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琥珀色の呪文  作者: Shellie May
20/80

(20) 追憶②

翌朝、妃奈は黒澤の(そば)から離れようとせず、両親から苦笑混じりに叱られていた。

「早くしないと遅刻するわよ、妃奈」

「だって…」

「だってじゃありませんよ。終業式でしょう?」

黒澤のシャツの裾を握り、妃奈は口をへの字に曲げて彼の顔を見上げる。

「大丈夫だよ、妃奈。妃奈が学校から戻る迄、黒澤さんには居て貰うから」

「本当!?」

弾ける笑顔を向けられ、黒澤は仕方なく頷いた。

「絶対だよ!!絶対だからね!?」

何度も何度も指切りをせがまれ、やっと妃奈は母親と共に家を出た。

「今日は、保護者会でもあるんですか?」

「妻ですか?いぇ…彼女は、パートに出掛けたんですよ」

「…夜の勤めの他に、昼にパート迄していらっしゃるんですか…」

「昨年私が休職してから、スナックの仕事もする様になりました…不甲斐(ふがい)ない事です」

「仕方ありませんよ。体調を崩されたのでしょう?」

「…あんな場所で働く様な女性ではないのですよ…あの方は…」

高橋道雄はそう言うと、黒澤に優しい笑顔を向けた。

「昨夜は、ありがとうございました…妃奈を、励まして下さって…」

「やはり、聞こえていましたか…」

鼻の頭を掻きながら、黒澤は苦笑を漏らした。

昨夜妃奈が胸の中で泣いている時、隣の部屋からも小さな啜り泣く声が聞こえていた。

「柄じゃなかったんですが…お嬢さんに(あお)られてしまって…」

「妃奈は、自分に自信が持てないでいるのです。親がどれだけ励ましても、信じ切れずにいたのですが…昨夜、貴方に励まして頂いたのが余程嬉しかったのでしょう。今朝のあの娘の様子を見ていて、良くわかりました」

「学校で、虐めに遭っている様ですね?」

「…えぇ。先生も何とか上手く行く様に、骨を折って下さっているのですが…」

「子供は残酷です。自分の努力ではどうしようもない事でも、平然といたぶって来る……私にも経験があります」

「…そうでしたか」

「しかし、果たされるかもわからないあやふやな約束に、あそこまで喜ばれるとは…正直、責任を感じています。彼女が大きくなれば、私など見向きもして貰えないでしょうに…」

「いぇ…貴方さえ良ければ、是非叶えてやって下さい。お恥ずかしながら、一度も連れて行った事がないのです」

「フェアリーランドにですか?」

驚いた様に尋ねる黒澤に、高橋道雄は苦笑を返した。

「貧しい暮らしはしていても、無理をすれば連れて行く事位は出来るのです。妃奈は絶対大喜びするでしょう。しかし…あの娘の母親が、頑として許さないのです」

「奥様がですか?」

「正式には、妻ではありません…私達は、籍を入れていないのですよ」

「…それは、昨日私に話したいと言っていた事と、関係がありますか?」

「えぇ…聞いて頂けますか、黒澤さん?」

そう言うと、高橋道雄は語り出したのだ。

「彼女は、都内でも指折りのフランス料理店の一人娘なんですよ。何不自由なく育った箱入り娘で、有名私立大学に通っていました。そこで…運命の人と出会ってしまったんです」

「妃奈さんの…父親ですか?」

「えぇ…彼女は余り多くを語らないので、私も詳しくは知りません。留学生だったらしい事、彼女に子供が出来た事を知り、帰国してしまった事…」

「捨てられたのですか!?」

「…お国では結構な名士の家柄らしく、帰国して結婚の許しを得て…必ず迎えに来ると言われたそうです」

「……」

「やがて、彼女の妊娠は父親の知る所となりました。早くに母親を亡くし、男手一つで娘を育てて来た父親は激怒して…彼女に堕胎を迫ったんです」

「それで、一緒に…」

「はい…連れて逃げて欲しいと、彼女に懇願されました。堕胎させられる位なら、お腹の子と一緒に死ぬと言われて…。今思えば、彼女は私の気持ちを知っていたのだと思います」

