(18) 新宿中央公園
幼い頃から、繰り返し見る夢がある。
辛い事、苦しい事があると、決まってその人は夢に現れた…。
「お前が辛い目に遭ったら、直ぐに飛んで来る…Princess Amber…俺の小さな『琥珀姫』…直ぐにお前を助けに来るから…」
夢に現れる王子様は、いつもそう言ってアタシの額にキスをした…。
夢だと思っていた…幼い自分が作り出した妄想だと…。
「……あり得ない…一度も来てくれなかった癖に…」
そう呟いた妃奈に、運転席の小塚が反応した。
「…何か?」
「……別に…何でもない」
昨日、妃奈が家に帰ってしばらくすると、大きな虎の様な男が帰って来て、1日中妃奈にまとわり付いた。
腹が減ったと言って台所で妃奈の背中に絡み付き、食後にはリビングで伸し掛かり、喉を鳴らす勢いで妃奈を構った…あんな事初めてだ。
「昨日黒澤は、何か良い事でもあったのか?」
「これといって、特には…朝にトラブルがあったんですよね?」
バックミラー越しにチラリと視線を寄越す小塚に、妃奈はフィと車窓に視線を逸らした。
「帰って来た時は、デッカイ虎みたいになってた」
「…虎ですか?」
「猫科の大型猛獣だろ、あの男…一昨日は、大虎だったし」
「…成る程」
「小塚さんや田上さんは、犬科だな」
「そうですか?」
「小塚さんは、アレだよ…牧場で羊追い掛ける…」
「牧羊犬ですか?」
「そう…じゃなきゃ、警察犬」
「そんなイメージなんですか、私は…」
「違うの?」
「さぁ…どうなんでしょうか…」
主に忠実な犬…そんな生活に不満がないのは、主である黒澤という人間が好きだからだ。
特にここ最近の黒澤は、今迄の完璧さを覆す人間臭さがあって面白い…仕事に支障を来さぬ様に舵取りするのも、遣り甲斐を感じている。
「…猿もいいですね」
「猿になりたいの?…へぇ…じゃあ、梟とか?」
「いいですね、梟」
「…何となくわかった、小塚さんって人が…」
「そうですか?では、高橋さんは何でしょう?やはり猫科でしょうか?」
「アタシ?…アタシは…違うよ…」
「高橋さん?」
「……鼠……いや、ゴキブリかな…地面這い回って、残飯漁る…」
そういえば、ゴキブリって人間よりずっと生命力があるって、中学の先生が言ってた…人類が滅びてもゴキブリは生き残るって…。
嫌だな…生命力が強いなんて、今のアタシには何の意味もないのに…。
「…到着しました。このまま、お待ち下さい」
停車した車のドアを、後ろの車から降りた黒い背広の男が開ける。
妃奈は紙袋を下げて、男にピョコリと頭を下げると車を降りた。
「…何なんだよ…ゾロゾロと…」
「貴女を警護しているんですよ。所長から、お聞きになっていませんか?」
隣に付き従う小塚が、妃奈に答えた。
「…逃げない様に、見張ってるって事だろ?」
「まぁ、その心配もありますが…」
妃奈の外出を許すに当たって、黒澤は幾つもの条件を出して来た。
小塚や警備の者が同行する事、妃奈の誕生日のパーティーに出席する事、そして…必ず黒澤の元に戻って来る事…。
「にしたって、やり過ぎだって…何考えてんだよ、黒澤は…」
「貴女の幸せしか、考えていないと思います。所で、その紙袋は何ですか?」
「コレ?…約束の品って言えばいいのかな…」
小塚は妃奈の隣に付き添い、派遣部の2名が少し離れた位置を付いて来る。
残りの2名は、2台の車にそれぞれ待機していた。
妃奈は男達を従えて公園の中に進み、目指すブルーシートのテントの前にボンヤリと座る男を見付けると、立ち止まって小塚に囁いた。
「ここで、待っててよ」
「それは、出来かねます」
「大丈夫、逃げないって…黒澤から脅されたし」
「脅された?」
「アタシが逃げて戻らなかったら、アンタ達の首が飛ぶんだろ?」
「…わかりました。何かあったら、直ぐに呼んで下さい」
「何もないよ」
妃奈はそう言って、男達から離れてテントに向かった。
テントの前に座っていた男は、既にこちらに気付いており、驚いた表情で妃奈を迎えた。
「クロ…お前…」
「久し振り、ドク」
「何だってこんな所に…ってか、誰だアイツ等?」
