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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
23/80

(23) 告白

「手術の経過は、良い様ですが…」

男の癖に腰近く迄長く髪を伸ばした医者は、そう言って苦笑いを浮かべた。

「一向に回復に向かわないのは、ちゃんと投薬を受けて休養しないからですよ?」

「……」

「麻酔で眠らせたまま手術して投薬したのが、そんなに気に障りましたか?」

「……」

「仕方なかったんです…アブレーション手術の場合、手術後24時間は絶対安静でいて貰わないと、大出血する恐れがありますからね」

鷹栖小次郎(たかす こじろう)と名乗った心臓外科医は、黙ったまま睨み付ける妃奈に弁明をする。

「でも、嫁入り前のお嬢さんに大きな傷を付けずに済んで、本当に良かった」

「そんな事は、気にしちゃいない…アタシが怒ってんのは、やっぱり医者は信用出来ないって事だっ!」

「参ったな…」

白衣のポケットに入ったPHSがブルブルと振動し、鷹栖小次郎は片手を上げ耳に当てると直ぐに電源を切った。

「悪い、兄貴…急患が入った。後を頼むよ」

「おぃおぃ、丸投げかい?責めて、彼女に()びてから行けよ」

「高橋さん、申し訳なかった…本当に…今度、ゆっくり話しましょう」

そう言って、鷹栖小次郎はバタバタと病室を飛び出した。

「それで…アンタは、何でこんな所に居るのさ…鷹栖センセ」

武蔵(むさし)でいいよ…君の主治医の内、2人は鷹栖姓だからね」

「じゃあ武蔵センセ…精神科のアンタを主治医にした覚えはないんだけど?」

「手厳しいなぁ、高橋さん」

「…アタシは…アンタに世話になる様な事…何もないって言ってんだよ、センセ」

病室の隅にうずくまり荒い息を吐きながら、妃奈は目だけを光らせて鷹栖武蔵(たかす むさし)を睨み付けた。

「折角手術も上手く行ったのに、そのままじゃ回復しないだろう?せめて、ベッドで休んだらどうだろう?」

「嫌いだって言ってんだろ!?」

「トラウマがあるからかい?」

「…黒澤に聞いたのか…苦手な物の1つや2つある事が、何で頭おかしいって事になるんだよっ!?」

「高橋さん…君は、頭がおかしい訳じゃない…(ついで)に言うと、精神科は頭がおかしい人が掛かる訳じゃないんだよ」

「…どっちにしろ…アタシには、関係ない…」

ズルッと躰が(かし)ぐのを、妃奈は何とか壁に手を付いて堪えた。

「…高橋さん、黒澤さんも心配してるんだ」

「……」

「ベッドで寝れない事も、薬や医者を怖がる事も…」

「…アンタだって…苦手な物位あるだろ?」

「そりゃね」

「アタシのは、苦手になった原因がハッキリしてる…それでいいだろ!」

「克服したいと思わないかい?」

「……別に…不自由ない…」

「過去の記憶も…取り戻したいと思わないかい?」

途端に妃奈は顔をしかめて外方を向く。

「…何だよソレ…」

「ご両親の記憶も、取り戻したくないかい?」

「……それこそ、どうでもいい…」

「高橋さん…」

「煩いなっ!!いらねぇって言ってんだろっ!?」

それっきり、妃奈は膝に顔を埋めて(うめ)き声を上げた。



カウンセリングルームの横にある、鷹栖武蔵の部屋を訪ねた黒澤に、部屋の主は珈琲を()れてもてなした。

「こんなに遅く、申し訳ありません」

「いやいや…遅くても構わないと言ったのは僕の方だから。お仕事、お忙しいんですか?」

「えぇ、まぁ…公判中ですし、示談の案件も数件、他にも…まぁ色々と…」

「それは大変だ!失礼ですが、暴力団の弁護士というのは、そんなに忙しい物なんですか?」

悪意のない武蔵の問いに、黒澤は苦笑を返した。

