(30) APD
「折角落ち着いて話が出来る様になっていたのに…警察も、余計な事をしてくれたものだ!」
鷹栖総合病院に戻り診察を受けた妃奈は、胸部及び腹部への重度の打撲による内蔵損傷、長時間後ろ手に拘束された事による肩の亜脱臼、叫び続けた為の声帯損傷、そして…。
「ここに来て黒澤さんの腕を拒むのは、正直キツイなぁ…貴方とのスキンシップは、唯一彼女が安心して心地好いと感じていた事なだけにね…」
「…治りますか?」
「治さないとね…生きて行けないかもしれません」
「…ぇ?」
「彼女は…痛みに…躰の痛みにも、心の痛みにも、耐性があり過ぎるんですよ」
「…」
「…彼女の躰の変化…見たでしょう?」
鷹栖武蔵は溜め息を吐いて、カルテから目を上げた。
取調室で2人きりになった時、何とか妃奈を落ち着かせ様と声を掛けながら抱き起こした。
怯えて声にならない音を叫び、力なく暴れる妃奈の顔を覗き込んだ時の衝撃……黒々としていた眉も、薄い瞼にびっしりと生えていた長い睫毛も…妃奈の髪と同じ様に真っ白になっていたのだ!
「…妃奈…お前、そんなにも…」
顔を強張らせた黒澤が抱き締め様とした腕を、妃奈は耳を塞いで頭を振り、叫びながら逃げ続けた。
病院に戻りしばらく経った今でも、入院当初と同じ様に医師や看護師が触れる事を嫌がり、部屋の隅に座り込み、投薬も治療も睡眠を取る事も出来ずにいる。
以前と変わったのは、その体勢…以前は壁を背にして膝を抱え込み、近付き触れようとする人物に対して吼えていたのが、今は壁を向いてしゃがみ込み、耳を塞いで人と視線を合わさず、唸り声しか上げないのだ。
病室に人が入る事すら嫌がる様になり…黒澤の腕を拒み続けていた。
「彼女ね…多分、後悔してるんですよ。被害者だったお兄さんを死に追いやったのは、自分だと思ってる」
「何故です!?西堀善吉の死は、妃奈と何の関係もないでしょう!?」
「…以前、そのお兄さんが訪ねて来た時の会話の内容…黒澤さんからの口述筆記にね…『西堀善吉が、坂上恭の所に妃奈を連れて行こうとしたが、妃奈は断った』『妃奈は、坂上の所にも、西堀善吉の所にも、二度と行かないと言った』ってあるんですが、間違いないですか?」
「…えぇ」
「『西堀善吉は、妃奈の生命保険の事を知っていた』とも言っていたんですよね?」
「そうです」
「…彼女の性格から言って…お兄さんに、辛辣な言葉を叩き付けたんじゃないかと思うんですよ」
「…その為に、西堀善吉が死んだと?冗談じゃない!!彼は、殺されたんですよ!?」
熱り立つ黒澤に、鷹栖武蔵は感情を抑えた声で静かに言った。
「…ですから、彼女の言葉によって、お兄さんは何らかのアクションを起こした」
「……」
「その為に、殺害されたと思っているのではないでしょうか?」
「…そんな…でも、妃奈に責任は…」
「ありませんよ、勿論。そしてそれが罪に問われないのは、貴方の方がご専門でしょう?」
「……」
鷹栖武蔵は、ファイルから取り出したプリントを黒澤に渡しながら言葉を続けた。
「警察に連れて行かれ、強引な取り調べによるPTSDも心配ではあるんですがね…。高橋さんの根底にあるのは、記憶喪失…全生活史健忘とも言いますが、精神病理学的には解離の一種に分類される解離性健忘。そして、その後生活の辛い経験による、回避性パーソナリティー障害…APDですね」
「それは、一体…」
渡されたプリントに目を落としながら言葉を呑み込む黒澤に、鷹栖武蔵は淡々と話を続ける。
「APDは、そこに書いてある様に自分の欠点にばかり注目しがちで、喪失感や排除される事にトラウマがある場合が多い。ですから人間関係を避け、自ら孤独を選んでしまいがちなんです」
『APDの症状』
◆ 非難や排除に対し過敏である
◆ 自ら進んで社会的孤立を選んでいる
◆ 親密な人間関係を熱望していながら、その一方で社会的な場面に置いて余りにも引っ込み思案である
◆ 他者との交流を避け様とする
◆ 自分なんか相応しくないという感覚がある
◆ 自尊感情が低い
◆ 他者へ不信感がある
◆ 極度の引っ込み思案・臆病である
◆ 親密さを求められる場面でも、情緒的な距離を置いてしまう
◆ 非常に自己意識的である