「アタシの事、見張ってるんだ…黒澤の命令で」
「お前、ずっと黒澤の所に居たのか!?」
コクリと頷く妃奈に、男はテントの中から新しいビール籠を持って来て座る様に促した。
「コレ、持って来た」
「何だ?」
「ドクが、持って来いって言ったんじゃん」
妃奈が持って来た紙袋を男に渡すと、男は中を確認して苦笑した。
「ギプスに包帯、三角巾に…コルセットか…。案外、義理堅いんだな…お前は」
「案外は余計だろ。折角持って来てやったのに!」
「助かるよ…医療品は貴重だからな。で、あれからどうしてた?」
「だから、黒澤ん所で世話になってる…ってか、閉じ込められてる」
「何で?」
「保護者なんだってさ、アタシの」
「誰が?」
「だから、黒澤が!」
「ハァ!?」
素っ頓狂な声に、黒い背広の男達が反応し、男は首を竦めた。
「どういう事だ?」
「アタシの死んだ爺さんに、頼まれたって言ってた。何か、法律的に認められてるんだって」
「…成る程…でも、まぁ…その方がいいかもな」
「どういう事?」
「パンクの連中が、お前の行方を探してる…吉田理乃って女が死んだのは、知ってるか?」
「…うん。ニュースやワイドショーでやってた」
「噂じゃ、坂上の命令で誰かが手を下したって話だ」
「……」
「お前が病院を抜け出してから、坂上やお前の兄貴が、ずっとこの辺りを捜してた。お前、何かヤバイ事に足突っ込んでんのか?」
「…知らない…よくわかんない…」
不安気に瞳を伏せる妃奈に、男は柔らかな笑みを溢した。
「すっかり女の子らしくなっちまって…黒澤ん所で、いい暮らしさせて貰ってんのか?」
「…うん」
「そっか…まぁ、アイツの所なら安心だろ。坂上達も、手出し出来ねぇだろうからな」
「…兄ちゃんは、まだ坂上と連んでんのかな?」
「そうじゃねぇか?坂上が歌舞伎町に開いた店に、入り浸ってるみてぇだしな」
「ホストは?又辞めたの!?」
「さぁ…でも、お前の兄貴、ホストなんか向いてねぇだろ?」
「…まぁ…そうだけど…」
「誰かに引っ付いてないと駄目なタイプだからな。お前が、もっと強気に言ってやれば良かったんだが……お前は、兄貴に遠慮ばかりしてたからな…」
「……」
「まぁ、関わんな…本当の兄妹って訳じゃねぇし、兄貴と関わったら、又食い物にされるぞ?」
「……ぅん…そうだね……それでね、ドク…頼みあるんだ」
「何だ?」
「前にさ……くれるって言ってたヤツ、まだ持ってる?」
「何だったかな?」
「…不安だったら、調べてやるって……おしっこ掛けたら、直ぐにわかるからって…」
「お前っ!?……それって…」
「……」
「…中で話そう…表でする話じゃねぇわ」
ブルーシートを捲り、妃奈は男と共に中に入った。
男はゴソゴソとコンテナの中をひっくり返し、細長い箱を見付けると妃奈に渡して言った。
「相手、誰だかわかってんのか?まさか、黒澤なんじゃ…」
「違う!!黒澤は…あの男は、そんな事しない…」
「そっか…じゃあ、やっぱり…坂上達か?」
「……多分…事故の前にさ…ヤられたから…」
「って事は…7月の末だろ!?オイッ、もう10月半ばなんだぞ!?」
「…」
「ずっとないのか?」
「…ないよ…時々飛ぶ事もあるけど……こんなに長い事ないのは、初めてだし…」
「ちょっと、服脱げ」
「え?」
「試薬で調べる迄もねぇわ…多分、出来ちまってる」
男は妃奈の体温を計り、胸の張りや下腹部を調べて妃奈に尋ねた。
「気持ち悪くなったりしねぇか?飯を炊く匂いとか…匂いに敏感になったり、嗜好が変わったり…」
「…時々、気持ち悪くなる…」
「俺は産婦人科の専門医じゃねぇがな…微熱が続いてる様だし、まず間違いねぇわ」
「…」
「どうすんだ?産みてぇのか?」
「そんな訳ないじゃん‼アイツ等の…誰の子供かも、わかんないのに…」
「だよなぁ…なら、すぐ黒澤に話して、病院に連れて行って貰え」
「嫌だっ!!」
「クロ…時間がねぇんだ!もうすぐ4ヶ月に入っちまう…そしたら、病院でも堕せなくなっちまうんだぞ!?」
「…ドク…どうやったら、自分で堕せる?誰にも知られない様に…1人で何とか出来ないかな?」
