(11) 看病
昨夜から降りだした雨は激しさを増し、風が鎧戸を軋ませた。
「窓だけでも、サッシに替えた方が良かったかもな…」
「何を仰るんです!?こんなに素敵なステンドグラスを、なくしてしまうんですか!?」
「女性は、やっぱりこういうのが好きなのか?」
「当たり前ですよ…嫌いな方に、お目に掛かりたいですね!」
そう驚く栞の声を聞きながら、黒澤はふと考えた…はたして、妃奈もそうなんだろうか?
蓮っ葉な言葉を吐き、黒澤に敵意を剥き出しにして来た…記憶をなくしているという話だったが、治るものなのだろうか?
「又ですよ」
「ぇ?」
「溜め息…30代になって、急に老け込んだんですか?」
「…」
「今日は、買い物に行きますからね…車を出して頂けますか?」
「こんな日に?」
「だって…お花もお供え物も…何も用意してないじゃありませんか!?お膳の用意もしなくてはなりませんし…雨風が酷くなる前に、行きますからね!!」
そう追い立てられて、早々に朝食を済ませると、黒澤は栞を伴って駐車場に向かった。
「おはようございます、所長…お出掛けですか?」
「あぁ…休みの日迄済まない。買い出しに行って来るが…何か警備部の方で入り用な物はあるか?」
「特にないと思います。今、扉を開けますので…車の中でお待ち下さい」
事務所前には広い駐車場の敷地があり、10台余りの車が駐車出来る様になっている。
黒澤の社用車である黒いベンツと、自家用車であるシルバーのレクサスは、今回新たに作った車庫に収めてあった。
栞を伴ってレクサスに乗り、警備員が開けている扉に近付いた時、開く扉に沿う様に何かが倒れるのを見た黒澤は眉を寄せた。
……人か?
ずぶ濡れの…頭から何か布を被った人間が、水溜まりにグシャリと倒れ込んだのだ。
警備員が、慌てて門の外に引き摺り出そうと足を持って抱えている。
「あらあら…行き倒れでしょうかねぇ?あの、お婆さん…」
「お婆さん?女だったのか?」
「えぇ…ほら、脱げた布から白髪が…それに、片腕が不自由みたいですね。シャツの下で吊ってるみたい……えっ!?坊っちゃん?」
慌てて傘も差さずに運転席を飛び出し、門の警備員の所に走った。
「…申し訳ありません、所長!最近よく訪ねて来る、唯のホームレスですので…」
謝罪する警備員の言葉を無視して、倒れた人物の被っていた布をひん剥いた。
「…妃奈!?」
「ぇ…お知り合いでしたか?」
「訪ねて来てたのか!?」
「ぇ…えぇ…ですが、アポイントも何もないホームレスでしたので…毎回、追い返されていた筈です」
「いつから!?どの位…通って!?」
「ぁ…かれこれ…3週間程でしょうか?所長に会わせろの一点張りで…」
「クソッ!!」
黒澤は妃奈を抱き上げると、心配そうに傘を持って佇む栞に言った。
「悪い、こっちを優先したい」
「勿論、構いませんとも!!ご自宅の方で、宜しいんですか?」
「あぁ…自宅に引き取る」
そうズンズンと歩を進める黒澤を見て、栞は目を見開いた。
連れて帰ってはみたものの、どうすればいいか逡巡していると、黒澤の後を追って来た栞がバスルームを開けて湯を張りながら呼び掛けた。
「先ずは躰を温めなければ…服を脱がせて風呂に入れてあげて下さい!」
「俺が!?」
「他に誰が居るんです!?女性の裸なんて、見馴れてるでしょう!?」
栞はそう言うと、バタバタと2階に駆け上がって行った。
仕方なく風呂場に運んで、慎重に着ている物を脱がせギプスとコルセットを外すと、自らも下着姿になってぬるいシャワーを全身に掛けて躰を洗ってやる。
「…妃奈…妃奈、大丈夫か?」
何度呼び掛けても、妃奈はグッタリと黒澤の腕の中で動かない。
躰を洗う手に、時折ボツボツと引っ掛かりを覚える…医師が話していた煙草を押し当てられた火傷痕は、背中や腰、足や腹等、至る所に見られた。
下半身を中心に痕があるという事は、行為の最中に付けられたという事か…加虐的な趣味な奴も居たものだ!!
