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第四幕 第六場 オリンピックホテル フロント

 午後十時。

 ロビーのソファ席で遠藤と猪俣が差し向いに座っている。

 二人が飲んでいるのは、猪俣が最後の一本として残しておいたシャンパンだった。

「なんていうシャンパンですか?」

 遠藤が訊ねた。

「『モエ・エ・シャンドン・ブリュット・アンペリアル』という長い名前がついていますが、それほど高価な代物ではありませんので、遠慮なくお召し上がりください」

 二人がシャンパンを味わう。

 遠藤は後味の余韻を充分に味わった後、感想を言う。

「最後の一本だというのに、酌み交わす相手が僕で申し訳なく感じます。ろくな感想も言えない始末で、本当にすいません。いや、美味しいんですよ」

 猪俣が微笑む。

「最後の一本といっても、旭川まで映画を観に行った帰りに、ついでに仕入れたものなので、特に思い入れのある品というわけではありません。たまたま、その映画で飲まれていたので購入したのです」

「ああ、そんなシーンがありましたね」

 遠藤は意外そうに尋ねる。

「しかし猪俣さんも流行りものに興味があるんですね」

 猪俣が頷く。

「時代を象徴しているようで、興味が惹かれたんでしょうな。しかし若い二人の恋よりも、主人公として描かれずに死んでいった者たちに、より惹かれたというのは否めません。ただ、それで作品の評価が変わることはないのです。脇役の、この人物をもっと丁寧に描いてほしいと思うのは、観客の独り善がりにすぎませんからな」

 遠藤がシャンパンをすする。

「見る人の環境や、年齢によって受け取り方は様々ですもんね。同じ映画でも、子供の頃に観たものを、大人になってから見直すと、異なる印象を持ったりします。まったく作風の違う作品ですが、僕にとって『男はつらいよ』がちょうどそんな感じの印象なんです。子供の頃は確かに寅さんをバカにしていたはずが、大人になるにつれて気持ちが分かってくるんですよね。血の繋がりがありながらも孤独な道を行き、その孤独を一身に引き受けている姿が、周りをより明るく照らしているようで、夜を照らす月ではなく、やっぱり下町の太陽なんですよ。太陽は月と違って、決して人を近づけさせませんからね。ただ、『男はつらいよ』で寅さんを演じた渥美清と、映画監督の山田洋次には家族がいるので、二人とも根本的なところで車寅次郎の孤独が理解できているとは思えない。そういう意味では、映画と現実には区別をつけなければいけないんでしょうけど」

 猪俣が遠藤にシャンパンを注ぎ足す。

「生涯独身の小津安二郎は、家族を描いた作品をたくさん残しましたな。『東京物語』は素晴らしかった。小津以上に家族を描ける監督は、この先も出てこないでしょう。表現者というのは、自分にないものを描くのかもしれませんな。だとしたら、『男はつらいよ』も自分にないものを描いた執念とも言えませんかな?」

 遠藤が何度も頷く。

「自分にないものを生み出そうとするから傑作が生まれるということなんですかね。なにか、すごく大事なヒントをいただけたような気がします。といっても、それで自分が傑作を生み出せるかどうかは別の話ですけど」

「少なくとも、一分前のあなたとは違うはずだ」

 猪俣の言葉に遠藤が頬をゆるめる。

 しかしすぐに笑顔を引っ込めて本題に入る。

「作品に取り掛かる前に、どうしてもここで起こった問題を解決せねばなりません。そうしなければ前に進むことが困難だからです。猪俣さんはすべてを知ってるんじゃありませんか?」

「私はあなたが知っていること以上のことは何も知りませんよ」

 猪俣は落ち着き払って答えた。

 遠藤は意を決したかのように話し始める。

「こんな話をすると頭がおかしくなったと笑われるかもしれませんが、どうぞ、バカバカしいと感じるようなら笑って下さい。ミステリー作家なので実際の事件に係わったことがないので、知識は本や映画やドラマで得たものばかりです。それでも、そこから得た知識の中で、一つだけ見過ごしていた事実があるんです。それは似鳥さんの遺体から推察される猟銃の弾道なんです。弾道の謎といえばケネディ暗殺で有名になりましたよね? 遺体に残された弾痕から疑惑が生じたわけです。それが似鳥さんの遺体の弾痕にも疑問があって、僕は大事な仮説を見逃すところだったんです。似鳥さんが受けた弾痕は顎の下に一発で、もちろん銃声が一発分だったので当然ですが、それが脳天を撃ち抜き、天井に痕を残しました。それで単純に自分で撃ったと結論付けたわけですが、もう一つ可能性があったわけですね。正面に立った人が銃を構えても顎の下に撃つことは難しい。寝ている似鳥さんの顎の下に銃を突きつけては天井に残った弾痕の説明がつかない。しかし身長の低い子供ならどうでしょう? 相手は大人でも巨体の部類に入る似鳥さんです。子供が頭を狙えば、ちょうど似鳥さんの顎の下に照準が定められるはずなんです。子供だからと初めから除外しましたが、仮説が成り立たないわけではないんですよ」

 猪俣は五歳児の健太に容疑が掛けられても笑わなかった。

 遠藤は仮説を展開させる。

「ただ、子供が簡単に大人を殺せるとは思えない。それには手伝った大人がいるということです。ところで、犬飼さんの死因はなんですか? 首を絞められた痕のようなものがありましたが、絞められたってことですか? あの夫婦が子供を残して自殺するとは思えません。ただ、事実として死んでいるのだから、僕の認識がズレているのでしょうけど。そこで思い出すのは昨夜の、犬飼さんが話した『犯罪の告白』です。もしもですよ? 幼稚園児のケンタ君が、犬飼さんの子供の頃のように、他人の死を願って呪いをかけたらどうなりますか? ケンタ君が親の死を願って呪うような真似をしたら、猪俣さん、あなたは使用人として、忠実に従ってしまうんじゃありませんか?」

 長い間だった。

 遠藤は猪俣の言葉を待つしかなかった。

 それに対して猪俣は、弁明する必要はないといった感じだ。

 それでも遠藤は待つしかなかった。

 やがて猪俣がホテルのマスターキーの束を差し出す。

「勇作君が亡くなる前に、遠藤さんに渡しておくように頼まれていました。聞くところによると、明日の朝、町まで下りるそうですな。それならばと、ホテルにある防寒着を自由に使うように言付ことづかったのです。防寒着の他にも、ここにある物は自由に持って行って下さい。このホテルはもう、あるじを失いました。私の役目も終わりです。この鍵があれば、すべての疑問を解消してくれるでしょう。主がいなくなれば、このホテルはあなたのものでもあるのです。遠慮はいりません。どうぞ、受け取って下さい」

 遠藤が鍵を受け取る。

「猪俣さん、あなたが犯人じゃないんですか?」

 猪俣は表情を変えずに告げる。

「誰が殺したかと問われたら、『それはホテルだ』と答えるしかありませんな」


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