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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
24/80

(24) 善吉

『愛してるんだ、妃奈ッ!!』

そう言葉を吐いた時、驚きと共に、黒澤の中でずっとモヤモヤしていた霧が一気に晴れた。

そうか…俺はずっと、妃奈の事を愛していたんだ…。

年が離れているから、妃奈が未成年で子供だからといったこれまでの葛藤が、一気に吹っ飛んだ。

『お前、怖いんだろ?』

松岡の言葉が蘇る。

そうだ…俺は怖れていただけだ。

自分の気持ちをぶつけて、若い妃奈に拒まれるのを怖れていたのだ。

『気に入ってるんだよ、お前ん家も、お前の事も…だから、失いたくねぇんだろうが…』

本当にそう思ってくれているなら、どんなに嬉しい事か…。

あの日、妃奈は黒澤の想いを受け入れた様に見えた。

『待ってたのに』と言って涙を流す妃奈に何度も何度も唇を重ねてやると、妃奈は黒澤の腕の中で穏やかな眠りに落ちた。

後は健康な躰を取り戻し、黒澤と新たな生活を始めるだけだった筈なのに…。

あの後妃奈は、1週間もの間昏々と眠り続け…今もまだ、夢と(うつつ)を往復している様な状態だ。

目覚めた時には、魂が抜けた様にボンヤリと中空を見詰め、眠り続けている間に帰京した栞が、無事で良かったと手を握り涙に暮れても、あんなに待っていた筈なのに、

「……お帰り…」

と一言声を掛けただけだった。

「…大丈夫か、妃奈?」

毎晩見舞う黒澤にも、無表情で小さく頷くだけで、又微睡んでしまう。

「疲れが貯まっているんですよ。大丈夫、起きている時間が、段々と伸びてきましたからね」

看護師達の明るい声が病室に響いても、妃奈はボンヤリと暗い窓を見詰めるだけだ。

「まだ少し不整脈はありますが、肝臓の数値も落ち着きました。来月辺りには退院出来るでしょう」

「ありがとうございます」

「但し、薬はキチンと飲んで頂かないといけませんよ」

「承知しました。私の方で、管理致します」

医師から退院の言葉が出ても何の反応も示さない妃奈に、黒澤の心に暗雲が垂れ込めた。



…躰が(だる)い…あんなに寝た筈なのに、気を抜くと(まぶた)が閉じてしまう…。

来月には退院出来ると、医者が話していた。

少しでも動ける様にしておかないと…そう思い、鈍った躰に鞭を打ち歩行訓練の為に院内を散歩している。

吹き抜けのロビーから続く広い中庭には芝生や花壇が広がるが、秋も深まった今では色みも少なく、花といえば生垣の山茶花(さざんか)が咲いている位だ。

芝生の中央では、職員が大きなクリスマスツリーを飾り付け、小児病棟の子供達が看護師達と共に回りを取り囲んでいた。

散歩に疲れた妃奈は、少し離れたベンチに座り込み、ボンヤリと冬の空を眺めながら思考を巡らそうとしていた。

今迄の事、これからの事、そして…黒澤の事…。

『愛してる』と言われた瞬間、『何言ってるんだ』と思った。

次に思った事…それは、『コイツ、馬鹿だ!!』って事だ。

妃奈よりずっと大人で、事務所迄構えてるヤクザの弁護士の癖に…。

コレでどうしようもなく醜男(ぶおとこ)なら、まだ納得するのだ…だが、背も高く体格だって良くて、顔も強面で目付きが鋭いが…全体的に男臭く、モテる部類なんだろうと思う。

現に事務所の女達や、病院の看護師達からも熱い視線を送られているし、磯村という女弁護士も元カノという話だが…黒澤に未練タラタラだ。

「…面倒臭い…」

坂上が妃奈を気に入っているという噂が流れた時も、坂上の取り巻きの女達から散々な目に()った。

その結果に起きたのが、あの交通事故だ。

まぁ…坂上と比べるのは違うか…坂上は妃奈にとって天敵の様な男だ。

妃奈のどこが気に入ったのか、一方的な想いを遂げる為に善吉に金を貸し、妃奈を差し出す様に仕向け、妃奈をペットにすると言ってはばからない最低な男…。

黒澤は…どうなんだろう?

やはり、妃奈と躰の関係を持ちたいと考えているんだろうか?

こんなに貧相で…肌も汚くて、煙草の火傷の痕だらけで…男に好き放題されて、何度も流産している女……あり得ないだろう!?

黒澤は、一体自分なんかのどこが気に入ったんだろう?

やはり、昔犯した事の罪の意識からなのか、若しくは気の迷いから出た言葉なのでは…。

そもそも…愛って何だよ?

アタシは、一体どうすればいいんだよ?

アタシに何を求めてんだよ?

