(17) 磯村
「又、お帰りにならなかったんですか?」
土曜日の午前中だというのにキッチリとスーツを着込んだ小塚が、所長室のソファーで伸びている黒澤に声を掛けた。
「…昨夜は、帰った」
「にしては、ヨレてますね?」
「…色々あってな…」
「昨夜は、磯村先生と飲みにいらしたんですよね?遅く迄飲まれたんですか?」
「…」
「本来、今日は休みなのですから…ご自宅でお休みになられては如何ですか?」
「……家には、妃奈が居るからな」
妃奈と言い争いをした翌日から、黒澤は自宅に戻っていなかった。
この世からも、自分の躰からも自由になりたいと望む妃奈を、どう説得したものかと途方に暮れ、顔を合わす事が出来ずにいたのだ。
昨夜、そんな黒澤を気遣った磯村から飲みに誘われた。
何とかしなければという焦りと日々の激務に、珍しく酒を過ごしてしまったのだが…。
自分のベッドで起きた時、部屋中と自分の躰から甘く香る香水に、黒澤は血の気が引いた…連れ込んだというのか…あり得ない!!
確かに、磯村弘美とは大学時代の一時期交際していた。
だが、疾うに終った関係であり、それを引き摺らない磯村の強気な性格と、暴力団相手の弁護士を引き受けると言ってくれたきっぷの良さに、事務所立ち上げの時に仕事仲間に引き入れたのだ。
今更、縒りを戻す等考えられない…況してや、妃奈が居るのをわかっていて自宅に連れ込む等…。
部屋に充満した『Coco』の香りを追い出す為に、窓を全開にして部屋のドアも開けた。
素肌にナイトガウンを羽織り、着替えを持って部屋の前で立ち止まる……廊下に妃奈の姿はない…。
階下の音に階段を下りキッチンを覗いた黒澤は、そこに居た人物を見て眉を寄せた。
「おはよう、やっと起きたのね?」
「…何故、お前がここに居る…磯村?」
「何言ってるんだか…珈琲でも飲む、鷲?」
「名前で呼ぶなと言った筈だ!答えろ!!」
「相変わらずだわね、その拘り…あの娘には、呼ばせてるの?」
「……妃奈は、どこだ?」
「知らないわよ」
「何だと!?」
苛々と言葉を返す黒澤に、磯村が腰に手を当てて振り向いた。
「先にシャワー浴びて来れば!?その頭、よく冷してらっしゃいよ!」
ムッとしてバスルームに籠り、忠告に反して熱いシャワーを浴びた…早くこの香りから離れて、妃奈を捜さなければ…。
「二日酔いも寝惚けた頭も、シャッキリ醒めた?」
珈琲カップを差し出しながら、磯村が冷ややかに尋ねる。
「…昨夜は、世話になった」
「久し振りに見たわ…黒澤のグダグダな姿」
「…」
「ねぇ、黒澤…貴方にとって、あの娘って何なの?」
「言った筈だ…妃奈の父親と知人だったと」
「そんな事聞いてるんじゃないわ。あの娘の事…どう思ってるの?」
「どうって…」
「もっと直截な言い方しましょうか?あの娘と寝たの?」
「なっ!?」
「どうなのよ?」
珈琲カップ超しに上目遣いで磯村に睨まれ、黒澤は思わず自分のカップを取った。
「…そんな事、する筈ないだろう!」
「それは、彼女を娘として見てるから?それとも、彼女が未成年だから?」
「どちらもだ!一体、何が言いたい!?」
口に含んだ珈琲が、やけに苦い…。
「貴方がおかしいからよ、黒澤。皆、心配してるわ」
「……」
「彼女の事情は理解してるわ…それにしても、2ヶ月近く閉じ込めてるのよ!?やり過ぎだって自覚、あるんでしょう!?」
「……」
「…監禁罪…2年以上7年以下の懲役よ」
「…理由があっての事だ」
「どんな?」
「妃奈を…守る為だ」
黒澤の言葉に、磯村は眉を寄せた。
「何があるの…って聞いた所で、答える気なんてないんでしょうけど…。あの娘に、許しを乞う理由も言えないの?」
「……」
「…そぅ、まぁいいわ。兎に角、黒澤…あの娘の事、もう手放しなさい」
「駄目だ!」
「…あの娘の親戚って人物が、私に連絡を取って来たわ。貴方に連絡しても、取り合わなかったそうね?事情を話したら、是非引き取りたいって言ってる。それに最近事務所の周辺で、あの娘の事を嗅ぎ回ってる奴が居るわ。事務所からトラブルを廃除するのも、貴方の仕事な筈よ?」
「妃奈を守る為に保護している…何故わからない!?」
「彼女が望んでないのに!?」
磯村の言葉に、黒澤は言葉を呑んだ…そうだ、妃奈は望んでいない…これは、自分のエゴだとでも言いたいのか?