◆ 自分の対人関係の問題について、自分を責めている
◆ 職能上に問題を生じている
◆ 自己認識が非常に孤独である
◆ 自分は人より劣っていると感じている
◆ 長期に渡る物質依存/乱用が見受けられる
◆ 特定の思い込みに囚われる
プリントに書かれた内容に唸る黒澤に、鷹栖武蔵は柔らかな笑顔を向けた。
「思い当たる節が、多いですか?」
「…えぇ…これでは…」
「不安からパートナーに試す様な事を言い続けたり、繰り返し逃げ出したりする…自分を認識する為にね。だが幸いな事に彼女の場合、分裂症…解離性同一性障害を発症していない様です。元々がリアリストだったのかな?」
「……」
幼い妃奈は、夢見る少女だったと父親が言っていた…という事は、記憶喪失になってからの生活で、妃奈はリアリストにならざるを得なかったのだろう。
押し黙る黒澤に、鷹栖武蔵は机の引き出しから一枚のハガキを出して見せた。
「…これは?」
白いタキシードを着て満面の笑みを浮かべた青年が、膝の上にはにかみながら笑う可愛らしい花嫁を乗せて写った写真の下に、『結婚しました』と住所とお礼の言葉が添えてあるハガキ…。
「長年、APDで治療されていたお嬢さんが、先月結婚されましてね…恋人である彼と共に僕の所に来たのは、今の妃奈さんと同じ歳でした」
「……」
「それに、そのお嬢さん…もうすぐ歩けなくなるんですよ」
「えっ?」
「…旦那さんのご家族が良い方々でね…学生時代に結婚を決めた息子達の為に、結婚前から家族同然に一緒に生活されて…彼は、7年越の愛をやっと成就させたんです」
「…」
「彼女の身も心も守るのに、彼は本当に必死でしたよ…大丈夫、こうした障害があっても、ちゃんと幸せな結婚は出来るんです」
「……」
「勿論、全てという訳ではない…それは、健常者だって一緒の事です。でも敢えて言わせて頂くとすれば、愛し続ける覚悟を持って頂きたいという事です。特に、これ迄人を信用出来なかった高橋さんの場合、裏切られるダメージは大きいでしょうからね」
「…私が、妃奈を裏切ると仰るのですか?」
「そうではありませんよ、黒澤さん。覚悟の問題です…おわかりでしょう?」
「……」
「それでなくても、高橋さんは居場所がないと思っています。特に、トラブルがあった場所には、二度と戻れないと思っている」
「…それでは…」
「私に、住込みで出来る仕事を紹介して欲しいと相談して来ました。パーティーでの親戚の乱入や、その後の流産騒ぎといったトラブルを起こした貴方の所には、戻れない…貴方は許しても、他の人は許さないだろうと気にしています」
「…そんな事は…」
「貴方の為に」
「えっ?」
「黒澤さんが、高橋さんの事で他の方々とトラブルになるのを懸念しているんです」
「…馬鹿な…そんな事…」
「周囲の事を気にし過ぎるのも、症状の1つで…多分今は、この病院からも逃げ出したいと思っているんだと思います」
「……」
「もう路上での生活は出来ないと…彼女自身わかっている様ではありましたが……そこへ、今回の殺人事件です。お兄さんを死に追いやった罪悪感、トラブルの為に居場所のない孤独感、何より貴方に迷惑を掛ける事への怖れと自分だけが幸せになる罪悪感が、黒澤さんの腕を拒否する行動に出ているのだと思います。唯でさえ死を望んでいた彼女が、今後どう行動するのか…」
「どうすればいいんです!?」
「…いゃ…正直、安心させて上げるしか、手はないんですよ。そのままの自分でいいのだと安心させて、1人じゃない…共に寄り添う人間が居るという事を認識させる。ちゃんと愛情を示してやる事が一番なのですが…」
「………」
「そもそも、彼女には『愛情』という概念が理解出来てないんですよ」
「は?…あぁ…そう言えば、よくわからないと言っていました」
「やはりそうでしたか…『気持ちいい』『安心する』という事は、理解出来ているんです。しかし、『嬉しい』『楽しい』という感情になると、途端に回避する思考が働くんです。それは、『期待』や『親交』というキーワードに『裏切られる』という思考がセットされているのと同じで、自ら遠避け様としています」
「…それは、妃奈の言葉から…私も常々思っていました」