「私など、まだマシな方です。私のクライアントは、私の性格をよくご存じですから…結構まともな案件しか回して来ないので」

「…そうなんですか。良心的な方なんですね。以前知り合ったヤクザの方も、凄く紳士的な方だったんですよ」

「…もしかして、佐久間組長ですか?」

「ご存じでしたか?とても紳士な方でした」

「私などが直接お会い出来る方ではありませんが…極道(ごくどう)としても、人間的にも、非常に優れた懐の大きな方だと伺っています」

「やはり、そうですか…ところで、高橋さんの件ですが…」

「その後、治療は?」

武蔵は少し困った笑みを浮かべて、ポリポリと頭を掻いた。

「いやぁ…僕や弟を始め、他の科の医師達もすっかり嫌われてしまいましてね。黒澤さんからも、京子ちゃんからも話を聞いていたんだけど…面目ない」

「京子ちゃん?」

「あぁ…ここを紹介して来た幸村刑事ですよ。学生時代の弟の喧嘩友達でしてね。レディースのヘッドだったんです…ご存じなかったですか?」

「…えぇ」

「老舗呉服店のお嬢さんなんですけどね…まぁ、若い頃の経歴を今の職場じゃ活かしてるんじゃないのかな?時々ここにも、子供達の事で相談に来ますよ」

「そうだったんですか」

「実は、高橋さんの事も相談されてたんです」

「え?」

「…全く他人を信用しようとしない、孤立した子供が居るってね。トラウマもあるんだろうが…確かに、手強い」

「……」

「でも、貴方には心を開いてる様だし、やはり時間を掛けて付き合うしかないのかも知れませんね?」

「…私に…ですか?いぇ…そんな事は…」

「そうですか?慕われていると思いますよ?」

ニッコリと笑う武蔵に、黒澤は眉を寄せて反論する。

「しかし妃奈は、私に何も話さない!!私に頼る事も…あの状況で(すが)る事もないんですよ!?」

「…黒澤さん、気付きませんか?」

「何をです!?」

「彼女が入院して来た時、貴方は彼女の手を握っていた。見舞う時には、いつも彼女を抱き締めていますよね?私や弟、他の医師や看護師達でさえ、高橋さんが気を失うか薬で眠っている時にしか治療も出来ない…触れさせても貰えないんですよ?」

「……」

「それどころか、近付く事も許して貰えない…寄らば斬るぞって雰囲気で睨み付けて来る」

「…同じ様な物です。彼女から触れて来る事はない…」

「全然違いますよ!彼女はね、黒澤さん…甘え方を知らないだけなんです」

「…」

(おび)えてるんですよ、ずっと…怖くて寂しくて…それでも誰にも守られず、頼る事も出来ずに生きて来たんです。身の守り方を、ああやって人を遠ざけ悪態を吐く事でしか表現出来ないんです」

「…だが」

「貴方には…遠慮している様に見えます。常に申し訳ない…そう思っているのではないでしょうか?それに、慕われていますよ…絶対に」

「え?」

「でなければ、あんなに安心した表情は見せません。(もっと)も、彼女の表情は読み取り辛いですが…」

本当にそうだろうか?

妃奈は黒澤に、怒った顔、悲し気な顔しか見せない。

殆ど無表情で、思っている事、考えている事…腹に抱えて何も話さない。

「…信頼されていないと…思ってました」

「そんな事は、ありません。多分、貴方の事を一番信頼しているのではないですか?」

武蔵の言葉に、黒澤は素直に頭を下げた。

「…ありがとうございます」

「高橋さんの手術は、成功しました。それは間違いありません。にも関わらず彼女の不整脈が治まらないのは、彼女が投薬を拒否してちゃんと休養しないからです」

「…はい」

「それと、未だ不整脈が続く原因の一つは、心因性な物にあると考えられますが…心当たりはありますか?」

「…えぇ…彼女には、多額の生命保険が掛けられていました。その為に、妃奈はずっと…自分は死ななければならないと思い込んで来たんです。しかし…それは今日、解決出来ました。唯…」