「高橋さん、貴方は奥様の事を…」

「彼女の父親の店で、パティシエとして修行させて頂いていました。とても可愛がって頂いたのに…大事なお嬢様を連れて逃げてしまったのです」

「…」

「妃奈が生まれる直前まで、籍の事は話せずにいました。ですが、産まれて来る子供が父親のない子供では可哀想だと思い、彼女に籍を入れないかと一度だけ話しましたが…泣かれてしまいましてね。その時には何も言えませんでしたが、産まれた妃奈を見て合点がいきました。そこで初めて、妃奈の父親の事を聞いたのです。彼女にしてみれば、明らかに私の子供ではないとわかる子供の父親にさせる訳にも行かないという気遣いと…本音では、帰国してしまった妃奈の父親を待ちたいという思いがあったのだと思います」

「……」

「黒澤さん…妻は…身元がバレない様に、住民票も移していないのです」

「…身元不明者という事ですか?では…妃奈さんは…」

「……無戸籍児童です」

「…戸籍を取る事は、今からでも可能です。直ぐに、役所に行って…」

「妻が…朋美さんが、強硬に反対するのです…その話を持ち出す度に、(おび)えてしまって…」

「何か、理由があるのでは?」

「わかりません…私にも、何も話しては貰えない。唯、妃奈の父親の件以外にも、家を離れ身を隠したい理由があった様に思えてなりません」

「…私に、どうしろと?奥様を、説得すればいいのですか?」

「いぇ…」

俯き加減に話していた高橋道雄は、居住まいを正して黒澤に向き直った。

「お願いしたいのは、妃奈の事です。将来、無戸籍の事や父親が不明な事で、あの娘がどんなトラブルが見舞われるか…私には想像も尽きません。黒澤さん…どうか、妃奈の力になってやっては頂けないでしょうか!?」

「…高橋さん」

「お願いします!!この通りです!!」

畳に額を擦り付け、高橋道雄は黒澤に懇願した。

「顔を上げて下さい、高橋さん」

「お願いします…妃奈が無戸籍なのも、父親が居ないのも…あの娘がハーフである事すら、全ては大人のエゴなのです!だが、私には何も出来ない!笑って下さい…娘の幸せより、惚れた女の希望を聞き入れる事だけが、私の愛情なのです」

「……」

「それでも、妃奈は私の可愛い娘だ…幸せにしてやりたいのです!!どうか…どうか、力をお貸し下さい!!」

「高橋さん…本当に、手を上げて下さい」

黒澤は、高橋道雄の手を取って、そっと背中を撫でた。

「私は、そんな大した弁護士ではない…まだまだ、見習い弁護士なのです。それに…ウチは、組弁護士なんですよ」

「組弁護士?」

「…暴力団相手の弁護士なんです。父や兄が殺されたのも…多分、暴力団の抗争に巻き込まれたからだ」

「……ですが…本物の…弁護士さんなんですよね?」

「えぇ。まぁ…今は、バッチもありませんが…」

「お引き受け…頂けないという事でしょうか?」

不安そうに見上げる高橋道雄に、黒澤は苦笑して答えた。

「いぇ…そうではなくて……貴方が…組弁護士の私に、妃奈さんの事を託しても宜しいのですか?」

「勿論です!!」

はっきりと言い切る高橋道雄に、黒澤の方が面食らった。

「何故ですか?昨日会ったばかりの…(しか)もゴミと一緒に転がっていた様な人間を、そんなに信用してしまっていいのですか?弁護士というのも、本当は嘘かもしれない」

「…信頼していますよ。貴方は…妃奈を理解して下さった。それだけで十分です」

真剣で真っ直ぐな瞳に押され、黒澤は溜め息を吐いた。

「…承知致しました。この案件、私が責任を持ってお引き受け致します。唯、今直ぐにという訳には行かないのですが…宜しいですか?」

「…どういう事でしょう?」

「昨夜高橋さんが仰った様に、私は今追われている身です。これから、知り合いを頼って関西に行く予定なんです。1年…2年の内には、必ず東京に戻り事務所を立ち上げましょう。それからでも宜しいですか?」

