(13) 相談
9月に入り、うだる様な暑さから解放されても、妃奈の態度は一向に軟化される事がない。
所長室から見える自宅をぼんやりと眺めながら、黒澤は小塚の報告を聞いていた。
自分が後見人になり、遺産が入る事を話してやれば、彼女はここでの生活を喜んで満喫するだろうと考えていた黒澤の目論見は、尽く打ち砕かれていた。
妃奈は、ここで生活する事をどう思っているのだろう?
ギプスも取れ、最近は家の中の掃除や、栞が買って来た食材で食事の準備もする様になった。
だが…黒澤と殆ど話をする事もなく、目も合わせ様としない。
用意された朝食も夕食も…いつも、黒澤の分だけがテーブルに用意されている。
「お前の分は?」
「…」
「…ちゃんと質問に答えなさい、妃奈」
「……もう、食った」
「『食った』じゃない、『食べた』だ」
「……食べた」
「ちゃんと食べてるのか?」
「…食っ……食べてる…食べて…ます」
社会復帰の為に、言葉遣いを直してやるのも保護者の責任だ。
不機嫌そうに前髪で顔を隠す妃奈に近付き頭に手を翳した途端、妃奈は首を竦めて目を閉じると、躰を強張らせて防御の姿勢をとった。
「…安心しなさい…殴らないから」
「…」
「この前髪も…切るか、留めた方がいい。これじゃ、見辛いだろう?」
前髪を分けて耳に掛けてやると、怯えた大きな瞳と視線が合った途端に伏せられた。
薄い瞼の下の、びっしりと生えた長い睫毛が微かに震える。
相変わらず頬は痩け顔色も悪く、目の周囲はクマで真っ黒だ。
「…明日から、一緒に食事をしないか?」
「…」
「一緒に暮らしているのに、別々に食事するなんて…寂しいだろう?」
「……別に…普通だ」
そう言うと、妃奈は身を翻して2階へと逃げて行く。
「……所長?」
「桐山商店の件だろう?証人が見付かって、相手方と示談交渉に持ち込むんだな?」
「…聞いてらしたんですね?」
「一応な」
小塚は持っていたファイルを閉じると、表情を変えずに黒澤を見つめた。
「最近、気が漫ろなのは…やはり、高橋さんとの同居生活が上手く行っていないからでしょうか?」
「…子育てというのは、存外難しいものだな」
「子育て…ですか?」
「反抗期の娘を持った気分だ」
溜め息を吐く黒澤に、小塚は窓越しに見える黒澤の自宅を眺めながら言った。
「何にしても、対策を講じた方がいいと思います」
「対策?」
「このままでは、仕事に支障が来されます」
「……何か、いい案でもあるか?」
「根津さんに、同居をお願いしてみては如何でしょうか?」
黒澤は苦い顔をして、再び溜め息を吐く。
「俺もそう思って、頼んだんだが…」
「断られたんですか?」
「まぁ、あの人なりの考えがあっての事だろうがな…」
「…それでは、磯村先生や田上さんに相談してみては如何でしょう?」
「あの2人に?」
「田上さんは、楽しい事がお好きですし。磯村先生は、何と言っても女性ですから…少しでも、高橋さんの気持ちがわかるかと…」
「…そうだな…呼んでくれるか?」
そう小塚に頼み、所長室に呼ばれた2人を見て、黒澤は何となく不安になった。
「妃奈ちゃんの事で、何か相談事ですて?兄さん!?」
瞳を煌めかせて食い付く田上と、仏頂面の磯村が対照的だ。
この2人と小塚は、先日妃奈と面会させた…というより、自宅に押し掛けた田上と磯村を止める為に、小塚が追って来たのだ。
突然の訪問者に驚いた妃奈は2階のトイレに立て籠ったが、1時間の懸命な説得の後、どうにか皆に挨拶をするに至った。
警備部から、所長の自宅に妃奈が生活していると聞いて、事務所内では噂ではち切れそうになっていたと田上が目を輝かして妃奈に話し掛けたが、彼女は床に正座をしたまま膝の上で手を握り締め、始終俯いたままだった。
