(19) 追憶①
「毛利剛という人物をご存知ですか、森田さん?」
「毛利?都議会議員のか?…新宿都市計画の…相談役だったと記憶しているが…」
北新宿のツインビルの最上階にある森田組の事務所で、森田組長とSaint興業の聖社長との会合を終えた黒澤が、森田組長に切り出した。
「彼の前職は、勿論ご存知ですよね?」
「あぁ…新宿署の組対課長だった。それがどうした?」
黒澤がチラリと聖社長に視線を移すと、森田組長は日本茶を啜りながら黒澤に言った。
「聖なら心配ない。何れは堂本の若頭を継ぐ男だ…今後は、お前とも仕事をして貰う」
黒澤は聖に軽く会釈すると、森田組長に向き直った。
「私の身内絡みの事件に関係しています。率直にお聞きしますが、堂本組や森田組と何か関係はありますか?」
「…今は…と、言って置こう」
「…」
「そんな顔をするな。組対と言えば、ヤクや拳銃、我々の商売にも深く関わる担当だ。大なり小なり関わりは持っていた」
「程度によりますよね?」
「何が仰りたいんですか、黒澤さん?」
聖が、涼し気な瞳を黒澤に送る。
「お宅は如何ですか、聖社長?」
「…私自身は、面識もありませんが…ウチの先代は、あったと思いますよ。何せ、堂本の金庫番でしたからね」
色白なのか、妙に紅い唇がフッと笑いを漏らす。
「私が毛利の周辺を嗅ぎ回り、手を出す様な事になっても構いませんか?」
「…何があった?」
「一番大切な人間を、守ってやる為です」
「最近お前が一緒に暮らし始めたという、愛人の事か?」
「…愛人?いぇ、彼女とは、その様な関係ではありません」
黒澤が否定すると、森田組長と聖は顔を見合せた。
「そんな話になっているんですか?」
「私の所にも、問い合わせが頻りだ。軽井沢で相手のご令嬢と母君に、17の娘と同棲していると啖呵を切って、見合いを蹴って帰ったそうだな?」
「黒澤さんと婚姻を結びたいと思っていらっしゃる方は多いですから…涙に暮れるご令嬢は、多いのではないですか?」
「……幾分、脚色されている様ですが…」
「どんな娘だ?」
「夏に…事故に捲き込んでしまった娘です」
「当たり屋のか?」
「…ずっと捜していた娘です。あの事故で、偶然に再会したのです。私が…守ってやらなくてはならない娘です」
「黒澤?」
苦渋の表情を浮かべる黒澤に、森田組長が訝しんで声を掛けた。
「…あの折に…捲き込んでしまったんです」
「何だと?」
「…私の軽率な行動で…彼女の人生を狂わせてしまいました」
そぼ降る冷たい雨とズタズタにされたプライド…逃げる事に疲れ果て、生きる気力をなくしてゴミ置き場に沈む黒澤の前に立った女は、ソロソロと彼の横にゴミ袋を置いて、チラチラと此方を盗み見ながらそのまま立ち去ろうとした。
その時、シャラシャラという軽やかな音と共に、女の後を追い掛けて来るパシャパシャという足音が近付いて来たのだ。
「…お母さん!これも捨ててって、お父さんが…」
ピンク色の傘を差し、大きなゴミ袋を下げて駆けて来た少女が、母親と黒澤を見詰めて立ち尽くした。
「…家に入ってなさい、妃奈!」
「……お母さん」
「早く!行きなさい!」
「お母さんっ!!」
手に持ったゴミ袋を投げ捨てると、少女は母親の言葉を無視して黒澤に駆け寄った。
「どうしたの!?ビチョビチョだよ!!怪我もしてるし…大丈夫!?」
黒澤の頬に暖かい手を当てて気遣う少女の真っ直ぐな瞳に、黒澤は心底ホッとしたのだ。
ゴシゴシと黒澤の顔を拭う小さな手に思わず縋り付くと、少女は慌てた様に母親に呼び掛けた。
「お母さん、早く!!早く、運ばなきゃ!!」
「妃奈!」
「こんな所に居たら、死んじゃうって…スッゴく冷たいんだよ!早く助けなきゃ!!立てる?」
少女は傘を畳むと黒澤の腕を引き、自ら肩に腕を回させて立ち上がらせ様とした。
「お母さん、早くそっちの腕持って!」
「妃奈…」
「困った人は、助けなきゃでしょ!?こんなにカッコイイ人なのに、捨てられてるんだよ!」
娘の言葉に、溜め息を吐きながらもクスクスと笑い出した母親は、黒澤の腕を持って頷いた。