ぐるぐると思考を巡らす妃奈はベンチに近付く影に全く気が付かず、隣に座った人物に急に腕を掴まれた時、心臓が飛び出るかと思う程驚いた。

「…っ!?」

「……ヒナ…」

「兄ちゃん!?」

「やっと会えた!…ヒナ!!」

西堀善吉は、妃奈の手を握り締めてホッとした笑みを浮かべた。

「お前と会わせろって、あの弁護士に何度言っても取り合ってくれなくてよぉ…心配してたんだぜ!?」

「…兄ちゃん、1人?」

「いゃ…駐車場で、仲間が待ってる。行こうヒナ!」

「…どこに?仲間って誰?」

「坂上さんが、お前の事…待ってる」

その名前を聞いた途端、妃奈は善吉の手を振り払った。

「ヒナ?」

「兄ちゃん…まだ、坂上なんかと連んでんのか!?ホストの仕事は!?」

妃奈の剣幕に驚いた善吉は、苦笑しながら手を振って答える。

「やっぱ俺には、ホストなんか向いてなかったんだって…遅蒔(おそま)きながら、やっと気付いてよぉ…」

「…」

「怒んなって…これでも、ちゃんと仕事してんだからよぅ」

「…何の?」

「坂上さんがな、歌舞伎町で店開いたんだ!スゲェだろ!?俺、今その店で、ボーイとして働かして貰ってんだ」

誇らし気に満面の笑みで語る善吉に、妃奈は深い溜め息を吐いた。

「…とうとう、坂上の仲間に成り下がったって事か…」

「何だよ、ちゃんと働いてんだぜ?」

「兄ちゃん…坂上やアイツの仲間が、アタシに何したか…わかって言ってんのか?」

「……」

「何でアタシが入院したか、わかってんの!?」

「手術したって聞いた…どっか、悪くしたのか?」

呑気に尋ねる善吉は、何も知らない様だった。

「なぁ、ヒナ…何か勘違いしてるかもしんねぇけど、俺はお前を助けに来たんだぜ?」

「……」

「お前こそ、あの弁護士がどんな奴か、わかってんのか?アイツ、ヤクザの弁護士なんかしてる奴なんだぞ!?」

「…知ってる」

「お前が酷い目に()ってるんじゃねぇかって、坂上さん心配してくれてんだよ…なぁ、一緒に行こう、ヒナ!」

「…行かない…」

「ヒナ!?」

「…もう、坂上の所には…絶対行かない」

「……あの弁護士に、脅されてんのか!?」

「黒澤に?…馬鹿だなぁ、兄ちゃん…黒澤は、アタシの事守ってくれてんだよ」

「守る?お前、あの弁護士に…(ひど)い事されてんじゃねえのか?」

(ひど)い事って何?」

「だからよぉ…色々と…」

口籠もる善吉に、妃奈は深い溜め息を吐いた。

「黒澤は、倒れてるアタシを保護して看病してくれたんだ。アタシの本当の父親の知り合いで、アタシの保護者だって…聞いてんだろ?」

「…」

「悪かった心臓の手術もしてくれた…今迄で一番贅沢で、全うな暮らしさせて貰ってる」

「騙されてんだ、お前…」

「だから何が!?」

「坂上さんが言ってた…黒澤って奴は、ヒナを食い物にする積もりだって…ヒナをヤクザに売り渡す積もりかもしれねぇって!!」

「はぁ?」

「坂上さんなら守ってくれる!なぁ、ヒナ…一緒に坂上さん所に行こう!!」

必死な顔で懇願する善吉に、妃奈は冷たい視線を向けた。

「……兄ちゃん…又、坂上に金借りてんのか?」

「……」

「それで、アタシの事連れて来いって言われてんだろ!?」

途端に青菜に塩を振った様になった善吉は、哀れみを滲ませて妃奈に縋って来る。

「…だってよぉ、仕方ねぇんだって…ホストクラブの借金も、坂上さん立て替えてくれてよぉ…ヒナを連れて行かなきゃ、今の店もクビになっちまう」

「……」

「なぁ、ヒナ…坂上さん、お前の事大事にするって言ってたしよぉ。頼むよ、俺と一緒に来てくれよぉ」

「嫌だって言ってんだろ!?」

「なぁって…俺がお前しか頼れないの、知ってんだろ?」

「ふざけんなっ!!自分の借金ぐらい、自分で何とかしろよ!!」

怒りを表す妃奈に、善吉の表情が変わった。

「お前…俺がお前の面倒見て来てやった事…忘れたのかよ!?」

「…忘れた訳じゃない…だけど、兄ちゃんは…我慢しろとしか言わなかったじゃん」

「……」

「一度だって、守ってくれなかったじゃん!」

「……」

「…あの…火事の事だって…」

「…ぉ…お前は、俺の妹なんだから…」

「兄貴が妹に、躰売らせる様な事すんのか?」

「……」

「本当の妹だなんて…思ってないから出来る事だろ?」