「シャイでしたもんなぁ、妃奈ちゃん!普段も、あないな感じなんです?」
「最初は、噛み付いて来るかと思う程反抗的だったんだがな…最近は、ずっとあんな感じだ」
「頑固なのよ、単に…甘やかさないで、放っといた方がいいんじゃない?」
磯村がそう言って灰皿を寄せ煙草に火を点けると、田上がニヤニヤと笑ってからかい出す。
「冷たいなぁ、ネェさん…妬いてるんでっか?」
「士郎!?何言ってんのよ、アンタ!!」
「そやかて、気に入りまへんのやろ?女の噂の切れた事ない兄さんやけど、自宅に女性が同居するなんて、初めてやもんなぁ?元カノとしては、複雑な心境なんちゃいますぅ?」
「何を言ってる…それに妃奈は、まだ子供だ」
「兄さんこそ、何言うてますのん!?17歳なんやろ?然も、エキゾチックなハーフなんやで!?」
「…唯のガリガリのガキじゃない」
「ネェさん…ハーフなんでっせ!?妃奈ちゃん、今はスレンダーやけど、いずれはボンキュッボ~ン…」
小塚が咳払いをして、話を修正する。
「高橋さんが、ここでの生活に馴染む為の案を出して頂く為に、お2人に来て頂いたのですが?」
「馴染むって…怪我が治る迄の居候でしょ?」
「アレ?ネェさん、聞いてまへんの?妃奈ちゃん、兄さんが引き取って、ずっと面倒見はるって…」
「嘘ッ!?マジ!?」
磯村が、キツい視線で黒澤を睨んだ。
遺産の事は、妃奈と栞に固く口止めをしてある。
緊急対策の為に、小塚にだけは事情を話してあるが、それ以外の人間には妃奈の安全の為に話を伏せてあるのだ。
「何考えてんのよ、黒澤!?」
「言っただろう?妃奈は、知人の娘だ」
「だからって、引き取るなんて…根津さんは!?承知してるの!?」
「勿論だ…既に、妃奈の保護者になる手続きは済ませてある」
「馬鹿じゃないの!?アンタ、結婚すっ飛ばして父親になるって言うのっ!?」
「何か、問題があるか?」
「どうすんのよ!見合い話だって、山程来てんのよ!?」
「どうせ、断る積りだったからな…丁度いいだろう」
「あの…話を戻しても宜しいでしょうか?」
再び小塚が声を掛けると、磯村は渋々口を閉ざした。
「やっぱし、パーティーですって!」
「パーティー…歓迎パーティーですか?」
「そう、そう…皆に一気に紹介する、えぇ機会やし…堅苦しくない立食パーティーにしたらどうですやろ?」
「又、逃げ出すんじゃないの?」
「確かに…かなり人見知りが激しい様でしたからね」
「この間は、予告なしの急な訪問でしたやろ?今回は、ちゃんと話した上で、納得して出席してもろたらえぇんちゃいます?どうです、兄さん?」
「そうだな…ここで暮らす以上、皆には紹介して置かないといけないが…」
「ほな、決まりでんな兄さん!!日程は小塚はんに決めてもろて…準備は、任しとくなはれ!な、ネェさん?」
「何で、私もなのよ!?」
「構いまへんやろ?」
そう、わぁわぁ言いながら磯村と田上は所長室を後にした。
「どうしても、嫌ですか?」
昨夜黒澤から、今度事務所で妃奈の歓迎パーティーを開くと言われ、妃奈は『冗談じゃない!』と叫んで納戸に立て籠った。
先日立て籠ったトイレのドアは、黒澤が力任せに壊してしまったからだ。
案の定、黒澤は納戸の鍵も壊してしまい、ここは危ないからという理由で連れ出された。
翌日、朝から訪ねて来た栞は、ずっと妃奈を説得しようと話し掛けて来る。
「何が嫌なのかしら?教えて貰えない?」
「……もう、会ったし」
「この間、訪ねて来た人達の事ね?」
矢鱈と馴れ馴れしく話し掛けて来る、関西弁の煩い男と、馬鹿丁寧な寡黙な男…そして、値踏みする様にジロジロと無遠慮な視線を送る、高飛車な女。
黒澤の仕事仲間という事だから、立て籠ったトイレから出た後は黙って耐えた…それで、充分じゃねぇか!
