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「ケケケッ。ちょろいもんだ。いや、俺様の作戦が完璧すぎたのか。確かに吸血鬼は日が落ちるまで動けんかもしれんが、この俺様は違う。まんまと油断して、騙されてくれたな」
銀華が倒れたのを確認した弘美は、ゆっくりと部屋に入ってくると扉を閉めた。その表情は、倒れ込んだ銀華を心配するでも、介抱するでもなく、ただ上から冷たい目で見下ろすだけだった。
まるで、何度も繰り返され、見慣れた光景を見るかのように。
「この3カ月、じっくり餌を撒き、力を蓄えた甲斐があったぞ。ついに大物が釣れた」
銀華の傍らに立ち独り言を呟く弘美の声は、別人のように硬質な、気味の悪いものだった。
「くだらん……、実にくだらん!何が生物平等だ。何の力も持たない人間と、我らが同等だと?ふざけるな!我らを人間ごときの枠組みに縛り付けるだと!?」
怒りで興奮しだしたのか、弘美の顔は紅潮し、だんだんと叫ぶような声になっていく。
「小娘ごときのために、人間にあのような取り決めをさせるとは……、愚かな、大妖とて老いたか!我らは闇に生き、欲しければ喰らい、必要なら取り殺すまでのこと。太古の昔より、繰り返してきたことではないか!それを……」
しかし、徐々に落ち着きを取り戻したのか、やがてふたたびつぶやくような声になった。
「まあいい、この娘の血を飲めば、俺様の力はきっと数十倍にも膨れ上がるはず。そうすれば奴とて……」
今までに見せたことのない笑顔で弘美は笑う。捻じ曲がった、とても気味の悪い笑顔で……。
「では、いただくとしようか。お前は、餌として生かしておいた人間の女とは違うからな。すべての血が無くなるまで吸い尽くしてやる。せいぜい夢を見たまま死ぬがいい」
言い終わると、弘美は口を大きく開けた。
すると……、
ズルズルという音が聞こえてきそうな動きで、その口から全身を黒光りさせた、気味の悪いものが這い出てきた。
それは、いったい弘美の小柄な体に、どのように入っていたのだろうかと思わせるほどの、2メートルはあろうかという巨大な『蛭』だった。
蛭はそのまま床を這って銀華に近付いて行くと、倒れたままのその体に、ゆっくりと覆いかぶさっていった……。
「ギッ、ギイィィィィィィィィィ!!」
しかし、今まさに血を吸おうとしていた蛭だったが、銀華の体に覆いかぶさった途端、悲鳴をあげて飛びのいた。
「グッ、なんダ……?カらダガ、やけル。こいツ、いったイなニをしタ!?」
今までは、宿主の口を借りていたのだろう。突然たどたどしく、聞き辛くなった口調で、蛭は驚いたように言葉を発した。
「おや、知りませんか?それが吸血鬼を退ける、『聖水』ってやつですよ」
「なニッ!?」
背後から不意に聞こえてきた声に、蛭は一瞬何が起きたのかわからないようだった。
しかし、入口に俺の姿を認めると、驚いた様子で叫んだ。
「ナ、なゼ、きさマが。どうしテここがワかっタ!」
「やれやれ、わかりませんか?弘美ちゃんの中にいる時から、あんな生臭い匂いをまき散らして、自分で居場所を教えているようなものだったでしょう」
「にオイ……、だト?」
「まあ、吸血鬼伝説の先入観をうまく利用したり、若い女の子ならではの特権を活かして、銀華さんを俺から引き離す作戦はなかなか見事でしたがね」
言いながら、俺は弘美ちゃんの様子を横目で確認する。
倒れて動かないが、胸のあたりが薄く上下しているし、顔色も悪くない。おそらくは気を失っているだけだろう。
「キさま……、タダのにンげンでは……。いっタいなにモのだ!それニ、セいすイダト?そんなモのが、オれニキくわけガ……」
言いながら、蛭ははたと気付いたようだった。
「ソうか!シオだナ!」
「はい、ご名答です。もっとも俺も、まさかうちのボスが、こんな使い方をするとは思ってもいませんでしたがね」
これこそが、彼女の幸運、強運、感の鋭さとも言えるものだろう。
「どうだいヒロ君、これだけ揃えれば完璧だろう!」
昼間、十字架やら大蒜を用意していた銀華さんに、そんなものは無駄だとわかっていた俺は声をかけた。
「はい、いいんじゃないですか?でも、もう一つ足りないものがある気がするんですけど」
「もう一つ?何だい?」
「ほら、外国の映画なんかだと、吸血鬼に向けて、聖水を振りかけたりするじゃないですか」
「なるほど!聖水か。さすがヒロくん、いいことに気付いたね。でも、聖水ってどこで手に入れるんだろ?やっぱり教会とかにお願いするのかな?」
食い付いた銀華さんに、俺は内心ニヤリとしながらも、素知らぬ顔で言った。
「それなら、俺の知っている教会で用意できるはずですから、貰ってきますよ」
それから俺は、近くのコンビニで塩を買い、カウンターの湯を分けてもらい作った『塩水』をペットボトルに入れ、銀華さんの元へ持って行った。
しかし、なぜか銀華さんの表情は暗く、
「う~ん。やっぱり貴重なものなのか……。これくらいしかくれないんだね」
最終的に、俺はバケツ3杯分の塩水を用意するハメになったのだった。