そのまま2人に抱えられる様にアパートに向かう道すがら、黒澤は小声で母親に尋ねた。
「…いいんですか?」
「えぇ…言い出したら、聞かない娘で…」
「済みません」
「大丈夫ですよ…私は直ぐに仕事に出ますが、家には主人も居りますし…」
着いた粗末なアパートのドアを開けた途端、娘が中に向かって声を掛けた。
「お父さん!お父さん!!ゴミ捨て場で、『王子様』拾った!!」
「……何を拾ったって?又、猫の子でも拾ったのかい?」
中から出て来た痩せた父親は、大きな男を抱えた妻と娘を見て絶句したが、娘の弾ける様な声に思わず笑い出した。
「違うよ!!猫じゃなくて『王子様』だよっ!!早く!タオル持って来て!!」
母親は父親に笑顔を残し、黒澤に少し会釈すると玄関を出て行った。
「…申し訳ありません…」
「いいから、入りなさい。直ぐに風呂に入った方がいいね…妃奈、案内してあげなさい…着替えを用意するから、ゆっくりと温まるといい」
「…お邪魔します」
娘に手を引かれたまま脱衣場に案内され、風呂の使い方を一通り教わると、満面の笑みを浮かべた顔に見詰められる。
「やっぱりカッコイイ…『王子様』みたい!」
暗がりではわかりづらかったが、中東辺りの血が入っているのだろうか…褐色の肌に彫りの深い顔立ち、小さな顔に対して大き過ぎる瞳と、青白くさえ見える白目が印象的な少女だ。
面と向かって『王子様』と呼ばれる事に気恥ずかしさを感じながらも、黙って少女の頭を撫でると、彼女は嬉しそうに脱衣場を出て行った。
風呂に入って温まると、不思議に生きる気力も復讐心も取り戻した。
黒澤が自宅に戻った時、既に父は喉を裂かれ事切れていた。
家の中は強盗にでも入られた様な荒らされ様で、物音のする事務所に黒澤はそっと様子を見に行った。
見知らぬ男が3人…内2人は、事務所の中に赤いポリタンクに入った灯油を撒いていた。
そして、もう1人の足下に…妙な方向に手足を曲げた兄が転がされていたのだ。
「全く、強情だな…先生?アンタのせいで、余計な仕事が増えちまったじゃねぇか…」
「……煩い…とっとと殺せ…」
「何も難しい事じゃない…大人しく、手帳とメモリースティックを渡してくれたら、それでいいんだ」
「そんな物は、知らない!」
「わかってるんだよ、先生…アンタが告発文書を作って、検察に提出しようとしてるって情報は、俺達だって掴んでるんだ。それに、調べ上げた事全ては、アンタの手帳に書いてあるんだろう?」
「…知らないと言っている!」
「親子揃って頑固者だ…大人しくこちらの味方になってくれたら、こんな目に遭わずに済んだものを…」
「……畜生…覚えてろよ…」
「残念ながら、直ぐに忘れさせて貰う。アンタの命も、直ぐに父親の元に送ってやろう。おぃ、母屋にも灯油を撒いて火を放て!」
「…わかりました」
母屋から事務所に続く廊下に隠れていた黒澤は、ポリタンクを持った男の隙を付いて床に沈めた。
物音を聞き付けた仲間が廊下に突進するのを見た兄が、黒澤に向かって叫び声を上げる。
「逃げろっ!!鷲っ!!」
その声に、兄の側に居た男が表の仲間に応援を呼び掛けた。
黒澤は、追い掛けて来たもう1人を撃退し、兼ねてから言われていた物を取りに仏壇に走る。
仏壇の引出しの裏にテープで留めた小さな鍵を毟り取ると、黒澤はそのまま玄関に突進した。
追い掛けて来た男達の手を、どうやって掻い潜ったのか覚えていない…気が付けば、上着も携帯も財布も何もない状態で…鍵を握りしめ闇雲に逃げ回り、ズボンのポケットに入っていた小銭で、自分の携帯に電話して遠隔ロックを施した。
唯一覚えていた栞の携帯に電話して、直ぐに東京から離れる様に言うと、彼女から大阪で落ち合おうと道場の名前と住所を教えられた。
翌日…ニュースで自宅の火事を知った黒澤が、自宅近くに様子を見にに行った時、不審な男達に見付かり再び追われる羽目に陥ったのだ。
絶対に許さない…父と兄を殺害し、事務所と自宅を焼き払い、自分の命をも付け狙う犯人を暴き出し、きっと断罪してくれる!!