「…何言ってんだよ!?」

「雛子ちゃんに、こんな事…させられるかって聞いてんだよっ!?」

これは禁句だ…亡くなった善吉の妹の名を出す事は、善吉の首を絞めるのと同じ行為だ。

強張った善吉に、妃奈は地面を見詰めたまま言葉を続けた。

「……3回だ」

「…ぇ?」

「…アタシが…坂上達に()られて…流産した回数…」

「……」

「もぅ…十分だろ?」

「…ヒナ…だけど、俺…」

「何でアタシにばっか頼ろうとすんだよっ!?」

「……」

「何で良兄ちゃんには頼んないんだよっ!?2人っきりの兄弟なんだろっ!?…家飛び出して、ホームレスやって…薬飲まされて、()られて、流産して…躰ボロボロんなったアタシに残ってんのって、後は…」

ハッとして顔を上げる…まさか、この男…!?

「…兄ちゃん…まさか……生命保険の事…」

善吉の強張った顔が、ビクリと痙攣(けいれん)した。

…何だ…コイツも、婆ぁと同じ穴の(むじな)か…。

「…残念だったな、兄ちゃん」

「…ぇ?」

「アタシの生命保険の…お(こぼ)れに(あずか)る積りだったんだろ?」

「……」

「お生憎様…生命保険は、解約されたってよ」

「えぇっ!?」

「黒澤が解約してくれた…契約した時に、婆ぁが嘘の申告してたんだ」

「……」

「アタシが、義父さんに恩返しする為に…命投げ出そうとしてるの…黒澤が救ってくれた」

「……」

「まさか…兄ちゃん迄…アタシが死ぬの待ってたなんてな…」

「…違う…俺は、義母さんに…」

「幾ら貰う積もりだったんだよ?」

「……」

「……消えろよ」

「……」

「もう、兄妹なんかじゃない…二度と会いに来んなっ!!」

妃奈の言葉に、項垂(うなだ)れていた善吉はユラリと立ち上がり、背を向けたまま(つぶ)いた。

「…ヒナ…」

「……」

「……ごめんな」

遠ざかって行く足音に視線も送らず、妃奈はただ地面だけを見詰めていた。



どれ位の時間が過ぎたのだろう…いつの間にかベンチに横になっていた妃奈の躰に、フワリと暖かい物が掛けられた。

「…ったく…お前は…」

白い息を上げ、着ていたバーバリーのコートを妃奈に掛けた黒澤は、額の汗を拭いながら顔を覗き込んで来る。

「何やってるんだ、こんな所で…」

辺りはすっかり暗くなり、街灯の光がしゃがみ込んだ黒澤の顔を浮かび上がらせた。

その顔に刻まれた深い眉間の皺に、この男がどれだけ妃奈を心配していたかが見て取れる。

妃奈を大切にしてくれる男…妃奈の事を本当に心配してくれる男……妃奈を愛してると言ってくれた男…。

妃奈には、もう黒澤しか居ないのかも知れない…そう思うと、自然に涙が溢れ出た。

「…妃奈?」

起き上がると妃奈は腕を伸ばして、黒澤のスーツの袖口を掴んだ。

驚きながら彼女の躰を優しく抱き寄せた黒澤は、そっと背中を撫で下ろしながら深い声音で尋ねた。

「…どうした?何かあったのか?」

「……」

「妃奈?」

「……兄ちゃんが来た」

「……」

「…坂上の…店で働いてた」

「そうか」

「…坂上の所に来いって…連れに来た」

「断ったんだな?」

「……もう…アイツの所には…行かない」

「…そうか」

そっと頭を撫でられ、妃奈は黒澤の肩にクシクシと顔を擦り付けた。

「…兄ちゃん…知ってたんだ」

「何を?」

「……アタシの…保険の事…」

「……」

「……もぅ…兄ちゃんには……会わない…」

絞り出す様にそう言うと、妃奈はシクシクと声を殺して泣き出した。

「…妃奈」

「……」

「愛してる」

「……」

「これから、妃奈の事は俺が守る」

「……」

「ずっと俺が守るから…もう泣くな」

妃奈のこめかみにキスをすると、黒澤は溢れる妃奈の涙を啜り、頬に鼻の頭に…そして唇に口付けを落とす。

「…苦しいよ」

「胸か?」

「…違う…キスしたら…息…出来ない…」

「お前、いつも泣いてるからだ」

クスリと笑う黒澤に馬鹿にされたと思い、妃奈は(むく)れて外方(そっぽ)を向いた。

黒澤は、そんな妃奈を愛しそう構うと、彼女の額に口付けを落とし、コートで妃奈の躰を包むとそっと抱き上げて病室に運んだ。

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