(12) 未成年後見人
熱で朦朧とする妃奈を着替えさせ、水分を与え…薬を飲ませようとしたが、頑なに歯を食い縛るので、仕方なくスポーツドリンクで緩いゼリーを栞に作って貰い、その中に混ぜ込んで口に流し入れてやった。
まるで、野生動物を餌付けしている気分だ…。
怯えて震え、緊張しながら眠る妃奈の頭を撫でてやると、少し力を抜いて溜め息を漏らす。
それならばと腕枕で添い寝し、一晩中呼び掛けながら頭を撫で抱き込んでやった…子供の頃、発熱して不安がる黒澤を、栞が優しく抱いて寝かし付けてくれたのを思い出したからだ。
妃奈は最初こそ憤ったが、やがて穏やかな寝息を立てて寝る様になった。
ところが…意識を取り戻した途端、顔を強張らせて逃げ出したのだ。
全く…まだ体調も、熱も治ってはいないのに…本当に、野生動物の様な奴だ!
玄関を出た所で捕まえると、訳のわからないことを叫びながら黒澤の胸を叩き、怒りを顕わにして再び意識を飛ばした。
「一体、どうしましたか!?」
「わからん…急に逃げ出した」
「熱で混乱したんでしょうかねぇ?可哀想に…」
栞は妃奈の泥だらけの足を雑巾で拭くと、作っておいたゼリーを口に運んでやりながら言った。
「そろそろ、ゼリーだけじゃ体力的に無理があると思いますよ?」
「無理矢理起こして、食べさせた方がいいか?」
だが意識を取り戻した妃奈は、食事どころかゼリーも水分も、ベッドで寝る事さえも拒否する様になってしまったのだ。
「いい加減にしろよ、妃奈!!」
「…」
「ほら、ベッドに…」
部屋の隅で座り込み膝を抱える妃奈に手を差し伸べると、思い切り撥ね除けられる。
「妃奈!?」
「…気安く呼んでんじゃねぇよ…」
「…」
「…返せ」
「ぇ?」
「アタシのネックレス…盗んだの、お前だろう!?」
「……」
「返せっ!!このコソ泥の、悪徳弁護士野郎っ!!」
黒澤は、寝室に続く書斎のデスクから妃奈の鍵を取り出すと、怒りに燃える彼女の前に翳した。
それをもぎ取る様にして奪うと、妃奈は再びキツい視線で黒澤を睨む。
「アタシの服!!」
「…服を、どうする積もりだ?」
「着替えるに決まってんだろ!!」
「だから…着替えて、どうする積もりかと聞いている」
「出て行くに決まってんだろ!?」
「駄目だっ!!」
黒澤の激しい恫喝に、妃奈はビクリと身を竦ませた。
「……何で」
「…理由は後で話す…先ずは、水分と食事をちゃんと摂るんだ!」
「…要らない」
「何故!?」
「アンタにとっても、丁度いいじゃん…弁護士先生」
「…何だと?」
「これ以上構うんじゃねぇよ…そこで、アタシがくたばるの見届けろよ」
「何を訳のわからん事を…これ以上、手間を掛けさせるんじゃない!」
「……わかんねぇのはアンタだよ」
「何っ!?」
「『手間』なんだろ、アタシの事……なら、何で引き止める?」
しまったと思ったが、口から吐き出した言葉は飲み込めない…言葉を操る弁護士が、何という失態だ!