用意されたスウェットスーツに着替えて脱衣場を出ると、柔和な笑顔を浮かべた父親がストーブの近くに座る様に勧めてくれた。
「私達は夕食を摂った後でね、ろくな物がないんだが…娘が一生懸命作ったんだよ。食べて貰えると、妃奈も喜ぶんだが…」
「…ありがとうございます」
こちらを気遣う言葉に素直に頭を下げ、ハムエッグに野菜炒め、インスタントのカップスープと山盛りのご飯を平らげた。
「落ち着いたかい?」
出された薄い番茶を啜りながら頷くと、父親が笑いながら自己紹介を始めた。
「私は高橋道雄と言って、これでもパティシエでね…尤も今は体を壊して休職中なんだ。こっちは、娘の妃奈。先月11歳になった所なんだよ」
キラキラとした瞳で見詰める妃奈が大きく頷くのを見て、黒澤は鼻白んで食事の礼を言った。
「黒澤です…黒澤鷲…弁護士をしています」
「…弁護士さんですか…それは、又…」
「ねぇ!!何で、あんな所に捨てられてたの?」
ウズウズとしていた妃奈が、辛抱仕切れなくなった様に声を上げた。
「妃奈、失礼な事を言うもんじゃない。黒澤さんは、少し休憩されていただけだよ。それより、黒澤さんの洋服を持って、コインランドリーに行っておいで」
「えぇ~っ!?」
不満の声を上げた妃奈に、高橋道雄はニッコリと笑い掛けた。
「大丈夫だよ。黒澤さんは帰ったりしない。第一、洋服がないと帰れないだろう?」
「そっか…そうだね」
「お父さんの洋服じゃキツそうだし…妃奈は、黒澤さんのお世話をしたいんだろう?」
「わかった!行って来る!!」
「序にスーパーに行っておいで…朝のパンも切れそうだ」
妃奈は父親から金を受け取ると、待っててねと手を振り、黒澤の洋服を入れた買い物袋持って玄関を出た。
パタパタという足音と、シャラシャラという軽やかな音が遠ざかると、高橋道雄は居住まいを正して黒澤に向き合った。
「さて…お話を伺えますか、黒澤さん?誰かに、追われているんですよね?」
「えっ?」
「私には、貴方が犯罪者だとは思えない…だが、貴方の様な方がゴミ置き場に倒れ込んでいる等、余程の事でしょう?もしも、貴方が罪を犯しているなら…私は家族を守る為に、警察に通報しなくてはなりません」
「私は犯罪者ではありません!」
「……」
「信じて頂けないかもしれませんが、私は被害者なんです。詳しい事は話せませんが…先日、父と兄を殺されました」
「その犯人に、追われているんですか?」
「…多分…信じて頂けますか?ご迷惑なら、洋服が戻り次第直ぐにでも退散致します。風呂と食事迄頂き、本当にありがとうございました」
「いぇ…信じますよ。安心して、ゆっくりと休んでいらっしゃい。今夜は、泊まって行かれるといい」
「いゃ、しかし…」
「これもご縁でしょうし…それに、もし宜しければ…弁護士である貴方にお願いしたい事もあるんです」
「何でしょう?」
「それは、明日にでもゆっくりと話します。貴方もお疲れでしょう?と言っても、我が家はご覧の通りの貧乏所帯で…布団も2組しかありません。申し訳ないのですが、娘の布団で休んで頂けますか?」
「宜しいのですか?」
高橋道雄は、驚く黒澤を見て苦笑した。
「流石に妻と一緒の布団に寝かせる訳にもいきませんし、私と2人では狭過ぎるでしょう?妃奈は、結構寝相が悪いですが…宜しいですか?」
「そんな事…」
「娘は、喜ぶと思いますよ…先程から『王子様』が来たと、はしゃいでますから」
「…はぁ」
「少し夢見がちな娘で…こんな暮らしと、あの容姿のせいで、友達も余りおりません」
「あの…失礼を承知で伺いますが…高橋さんの実のお子さんではありませんよね?」
「えぇ…詳しい事は、明日にでも…」
そう言うと、高橋道雄は隣の小さな部屋に布団を一組敷いてくれた。