慎重に仰向けにして髪を洗ってやると、妃奈は少し呻き声を漏らした。
「妃奈!?妃奈!!」
「……にぃ…ちゃ…」
「大丈夫か、妃奈!?」
「……ど…して…」
目を開ける事なくそう呟いた妃奈は、目尻からポロリと涙を溢すと再び意識を飛ばした。
躰にタオルを掛け華奢な躰を抱いたまま浴槽に入ると、勢い良く湯が溢れ出る。
…軽い…さっきは水を含んだ洋服のせいで、然程気にならなかったが…軽過ぎるだろう!?
しばらくするとノックの音がして、栞が顔を覗かせた。
「温まりましたか?逆上せるのも躰に悪いので、そろそろ出た方が…」
「…あぁ」
「意識は?」
「さっき覚め掛けたが…又失ってしまった」
栞は抱かれたままの妃奈の躰を素早くバスタオルで拭き上げると、黒澤の大きなバスローブを着せ髪を拭いた。
用意された服に着替えた黒澤は、再び妃奈の躰を抱き上げ、緩くクーラーの効いた黒澤の寝室に運びベッドに寝かせた。
「これは、どうしましょうか?」
「コルセットは兎も角、ギプスは嵌めて置かないと不味いだろう?新しい包帯はあったか?」
栞は薬箱から包帯と三角巾を出し、濡れたギプスの水気を拭くと、妃奈の左腕に当て包帯で巻いて行った。
「坊っちゃんの、お知り合いなんですか?」
「…この間の事故の…被害者だ」
「あぁ…それで、この怪我…」
妃奈の腕を三角巾で吊り、蒲団を掛けてやった栞は、黒澤を振り向いて尋ねた。
「坊っちゃん…先程、彼女を引き取ると仰いましたが…それは、怪我が治る迄という事ですか?」
「…いゃ…彼女には、ずっとここで生活して貰う」
「……もしかして…坊っちゃんがずっと捜してらした方って、彼女の事なんですか?」
黒澤が片眉を上げるのを見て、栞は溜め息を吐いた。
「覚悟は、おありなんですね?」
「あぁ」
「では、栞は何も申しません。彼女のお名前は?」
「…妃奈…高橋妃奈…17歳だ」
年令を告げた途端、栞は妃奈を振り向いて…そっとまだ湿った髪を撫でた。
「私は、買い物に行って来ましょうかね…妃奈さんがここで生活されるのでしたら、色々と必要ですし…。坊っちゃんは、付き添われるんでしょう?」
「済まない…医者も呼んでやりたいしな」
「大丈夫ですよ。誰かに車を出して貰います」
黒澤は、財布から剥き出しの札を多目に栞に渡すと、宜しく頼むと言って彼女を送り出した。
そして懇意にしている病院に電話を掛けると、往診を頼んだのだ。
「丁度良かったよ。今、聖の本宅に往診に行って来た所でね」
堂本組長の掛かり付けである高橋医院の大先生は、悪天候の中往診を依頼した事を詫びると、柔かな笑みを浮かべてそう言った。
「聖組の、どなたか臥せっていらっしゃるんですか?」
「あぁ…堂本のお嬢さんがね…病院嫌いなものだから、何かあると呼ばれるんだ」
そうクックと笑って、大先生は合羽を脱いだ。
「まぁ、唯の風邪で…本人も至って冷静なんだが、聖組長が大騒ぎするんだよ。どちらが病人なんだか、わかりゃしない…で、患者さんは?」
「2階です。雨に打たれて、熱が高くて…」
妃奈を診察した大先生は、眉を寄せると黒澤に尋ねた。
「酷い栄養失調だね…骨折はいつ?」
「3週間程前になります」
「薬は、ちゃんと飲んでたのかな?」
「いぇ…事故の翌日には、病院を抜け出したので…その後の事は、よくわからないんです」
「多分、何も飲んでないな…薬を買う金があるなら、食べ物を買いそうだ。見た所、危ないクスリも打ってないしね」
手首や肘の内側、足首、指の股等を確認して大先生は言った。
「骨折による炎症もあるんだろうけど、肺炎起こす手前だね。脈も乱れてるし、入院させた方が良くないかい?」
「そうなんでしょうが…又逃げ出さないか、心配で…」
「…まぁ、そう言うなら仕方ないが…不定期で良ければ、往診に来るよ。但し、具合が悪い様なら直ぐに担ぎ込みなさい」
「ありがとうございます」
後で薬を取りに来る様にと言われ、黒澤は栞の携帯に連絡を入れた。
医師が帰った後の静かな家で、聞こえるのは窓を叩く風雨の音と、妃奈の荒い呼吸だけ…。
何度もビクリビクリと怯える様に痙攣し、微かに震えながら苦し気な呼吸を繰り返す妃奈の髪を、黒澤はそっと撫でてやった。
「大丈夫だ、妃奈…何も怖がる事はない…」
声に呼応する様に、妃奈の眦から涙が溢れた。
……アタシは……天に…召されたんだ…こんなに穏やかな心地になった事はない…。
優しい言葉と温もりに包み込まれ、ずっと頭を撫でてくれる大きな手。
アタシは…ようやく自由になれたんだ…ここが、約束されたアタシの居場所…。
ふわふわとした意識を覚醒に導いたのは、張り詰めた尿意だった。
…天国で、おしっこ?