「言葉の綾だ…それより、ちゃんとベッドで休め」
「嫌だって言ってんだろっ!!」
「妃奈!!」
「ベッドなんかで休める訳ねぇだろ!!気持ち悪ぃ!!」
「ぇ?」
「…ここの方が…ずっと……マシ…」
そう言って、ズリズリと壁沿いに倒れ込む妃奈を見て、黒澤は慌て携帯を手にした。
「待ってろ!!今、病院に…」
「…だからさぁ…要らぬ世話…焼くんじゃねぇよ…」
「…妃奈」
「…薬も注射も…御免だからな……ついでに……何入れられてるか…わかんねぇ食事も…食いたくなんか…ねぇ…」
床に頬を着けたままスゥっと寝入る妃奈に、黒澤は仕方なく棚から毛布を出し、ベッドの横に寝床を作って寝かせてやった。
「どうですか、様子は?」
「どうもこうも…訳がわからん!」
「坊っちゃん?」
「水分も食事も必要ない、ベッドで寝るのも嫌だ、病院も薬も御免だと…挙げ句の果てが、構うな、くたばるのを見届けろと抜かす!何なんだ、全く!?」
「…」
「あれは本当に野生動物だ…他人を全く信用してない…」
「……でも、引き取ると…決められたんですよね?」
「あぁ…あの娘には、ここで生活して貰う!」
「なら、何とか元気になって頂かないと…」
そう言って、栞はキッチンに立った。
ノックの音がして、重い瞼を開けた…さっきあんなに言ったのに、あの男は何故放って置いてくれないのか…。
だが部屋に入って来たのは、年配の小柄な女だった。
「大丈夫?起きれるかしら?」
柔和な笑顔を向ける女だが…手に持った盆から漂う食べ物の匂いに反応する我が身が恨めしくて、妃奈は眉を寄せて彼女を睨んだ。
「…アンタ…誰?あの男の母親?」
蓮っ葉な言葉に眉を上げるも、栞は態度を崩さずに答えた。
「私の名前は根津栞といって、彼の下で働いているんですよ。高橋妃奈さん…そろそろ食事を摂って欲しいんだけど、食べられるかしら?」
「…さっきも、あの男に言った…食事も何も要らない」
「何故?」
「今から死ぬ人間に…必要ねぇから」
「何故、死のうとするの?」
淡々と質問する栞に、妃奈は眉を寄せる。
「…アンタには、関係ねぇよ。ここには、あの男が盗んだアタシのネックレスを取り返しに来ただけなんだ…直ぐに出て行くからさぁ…アタシの服、返してよ」
「そういう訳には、いかないのよ…」
「何で?」
「所長が、妃奈さんには、ここで生活して貰うと言っていましたからねぇ」
「はぁっ!?何言って…」
喉が貼り付く感覚に思わずむせ込むと、栞は未開封のペットボトルのスポーツドリンクを差し出した。
「飲みなさい…何も、変な物は入ってないから…」
激しくむせ込み涙を流していた妃奈は、チラリと栞を見上げてペットボトルを受け取ると、一気に半分程飲み干した。
「その調子で、お粥も食べない?美味しい鮭のフレークもあるのよ?」
胃が痛くなる程ギュッと痙攣し、腹の虫が盛大な音を鳴らす…土鍋から茶碗によそわれたフレークの乗った粥の旨そうな事といったら…。
それでも何とか痩せ我慢をし、ゴクリと唾を飲み込んで妃奈は言い放った。
「要らないって、言ってんだろ!?」
「妃奈さん…まだ17歳でしょう?どうして、そんなに死にたいの?貴女程若い人なら、今から楽しい事が山程あるでしょうに…」
「…ある訳…ねぇじゃん」
「どうして?」
「……アタシみたいな底辺の人間には…未来なんてご大層な物は…ねぇんだよ、オバチャン」
「…」
「アンタにしても、あの男にしても…何だって世話なんて焼きたがるんだ?……あぁ、そっか。優越感に浸りたいなら、公園の炊き出しボランティアでもしろよ…有難がる奴が、ごまんと居るぜ?」
「妃奈っ!?」
部屋のドアの所から叱責が飛び、妃奈はビクリと首を竦めた。
「言い過ぎだ…栞に謝れ!」
妃奈はチラチラと黒澤と栞を見比べ、栞にゴメンと頭を下げた。
「…だけど、何でだよ!?アンタだって…アタシが死んだら、金が入るんだろ!?」
「何の話だ?…病院で言っていた話か?」
「そうだよ!!婆ぁから聞いてんだろ!?義父さんの病院代の事も、美子の学費の事も…兄ちゃんにも、金渡してくれるって…」
「…やはり、生命保険が…掛けられているんだな?」
真っ直ぐに妃奈を見詰めた黒澤の眼がスゥっと冷たく光り、ゆっくりと近付いて来る。
「…幾ら掛けられている?」
「……お前…婆ぁの手先じゃ…」
「誤解だと言っただろう!?それより、幾ら掛けられている!?」
「…」
「答えなさい、妃奈っ!!」
「関係ねぇだろ!!」
「妃奈っ!?」
思わず妃奈の胸ぐらを掴んだ黒澤に、栞が制止の言葉を投げ掛ける…が、その前に、強烈な蹴りが黒澤の胸を襲った。
「お前には、関係ねぇんだよっ!!」
座ったまま両足で黒澤の胸を蹴り上げた妃奈が、息を上げて下から鋭い視線で見上げる。