「えぇ、えぇ!勿論です!!」

ホッとしたのだろう…高橋道雄はうっすらと涙を溜めて黒澤の手を取って頭を下げた。

「ありがとうございます、黒澤さん…本当に、何とお礼を言えばいいか…」

「待って下さい!私は、お嬢さんに…妃奈さんに助けて頂かなければ、今頃はゴミ置き場で冷たくなっていたかも知れない。私こそ、何とお礼を言っていいか…感謝しても仕切れません」

「黒澤さん…」

「妃奈さんが困った時には、必ず力になるとお約束します。東京に戻ったら、新宿辺りに事務所を構える事になるでしょう。電話帳にも私の名前を載せて置きます。いつでもご連絡下さい」

「ありがとうございます。宜しくお願い致します。時に…関西には、どうやって行かれるのですか?」

「お恥ずかしながら、金も持ち出す事が出来ませんでしたので…ヒッチハイクでもと思っているのですが…」

「それならば、私にお任せ頂けませんか?」

「え?」

「私の…というより、妻や娘の知り合いなんですが…この近くに運送会社があります。皆昼時には、妻のパート先に弁当を買いに来るお得意様なのだそうで、妃奈や私の事もよく見知っています。私がそちらの社長さんに、貴方を乗せて貰える様に、話をしてみましょう」