「まだ何か?」

「まぁ…色々と…」

「…」

「…私が守ります…妃奈を守る為に、私は彼女を引き取ったのですから」

武蔵に会釈すると、黒澤は部屋を退室した。



暗い病室に足を踏み入れ、黒澤は部屋の隅の影に小さく声を掛けた。

「…妃奈」

もぞもぞと動く影に近付くと膝を折り、黒澤は自分の上着を脱いで、そっと妃奈に掛けてやった。

「…寝てたか?」

小さく首を振ると、床に崩れ落ちた様な格好のまま、妃奈は胸から下げた鍵を握り締めた。

「…まだ…退院出来ないか?」

「退院したいのか?」

「…いつ…退院出来る?」

「まだ無理だ」

「……」

黒澤は妃奈を(すく)い上げる様にして抱くと、自分の膝に乗せた。

「わかってるだろう?まだ不整脈も続いてる」

「…黒澤の言う事聞いて…手術した…」

「あぁ」

「……結構…辛い…」

「投薬を受けないからだ。ちゃんと薬を飲めば、辛くなくなる」

「…病院も…薬も…嫌いだ……知ってんだろ?」

「あぁ」

「退院…出来ないなら……自分で…出てく…」

「こんな状態で、どうやって!?」

「……」

(むく)れた様に腕から逃れ様とする妃奈を抱き上げ、そのままベッドに運ぼうとすると、妃奈は胸にしがみ付いて頭を振る。

仕方なくソファーに座らせ、黒澤は携帯電話を手に取った。

「私だ。あぁ…今直ぐに運び込んでくれ」

通話を終えて程なく、ノックの音と共に数人の男達が、大きな荷物を運び込んで来た。

部屋の電気を付けられ、(まぶ)しそうに目を(しばた)かせながら驚いた顔を見せる妃奈を、黒澤はそっと男達の視線から遠ざけてやる…妃奈が、相変わらず知らない人間を怖がるからだ。