全体重を掛けた、真正面からの蹴りにも係わらず、黒澤は半歩も下がらずに妃奈に詰め寄って来る。
…敵わない…妃奈に残された物は、負け犬の様にギャンギャンと吠える事だけだった。
「関係は、ある」
「ねぇよ!!」
「あるんだ、妃奈…」
「ねぇって、言ってんだろッ!?」
「聞きなさい、妃奈」
「嫌だっ!!」
「聞けと言ってるだろう!?」
声を荒げて肩を掴む黒澤に殴られると思った妃奈は、首を竦めて自由になる右手で頭を庇い固く瞼を閉じた。
…だが、いつまで経っても衝撃は訪れず…恐る恐る目を開けると、深く眉間に皺を寄せた黒澤が、微妙な表情で妃奈を見下ろしていた。
妃奈が知る中でも、一番大柄で大きな手の男…こんな奴に殴られたら、ひとたまりもない…妃奈は黒澤の手から逃げる様に、ズリズリと座ったまま後退した。
「所長!冷静に…」
栞が言葉を掛けると、一呼吸置いた黒澤が低く落ち着いた声音で妃奈に言った。
「…私は、君の…未成年後見人だ」
「…は?」
聞き慣れない言葉に妃奈が質問するより先に、黒澤は間を詰めて妃奈の前に片膝を付き顔を覗き込む。
「未成年後見人…君の、親代わりという事だ」
「なっ…何言ってる…誰もそんな事、頼んでねぇよ!!」
「あぁ…君にはな。私に依頼したのは、鶴岡聡氏……今はもう、故人になっているが…君の祖父に当たる人だ」
何言ってんだ、この男…祖父って、そんな奴…。
「……知らねぇし…それに、死んじまってるんだろ!?」
「…そう、1年前に亡くなった」
「だったら、関係ねぇじゃん!!」
「いや…鶴岡氏が亡くなったからこそ、指名された私が、君の未成年後見人になったのだ」
「…」
「妃奈…良く聞きなさい。孫である君は、鶴岡聡氏の唯一の直系の親族になる。君のお祖父さんは、君に莫大な遺産を遺されたんだ。さっき玄関から見た土地や建物の全て…そして調度品や美術品、貴重な書籍等…凡そ35億円の遺産を、いずれ君は相続する事になる」
……何だって?
鶴岡って誰だ?
そう言えば、施設に引き取られたのは、親戚がアタシを引き取るのを拒否したからだと噂で聞いた…その鶴岡ってジジイの事なのか?
それで、死んだから罪滅ぼしに遺産をくれるって事か…下らねぇ!!
それにしても、幾らって?
…35億なんて…想像も付かないが…でも、それだけあれば、義父さんに恩返しが出来る…美子の学費も、兄ちゃんの為に嫌な事を強要される事も…。
「…妃奈?聞いてるか?」
思考を巡らせていた妃奈の前髪を掻き上げると、黒澤は彼女の瞳を覗き込む。
「ぇ……ぁ…何?」
「…それらの遺産は、君が成人した後に相続される。そして、君は…」
「…今、貰えるんじゃ…」
「20歳の誕生日を迎えてからだから、2年後の11月1日に相続される」
「……何だ……じゃあ、要らねぇ」
「…何だと?」
妃奈の言葉が信じられないといった表情を見せる黒澤を無視して、彼女は気だるそうな溜め息を吐いた。
「…何故だ?」
「だって…意味ねぇもん」
「どういう事だ?」
「言ったろ?義父さんの医療費も嵩んでんだよ。美子の進学の為の学費も…兄ちゃんが金に困ってんのも、今なんだ。2年後なんか、意味ねぇじゃん。それよか、アタシの生命保険の方が、よっぽど意味があんだよ…わかるか、弁護士センセ?」
「だから…食事を摂る気はない…そう言う事か?」
「だったら、何だってんだよ?」
ギリッと黒澤の口の中で音がしたかと思うと、その口元が引き攣った様に引き上げられ、大きな犬歯が剥き出しになる。
「残念だがな、妃奈…お前の好きにはさせない」
「は?」
「俺がお前の未成年後見人である以上、俺にはお前の保護責任がある…どんな手段を使っても、お前を死なせやしない!」
「…」
妃奈の腹を指差しながら、黒澤は喉でククッと笑う。
「そうだな…入院させて腹を切開し、チューブで直接胃に食べ物や薬を送り込む事も出来る。ついでに導尿や人口肛門を付けて、2年間ベッドに縛り付ける事だって…」
豹変した黒澤の姿に、その口から次々と語られる内容に、妃奈は腸から冷たくなるのを感じ、歯の根が合わなくなる程全身が震えた。
「坊っちゃん!?」
栞が間に割って入り、震える妃奈を抱き締めると、黒澤は苦い表情を浮かべ彼女の頬に触れようとした。
だが妃奈は、怯え切ってその手を逃れ、身を強張らせて震える。
「駄目ですよ、これ以上怖がらせては…躰に障ります」
栞の言葉に頷いた黒澤は、差し伸べた手を引いて優しく話し掛ける。
「妃奈が、ちゃんと食事を摂って、死のうとなんてしなければ、無体な事はしない…わかるな?」
「…」
「これから妃奈には、ここで…私と生活して貰う。いいな?」
栞に躰を預けて小刻みに身を震わせ、妃奈は俯いたまま小さく頷いた。