「宜しいのですか?」

「何、構いません…少し、待っていて下さい」

高橋道雄はそう言うと、上着を抱え笑顔で玄関を出て行った。

しばらくして、ただいまと勢い良く玄関のドアを開けたのは妃奈だった。

「よかったぁ!!まだ、居てくれた!」

「約束しただろう?」

「でも、心配だったんだもん!」

そう言うと、妃奈は黒澤の腰にギュッと抱き付いた。

「…早かったね、妃奈」

黒澤に抱き付く娘を見て笑いながら、玄関から高橋道雄が入って来た。

「話して来ましたよ、黒澤さん。今夜10時に出るトラックに、乗せて頂けるそうです」

「そうですか…ありがとうございます」

「それより、少し妙な男達がうろついていましてね…もしかしたら、貴方を捜しているのかも知れない」

「…そうですか…私は、直ぐに出る事にします」

「いや、違うかも知れません…この辺りで見掛けない男達だというだけで…」

「だが、もしも私を追ってきた奴等だとしたら…とても危険なんです!貴殿方を危険に(さら)す訳には行かない!!」

「大丈夫…このジャンパーを着て、出て下さい。私は、先程姿を見られている。フードを被れば、目眩ましにはなるでしょう」

高橋道雄は、財布から数枚の札をジャンパーのポケットに捩じ込んだ。

「何かの足しにはなるでしょう…妃奈、お前は黒澤さんと一緒に出掛けなさい」

「高橋さん!?」

「大丈夫ですよ。妃奈…良く聞きなさい。家から出たら、しばらくは黒澤さんの事を『お父さん』と呼ぶんだ。わかるかい?」

不安そうに父親と黒澤の顔を見上げ、それでも妃奈は何度も頷いた。

「夜になったら、黒澤さんを運送会社に連れて行ってあげなさい。妃奈と一緒に来るからって、社長さんには話してあるから」

「今日、行っちゃうの?」

「そうだよ…黒澤さんを見送ってから、帰っておいで。約束したケーキは作っておくから」

「『王子様』にも、お父さんのケーキ食べて欲しかったのに…」

「そうだね…でも、又幾らでも機会はあるよ」

高橋道雄はそう言うと、娘の頭を撫でてランドセルを下ろしてやった。

「…本当に、宜しいのですか?」

「えぇ…夜には居なくなっているでしょう。大丈夫ですよ。それより、子供相手に申し訳ないんですが、クリスマスデートを味あわせてやって下さい」

「デート!?『王子様』と!?」

そう聞いて、妃奈は一気に笑顔を取り戻した。

「ちゃんと黒澤さんの言う事を聞くんだよ…ご迷惑にならない様に…わかっているね?」

笑顔で何度も頷く娘の背中を、父親はスィッと押した。

黒澤は深々と高橋道雄に頭を下げ、フードを深く被り靴を履いた。

「お父さん、お父さん、早く早く!!」

一足先に飛び出した妃奈が、玄関先で呼び掛ける。

黒澤が玄関を出ると、妃奈は首から下げたチェーンに通した鍵束で玄関を施錠した。

そして黒澤の手を取って、グイグイと表通りのバス停に連れて行く。

「ねぇ、ねぇ!どこに行く!?」

「…妃奈の行きたい所でいい」

辺りに気を配りながら、黒澤は妃奈の手を握り返した。

無事にバスに乗り込み、他に怪しい人物が乗車しなかった事で、少し気を許して溜め息を吐く。

高橋道雄は、何故こんな危険を犯して迄、自分を助けてくれるのだろう…やはり、娘の事を助けたい一心なのだろうが…。

「ねぇ…もう『お父さん』って呼ばなくても平気?」

隣に座った妃奈が、黒澤の袖口を引っ張りながら小声で囁いた。

「あぁ、もう平気だ」

「よかったぁ…ドキドキしちゃったよ!」

そう言うと、妃奈は黒澤を見上げてニッと笑顔を見せた。

「巻き込んで、悪かった」

「いいょ、そんな事…それより、お腹空いちゃった!」

極力人の多い場所にと渋谷に出て、妃奈の行きたいという場所を次々に散策した。

「ねぇ、ねぇ、『王子様』!!」

人混みの中でも平気でそう呼び掛けられ、周囲の人間の嘲笑(ちょうしょう)に耐えかねて、黒澤は妃奈を引寄せた。

「妃奈…その呼び方、勘弁してくれ」

「何で?」

「何でって…幾ら何でも、人前では恥ずかし過ぎる」

「じゃあ、何て呼べばいいのよぅ?」

「…まだ、名前の方がマシだ」

「何て名前だっけ?」

「…(しゅう)だ…鳥の『(わし)』って書いて、シュウ」

「シュウ?」

「あぁ…黒澤鷲…覚えとけよ?」

「わかったよ、シュウ!」

(しゅう)』という名前は、祖父が付けたと聞いている。

生まれて間もなく黒澤家に引き取られた赤ん坊に…『(はやぶさ)』『(たか)』と、だんだんに大きな鳥の名前に成る様にと、最後に『(わし)』と書いて『しゅう』と名付けたらしい。

