②
ある日を境に、僕の歩みは止まった。
体力の消費を最大限抑えながら、井戸にもたれかかり空を見上げる。
夜も昼も景色は変わらないけれど、天気というものは確かにあるようだ。
今日は綺麗な青空だった。
一人で見上げる。
あの暗闇からすれば、この景色はまさに神の領域に達するであろう。
せめて、僕の隣にもう一人、もう一人でいいんだ。
誰か居てくれさえすれば、何もいらなかったのに。
これまで僕は世界を一周して、次は逆向きに一周してみた。
何度も何度も繰り返し歩いた。
この唯一壊れていない井戸をスタート地点として、歩き続けた。
それでも、いくら回っても何もない、壊れた世界が僕の心にヒビを入れる。
一周し終わった時の失意を思い出すたびに、この綺麗な青空が黒色に塗りつぶされる。
結局、僕はどこに行っても……孤独なのだろうか。
空を見つめるこの目を閉じれば、真っ暗闇の世界に行ける。
それが嫌だった、だからずっと夢を見続けていたいと思ってた。
夢を見続ければそれは正夢になるかもしれないと思ってたから。
でも夢を見るには目を閉じなければならない。目を閉じれば暗闇の世界に行かなくてはならない。
夢を見るにも、何かを捨てなければならないのだ。
だから僕は何も出来ないまま、ただ空を見ていた。
次にしたのは、瓦礫の山を掻き分ける作業だ。
人が生きた証が、そして地下のようなものががあるかもしれない。
この砂嵐が吹き荒れる世界なら、もしかしたら地下の方が住みやすいのかもしれない。
そう思った僕は、「果たしてそうかな?」と疑問が浮かぶより先に、行動に移した。
悩むな、動け。
時間はたっぷりある。この思考が止まるまで、僕は希望を捨てはしない。
人を見た、人はいた、まだこの希望、捨てるには惜しい!
大切なのは、いたという事実だ。
僕はこの目で見た、人がいるのを見た。
だから諦めるな、どんなに人がいないと僕の心が叫んでも、いるかもしれないなら諦めるな、僕は会いたいから目を開けたんだ。
つまり諦めるということは、目を閉じて、あの暗闇に戻ることを指す。
絶対に諦めない。
僕は、人と会って、話がしたいだけなんだ。
手がボロボロになっても、爪が剥がれても、砂嵐が視界を遮っても。
僕はひたすら掻き分け続けた。不安と衝動が心を貪る。手の痛みなんて感じなかった。
永遠に明るい世界、時間の感覚も痛みとともに既になくなったけれど、もう長い間手を酷使し続けてることは分かる。
未だに、地下に続くようなものは見られない。
諦めることのほうが僕には辛い。こうして探し続ける方が僕は楽だ。
何もしないが最も辛い。
でもこの世界の全てを探しきってしまえば、残るものは確かな絶望感だ。そう考えるとゾッとする。
やらなければ希望は残る。やりきると絶望が生まれる可能性がある。
ただやることで生まれるのは可能性。絶対じゃない。
ならそれを信じて、僕は人を探し続けるまでだ。
本当に、人と触れ合いたいだけなんだ。
また長い時間が経った。
それでも僕はまだ何一つとして、生き物に出会っていない。
地下も何も見当たらない。
僕の希望が少しづつ刈り取られて行くのが実感できる。
そんな怯えた心を、僕は記録として纏めることにした。
日記、のようなものだ。初めは気分転換のためにしていたことだったが、今では日課となり、心を落ち着かせる一つの役割をも持っている。
そして何より、日記を書くことで僕がここにいたことの証明にもなる。
何も残さないで消えたくない。僕は感情のままに日記を書く。
紙とペンはそこらへんを探せばいくらでもあった。それがあるということはやはり人は居たということに違いはない。
でも今いるかというと、そうではないかもしれない。
……ずっとこの思考の繰り返しだ。自分でも分かっている、最早こんな思考に意味なんてないということに。
パンクしそうな頭のまま、僕は日記の最後の一行に殴るように綴った。
『どうか、どうか人と合わせてください』
最後のこの一行、何をグダグダと言おうと全てはここに直結する。
この一行は、私の心だ、脳であり心臓だ。血であり肉だ。私の全てなんだ。
だから、書くと心が落ち着く。
私は立ち上がり、作業に戻った。
瓦礫の山を歩いて進む、何があっても、諦めることだけはしたくなかった。
「……また、ここまで来てしまった」
長い長い時間をかけて、遂にまた僕が目覚めた場所まで付いてしまった。つまり、地下も無い。ということがこれで分かってしまったようなものだ。
この世界には、僕しかいないんだ。
全ての希望を手探りに進み、たどり着いた先は確かな失意。
絶望。
拳銃で胸を撃ち抜かれたような衝撃が襲った。血も出てないし外的損傷もないけれど、激しく痛んだ。
その叩きつけられた真実に僕は膝をついた。
照りつける太陽が僕の背を焦がす。吹き荒れる砂塵が僕の肌に突き刺さる。今まで大したことないと思っていたこの環境、心の持ちようが変わったからか、とても辛い。
でも、諦める方が今の僕には辛いのだ。
諦めなければならない状況に追い詰められて、それなのに諦めることが出来ない。
取ることのできない人参を目の前にぶら下げられ、延々と走り続けさせられるロバの気持ちを知ってしまった。
そんな空っぽな心になりかけた僕に、急激な睡魔が押し寄せてきた。
これまで暗闇を恐れ睡眠を一回も取らなかったことを思い出す。僕の体も限界に近かった。
でも、頭ではしっかりと理解していた。
ここで眠ったら、多分僕は永遠に目覚めない。
もう僕が活動する意味はなくなっているからだ。
失意が僕の体を押す。僕に眠れとささやきかける。
僕の足は着実に目覚めた四角い台座の上に向かっていた。
「ダメだ」と心が叫んでも、地面にフックがなかなか引っかからない。カラカラと音を立てて無意味に滑る。
押されるがままに僕は歩く。抵抗する気はあってもできなかった。
そんな不安定な足下を、僕は見ていなかった。僕の足の裏に鋭い痛みが走った。
ぼうっとしていた僕の頭に電流が走るような痛みだった。僕はすぐに落ちてた瓦礫やガラス片を踏んだのだと理解した。裸足で歩いていたことを後悔した。
「いった……」
一度しゃがみこんで足裏を確かめる、僕の予想通りガラス片がグッサリと刺さって……?
