光の糸
夜の森は、とても静かだ。
深く暗い紺碧の中にとっぷりと沈んだ森は、頑ななベールのようなものを纏っていて、外界との繋がりを遮断しているように見える。そこでは森は一つの要塞であり、そのベールの下の何かを、強い意志でもってしっかりと守っている。森にとっておそらく、とても大切な何かを。
僕は幼い頃から、森がとても好きだった。
学校で嫌なことがあったり、家で両親に叱られたり、妹と喧嘩したり。小さな僕にとってはどんな出来事もとても重大で攻撃的で、そこで傷つくたびに僕は森に入った。
森はどんな時でも、僕に対して無関心だった。僕が入ろうが入るまいが、ただそのシステムを保ちながら、いつもと同じように存在し続ける。小鳥は鳴いているし、花は風にそよいでいる。その距離の遠さが、何故か安心感のある孤独が、僕には心地よかった。
誰もいない森で、茂みの中に腰掛けながら、その隣の小さな花をぼんやりと見つめる。そこに蜜蜂がやってきて、花粉を目一杯足につけて、飛び立っていく。寿命を終えた葉っぱが、何一つ主張しないで、ひらひらと落ちていく。そうしてただ、さらさらと流れるように、時間が過ぎた。
夕方になり、少しずつ空気が冷たくなり、景色が赤く染まる頃。
森は少しずつ、その姿を変える。
森は僕に何一つ語りかけはしない。しかし太陽が地平線に沈み、空が青から赤、紫へと変わる時、森は淡々と夜の準備を始める。花は息を殺し、鳥たちは自分の巣へと帰っていく。そんな森の態度が、纏う空気のわずかな変化が、僕に時間が来たことを悟らせる。僕は黙って腰を上げ、森を出る。
細い道を歩き、木々の間を抜け、まだ沈みきっていない太陽と出会う。そして森を振り返ると、森はその時既に、透明なベールを纏っている。僕は幼いながらにその重厚感と、その下で眠る「何か」を、漠然と肌で感じていた。
「お兄ちゃん」
背後から、妹の声がした。
僕は解きかけの微分方程式から意識を離し、シャープペンシルを手の中で一回転させてから、机に置いた。そしてゆっくりと、妹の方を振り返る。
妹は制服姿のままで、ドアの前に立っていた。最近スカートがやや短くなり、化粧もするようになってきた妹の、その目の下が腫れている。カラーコンタクトを入れた視線は、灯火のような意志を残して、部屋の床に注がれていた。
僕は黙っていた。包むような沈黙が、部屋に降りた。
「座っていい?」
少し震えた声で、妹が言った。
僕が頷くと、妹は部屋の端のベッドへと向かい、壁にもたれて膝を抱えた。そしてその小さな頭を、スカートの中に深く埋め、うずくまった。最近身長が伸びたが、その姿はやけに、小さく見えた。
僕は机の上に積み上がった教科書、漫画、小説をかき分け、そこからミルクチョコレートを発掘した。一つ取りかけて、少し迷ってからそれをしまい、箱ごとベッドに向かって投げる。中身が揺れて、カシャン、という音がした。
妹はしばらく、足元に置かれたそれを見つめていたが、それからゆっくりと箱を開け、中身を一つ取り出した。少し時間をかけて包装を解き、口に入れる。甘さがじんわりと広がるにつれ、妹の目から、涙が溢れた。それから妹は泣きながら、夢中でチョコレートを頬張った。
僕が階下に降りて、紅茶を淹れて戻って来る頃には、チョコレートの中身は最初の1/3ほどになっていた。妹に紅茶を差し出し、散らかった包装紙をゴミ箱に入れる。紅茶を受け取ると妹は小さく「ありがとう」と言った。声は少しだけ、力を取り戻していた。
僕は黙って、机の椅子に座った。
妹は相変わらず、何も語ろうとはしない。視線はただシーツの一点を捉えていて、両手で大切そうに持ったティーカップを、時々ゆっくりと傾ける。静かで、寄り添うような時間がながれた。
妹のカップが空になったのを見計らって、僕は壁にかけてあったコートを羽織った。そしてクローゼットを開け、マフラーと手袋をそこから取り出す。
「防寒対策をして。」
訝しがる視線を向ける妹に、マフラーを巻きながら、僕は言った。
「今から、森へ行こう。」
今から4年前、高校一年の冬。
僕は生まれて初めて、夜の森に入った。
その日は多分、僕の人生の大きな、本当に大きな転機だったんだと思う。
とにかく僕はその時、どうしようもなく損なわれていて、それでもなお傷つくことを求めていた。自分の信じていたものが音を立てて粉々に砕け散り、自分の存在が宙に浮いたように不確かになった日。多分僕は傷つくことで、自分を確かめようとしていた。そうすることしかできなかった。