男達は運び入れた畳を部屋の隅から敷き詰めて行き、そこに大きなマットレスと布団を敷くと退室して行った。

「…なんだよ、コレ…」

「布団だ」

「そんなの、見りゃわかるよ」

「お前が、ベッドを嫌がるからだろう?」

ヒョイと妃奈を抱き上げると、黒澤は彼女を布団に座らせた。

「…ベッドも布団も…一緒だろ…」

ムッとした顔をしながらも、どこか申し訳なさそうに(むく)れる妃奈の顔を、黒澤は覗き込んで尋ねた。

「布団も駄目なのか?」

「……」

「遠慮するなと言っただろう?」

妃奈の頭に手を置くと、ワシワシと頭を撫でてやりながら、何でもない様に黒澤は言った。

「なら、何か他の方法を考えよう」

「…って言うか、こんな事して平気なのか?」

「大丈夫だ…許可は取ってある」

立ち上がって部屋の電気を消すと、黒澤は布団の枕元に置いた電気ランプを灯した。

家から持って来たランプの淡い光が、アンティークのステンドグラスで作られた火屋(ほや)を照らし、辺りに色とりどり華を散らす。

部屋の隅に戻ろうとする妃奈の腕を引くと、彼女は意図も簡単に黒澤の胸に崩れ落ちた。

…やっぱり…妃奈は家に居る時から、(ほとん)ど眠る事が出来ずにいた。

夜、黒澤の部屋の外に座り込んで膝に顔を埋めていても、神経は常に起きているのだ。

風の音、家の軋む音、巡回する警備員の足音、黒澤の気配…それら全てに神経を尖らせている。

そして時折、パタリと電池が切れた様に気を失ってしまうのだ。

妃奈が躰を休めるのは、気を失うか…若しくは黒澤が添い寝してやる時だけだ。

「…寝れてないのか?」

「……」

「何日だ?」

「…さぁ?」

抱き込んで布団に入れようとすると、妃奈は黒澤の胸を叩き手に噛み付いて抵抗する。

「…ったく…人間は4日睡眠を取らないと、狂って死ぬそうだぞ?」

「…好都合だろ…」

黒澤の袖を掴み、かろうじて倒れるのを堪えた妃奈が、投げ遣りにボソリと吐いた。

「妃奈…もう、いいんだ」

「…何が?」

「もう、死ぬなんて考えなくていい」

「……」

「…今日、蒲田に…お前が世話になっていた、菅原さんに会って来た」

「えっ!?」

驚いて黒澤を見上げる妃奈の眉間に、深い皺が寄る。

「菅原邦彦さんにも…貴美子さんにも会って来た」

「余計な事すんなよっ!!」

「…余計な事じゃない…お前が(こだわ)っている事だろう?」

グッと言葉を呑み込んで黒澤を睨み付けていた妃奈は、やがてユルユルと俯き…消え入りそうな声で尋ねた。

「…義父(とう)さん…退院してたのか?」

「あぁ」

「…元気だった?」

「妃奈の事を心配していた」

「……」

「菅原さんは、生命保険の事を知らなかったんだな?」

「……」

「1億なんて…おかしいと思わなかったのか?」

妃奈は、俯いたまま左手の爪を噛み始めた。

考えて見れば、彼女があの家を出たのは中学3年になって直ぐの事だ…そんな子供に、一体何が出来ただろう…。

妃奈の左手を庇う様に覆うと、黒澤は彼女を抱き込んで撫でてやりながら言った。

「もう心配ない…保険は、解約された」

「…ぇ?」

「元々、違約した契約だったのだから、当然だ」

「…違約?」

「妃奈は中学の頃から健康診断で、毎回再検査を通達されていただろう?」

「……」

「学校からの手紙も、保険医や担任からの電話も、貴美子さんは無視し続けていた…にも関わらず、保険契約時の健康状態は良好、既往症はなしと記載されていた。これは、立派な契約違反だ…例え妃奈が死んだとしても、保険金が満額支払われる事はない」

「…態々(わざわざ)調べたのか…暇な奴…」

「弁護士とは、そういう仕事だ」

ホゥと溜め息を吐くと、妃奈は黒澤の胸に頭を預けたまま、右手で光の華を(もてあそ)んだ。

「…私が、あの子を追い出したのかも知れません…」

建設中のアパートを見上げてポツリと言った、菅原邦彦の声が蘇る。

「妻や娘が、妃奈に冷たい態度を取っていた事も、妃奈が…ずっと不満を持っていた事も…あの子が学校で(ひど)い虐めに()っていた事も、私は全て知っていました。だが…私は、あの子に何の助け船も出さなかった」

「…何故ですか?」

「黒澤さん…私は養育里親です。あの子達は、18になれば独り立ちして行かなくてはなりません。特に妃奈の場合…世間の荒波に立ち向かえる様に、独りで生きて行く力を付けさせる必要がありました」

「しかし…もう少し、愛情を掛けても良かったのではありませんか?」

「…私なりの愛情でした。これでも、妃奈の言葉には耳を傾けて来たのです。それに…妃奈を甘やかせる役は、善吉が(にな)ってましたから…」

「善吉…西堀善吉ですか?」

黒澤の声に、菅原邦彦はゆっくりと頷いた。

「そうです。善吉と良介兄弟は、一家心中の生き残りでしてね…2人には、雛子(ひなこ)という妹が居たのです」

「……」

「名前が似ていた事や、亡くなった妹と同じ年頃だった事もあったのでしょう。引き取った当初言葉を話す事が出来なかった妃奈を、善吉は献身的に世話をしてくれました。そんな善吉に、妃奈は雛鳥の様に後を追っていた…良介がどう思っていたかはわかりませんが、あの2人は本当の兄弟の様に仲が良かったんですよ」

