第一幕 第三場 オリンピックホテル フロント
午後四時。
タクシーから降りて来た男は大きなカバンを大事そうに抱えて入ってきた。長身なので市販のジーンズの裾をカットしたことがないのだろう、足がすらりと伸びてシルエットが美しかった。白のタートルのセーターに黒のハーフコートと面白みに欠ける取り合わせだが、整った顔が映えるのでシンプルでも悪くなかった。
「予約した遠藤尚平です」
犬飼に涼しい目を向けた。
犬飼がお辞儀をする。
「一名様でご予約ですね。足元が悪い中、ようこそお越し下さいました」
宿泊カードの名前は遠藤尚平で、住所は札幌、職業欄には劇作家と書かれてある。三十歳前後と若いせいか、犬飼が知るようなキャリアのある作家ではない様子だ。
「本を書いていらっしゃるんですか?」
犬飼が好奇心から訊ねた。
遠藤はすました顔で答える。
「ええ、でもペンネームで仕事をしているので名前じゃ分かりませんよ」
「有名だったりするんですか?」
犬飼が普段ならしないであろう、詮索を始めた。
「どうでしょう?」
遠藤は遊び相手をからかう感じで答える。
「覆面作家で通しているので作品についてはお話しできません」
犬飼が食い下がる。
「でも、覆面作家であることは秘密じゃないんですか?」
遠藤はさわやかに笑う。
「ハハッ、覆面作家だからといって、本当に覆面をつけているわけではありません。作家であることまで隠す必要はないでしょう?」
「確かにそうですね」
遠藤が大きなカバンに視線を落とす。
「取材ってわけじゃありませんが、仕事道具も持って来ました。ホテルの営業最終日なんて滅多に経験できませんからね。色々とお話を聞けたらって思ってるんですが、よろしいですか?」
「それはもう、私でよかったら何でも訊いて下さい」
犬飼は緊張した面持ちで答えた。
遠藤が柔和な笑顔を見せる。
「そう硬くならずに、雑談程度でいいんです。別にこのホテルを舞台に何か書こうと思っているわけじゃありませんから」
犬飼が安堵する。
「ああ、そうですか。てっきり作品の中に私も出てくるんじゃないかと思ってしまって、とんだ早とちりですね。これはお恥ずかしい」
遠藤が申し訳なさそうに声を掛ける。
「いや、これは勘違いさせてしまった僕が悪い。最初に断っておくべきでしたね」
そこで周囲を見渡してから、早速取材を始める。
「ところで、あまり人の姿を見掛けませんね。もう少し賑やかになってると思ってたんですが」
犬飼は寂しげに語る。
「はい。なにしろインターネット上のホームページで一週間告知しただけですから、予約もお客様を含めて六人だけです。この天気だと一見さんも来ないでしょうし、随分と寂しい夜になりそうです」
「静かなところで仕事がしたいと思っていたので、それは却って好都合だ」
そこで遠藤がかぶりを振る。
「いや、そんな失礼な返答はないですよね。こういうところがダメなんだな」
犬飼が微笑む。
「いえいえ、今日は気兼ねなく本音をぶちまけて下さい。ホテルが全部飲み込んでくれますよ」
遠藤が微笑む。
「それはいい。本当は星空を見上げながらウイスキーでも飲んで物思いに耽るつもりでしたが、ホテルに語り掛けるのも悪くないですね」
「ホテルに語り掛けるか」
と犬飼は感嘆の息を漏らす。
「やっぱり作家さんは言うことが違うな。そうなんですよね。まさに僕がしたかったのはそういうことなんです。今日はホテルにとっての葬式で、僕は餞別の言葉を送ってやりたかったんだ。やっと分かりましたよ」
遠藤が頷く。
「それはよかった。でも、『ホテルが全部飲み込んでくれる』って表現した貴方の方が、僕なんかよりよっぽど物書きらしいと思うけどな」
「とんでもないです」
と犬飼は謙遜しつつ、調子よく喋り出す。
「でも、長く働いていると感じるんですよね。その、よく車が好きな人が生き物でもないのに愛車をペットのように扱うじゃないですか? 人によっては恋人感覚の人もいますよね? そういう感覚を僕もホテルに対して持ってしまうんです。意思を持っているとまでは言いませんが、それに近いものは感じていますよ。気配を感じて目が合う感覚とか、虫の知らせを感じたと思ったら、実際に客室で泊まりのお客様が倒れていたとかね。別に霊感があるってわけじゃないんです。幽霊を見たっていう心霊体験なんてしたことありませんし、ホテルに幽霊が出るなんて噂すらありませんから。やはり愛車と同じように、そこに大切な人がいるっていう感覚なんですね。無機質っていうと生命のない物って思いがちですけど、人間の生命維持活動には不可欠な物質ばかりじゃないですか? それらの元素を見ると、どこに生命の意思が備わっているのか分からなくなるくらいです。怒りっぽい人に対して『カルシウムが足りない』なんて言うくらいなんですから、無機物が人間の性格を形作っている一面もあると思うんです。車だってホテルだって、すべてが無機物で作られているわけじゃありませんからね。それらには生命がないなんて言いきれませんよ」