珍しい名前なのか、正しく呼ばれた試しがない…だから昔から(こだわ)って、気心を許した人間以外に呼ばせる事はなかったのだが…。

「シュウ」

妃奈が、はにかみながら夢見る様に呼び掛ける声に、黒澤はドキリとした。

懐かしい様な、くすぐったい様な…とても優しいその声が、美しく(はかな)げだった母の声と重なったからだ。

「2人だけの時には『王子様』って呼んでいいの?」

「あぁ…2人の時だけ…」

「わかった!!でも、シュウって名前もカッコイイね!」

「…妃奈…もう一度…」

「何?」

「…もう一度呼んでくれ」

「シュウ?」

表参道の陸橋の上から、煌めくイルミネーションに目を輝かしていた妃奈を、後ろからそっと抱き込んでジャンパーで包んでやる。

「…寒くないか?」

「大丈夫だよ。でも、暖かい…」

嬉しそうにはしゃぐ妃奈に、黒澤は少し躊躇(ちゅうちょ)しながら話し掛けた。

「…妃奈…」

「何?」

「…頼みがあるんだ」

懐の中から、見上げる妃奈の首に下がった鍵を手に取ると、黒澤は静かに言った。

「預かって欲しい物があるんだ」

「…何?」

黒澤は、ジーンズのポケットから小さな鍵を取り出して妃奈に見せた。

「この鍵を、預かってくれないか?…誰にも内緒で…」

「ナイショ?お父さん達にも?」

「…あぁ…2人だけの秘密だ」

妃奈は黒澤から鍵を受け取ると、チェーンに通して再び首に掛けた。

「今度会う迄、誰にも渡さないで…持っていて欲しい」

「シュウの大切な鍵なの?」

「そうだ…宝箱の鍵なんだ」

「シュウの宝物!?」

「そう…だから、妃奈に預ける。俺の…小さな『琥珀姫』に、俺の宝を預ける」

これは賭けだ…とても危険な賭けだ。

妃奈を巻き込んでいいものかという葛藤がなかった訳ではない…だが、まさか子供が持っているとは、敵も思い付かないだろう。

殺された兄が命懸けで守った手帳とUSBフラッシュメモリーは、銀行の貸金庫に保管されている。

黒澤も詳しい内容は知らされていないが、兄にもしもの事があった時には、貸金庫の鍵を持ち出し誰にも渡さずに逃げろと厳命されていた。

兄を殺した男は、兄がそれらの証拠を検察に提出しようとしていたと話していた。

ということは…役人か公人が関わっているという事だろうか?