「おかしいわよ、黒澤…今の貴方を見てると、若い娘に翻弄されてるオヤジにしか見えない」
「…」
「昨夜の事…覚えてないの?」
「何を?」
「ベッドで…」
「何もなかった筈だ…お前との事は、疾うに終った事だろう?酩酊していても、それ位の分別はつく」
「…あの娘と…間違えられたのよ、私…」
「何?」
磯村は珈琲ポットから新しい珈琲を注ぎ、溜め息を吐きながら恨めしそうに黒澤を睨んだ。
「甘ったるい言葉を吐きながら、ベッドで私を抱き締めて…額に何度もキスをして、ずっとあやしてた……あんな事、付き合ってる時にも、して貰った事ないわよ!?」
「…妃奈は子供だ」
「馬鹿じゃないの!?アレは、子供に対する愛情表現なんかじゃないわよ!!」
「そんな事はない…俺は…」
そうだ…妃奈は子供で、俺と幾つ年が離れていると思っているんだ!?
「兎に角、離れた方がいいわよ!あの娘の為にもね!」
フンと鼻を鳴らす磯村に、黒澤は三度尋ねた。
「妃奈は…どこに行った?」
「知らないって言ってるでしょう!?昨夜出て行ったきり、会ってないわ!!」
そう言うと、磯村はバックを掴み、足音を高くして出て行った。
警備部に電話をすると、妃奈は夜中に門の所で一悶着起こしたらしい。
とすると、一晩中庭に居たという事か…。
慌てて表に出て、庭の隅々迄彼女を探した。
木の影や土蔵の裏、自宅の勝手口から続く裏庭…表のガレージの中にも妃奈の姿はない。
「見掛けなかったか?」
「明け方には、事務所の裏口付近にいらっしゃいましたが…」
警備員の話に、黒澤は直ぐ様事務所の裏に回った。
事務所建物と外壁である煉瓦壁の間の細い通路の奥…厨房裏のゴミバケツに挟まれる様にしゃがみ込む妃奈を見付けた。
「……妃奈」
声に反応し、ゆるゆると無表情で見上げた妃奈に、黒澤は手を差し伸べる。
「隠れるのが得意なんだな…やっと見付けた」
「……」
「帰ろう、妃奈」
再びゆるゆると首を振る妃奈の腕を掴むと、半ば強引に立ち上がらせ、黒澤は妃奈を連れて通路を出た。
「…昨夜は、済まなかった。…その…磯村に、何か言われたか?」
「……別に」
Tシャツに暗い迷彩柄の薄いストールを羽織った妃奈の手は氷の様に冷たく、全身がしっとりと濡れていた。
「家に入って暖まろう…夜露に濡れて冷え切っている」
手を取ろうとすると、妃奈はスルリと逃げて頭を振った。
「大丈夫だ…磯村は、もう帰った」
「…そういう事じゃない…」
「妃奈が気にする様な事は何もない…磯村とは、何でもないんだ」
「……」
「…確かに昔は付き合っていたが、今は仕事仲間だ。昨夜も何もなかったと、磯村自身が言って…」
「…別に…黒澤が言い訳しなくていい。あそこは黒澤の家だ。アンタが何をしようが、誰を連れ込もうが、アンタの自由だし…アタシが、とやかく言える立場じゃない」
「言っていいんだ、妃奈!嫌なら嫌だと…」
「……別に」
少し拗ねた様な…それでいて、全てを諦めた様な暗い瞳で外方を向く妃奈の頭に手を置いた。
嫌だと…誰も連れ込むなと怒ってくれればいいのに……頭に置いた手を背中に回して、妃奈の躰を抱き寄せる。
「…止めろよ…服が濡れちまうだろ?」
「構わない…」
いつもそうだ…妃奈を見ていると、胸が痛くなる程の抱き締めたい衝動に駆られる。
妃奈の態度がそうさせるのか…。
それとも、何もかも諦め呑み込んでしまう様に育ってしまった事が不憫なのか…。
「…以前と逆だな」
「何が?」
「昔は、俺がゴミ捨て場に転がっていて…お前に助けられた」
「……」
「妃奈は、俺の事を『王子様』だと言った…ゴミに埋もれて、ずぶ濡れになっていた俺の事を…」
「…覚えてない」
「……Princess Amber…」
「…ぇ?」
「俺が名付けたんだ…お前が俺の事を『王子様』と呼ぶから……俺が名付けた……俺の…小さな『琥珀姫』…」
突如腕の中の妃奈の躰が緊張の為に強張るのを感じ、黒澤は彼女の顔を覗き込んだ。
「…思い出さないか?」
「……知らないっ!!何言ってんだ!?」