疲れ切っていた黒澤は、ありがたく厚意を受け取り泥の様に爆睡したが、夜半目を開けると、布団の隣に正座してマジマジと見入る瞳とぶつかった。
「…ぁ…起きた…」
「……悪い…占領したか?」
フルフルと頭を振りニッと笑うと、妃奈は嬉しそうに黒澤に躙り寄る。
「『眠れる家の王子様』だから、いいんだよ」
「なぁ…その『王子様』ってのは、ちょっと…」
「えぇ~、駄目?」
「そんな柄じゃないんだが…」
子供と接する機会なんて殆どなかった黒澤は、妃奈をどう扱っていいのか戸惑っていた。
容姿や職業に釣られて、黙っていても女は向こうから寄って来る…しかし本当は、女の扱いだって余り得意ではないのだ。
況してやヤクザと関係があると聞くと、大抵の女は黒澤の元を去って行く…もう、女に幻想を抱く事もなくなってしまった。
「だってカッコイイだもん!妃奈の『王子様』!!」
屈託のない笑顔を向けられ、黒澤は苦笑を漏らすと躰をずらして布団のスペースを開けた。
「ほら、布団に入るんだろ?」
「ぇ…いいの?」
「何で?お前の布団だろう?」
「…本当にいいの?…私、汚いし…」
「汚い?何が?」
モジモジと恥ずかしそうに足だけを布団に入れると、妃奈は申し訳なさそうに黒澤を窺った。
「冷たくない?ちゃんと、躰は洗ってるからね?」
「さっきから、何言ってるんだ?」
「あのね…妃奈が給食配ると…皆、食べてくれないんだよ。ちゃんと手も洗ってるんだけどさ……何か、汚いんだって。グループで勉強する時も、給食の時も…机くっ付けて貰えないの」
「…それって…虐めに合ってるって事か?」
「虐めじゃないよ!皆…誤解してるだけなんだって、先生も言ってた」
そう言うと、妃奈は自分の手を見詰めて呟いた。
「肌だって、皆と違って汚い色だしさ…顔も…くどい顔してるしね…」
子供は残酷な生き物だ…深く考えもせずに、相手の傷口に塩を塗り込む。
母親は日本人なのだからハーフの筈だが、それにしては色濃く父親の血を受け継いだ様だ。
褐色と言うには薄く、日焼けした色とも違う微妙な肌の色…。
「…こっちに、おいで」
自分の傍らを叩いて妃奈を呼ぶと、黒澤は身を寄せた妃奈を抱き込んで添い寝してやった。
「妃奈…ちゃん…だったよな?」
「…妃奈でいいよ」
「じゃあ、妃奈…いい事を教えてやろう」
「何?」
「大きくなったら、妃奈は凄い美人になる…きっと、学校の友達の誰よりも…皆がビックリする位の美人になるぞ」
「…ホントに?綺麗になる?」
「あぁ…俺が保証する」
「じゃあ、妃奈が大きくなったら、『王子様』デートしてくれる!?」
「俺と?」
「そうだよ!!妃奈の『王子様』だもん!!」
そう言うと、妃奈は無邪気に黒澤に抱き付いた。
この娘が居なければ…今頃自分は、どうなっていただろうか…。
「…わかった、約束しよう…大人になったら、必ず妃奈をデートに誘おう」
「絶対だよ!?」
「妃奈は、どこに行きたい?」
「フェアリーランド!!」
大人になってからのデートで、遊園地とは…やはり、まだまだ子供なのだと微笑ましく、黒澤は妃奈を抱き締めて額にキスをした。
「…約束しよう、『お姫様』」
「私が?『お姫様』!?」
「そうだ…Princes Amber…」
「アンバー?何?」
「琥珀という宝石があるんだ…妃奈の肌の様に、艶やかな…トロリとした濃い蜂蜜の様な宝石だ」
「…琥珀」
「そう…『王子様』の相手は『お姫様』だろう?…Princes Amber…俺の小さな『琥珀姫』…」
黒澤にギュッと抱き付き、胸に顔を埋めた妃奈の躰が、小刻みに震えて鼻を啜る。
果たされないかもしれない約束に、咽び泣くなんて…。
小さな躰を撫でてやりながら、黒澤はその額に再びキスをした。
やがて、小さな妃奈は黒澤の腕の中で規則正しい息を繰り返し…妃奈の髪から香る日向の匂いに、黒澤も又穏やかな眠りに落ちた。




