手も…足も…凍傷を起こしてるね。多分、一晩中看病してたんだ…自分も発熱して、胸水も溜めてる癖に…」
「……」
鷹栖武蔵は付いて来た看護師達に、高橋妃奈を処置室に運ぶ様に指示を出した。
「怖いなぁ…彼女は心だけじゃなくて、躰の感覚もギリギリ迄抑え込んでしまう。だから、限界が来ると躰の方が危険信号を出して意識を飛ばすんだ。でも、あの状態から自分で立ち直ったっていうのは…守る者を…シフトしたという事か…」
ストレッチャーで運ばれる彼女を見ながら、鷹栖武蔵は溜め息を吐いて呟いた。
「…武蔵先生」
「大和君…お願いしてもいいかな?」
「何でしょう?」
「君はこのままここに居て、この病室に誰も立ち入らない様に見張って貰いたいんだ」
「いいんですか?」
「それが、高橋さんの望みだったんだろう?」
「えぇ…まぁ…」
「高橋さんはね…黒澤さんを守りたかったんだよ」
「は?」
「正確には、黒澤さんをゆっくり休ませて上げたかったんだ…彼、とても疲れを溜め込んでいたからね」
「……」
「苦情を言う人間には、僕の指示だって言ってくれるかな?」
「わかりました」
「それとね、黒澤さんが起きたら…彼、きっと騒ぐと思うんだ。高橋さんの事は、僕が預かってるから心配ないって伝えてから、僕に連絡貰えるかな?」
「わかりました、伝えて置きます」
「宜しくね」
鷹栖武蔵はそう言って、ポンポンと大和の肩を叩いた。
ブラインドから差し込む陽の光が顔に当たるのを感じ、黒澤は眉根を寄せて寝返りを打った。
途端に頬に触れたヒヤリと冷たい感触にもぞもぞと手を動かすと、濡れたタオルが枕元に落ちている。
何故こんな物が…薄紅の陽が照らす部屋の中をボンヤリと見回し、ここが妃奈の病室である事を思い出した。
「……妃奈」
首を回し、いつも妃奈が座り込んでいる部屋の隅に視線を向けた。
「…妃奈?」
いつもの場所に妃奈の姿がない事に不審を抱き、上半身を起こしてやっと自分の体調が悪い事に気が付いた。
鉛の様に重い躰、霞の掛かった頭と視界…だがそれよりも、部屋の中に妃奈が居ない事に、黒澤の頭は狼狽した。
「妃奈!?」
ノロノロと起き上がると、バスルームとトイレを確認し、妃奈の姿が見えない事に焦り、病室の扉を勢い良く開けた。
「…やっとお目覚めですか?」
扉の横でパイプ椅子に座っていた白衣の男性が、少し呆れたような笑いを浮かべて黒澤を見上げる。
「妃奈は!?」
妃奈の警備を依頼した『株式会社 スカーレットセキュリティサービス』の社長赤井大和に、黒澤は勢い込んで尋ねた。
「大丈夫ですよ、黒澤さん。武蔵先生からの伝言です。高橋さんは預かっているから、安心して欲しいとの事です」
ホッとした表情の黒澤に、赤井は問い掛ける。
「それより、体調の方は大丈夫なんですか?」
「ぇ?」
「…肩を貸しますよ」
そう言って赤井は、黒澤の腕を肩に担いで布団に連れ戻した。
「黒澤さんがお休みの間、千客万来でしたよ。携帯もチェックした方がいいかもしれませんね」
テーブルに置かれた、何故か完全に電源が落とされている携帯を起動させながら、黒澤は赤井に尋ねた。
「誰が来ていたか…わかりますか?」
「直接顔を合わせたのは、黒澤さんの秘書の小塚さんと、付き添いに来る根津さんのお2人ですが、受付にはまだ数人いらしてたみたいですよ?」
立ち上がった携帯の時間を見て、黒澤は驚いていた…時計は、午後の4時を示していたのだ。
「…こんなに…寝てたのか…」
「黒澤さんは、幸せ者ですね?」
「は?」
「貴方は、多くの人に愛されている」
「……」
「なのに何で、あの娘に迄守られてるんです?」
「…あの娘……妃奈の事ですか?どういう事です?」
訝しむ黒澤に、赤井は溜め息を吐いた。
「自分の体調も悪いのに、体調の悪い貴方を休ませ様と、病室の前に座り込んで看護師にケンカを吹っ掛けてまで、貴方を守ろうとしていましたよ」
「……」
「何やってるんです、黒澤さん!?あの娘は身寄りもないホームレスなんだろう?守るべきは貴方であって、彼女じゃない筈だ!何で辛い目に遭ってるあの娘が、アンタみたいな恵まれた弁護士を守ってるんだ!?」
蔑む様な視線に曝され、黒澤は何も言えなくなってしまった。