「無茶言うな…お前、前の時も死に掛けたんだぞ!?」
「……好都合じゃん」
そう言って、妃奈はフラリと立ち上がった。
「時々さ…メチャメチャお腹痛くなる…気が遠くなって、このまま死んじゃえばいいのにって思うんだ。でもさ…あそこで死んだら、黒澤に迷惑掛けるじゃん…出て行きたいんだけど、許してくんないんだ」
「…クロ」
「今日もさ、アタシが逃げて帰らなかったら、あそこに居る奴等クビにするって脅すんだ、黒澤の奴……馬鹿だろ?アタシなんかの為に、大事な秘書迄クビにするって言うんだ…」
「悪い事言わねぇから…直ぐに病院に行け、いいな?」
「……」
テントから出ると、男は胡散臭気にこちらを窺う一団に声を掛けた。
「黒澤の秘書ってのは、どいつだ!?」
小塚がゆっくりと近付き、内ポケットから名刺を出すと、男に渡した。
「黒澤鷲の秘書をしております、小塚と申します」
「黒澤に言っとけ…近い内に、出向いて来いってな」
「失礼ですが、お名前は?」
「松岡だ、松岡渉。それでわからなければ、高校時代の天敵が呼んでると伝えろ」
「…承知致しました」
小塚は妃奈の背中に手を当てて、一緒に来る様に促した。
公園を出て車に乗り込んだ妃奈が、明らかに意気消沈しているのが気に掛かる。
「どうかしましたか、高橋さん?」
「…別に」
彼女が『別に』と答える時は、何か含みがあると考えた方が無難だが…先程の松岡という男が、彼女に危害を加えた様な感じではなかった。
「これから買い物に向かいますが、どこかご希望の店等ありますか?」
「…買い物?」
「秋冬物の洋服もない様ですし、失礼ながら下着等も必要かと…」
「…何で?」
「……来月には、誕生パーティーもあります。内輪のパーティーですが、キチンとした服も必要でしょう?」
「…いいよ、別に…どうせ似合わないし…」
妃奈の投げ遣りな言葉に、小塚は冷たく言葉を返す。
「貴女の為ではありません。貴女がキチンとした格好で出席しなければ、恥を掻くのは所長なんです」
「……そぅ…ならいぃよ…適当に選んで」
「私が、勝手に決めて宜しいのですか?」
「…うん……好きにして…」
全くやる気のない返事をする妃奈を、小塚は知り合いの美容室に連れて行った。
いつもの妃奈なら、怒って大暴れする筈だが…彼女はボンヤリと椅子に座り、美容師の成すが儘…全く心ここに非ずの状態なのだ。
美容師と小塚が相談し、白髪を活かす様に髪をカットした後、パープルのヘアーマニキュアをしてトリートメントをして貰う事に決め、小塚は待ち合い室で出来上がるのを待っていた。
「…あの、お客様」
もうじき出来上がるだろうかという頃になって、美容師が微妙な表情を浮かべ小塚の所にやって来た。
「出来上がりましたか?」
「もうじき出来上がりますが…」
「何か?」
「その…お連れ様が…泣いていらっしゃって…」
鏡の前に座り、白いケープを被った妃奈の瞳から、大きな涙がポロポロと零れ落ち、ケープを滑り落ちる。
「どうしました、高橋さん?気に入りませんでしたか?」
「……違う…ごめん…」
髪の色と髪型で、こんなにも印象が変わるものか…艶やかな銀髪のボブと、彼女の肌の色の対比が美しい。
「何かありましたか?貴女が泣くなんて、余程の事です。もしかして、先程の私の発言が原因ですか?」
「…違う…小塚さんは、何も…」
そう言うと、妃奈はしゃくり上げて泣き出した。
「落ち着いて下さい、高橋さん…ここを出たら、食事に行きましょう。何か好きな物…食べたい物はありますか?」
懸命に涙を拭い、泣き止もうとする妃奈の頬に手を当てて、小塚は彼女を覗き込んだ。
大きな瞳から溢れる涙を、そっと指先で拭ってやる。
「…綺麗ですよ。とても良く似合っていらっしゃいます」
「……小塚さんでも…お世辞言うんだ」
妃奈は、ほんの少し目を細めると、グシグシと乱暴に目を擦った。
「たこ焼き…食べたい」
「承知致しました。美味しい店に、お連れしましょう」
美容師からティッシュを受け取りながら、妃奈はコクリと頷いた。




