第一幕 第五場 オリンピックホテル 二階廊下
午後六時。
ホテル全体の建物の中央に階段があり、一階から階段を上がると正面にエレベーターがあるが、この日は使用禁止で表示ランプも消えている。廊下はT字で分かれており、右に進んで突当りまで歩けば大広間があるが、この日は施錠され閉ざされている。左の廊下には客室が並んでおり、右手はシングルルームが五部屋並び、左手はツインルームが三部屋並んでいる。廊下の突当りが非常口だが、冬場の北海道では鉄筋の階段は滑りやすくなるので、二階ならば中央の階段を利用した方が足元に不安はない。
非常口の外を確認して振り返った時、遠藤の目の前に小さな男の子が立っていた。
気配を感じなかったせいか、遠藤は身体をビクンとさせる。
「こんにちは。いや、もう『こんばんは』だね」
遠藤が男の子に話し掛けた。
男の子は何も言わずに遠藤を見ている。
「ボクは、どこから来たの?」
遠藤が訊ねるが、男の子は反応しない。
「ボク、いくつかな?」
遠藤は辛抱強く訊ねる。
そこで初めて男の子は手の平を広げて意思表示した。
「五歳か。名前は?」
「けんた」
犬飼健太が小さな声で答えた。
「ケンタ君か」
遠藤は笑顔で健太の頭に手を置く。
「ちゃんとしゃべれるじゃないか。お父さんとお母さんはどうしたの?」
健太が答える。
「お仕事」
「ということは、フロントの犬飼さんの子供かな?」
遠藤が訊ねると、健太はコクリと頷いた。
「そうか」
遠藤が腰を下ろす。
「じゃあ、お母さんも働いているから、ボク一人だね。兄弟はいないの?」
健太が小さく頷く。
遠藤は寂しい表情で話す。
「それじゃあ、本当に一人だ。昼間のうちなら一緒に遊んであげられたんだけどな。もう、外は暗いし、大雪だもんね。あした晴れたら一緒に雪だるま作ろうか?」
健太が首を振る。
それを遠藤は勝手に解釈する。
「ああ、そうか。雪だるまはもういいか。一回作ったら飽きちゃうもんな。だったら、かまくらはどうだ? これだけ降ったらデカいかまくらが作れるぞ。秘密基地みたいで楽しいだろう?」
健太が首を振る。
「参ったな」
遠藤が困惑する。
「ああ、知らないオジサンと話をしたらダメなんだな。そりゃ、悪いことしたな」
と言って、遠藤は立ち上がった。
「ごめん、ごめん」
遠藤は健太の頭にポンポンと手を乗せる。
なおも健太は首を振る。
「ん? どうした?」
遠藤が眉間に皺を寄せて訊ねた。
「●ろ●れ●」
健太の声は小さかった。
「え?」
遠藤は聞き取れない様子だ。
「なんて?」
遠藤が訊き返した。
しかし、訊かれても健太は何も答えない。
「なんだって?」
遠藤はもう一度だけ訊ねた。
「こ●さ●る」
健太は口を開いたものの、相変わらず声は小さかった。
「オジサン、耳が悪いから、はっきりしゃべってくれないと聞こえないんだ」
と言ったものの、遠藤はもう諦めた様子だ。
そこへ、「健太」という呼び声と共に、階段から母親の洋子が現れた。
遠藤と目が合い、会釈をして、駆け寄っていった。
「すいません」
洋子が遠藤に謝った。
それから健太の手を掴み、息子に注意する。
「お客様の迷惑になるんだから、夕飯までお部屋で遊んでなさいって言ったでしょ。なんで言うこと聞かないの? そのために、せっかく新しいゲーム買ってあげたのに。お願いだから、お母さんの言うこと聞いてちょうだい。ね?」
そう言って、洋子は中央階段に近い方のツインルームのドアを開けて、そこに健太を入れてドアを閉じるのだった。
それから遠藤に向き直る。
「息子がご迷惑をお掛けしてすいませんでした」
と言って、深々とお辞儀をした。
遠藤は気にした素振りを見せずに話す。
「いえ、迷惑だなんて。知らないオジサンに声を掛けられて、却って僕の方が怖がらせちゃったみたいで、すいません」
「それはいいんですけど」
と洋子がクスッと笑う。
「遠藤さんはまだオジサンっていうほどの年齢じゃないですよね?」
遠藤はきっぱりと答える。
「いや、他人からオジサンと呼ばれてショックを受けないために、僕は二十五から自分のことをオジサンと呼ぶようにしていたんです」
洋子が笑うのを我慢する。
「そんなことをしたら、オジサンでいる時間が長くなるだけじゃないですか」
遠藤はハッとする。
「確かにそうだ。どうして今まで気が付かなかったんだろう?」
と二人で笑い合うのだった。
「ところで」
遠藤は洋子を逃がさないように質問する。
「犬飼さんも客室を使われているんですね。207ですか?」
「はい」
洋子が笑顔を残したまま答える。
「通常営業ならお客様と同じフロアを使うことはないんですよ? でも上のフロアはもうベッドもありませんので、失礼を承知で使わせていただいています」
「いいじゃないですか」
遠藤が歓迎する。
「予約もなかったって聞いていますし、この天気じゃ自宅に戻ることもできないでしょう? だったら仕方ありませんよ」
「そう言っていただけると助かります」
洋子が改めて頭を下げる。
「客室係の猪俣さんも201の部屋を使っているので、御用の時は、内線も利用できないので、直接ドアをノックしてみるのもいいかもしれません」
そこで遠藤が思いつく。
「よければの話ですが、ホテルのみなさんも一緒にお泊りになられるんでしたら、食事も全員でいただくというのはどうですか? 奥さん一人じゃ決められないなら、僕がご主人に頼んでみますよ」
「私は構いませんけど」
と洋子は悩みつつ、尋ねる。
「他のお客様は大丈夫ですかね? 私はホテルの仕事が初めてなのでよく知らないんですが、従業員と食事をするって聞いたことがありませんもんね。不愉快に思うお客様がいらっしゃるかもしれませんし」
「最後の日ですよ?」
遠藤が説得する。
「みんなで乾杯したいじゃないですか。他の客ともすでに顔見知りになれましたし、文句を言う人はいませんよ。お子さんと猪俣さんも入れて、みんなでグラスをぶつければいいんです。それに、ちょっとした余興を用意していましてね。それにはこのホテルに泊まるすべての人に参加してもらわなければいけません。といっても、お子さんを寝かしつけた後のお楽しみですけど」
「なんですか?」
洋子は楽しみと不安が半々といった感じだ。
遠藤がもったいぶる。
「それは温泉に入って、これから考えるところです」