妃奈が、西堀善吉に対して恩があると言っていたのは、そういう事だったのか…。

「善吉は、少し頼りない所のある子でしたが、優しい子です。高校を中退して後は、ウチの工場で働いていました。反対に良介は昔から頭が良くて…高校3年の時に、大きな病院の跡取りとして養子になる話が持ち上がりましてね。指定した大学の医学部に現役合格すればという事で…良介は物凄く努力して、見事に合格したんですよ。皆とても喜んで良介を送り出したのに…その直ぐ後です…妃奈が妊娠していると知らされたのは…」

「…相手は?」

「わかりません…妃奈は、決して口を割らなかった」

「……」

「あの時…私は、ちゃんと妃奈の話を聞くべきでした。しかし私は…問答無用で、妃奈を殴り付けた」

「…動揺なさったのでしょう?」

「そうかもしれません…だが…裏切られた様な気持ちになって、私はあの子を(なじ)り…手を上げた…『そんな、ふしだらな娘に育てた覚えはない!』『お前には、裏切られた!』と…」

「……」

「あの時の妃奈の顔を、私は忘れられない……皆に(なじ)られても平然としていたあの子が、私の言葉に(ひど)く動揺し涙を浮かべた……その後、私は妃奈と言葉を交わしていません」

「一度もですか?」

「…えぇ…その後直ぐに火事が起こって…私は入院してしまいました。妃奈は一度も見舞いに来なかった…私はそれを、薄情な娘だと…ついさっきまで誤解していました…」

「…」

「お笑い下さい…妃奈が見舞いに来ない事も、家を飛び出した事も…私は妻の話を鵜呑みにして…()してや、生命保険など…」

項垂れる菅原邦彦に、黒澤は優しく声を掛けた。

「妃奈は、貴方の事をとても心配していました。命を絶たなければいけないと思い込んだのも、貴方に恩返しをしたかったからです」

「……」

「感謝しているのだと思います。彼女は口下手で…思っている事を言葉や態度に出しませんが…」

目頭を押さえた菅原邦彦は、建設中のアパートを見上げ(かす)れた声を吐いた。

「そう思ってくれているなら、本当に嬉しいのですが…命の大切さを教えてやれなかった責任は、痛感しています。あの子に堕胎する様に命じたのは、この私ですから」

「それは、仕方なかったのではありませんか?彼女は、まだ中学生だった訳ですから」

「いぇ…その時の私は、妃奈の事よりも世間体を気にしたんだと思います。養育里親をしている奇特な人物であるという自分の評価が、預かった子供を中学生で妊娠させてしまったという監督不行き届きな結果を出してしまった事で、世間の評価が下がる事を怖れたのだと…」

「菅原さん…」

「私は結局、弱い人間なのです…家の中の事も、妃奈に辛い気持ちを抱えさせているのがわかっていながら、微妙な平和が保たれている事に甘んじていた。妃奈が何も話さないのをいい事に…」

それは自分も同じだと、黒澤は腹の中で反芻(はんすう)していた。

妃奈が何も話さない事を言い訳に、何度彼女を傷付けて来た事か…。

「火事で工場も失い、私も怪我を負いましたが…幸い、良介が手を尽くしてくれましてね。妻があの子に連絡を入れると、直ぐに彼の養子先の病院に入れる様に手配してくれて、手厚い看護を受けました。おまけに、今迄世話になった礼だと言って、入院費も治療費も全て面倒見ると言ってくれたんですよ。元の職人に戻る事は出来ませんが、お陰で退院して直ぐにこうやってアパートを建てる事が出来ます」