「妃奈?」
頬を火照らせ涙を溜めて動揺した妃奈は、黒澤を突き飛ばすと家に向かって走り出した。
「妃奈!!」
「付いて来んなっ!お前なんか、大嫌いだっ!!」
まるで子供の様に感情を剥き出しにして叫ぶと、妃奈は家のドアをバタンと閉めた。
「それで、事務所でふて寝ですか?」
呆れた様に小塚が声を掛けたが、黒澤は窓から見える自宅を眺めてボソリと吐いた。
「……記憶が…あったんだろうか?」
「どうでしょう?直接、尋ねられては如何ですか?」
「知らないと言っていたが…動揺して取り乱していた」
「まぁ…恥ずかしがっていたのかもしれませんね」
そうかもしれない…期待は持てない…妃奈は、以前の記憶を全て失っているのだから…。
ドアをノックする音に小塚が答えると、田上が顔を出して微笑んだ。
「兄さん、調査結果持って来ましたで!」
ヒラヒラと封筒を振って、田上はソファーに座った。
「吉田理乃の事件に動きはない様だな?」
渡された書類にざっと目を通した黒澤は、田上に向き直った。
「そうですねん…犯人の行方も、目撃情報も皆無ですわ。吉田理乃の足取りなんやけど、沖縄から帰った後しばらくは、自宅やのぉて『新宿パンク』のリーダーの坂上って奴の所で、他の奴等と一緒に生活しとったみたいですわ」
「警察に身柄を拘束される迄は、そこで生活していたんだな?」
「そうみたいでんな…釈放されてからは、自宅のアパートに帰ってますねんけどな…」
「何かあったか?」
「何か、人が変わったみたいになってたって、バイト先の同僚が言うてたんですわ。ドギツイ化粧もせんようになって、バイト先も辞める予定で、栃木の実家に帰ろうかて、悩んでたみたいなんですわ」
「理由は?」
「ハッキリは言うてなかったみたいですけど、何か怯えてたっちゅう感じやったって…」
「脅されていたと見るべきでしょうか?」
「あり得るな…。事件当時の他の奴等のアリバイは?」
「それが…完璧なんですわ。吉田理乃が殺害された時には、丁度開店パーティーしてたみたいで…」
「開店?何の店だ?」
「リーダーの坂上恭が、仲間と一緒に会員制のクラブを開店したんやそうで…まぁ、パーティーやから、会員ばかりやなかったみたいですけどな」
「会員制クラブって…最初から、会員等集まる物なんでしょうか?」
小塚の疑問に、田上は手を広げて首を振った。
「何か、元々坂上が仕切ってた『新宿パンク』で、パーティーチケット売ったりしてたみたいで…噂じゃ脱法ハーブやドラッグのパーティーも企画してたみたいですわ」
「自分達の店を持って、パーティー会場も手に入れたという事か…店は…歌舞伎町!?資金は?どこから出ている!?」
「坂上って奴は、結構いい暮らししてますけど、母子家庭なんですわ。今の所、資金の流れ迄は、ちょっと…」
「以前、妃奈が奴等には偉いさんとヤクザが絡んでいると言っていた……警察に介入して来た奴は?」
「まだ確認中なんで、報告書には上げてないんですけど…結構な大物が浮上してますねん」
「誰だ?」
「毛利剛って人物なんですけどな…兄さん、ご存知でっか?財団法人 新宿都市計画の相談役で、元新宿署の組織対策課 課長なんて、ご大層な経歴の持ち主で…今現在も、都議会議員なんか務めてる男なんですわ」
「……そうか…奴が絡んでるのか…」
ギリッと音がして、黒澤の口がニィッと引き上がり、大きな犬歯が剥き出しになるのを見て、小塚と田上は息を呑んだ。
「田上、引き続き毛利を徹底的に洗え!必ずどこかの暴力団とも手を結んでいる筈だ」
「わかりました!」
「小塚、明日の予定は?」
「午後から、森田組長との会合があります」
「…わかった。お前は明日、妃奈の外出に付き添ってやってくれ」
「宜しいのですか?近頃、付近に不審な輩が…」
「その為に付き添いを頼んでいる。多分、西堀か…『新宿パンク』の連中だろうからな」
「…承知致しました」
「宜しく頼む。派遣部の連中を使って構わない…必ず、連れ帰ってくれ」
そう言うと、黒澤は自宅に戻った。