そう思った途端、自分の息遣いとは違う、規則正しい息遣いが額の上辺りから聞こえる事に慄いた。
うっすらと目を開けると、目の前に唇がある…そして、躰全体を包み込む様に抱き締められて寝ていた事に愕然とした。
慌ててその腕を逃れ、転がる様にしてベッドを降りると、彫刻の様な筋肉を曝した人物がゆっくりとベッドから起き上がった。
「…起きたのか…妃奈?」
…嘘だ…何で、こんな奴と!?
まだ力の入らない躰と混乱する頭に当惑し、バクバクと鼓動が跳ね上がる。
「…妃奈?」
ズリズリと後ろ向きに膝行ってドアに近付こうとする妃奈に、男が眉を寄せた。
「……トイレ」
「あぁ…そのドアを出て、直ぐ右奥のドアだ」
妃奈は部屋を抜け出し、トイレに駆け込んだ。
何だ、何だ、何が起こったんだ!?
何度訪ねても門前払いを食らうあの男の事務所の前で、直接捕まえるしかないと…鉄の扉の前で座り込みをしたが…。
その後の記憶が、全くない!
それに、あの男…裸だった…下半身は知らないが、裸の男に抱き締められて寝ていたなんて!?
然も相手は、泥棒野郎の悪徳弁護士なんて!?
そんな相手に、犯られてしまったのだろうか?
だが…トイレで確めても、その痕跡は見当たらなかった。
それに裸だった相手に対し、妃奈の方がきっちりとパジャマを着ていたのだ…明らかに女物の、フリフリのレースが沢山付いた可愛らしいパジャマ。
美子が好きそうだ…妃奈自身は、養父の家に居た時も古い体操服や着古したジャージしか寝巻きにした事がない。
トイレの中にある洗面台の鏡で、思わずパジャマに見惚れていた妃奈は、ハッと我に返った。
こんな事をしている場合じゃない…一体ここはどこなんだろう?
そっとトイレを抜け出すと、ここは2階で…さっき居た寝室の他に2部屋ある様だった。
吹き抜けの階段から階下を覗くと、玄関に続く廊下の隣に、広いリビングダイニングが見える。
あの男の自宅なんだろうか?
新しくはないが、使い込まれた木の温もりが感じられる…何だか外国の家みたいだ。
どうやら階下には、誰か居る様な気配がした。
寝室のドアのノブが回る音がした途端、妃奈は階段を駆け降りていた。
何にしても、今はこの場を逃げ出さないといけない!!
頭の中には、その事しか浮かばなかった。
だから、自分の躰が駆け出す事に耐えられない程弱っている事に気付かなかったのだ。
殆ど転がり落ちる様に階段を降り、正面にあった玄関で自分の靴を掴むと、倒れ込む様にして玄関のドアを開けた。
だが…目の前に広がる景色に、妃奈は再び愕然としたのだ。
家の前に広がる畑…その横に建つ白壁の土蔵…畑の向こうには井戸迄ある。
左手に続く植え込みの向こう、小さな土手を降りた先には広い芝生が広がり…その隣に、絵本に出て来る様な小さな西洋の城が建っていた。
…どこだ…ここは…!?
動揺する妃奈の頭から血の気が引き、カクンと膝から崩れそうになる所を、後ろから抱き抱えられた。
「何してる、妃奈!?お前、まだ動き回れる状態じゃ…」
「…どこだよ、ここ…」
「え?」
「お前っ!?アタシをどこに連れて来たんだよっ!!」
激しく男の胸を叩いて訴えながらも、意識がスゥッと遠退いて行く。
「大丈夫だ、妃奈…心配ないから…」
そう言われて再び抱き締められ、その心地好さに蕩けそうになりながら…そう思う自分が許せないと、妃奈は歯噛みしながら意識を飛ばした。