「……え?」
血が、出ていなかった。
滲んですらいなかった。
痛みはあるのにその象徴が流れてこない、目にした矛盾に僕は冷や汗をかいた。
嫌な予感が、どくんと胸を叩く。
「そうだ、そう言えば掻き分けてる時に一滴も血が流れてなかったな……」
自分の体は、血が流れていないのか? そういえば搔き分ける時も血は一切出てこなかった。涙を流したこともない。血も涙もないとはこういう事なのか……? いや血も涙もないのはこの世界だろうが。
ゴクリと唾を飲み、刺さったガラス片を抜いてみる。
「痛っ!」
やはり、痛みはちゃんとある。しかし血は流れなかった。
人の定義なんて知る由もないけれど、血の流れていない人間など、人と呼べるのだろうか。
いや、そんなことはもはや関係がない、だってこの世界には生き物はもう居ないのだから。
そして本人である僕は眠りにつき、砂塵にやられるか、干からびるかのどちらかで死ぬのだから。
後悔はあるけれど、もはや生きてる意味もない。
これが人の言う自殺なのだろうか。
生きる意味を見失い、希望を持つことも叶わず、願い儚く燃え尽きた。生きるのが辛くなって、人生を捨てる。
まさに自殺である。僕は、自分の運命に負けたのだ。
「……ちくしょう」
悔しかった。
結局、僕は何も残せないまま、自分で人生という舞台の幕を下ろす事になった。カーテンコールを期待する声なんて無い。讃える価値のない劇場に、意味なんてものも、無いんだ。
歯軋り、そしてぽたりと、僕の体から一粒の雫が地に落ちた。
汗か、初めはそう思った。
だが違うと言うこともすぐに分かった、特定の位置からとめどなくその雫は溢れ出してきたからだ。
……これが、涙と言うもの、か。
悔しくて悔しくて、何も出来なくて、させてくれなくて。理不尽と不幸の渦に飲み込まれた僕の心は、ついに涙を流すまでに至った。
涙で目が潤っていく。強く握りしめた拳が僕の眠気を妨げる。
これは、無意識だ。本能が眠ってはいけないと言っているんだ。
ならばそれに従うのが、生き物の定め。
涙を拭って、目を見開く。大丈夫、まだ、頑張れる。
自らを鼓舞し、前を向いた。吹き荒れていた砂塵の痛みはどこかに消えた。
希望なんてない、目的もない。それでも僕は諦めることだけはしたくなかった。それだけでいい。今の僕にはそれだけで十分だ。
「もう少し……頑張ってみよう」
僕には何もなく、なかった。だからたった一つでいいんだ、何かを成し遂げたいと強く思った。
新たな一歩を踏み出した。
「いたぁっ!?」
……足を怪我していることを、忘れていました。
堂々と一歩強く踏み出しすぎたせいで、無意識からの強烈な痛みが襲った。僕は再び踞うずくまる。
どうも、上手くカッコがつかない自分に少しおかしさを感じた。口元が、少し歪んだ。
笑えてる。僕はまだ笑えるし転べるし、立ち上がれる。
何もかもまだ早い。諦めるのもまたまだ早い。
気持ちを切り替えて、いざ立ち上がろうとした時、僕の視線にふと異質なものが入ってきた。
まるでそれはパンドラの箱のような、開けてはいけないと釘をさされている玉手箱のような禁忌のイメージ。
「……穴?」
灯台下暗し、とはこのことを言うのだろうか。
僕が目覚めたこの台の下を、そういえば一度たりとも見たことはなかった。
確認しなかったのは確かに僕のミスだが、こんなもの見えなくて当然だ。何故なら僕がこの穴を発見できた訳は転んで、かがんで、支えていた手で押していたから。
そしてそのまま、ズズ、と音を立ててその台は動いた。動いたのはほんの少しだけ、でも穴気がつくにはそれだけで十分だった。
玉手箱も、パンドラの箱も、どちらも開けてはならないと言われていたものだが、そのどちらも開けなくては世界が進まない。
僕も同じだ、希望を持ち続ける以上、この穴を見つけなくても僕は何度も立ち上がり続け、何度も挫けて、それでも前に進み続けていただろう。
前に進む為に、僕と言う物語を進める為に、神様はこうして「穴」を僕に見つけさせてくれた。
開けなくては、世界は前に進まない。
たとえその中身が、僕に災いを与えるものだとしても。最後に残るのは、希望なのだ。
台を力いっぱい押す。穴の大きさがなんとなくわかるところまで来た。
人一人が入れるような地下へと続くハシゴがつけられていた。
逸る高揚を抑えて、僕はゆっくりとその穴の中に入った。