確か兄は、『公になれば、新宿という街がひっくり返る』と言っていた…。

「シュウ?どうしたの?」

「ぇ?」

「…怖い顔してる」

「ぁ…悪い、怖がらせたか?」

「うぅん…怖い顔してても、カッコイイからいいや」

「お前なぁ…」

時計は、既に9時を回っていた。

電車で大久保迄戻り、辺りを窺いながら妃奈に案内されて運送会社迄やって来た。

「兄ちゃんかい、昼間妃奈ちゃんの親父さんが言ってたのは?」

「えぇ…関西方面に行くトラックに、乗せて頂けると聞きました」

「社長から、話は聞いてるぜ。妃奈ちゃんのお袋さんには、弁当屋でいつも世話になってるんだ。唐揚げとか、オマケして貰ってよ」

ガハハと笑った運転手にバシバシと背中を叩かれ、黒澤は宜しくお願いしますと頭を下げた。

「もうじき出発するからよ、先に乗ってていいぜ」

そう言われて、黒澤は少し離れた所で立ち尽くす妃奈の元に向かった。

「…行っちゃうの?」

「あぁ…もうすぐ出発するらしい。1人で帰れるか?送って行こうか?」

「…平気…1人で帰れるけど…」

妃奈はそう言って、黒澤の腰にギュッと抱き付いて、腹の辺りでグシグシと顔を擦り付ける。

「…妃奈」

「又、直ぐに会える?」

「直ぐには無理だ…1年か2年…なるべく早く東京に戻る様にするから」

「本当?」

「あぁ…約束だ」

しゃがんで妃奈の顔を覗き込むと、泣き顔を見られたくないのか黒澤の首に腕を回して抱き付いて来る。

運転手達が(はや)し立てると、妃奈は一頻(ひとしき)り泣き声を上げた。

「…『王子様』…昨日のアレ…言って」

「アレ?」

「…私の事…『お姫様』って…」

しゃくり上げながら妃奈は懇願し、黒澤は妃奈を抱き込んだまま耳元で囁いてやる。

「…Princes(プリンセス) Amber(アンバー)…」

「…」

「お前が辛い目に()ったら、直ぐに飛んで来る…Princess(プリンセス) Amber(アンバー)…俺の小さな『琥珀姫』…直ぐにお前を助けに来るから…」

「……うん」

「お父さんとお母さんに、宜しく伝えてくれ」

「…わかった」

「必ず、会いに来る…約束だ」

妃奈は胸に下げた鍵束を握り締め、濡れた瞳で笑顔を作った。

「待ってるね」

堪らない気持ちになって妃奈の額にキスをすると、黒澤は(きびす)を返してトラックに乗り込んだ。

サイドミラーに映るトラックを追い掛けて走る妃奈の姿が、みるみる小さくなって行く。

「涙、涙の別れのシーンだったなぁ…」

「すっかり懐かれてしまいました」

「あれじゃ、当分涙で枕を濡らすんだろうぜ?」

「子供の事です…直ぐに忘れられてしまうでしょう?」

「どうかね…あんな感動的な別れなんて、そうそうねぇだろうよ?妃奈ちゃんがもう少し大きけりゃ、一緒に付いて行くって言ったんじゃねぇか?」

「……」

「流石に、小学生と逃避行って訳にもなぁ」

ガハハと上機嫌で笑う運転手が、ラジオのスイッチを入れた。

早く戻って来て、連絡を入れてやろう…中学生の妃奈ならば、遊園地にも行きたがるだろう。

1年間、栞の実家である大阪の道場で修行している間に、新宿では堂本組を二分するような麻薬絡みの事件が起きた。

多分兄が調べていたのは、この事件の背景だろう…あの時、兄は身内の調査だと言っていた。

だが、堂本に楯突いたのは、身内である三上組と、昔から付き合いのあるAsia(アジア)製薬の2代目社長だと聞いた。

…検察庁に告発される様な名前は、どこにも上がっていない…。

新宿に戻り、事務所を開いて森田組の顧問弁護士になり、目の回る様な日々に忙殺された。

一向に連絡を寄越さない高橋道雄のアパートを訪ねたのは、新宿に事務所を開い て1年が経った頃だった。

そこで初めて聞いたのだ…あの日、高橋道雄、朋美夫妻が殺された事を。

そして妃奈が、たった1人で遺されてしまった事を…。

やはり、あの時の不審な人物は、黒澤を追って来た奴等に違いなかったのだ!

もしも、あの時…妃奈の差し伸べる手を取ってなかったら…。

もしもあの時、黒澤だという事を明かして、1人でアパートを出ていたら…高橋親子が巻き込まれる様な事は、なかったのではないか!?

必死に妃奈の行方を捜して施設にも足を運んだが、(よう)として行方は知れず…高橋道雄の話を頼りに、都内のフランス料理店を調べ尽くし、鶴岡聡氏の店である『Maison(メゾン) de() fete(フェイト)』を探し当てたのだ。

娘との確執に意固地になっていた鶴岡氏を説き伏せ、娘の死を伝えて、何年も掛け孫を引き取る様に説得した。

そこで初めて、母親の名前が新聞掲載されていた『智美』ではなく『朋美』である事、朋美さんが彼女の受け継ぐ遺産の為に、度々危険な目に()っていた事を知ったのだ。

高橋さんが懸念した様に、朋美さんが家を飛び出したのは、父親に堕胎を迫られただけではなかったのだ…。

自らを身元不明にして妃奈を無戸籍児童にしたのは、自分と娘の安全な生活を守る為の苦肉の策だったというのに…。

早急に妃奈を無事に保護して、幸せにしてやらなければ!!

病魔に侵されていた鶴岡氏が亡くなった時、遺産の全てを妃奈に相続させ、黒澤を未成年後見人に指名すると記された遺言状が公開されると、鶴岡氏の親族から強い反発を受けた。

妃奈を20歳迄に捜し出す事が、彼女が相続出来る為の条件だったが…正直捜し当てる目処(めど)は全く付いていなかったのだ。

あの事故で妃奈と再会出来たのは、本当に奇跡に近い出来事だった。

なのに…黒澤が引き取った後も、記憶をなくした妃奈の(かたく)なな心は解れる事はなく、(いま)だ黒澤の元を離れ様とし、あまつさえ死に取り付かれている。

妃奈の人生を狂わせてしまった責任は自分にある…何とか妃奈を幸せにしてやりたいのに…。

黒澤の焦りはつのるばかりだった。

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