森は相変わらず、僕を、いや僕に限らず外界の全てを拒んでいた。その堅牢なベールを僕は、迷いなく潜った。拒絶されているからこそ、そこに入ってしまいたかった。危険が待っていて、戻ってこられないのなら、それでもよかった。
夜の森は、昼とは比べ物にならないくらいに冷たかった。
時折何かがカサッ、と音を立てるが、それ以外にはほとんど何も聞こえない。足元は暗く、昔あれだけ安心感を持って歩いた道が、今は薄い氷のように感じられる。でも、恐怖は感じなかった。
幼少期に、よく座っていた場所に、再び腰を下ろした。暗い夜闇の中では、花はその色を隠しているし、生き物は寝静まっている。その冷たさの中で、僕は消え入りそうに、ただうずくまっていた。
僕は森に、救いなんて求めていなかった。しかしだからこそ、森はこの時、少しだけ心を開いたのかもしれない。
今僕は再び、森の前に立っている。
後ろには、制服の上にコートを着込んだ妹がいる。肌を刺す冷気もあいまって、目の前の森はより堅固に、重厚に見えた。
「…夜の森って不思議。」
後ろで妹が呟く。その声に、恐怖は宿っていなかった。
「入ろう。」
僕は迷いなく、昔と同じ小径を歩く。ザクザクと、僕と妹が草を踏みしめる音が、断続的に森に響く。その足音に、あの日の自分が重なった。
「ここだよ。」
小さい頃の僕が大好きだった、そして4年前の僕に、ささやかな光をくれたあの場所に、辿り着いた。
「…ここって?」
妹が、不思議そうにあたりを見渡す。僕は微笑み、妹に言った。
「上を見てごらん」
そこには、満天の星空が広がっていた。
僕はしばらく、その天を仰げば降ってきそうな星空に、圧倒された。
我を忘れて見上げていると、背後でガサッ、と音が響いた。
驚いて振り返ると、たぬきの親子が、きれいな瞳でこちらを見つめていた。闇の中に浮かぶ、宝石のようなニ対の瞳。親子はしばらく、確かめるように僕を眺めて、それからゆっくりと踵を返し、森の奥へと消えていった。
僕は彼らがいた地面をしばらく見つめ、そしてようやく、一つのことを理解した。
森が堅固に守っていた「何か」。それはおそらく、夜ならではの、夜の森でしか生きられない様々な営みなのだろうと。
夜の森は、昼のように強くはない。それは繊細で傷つきやすく、たやすく損なわれてしまう類のものなのだ。
だから、森は守っている。昼の強い時間は外の世界など気にもしないが、夜の森の中の命は、森にとって守るべき、大切な存在なのだ。
そしてその命には、おそらく…
僕は思いを馳せ、もう一度上を見上げた。
「…わぁ。」
今、空を見上げた妹は、あの日の僕のようにその光景に釘付けになっている。
「…綺麗。」
夜の森は、普通の人間は受け入れない。強い人間、森の命を傷つけうる人間は、間違っても中に入れたりはしない。
しかし、もしどうしようもなく傷ついて、誰にも救ってもらえないような存在があったとしたならば。
森はおそらく、その瞬間だけ、そのものにだけは少しだけ本来の姿を現わすのではないのだろうか。
ちょうど、4年前の僕や、今の妹のように。
「凄い。」
妹がそう呟き、視線を戻す。その横顔に、語りかけた。
「まだだよ。」
妹がこちらを振り返る。僕は笑って、あの日に僕が気づいた、もう一つの真実を伝えた。
「もう少しだけ、見上げてごらん。」
もう一度空を見上げた僕の目に、先ほどとは比べ物にならない量の星が飛び込んできた。
暗闇に目が慣れ、わずかな光を捉えられるようになったことで、今まで見えなかった星が姿を見せてくれているのだ。見つめているにつれ少しずつ、より小さくささやかな星々まで、ぽつぽつと灯りを灯し始める。それらの細い、まるで糸のような光をも、森はずっと守り続けてきたのだろう。僕は時間も忘れて、ベールを脱いだ星空の、その繊細で華やかな姿に見入っていた。
妹は上を見上げたまま、息を飲んで佇んでいる。その目にはおそらく、あの日の僕と同じような星空が写っているのだろう。繊細で、消え入りそうで、それでも確かにそこにある星たち。夜の森がずっと、ひっそりと守り続けてきたもの。
森は今間違いなく、僕と妹をも包んでいる。とても優しく、そして力強く。僕達は、何一つ疑わずにその安心感に身を委ねたまま、空に映るか細く懸命な星空を、ただじっと、見上げていた。