「…賃貸アパートの経営をされるのですね?」

「えぇ。幸い駅にも近く、立地条件も良くて…。土地を売る事も考えましたが、火災保険や今迄の蓄えでアパートを建てる事にしました。美子もまだ学生ですし、収入の道を考えた方がいいと思いましてね」

「そうですね…その方がいい」

菅原邦彦は黒澤を見上げると、少し笑って言った。

「当分、管理人の親父として頑張りますよ」

「えぇ」

「妃奈に伝えて下さい、黒澤さん。私達の事を許して欲しいと…」

「…承知しました」

菅原邦彦は、深々と頭を下げると杖を頼りに家に戻って行った。

「……あの土地に賃貸アパートを建てて、家賃収入を得る事にしたそうだ」

「…へぇ」

「入院費の話も、お前に聞いてた話とかなり違っていた」

「…え?」

「養子に行った善吉の弟が、自分の養子先の病院に引き取ったそうだ。費用も全て病院持ちで…だから、妃奈が心配する様な事は何もなかったんだ」

「……そう」

「優しくてしっかりした人物じゃないか…何故善吉じゃなく、そっちを頼らなかったんだ?」

「……」

「妃奈?」

「……良兄ちゃんは…アタシの事嫌いだから」

「……」

「…色々あんだよ」

「俺には、話したくないのか?」

「…話してどうなる?今更、何が変わる?」

「……」

その言葉に、妃奈の髪を撫でる黒澤の手が止まった。

ピクリと反応した妃奈は、光の華を手離す様に掌を開くと、少し声音を和らげて黒澤の胸に語り掛ける。

「……誤解すんなよ…別に、相手が黒澤だから話さないんじゃない…話した所で、過去は変えられないって事だ」

「…俺は、お前を理解したい」

「……」

「お前の思いを、考えを知りたい…お前を、もっと知りたい!!」

「……必要ない…」

「何故!?」

「…アタシみたいな…社会のゴミみたいな奴の事…知ってどうする?時間の無駄だろ?」

「……」

「それより、自分の仕事の事や…事務所の事考えろよ。忙しい弁護士先生様なんだからさ…」

もぞもぞと腕から逃れ様とする躰を再び強く抱き締めて、黒澤は叱り付ける様に妃奈に言った。

「何故そんな言い方をする!?自分を(さげす)む様な事を言うもんじゃない!!」

「本当の事だろ?」

「…妃奈」

「蔑まれて当然だろ?」

「……」

「…こんなナリで…中学もまともに出てなくて…ホームレスで、男達に躰好き放題されて…おまけに、保険金もまともに払えない躰って何なんだよ!?」

もしかして、逆効果だったのか!?

生きる事を諦め様とする妃奈の為に、菅原貴美子が契約した保険会社を洗い出し、違法な契約を破棄する様にと菅原夫妻と保険会社に突き付けた。

妃奈の受けた心の傷を考えれば、まだ穏便に処理した方だ。

たが…生命保険が妃奈の生きる(かて)になっていたというのか!?