「本当はね、期待が大きいからなんですよ。裏切られるのが怖くて仕方ないんです。以前も言いましたが、彼女の辛辣な言葉や逃げ回る行動は、自己防衛なんです」
「…はい」
「とてもアンバランスなんですよ。凄く大人な部分と、真っ白な子供の部分が混在している…恋愛は、片方だけの気持ちで成り立っていると、本気で思っていたりね」
「は?」
「聞いていませんか?高橋さんを愛しているというのは、黒澤さんの気持ちの問題で…自分の気持ちは関係ないと思っていたんですよ?」
「……」
「理解させるのは、大変かもしれませんが…頑張って下さいね」
苦虫を噛み潰した様な表情を見せる黒澤に、鷹栖武蔵はクスクスと笑い、やがて小さく溜め息を吐いた。
「しかし…そんな事も理解出来ない子供が、あんな過酷な経験をして来たかと思うと…胸が痛みますね」
「…妃奈は…どんな思いで…男に抱かれていたんでしょうか?」
「…多分、嫌悪感しかなかったと思いますよ?」
「……」
「黒澤さん、彼女と…そういった関係は?」
「いぇ…流石に、抱き寄せるだけで身を硬くする子供に、無体な事は出来ませんから」
「……」
じっと見詰める鷹栖武蔵に、黒澤は怪訝な顔で尋ねた。
「何ですか?」
「いゃ…僕の周囲には、年の離れたカップルが多いので…つい、何の疑問も持たずに来たのですが…」
「はい?」
「貴方の高橋さんに対する愛情は、親子の愛情…ではないのですね?」
「あぁ…その事ですか」
「……」
「私も初めは、妃奈の事を子供としてしか見ていませんでした。出会ったのは、彼女が小学生の頃でしたし、14も年が離れていましたからね。それでも、彼女と生活して触れ合う内に、自分の中でモヤモヤとしていた感情に振り回されていました。他人からその感情を指摘されても、そんな年の離れた娘を恋愛対象に等出来る筈がないと思い込んでいました」
「……」
「『愛している』と言葉に出してしまってから、ようやくスッキリしたんですよ。最初は妃奈にも『家族としてだろう』と疑われましたが…私の気持ちはハッキリしていますし、それは彼女にも伝えてあります」
「…そうですか」
「それでも私は、妃奈の保護者である事に違いないんですよ、先生」
「……」
「私が妃奈の『未成年後見人』である以上、私は妃奈との婚姻は叶いませんから」
「そうなんですか?」
「えぇ…彼女の財産を守ってやる為には、妃奈が成人して相続が叶う迄、私は妃奈の『未成年後見人』であり続けなくてはなりません」
「それでは、彼女が成人する迄は…」
「というか、妃奈次第なのかもしれません」
「どういう事です?」
「妃奈が成人する迄、婚姻が出来ないというのは勿論ですが…彼女が私との関係を『恋人』として捉えるのか、それとも『親』として捉えるのか…唯の『未成年後見人』である他人として捉えるのか…彼女の本当の気持ちをじっくりと育ててやるのも、保護者としての役目でしょうからね」
「黒澤さん、貴方…」
「勿論、私は諦める積りはありませんよ?一生妃奈を守る事も、どんな形であれ寄り添い続ける事も変わらない……しかし先程先生が仰った様に、恋愛は相手の気持ちありき…ですからね」
寂しそうな黒澤の笑みに、今度は武蔵が怪訝な表情を浮かべた。
「一体貴方は、何を負い目に感じていらっしゃるんですか?」
「…やはり、そんな風に見えますか?」
「…えぇ、まぁ…」
「妃奈にも見透かされてしまいました。『辛そうだ』と…」
「……」
「本当は私の方にこそ、妃奈を愛する等と言える資格はないのかも知れません……だがあの娘は、『過去の事は聞かない』と、『聞いた所で過去が変わる訳ではないから』と…『自分には過去の記憶がないから何とも思わない、だから気に病む必要はない…負い目を感じて、世話しようなんて思わなくていいんだ』と言ってくれました。それでも、私には純然たる記憶があるのです!!…私は、妃奈に贖罪しなければならない!!…だが、どうしようもなく…あの娘が愛しい…狂おしい程に…」
「…黒澤さん、貴方は一体…何を抱えていらっしゃるのですか?」
武蔵の問いに、黒澤はユルユルと首を振って、苦し気に一言だけ吐いた。
「…あの娘の…妃奈の人生を奪ってしまった責任は…私にあるのですよ、先生…」