「まあ、あんなにあった塩水を、出発時にまったく持っている様子が無いし、おかしいと思ったんですがね」
そう、大蒜のインパクトが大きすぎて気付かなかったが、あろうことか、銀華さんは大量の塩水を、体中やら服やらに塗りたくっていたのだった。
よく見れば服やら髪やら、そこら中に乾いた結晶がこびり付いている。
そして蛭は、自ら弱点である塩の塊に突っ込んでいったというわけだ。
全身塩まみれの銀華さんへと……。
「銀華さんを囮にするような真似は、気が重かったんですが……。しかし、強運なのか天才なのか……、自分の身は自分でしっかり守るとは。まあ、それはともかくとして、ちょっと気が引けますが……」
俺は手近なパイプ椅子を掴むと、窓に向かい勢いよく放り投げた。
ガラスの砕ける音がして、窓と扉の間を風が通り抜ける。
そして、室内の甘く濃密な空気が薄れていく。
「あまり気分のいい『臭い』ではないので、少々乱暴ですが風通しを良くさせていただきますよ。まあ、学校には必要経費ということで理解してもらいましょう」
「グウゥ、ニンげんふぜイになニができル。きさまのチも、スイころシてやる」
その時、俺の上着のポケットから、ふわりと浮き上がるものがあった。
それは小指ほどの大きさであるが、よくみれば真っ白な毛に覆われた、小さな生き物であった。
「下等な虫けらの分際で、緋色様に対する非礼の数々。もはや、許せるものではない。一思いに喰ろうてやろう」
「クだぎツね!?そうカ、きさマ、オンみょうジか!だガ、オレとテ、きむすメのチをスい、ちかラをたくワえてきタ。かえリうチにしてヤる!」
そう言うと、蛭は口らしきものを大きく開け、いっそう濃密な匂いを撒き散らした。窓からの風では換気が追いつかないほどに、再び濃密な空気が室内を覆いつくす。
しかし、俺に何の変化も起きないのを感じると、露骨に焦りだした。
「なゼ……、ねムらン!?」
「愚か者が。『御門家』の御血を引く緋色様に、そのようなまやかしが通じるとでも思ったか」
「み……カど?まサか!きさマ、ミカどのもノか!?」
御門の名を聞き、蛭は急激に狼狽し始めた。
そう、異形のモノには死神に出会うのにも等しい、怪異調伏集団の名を聞いて。
「なかなかの知恵をもつ『モノ』とは思いましたが、所詮は相手が動かない状態でなければ、何もできない小物ですか……」
俺の言葉に、このままでは死を待つのみと悟った蛭は、破れかぶれの戦法を選んだ。
「クッ、すこシくらイかラダがとケようと、このムすメのチさえすエば、からダもかいフクするし、オンみょウじをころスちかラもてにハイるはズだ!」
そして、その体つきからは想像も出来ない素早さで飛び上がると、倒れている銀華さんに襲い掛かった。
俺は蛭に向かい、胸元から取り出した呪符を素早く投げつける。
「グギャッ!!」
空中で命中したそれは、蛭の体を燃やしながら数メートルほど吹き飛ばした。
「クーコっ!」
「はっ!」
俺の呼びかけに応じた管狐は、一瞬でその姿を変えた。
全身が雪のように真っ白な毛に覆われ、燃えるような赤い目をした、人間の3倍はあろうかという巨大な妖狐に。
そして、室内の空気が動いた一瞬の後、その口に蛭を咥えていた。燃える蛭の体など、ものともせずに。
「グウ……、きさマ、タダのクだぎつネでは……。ソうか!おまエが、サンぜんのとキをいきタにモかカわらズ、みかドになビいたといウ……」
「お前の目的はいったい何だ?なぜ銀華さんを狙う?」
「お、オモしろい。あいイれぬはずノきサまらが……。いずレ、オタガいコロしあい、あノむすメかみかドか、どちラかガほろブがいイ……」
「何だと!?どういう……」
俺の質問は、最後まで続くことはなかった。『ブチッ』という音と共にクーコが蛭を噛み千切り、飲み込んだからだ。
「申し訳ございません。しかし、これ以上この下等なモノが、緋色様をに無礼を働くことは許し難く」
「……。ああ、いいんだ。お前の気持ちはわかっている。よく働いてくれたな」
管狐に礼を言うが、結局肝心なことはわからずじまいだった。
ほどなくして、弘美ちゃんは目を覚ました。
彼女は、自分の行動を覚えていた。いや、覚えていたというより、『見ていた』というのが正しいのかもしれない。
彼女の意識は、あの日の夕方、女生徒を襲っていた黒い影が自分に飛び掛ってきてから、自分であって自分でないようなものだったという。
おそらくは、そこで蛭に自分を乗っ取られたのだろう。
普段の行動は自分の思うように動けるし、自由にに発言もできる。猫猫飯店に依頼に来た時も、そこに行くように命令されただけで、そこで取った行動は、自分の意思そのものだったという。
しかし、蛭のことを口にしようとしても言葉が出てこないし、蛭に不利になるような行動もできない。
そして蛭が行動を起こすときは、まるで斜め上の空から見下ろすように、自分であって自分でないものの行動を見ていたそうだ。
自分の学校の生徒達が、目の前で血を吸われていくのを。
ならば、蛭の目的も知っているのではないだろうか?