「…それに…アタシは……人殺しだ…」

「ぇ?」

「…4人だ…アタシが殺した…この3年の間に…」

そう言って、妃奈は震えながら下腹を擦った。

「それは…それは、お前のせいじゃない…」

「…殺したのも一緒だ…アタシは、あの子達が生まれて来る事を…望まなかった…」

躰を優しく撫でてやっても、妃奈の震えは止まらない。

「…なぁ…黒澤…」

「ん?」

「…義父(とう)さん達に…恩返しも出来ない様な……役にも立たない命なら…」

「…」

「……もう、死なせてくれよ…」

「駄目だっ!!」

「……もう、いいじゃん…」

慌てて顔を引き上げると、妃奈は暗い瞳で視線を絡め様としない。

「駄目だ、妃奈…」

「…もう…疲れた…」

「まだまだ、これからだろう!?諦め様とするな!!今から、幾らでも幸せになれる!!」

「……」

「俺が、お前を幸せにしてみせるっ!!」

「……」

ぼんやりと中空を見詰め反応しない妃奈に、黒澤は叩き付ける様な言葉を吐いた。

「愛してるんだ、妃奈ッ!!」

ビクリと腕の中の躰が反応し、妃奈の眉間に深い皺が寄る。

「……」

「……」

言った方も、言われた方も…しばし顔を見詰め合ったまま口を(つぐ)んだ。

瞳を絡め互いの心の中を推し量る、緊迫した時間が流れる…。

沈黙を先に破ったのは、妃奈だった。

「……家族として…だろ?」

「……」

「いらないって言ったろ?家族なんて必要ない…そんな関係、もう背負い切れない」

「…違う、妃奈…」

「……」

「違うんだ…俺は、お前を…」

「聞きたくない」

「妃奈…」

ユルユルと俯くと、黒澤の腕を押しやりながら妃奈は頭を振った。

「言ったろ?アタシには、そんな資格ない…」

「資格なんて…幸せになる資格なんて、必要ないと言っただろう!?」

腕を揺さぶり顔を覗き込む黒澤に、妃奈は唯々首を振る。

「…今更だけど…黒澤には感謝してる…」

「……」

「…黒澤は…アタシなんかに、本当に優しくしてくれて…人間として扱ってくれて……よくわかんないけど…きっと、幸せだったんだ…」

「…妃奈」

「だから…もう十分だ……もういいんだ、黒澤」

「何が十分だ!?俺はまだ、お前を幸せにしていないぞ!!」

「……」

「お前…ちっとも幸せそうじゃなかったろ!?」

フルフルと頭を振る妃奈は、目を潤ませて黒澤を見上げた。

「……アンタ…辛そうなんだ、黒澤」

「……」

「昔のアタシに何したのかわかんないけど…アンタ、ずっと済まないって思ってんだろ?」

「……」

眉を寄せて見詰める黒澤に、妃奈は真っ直ぐな視線を寄越す。

「何したのかなんて聞かない。聞いた所で、過去が変わる訳じゃない…そうだろ?」

「…妃奈…」

「それに、アタシには記憶がない…別に何とも思わない。だから、黒澤が気に病む必要はない…アタシに負い目を感じて、世話しようだなんて思わなくていいんだ」

「…違う」

「なら、アンタは勘違いしてるんだ…アタシに同情してるだけだ」

「…そんなに、俺が信じられないか?」

「アタシには必要ない…縁のない物だ」

「…愛してるんだ、妃奈…」

「期待して裏切られる感情なんていらない!辛くなるだけだろ!?」

「愛してるんだ」

「……」

「愛してる、妃奈…」

引き結んだ口がへの字に曲がり、黒澤の胸にポスンと躰を預けた妃奈は、身を震わせしゃくり上げて泣き出した。

その背中を撫で下ろし、つむじから耳にキスを降らせながら、黒澤は低く囁いた。

「…愛してる、Princes(プリンセス) Amber(アンバー)…」

そっと顎を捉えて溢れる涙を啜ってやると、妃奈は小さく呟いた。

「…嘘つき…」

「…ぇ?」

「…待ってたのに…」

「……」

「……何度も何度も……辛い事があった…」

「……」

「……一度も……来てくれなかった癖に…」

「…待ってたのか?」

「……」

「済まない…本当に…」

「……」

「もう離さない…お前の事を離さないから…」

やはり覚えていたのか…。

黒澤は、妃奈の唇にそっと自分の唇を押し当てた。

妃奈は抵抗もせず黒澤の腕に収まっていたが、唇が触れた途端ピクリと震えて身を硬くした。

「…緊張しなくていい…力を抜いて…」

「……」

「…可愛い…俺の…『琥珀姫』…」

黒澤は、ゆっくりと蕩かす様に深く妃奈に唇を重ねた。


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