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今から10年ほど前になるだろうか。
世界中の多くの国々が、呼び名は様々なれど、ほぼ同時期に『生物平等基本法』なるものを制定した。
なぜ、そんなものが制定されたのかといえば、それより遡ること、さらに5年ほど前になるだろうか。世界に『いるはずのない者』の存在が公にされたからだ。
それは、太古の昔より存在するとされた者、存在するとされながら、存在するはずなどないとされた者。
それは、人々の心の中に住まうとされた者。
妖怪、アヤカシ、モノノケ、幽霊、精霊、妖精、怪物など呼ばれる者。
はたまた、神、天使、悪魔などと称される者。
各地で神話、民話、寓話、御伽噺、昔話、伝説、伝承、怪談、巷説、法螺話などとして、脈々と語り継がれてきたもの。
今までひた隠しにされてきた者たちの存在が、何を思ったのか、何があったのかはわからぬが、突如として各国政府によって公にされたのである。
当然ながら、それは世界中で大混乱を招くこととなった。
そしてそれは、価値観やさまざまな感情が噛み合わぬ人と不思議の存在の間で、最悪の事件が何度も繰り返されることとなった。
その後に各国首脳はようやく重い腰を上げ、生物平等基本法を制定した。
ほぼ同時期に、世界中で制定された理由は謎だ。
もっとも被害が深刻だった大国の大統領が、各国に圧力をかけたからだの、自分達の都合の良さだけを強要する、矛盾だらけの『平等主義者』が騒ぎ立てたからだの、はては人ではない『大物』の要請に世界が屈しただの、様々な噂が流れた。
もっとも、真相は誰も知らぬままだったが……。
『生物平等基本法』
それは『人語を解しコミュニケーションを取れる者』は全て、各国の法律の元に平等であるし、当然、罪を犯せば法で裁かれるというものであった。
そしてそれは、皮肉な言い方をすれば、各国における人種、肌の色、宗教問題、男女の差による差別の禁止法程度の効果はあったのだった。
言い換えれば、『その程度の』効果でしかなかったのだが……。
その日の朝、いつものように銀華さんにモーニングコーヒーを出そうとしていた時だった。不意にノックの音が響き渡り、遠慮がちにドアが開いていく。
「あ、あの……。こちら、猫猫飯店さんで合ってます……よね?」
開いたドアからおずおずと顔を出したのは、おかっぱとまでは言わないが、特にお洒落に気を使っているようには見えない肩まで伸ばした黒髪と、これまた地味な黒縁の眼鏡をかけた、いかにも真面目な優等生という感じの少女だった。
今時珍しく、セーラー服のスカートを膝丈まで伸ばしている。
セーラー服を着ていることから当然だが、見た目からも年齢は俺たちと変わらないくらいだろう。
ただ、派手な化粧やお洒落をしていないというだけで、清潔な身なりをしているし、綺麗な顔立ちをしている。着飾ればなかなかの美人なのではないだろうか。
「いらっしゃいませ。どうされましたか?」
俺の問いかけに、少女はビクリと体を震わせ、緊張した面持ちでこちらを見つめる。
あれ?俺が何か怖がらせるようなことをしたのだろうか。そんなことを考えていると、
「こらこら、ダメじゃないかヒロ君。年頃の女の子が急に男の子に話しかけられたら、緊張するに決まってるでしょ。女の子にはもっと優しく接しなきゃ」
「す、すみません」
銀華さんにダメ出しをされた。その割には、同じ『年頃の女の子』であるはずの銀華さんからは、俺に対し何の緊張も感じられない気がするのだが……。
「まあ、座りなよお嬢さん。ヒロ君、彼女にお茶を」
俺はちょっとばかり意地悪をして、来客用のソファに腰掛けた少女の目の前に、持っていたコーヒーを出した。
「あ、それ僕の……」
銀華さんから抗議の声があがるが、聞こえないフリをする。
「砂糖とミルクはこちらにありますので、好きなだけお使いください」
俺は、山盛りの砂糖とフレッシュが入った籠を、コーヒーカップの隣に置く。
なぜ、こんな山盛りの砂糖を用意していたかといえば、ひとえに銀華さんのためである。
この人は、苦い物が苦手の癖に、大人ぶって飲みたがるのだ。もちろん、その際にはたっぷりの砂糖とミルクが付いてくることになるのだが。
「あ、いえ。私はブラックが好きなので……。じゃあ、いただきます」
少女はそう言うと、そのままコーヒーカップに口を付けた。
「なるほど……。やっぱり都会のお嬢さんは、味覚も大人なんですね」
俺は言いながら、チラリと銀華さんを見る。
「ぐっ……。ヒ、ヒロ君、僕にもいつものブラックコーヒー!」
やれやれ……、無理しなくてもいいのに。
見栄を張ってブラックを所望する銀華さんに、俺は新しいカップにコーヒーを入れて差し出す。
しばらく、口元にカップを近付けたり匂いを嗅いだり、珍妙な表情をしていた銀華さんだったが、やがて意を決したのか、黒い液体を口に含んだ。
数秒後……。
「うぇぇぇぇぇ……」
「ちょっ、ちょっと銀華さん!お客さんの前で何やってんですかぁぁぁぁ!?」
銀華さんは、デスクの上に口に含んだ液体を、盛大にリバースしたのだった。
「お見苦しい所をお見せして、申し訳ありません……」
「い、いえ、気になさらないでください。誰にだって苦手なものはありますから」
数分後、机の上を掃除し終わった俺は、少女と向かい合って、お互いに頭を下げ合っていた。
「ふふん、そうさ。誰にだって苦手な物はある。気にしちゃいけないよ」
いや、あなたはちょっと気にしてください!俺が口を開こうとした時、銀華さんの雰囲気が一変した。
「さて、それよりもだ。君!」
「はっ、はい!?」
さっきまで、コーヒーをこぼし子供のようにむくれていた銀華さんの突然の変わりように、彼女も驚いたのだろう。声が裏返っている。
「君はさっき、間違いなくこの『猫猫飯店』を訪ねて来たね?」
「は、はい」
「ならば君は、この猫猫飯店がどんな場所か知っている。そして、ここでしか解決できない事を依頼に来た。そうだね?」
「は……い……。そうです」
銀華さんの雰囲気に呑まれたのか、少女はゴクリと生唾を飲み込む。
それを見て、フフッと銀華さんは微笑むと、再び口を開いた。
それは、大胆不敵に、傍若無人に、まるでこの世のすべてを知り尽くしているかのごとくに……。
「よろしい。さあ、話してごらん。不思議、怪し、妖怪、幽霊、この世の不可思議困り事、この猫猫飯店店主『銀華』の名にかけて、万事解決してみせよう!」