「す、すみません。詳しくは……。あ、で、でも、あの生き物が本当に血を吸いたかったのは、何か別の人らしいんです。」
「別の……?」
「はい。ただ、その人はすっごい強くてどうにもできないみたいで、替わりに銀華さんの血を吸えば、力が手に入るかもしれないと……。その手に入れた力で、自分達みたいなものが、自由に生きられる世界を作りあげるんだとか……。闇と光の逆転した世界を……って」
その後、弘美ちゃんに俺がしたことは絶対に他言しないように伝え、吸血鬼は十字架や大蒜に怯えて、最後は銀華さんにの体に触れたら溶けていったことにするようにと、念を押しておいた。
もとより、自分が犯人のようなものだったと思い込んでいる彼女は、恐縮しきりで、『約束は守ります』と何度も口にした。
「ああ、それと、銀華さんのことなんですけど……」
「はい、わかってます。でも、私は漫画やアニメとか、本の中の物語は大好きですし、へ、へたくそですけど自分で漫画も描きます。ファンタジーな世界って子供の頃から好きですし、銀華さんが猫又でも、全然気になりません」
「しかし……」
「も、もちろん物語と現実が違うのはわかっています。人じゃないものを毛嫌いしている人がいるのも……。でも、銀華さんはとってもいい人ですし、それに、家でも飼ってますけど、猫ちゃんって可愛いじゃないですか」
自分なりの言葉で一生懸命に、そして笑顔で言う弘美ちゃんは、心の底からそう思ってくれているのだろう。
「ありがとうございます。今の言葉を聞けば、きっと銀華さんも大喜びしますよ」
そして、『後日依頼料を持って、あらためてお礼に伺います』と言い残し、弘美ちゃんは帰って行った。
そして俺は、まだ眠りこけている銀華さんを背負って、学校を後にしていた。
銀華さんは、何事も無かったようにスヤスヤと眠っている。肩越しに垂らした涎で、胸ポケットの竹筒を濡らしながら……。
「…………。緋色様……」
「す、すまんクーコ。後でちゃんと綺麗にするから、我慢してくれ」
しかしながら、蛭の言葉や、初めて会った時の雰囲気を考える限り、やはり銀華さんは、なにかとてつもないモノの血を引くと見ていいのだろう。
『いずれ、お互い殺し合うがいい』
蛭の言葉が、嫌な音で頭の中で繰り返される。
違う!銀華さんはいい『モノ』だ。『御門』を捨てた俺なら、きっと大丈夫だ。
「ん……、う~ん……」
その時、背中でもぞもぞと銀華さんが動き出した。
「あ、あれ?ヒロ君?」
「ああ、気が付きましたか?お疲れ様でした。それにしても、さすがですね。まさか全身に聖水をかけていたとは。十字架や大蒜に怯えた吸血鬼が、破れかぶれで銀華さんに襲い掛かってくることを想定していたんですね?」
「え……?あ……、ああ、そうだよ。僕の計画に狂いはないのさ!」
やれやれ……。まあ、そういうことにしておくのが、一番いいのだろう。
「ありがとう、ヒロ君……」
「え?」
不意に、銀華さんが口を開いた。
「夢を見ていたんだ。夢の中で、僕は吸血鬼に食べられそうになっていた。でも、ヒロ君が助けに来てくれたんだ。ヒーローみたいに颯爽とね。今回も、きっと何か助けてくれたんだろう?」
そう言うと銀華さんは、力を込めて俺の背にしがみついてきた。
まったく、嫌になるほどの感の良さだよ。
「ヒロ君、これからもよろしくね」
「はい……。こちらこそ」
俺は、ちょっとだけ歩く速度を緩めて、帰宅途中のサラリーマンの波を反対へと泳ぎ、ゆっくりと『我が家』へと歩いていった。
背中に、暖かな温もりを感じながら。
~『吸血鬼』編 完~