「所長は、事務所の他の人達にも、妃奈さんを紹介したいのよ」
「…あの男は…アタシを曝し者にしたいのか!?」
妃奈の言葉に、栞は驚いた様に声を上げた。
「それは、違いますよ!」
「…」
「それは誤解です。所長は、そんな事…思っていませんよ?」
「…」
「妃奈さんに、少しでも快適に過ごして貰いたいから…皆と仲良くなって欲しいから…」
「…要らぬお世話だ」
「…」
「誰とも、馴れ合う積もりなんてねぇよ!!」
「…所長とも…ですか?」
「……黒澤は…あの男には、脅されてるだけだ!遺産なんて要らないって言ってるのに、無理やり押し付けやがって!!」
「確かに…あの時は激して、脅しましたけどね……でも、お優しい方ですよ?」
「そんな事!?」
「妃奈さんが雨の中で倒れているのを発見して、風呂に入れて水分を与え続けて、怯えて熟睡出来ない貴女をずっとあやして…丸2日間、付きっ切りで看病したのは、所長ですよ?」
「…」
「私が帰ってからも、優しくして貰ってるでしょう?」
「…あの男は…怖い」
「何故?」
「デカイし、力も強いし…すぐ怒る!気が付くと、アタシの事じっと睨んでるし…時々、頭とか髪とか…頬っぺたとか、触って来る」
「あらあら…」
「それに、アタシの事見て溜め息ばかり吐く……疎ましいなら、早く追い出せってんだよ!」
「違いますよ、妃奈さん」
「違わない!大人は、いっつもそうだ…優しい振りして近付いて、気を許したら美味しい所だけ持って行って、邪魔になると溜め息吐いて追っ払う!!」
ダンダンとテーブルを叩く妃奈の手を、栞は優しく握り込んだ。
「ずっと…ずっと以前から、貴女の事を捜していたんです」
「…」
「お忙しい方なのに、1人でずっとコツコツ調べて…貴女のお祖父様を捜し出して……貴女の事を話して、何年も掛けて説得されて、必ず探し出すと約束して遺言を書いて頂いたんですよ?」
「……金の為だろ?」
「いいえ…恐らく、この件に関しては、無償で動いていらっしゃいますね」
「…何で?」
「わかりません…栞にも、何も話しては下さらない。唯、捜し出して幸せにしてやりたい女の子が居るのだと…果たせなかった約束を、叶えてやりたいのだと…以前、仰ってました」
「……」
「多分、妃奈さんの事だと思いますよ?」
「……知らねぇ…アタシの頭の中には、6年前からの記憶しかねぇし…それより前の事は…何も覚えてねぇよ!!」
「……6年前?」
「親が死んだんだってよ!顔だって、どんな生活してたのかも…何も覚えてねぇ…この髪と同じ、真っ白さ」
「大変だったのね…」
「何が?知らない奴等の事なんて、何とも思わねぇし。でもさ、笑っちまうのがさ…アタシの親って、2人共日本人でやんの!って事は、アバズレだった母親が…どっかの外国人と乳繰り合って出来た子供が、アタシって事じゃん?親が死のうが死ぬまいが、記憶があろうがあるまいが…結局アタシは、はみ出し者で…要らない子供だったって事だよ!」
「妃奈さん!?」
「言ってやんなよ…アンタの大切な所長さんにさ……アタシは別に、幸せなんて興味ねぇし、約束なんかも覚えてねぇし…誰かに頼って金貰おうとか、誰かと仲良くしようとか…何も考えちゃいねぇから。疎ましい程手に余るなら、とっとと解放してくれってね!」
「…所長が溜め息を吐かれるのは、疎ましいからじゃありませんよ」
「じゃあ、何だってのさ?」
「…妃奈さんに、どう接していいか…わからないからですよ、きっと」
「同じ事だろ?」
「全然違いますよ。優しくして上げたいのに、こうもけんもほろろじゃあねぇ…」
「……そんな事…ねぇし」
「そう?」
「…ちゃんと、毎日食い物も口に出来るし…建物の中で寝れるし……風呂や洋服も…感謝はしてる…一応は」
「それは、ちゃんと所長に伝えた方がいいわね」
「……わかった」
素直に頷く妃奈に優しい眼差しを送り、栞は以前から気になっていた事を尋ねた。
「そろそろ、お母さんの部屋で生活してはどうかしら?」
「嫌だ」
「どうして?」
「……あの部屋は、嫌いだ…思い入れが強過ぎて、息が詰まる」
「部屋を片付けて、模様替えしましょうか?」
「要らない…ってか、アンタが使いなよ」
「私が?何故?」
「この間、泊まってたろ?アンタが使った方がいいよ…アンタが来ると、あの男も喜ぶし…」
この少女は、基本とても素直で優しいのだ…他人を観察し、思い遣る心も持っているのに…何故、こんなにも捻くれてしまったんだろう?
「でも、いつまでも廊下で座ったまま寝るなんて…躰に良くないわよ?夜だけでも、ベッドで休んだら?」
「……ベッドは…嫌い…」
「どうして?」
「アンタ、どうしてばっかだな、オバちゃん」
「だってね…折角知り合ったんだから、妃奈さんの事を色々知りたいでしょう?」
「…そんなに、知りたい?」
「えぇ、是非知りたいわねぇ」
「なら…教えてやるよ……アタシにとってベッドって場所はさぁ、男に無理矢理躰を奪われる場所な訳!何度も何度も、入れ替わり立ち替わり…男達がアタシに乗っかって犯される場所なんだ!!」
「……」
「アンタだったら、そんな場所でゆっくり寝られるってのか?公園の植え込みの中で、息殺して寝る方が安心って思わねぇ?」
「……妃奈さん」
「どうせ、あの男が聞きたかった事だろ?教えてやれよ……アンタが引き取った娘は、色んな男に犯されて…3回も中絶や流産繰り返してる、ヤリマンだってな!?」
そう叫ぶと、妃奈はダイニングの椅子を蹴って立ち上がり、2階への階段を駆け上がった。