「確かに、人形に愛着が湧く人もいますからね」
と遠藤は同意しつつ、持論を披露する。
「対象物が鏡の役割をすれば、そこに意思の疎通が疑似的に働くこともあるでしょう。ただ、無機物に生命活動がないのは確かなので、そこに本能が働くことはないでしょうね。カルシウム不足でイライラするというのは誇張した例えですから、病気になることを性格の変化と捉えるのも無理がある。とはいえ、僕も機械を使って本を書いていますからね。仕事をしている時に、自分以外の意思を感じることは多々あります。それを人は自分が信じるもので例えがちです。神様を信じる人は神の啓示だと思うでしょうし、前世を信じる者は死んだ人が何かを伝えようとしていると思うんです。占いを信じていればコックリさんも信じるでしょうし、僕も目の前でタイプライターが勝手に文字を打ち込めば、機械に意思があると思うかもしれません。残念ながら、今のところそういった経験はありませんが、すべてを否定できるほど経験していないというのが正直なところです」
犬飼が首を捻りながら言葉を継ぐ。
「はぁ。世の中には言い切れないことがたくさんありますね。でも、同じくらい間違ったことも覚えてしまうから理解しきれないのかもしれない。カルシウム不足でイライラするっていうのは嘘なんですか?」
「いや」
と遠藤が断りを入れてから説明する。
「医者じゃないから正確には分かりませんが、血中のカルシウム濃度が低下すれば病気になるのだけは本当ですよ。そこから先の性格云々は、病気なんだから、気持ちに変化が見られるのは当たり前の話なんで、あとはどう考えるかによるんじゃないですか?」
「そうだ」
そこで犬飼が思い出す。
「今日は医学生の方も泊まりに来られているので、あとで話の続きをするのも面白いかもしれませんね」
遠藤が微笑む。
「それはいい。こんな山奥でも医学生が一人いるだけでも大違いだ。タクシーの運転手さんが話していましたが、これ以上道路に雪が積もったら、明日迎えに来ることは約束できないと言っていましたからね。そうなると救急車も期待できませんよね?」
犬飼が申し訳なさそうに説明する。
「そうですね。怪我や病気にもよりますが、元々緊急医療には期待できない地域なので諦めるしかないんですよね。震災でドクターヘリが話題になりましたが、この地域で運用されるのは何年も先の話でしょう? こういう地域ほど必要なんだって分かっていても、声を上げる住民はいないでしょうね。軽度の怪我なら、うちの客室係が応急処置してくれますので、それで我慢していただくしかありません」
遠藤が何度も頷く。
「僕は北海道の人間だからいいけど、大雪に慣れない人が隣でヒステリーを起こされるのは嫌だな。冬場の交通機関がストップするのは当たり前なんだから、それに対して文句を垂れる奴がいると、こっちまで気分が悪くなるんだ」
犬飼が小気味よく笑う。
「ハハッ。東京は時間に正確だって言いますよね。ただ、こちらも対応は考えています。警報も出ていたので三日分の食料は用意しました。非常食もございますし、それまでには除雪作業も終わっていると思います。東京からのお客様もいらっしゃいますが、時間に余裕がある感じでしたので、不愉快な思いをされることはないと思います」
遠藤が安心する。
「それはよかった。僕も滞在が延びたら延びたで一向に構わないんだ。ゆっくり仕事ができるしね。しかし、これで実際に滞在が延びたらホテルの最終日も延びるわけで、それはまるで、いつ死ぬか分からない最期を迎える人のようにも見えますね」
「ほら、言ったでしょ。そういうことなんですよ。僕が言いたかったのは」
そう言って、犬飼は会心の笑みを浮かべた。
遠藤は苦笑し、それから部屋番号205の鍵を持って二階へと階段を上がって行った。
その直後にタクシーが到着し、フード付きのコートを着た若い女が勢いよく入って来た。
「鈴木で予約したんですが、もう来てますか?」
女はそう言って、辺りをキョロキョロと見まわした。
「二名様の予約でございますね。ですが、鈴木様はお見えになっていませんね」
犬飼が簡潔に答えた。
「電話は?」
「電話もございません」
犬飼が答えると、女はしばらく黙ったまま動かなくなった。
それから携帯電話を取り出して、それを犬飼の目の前に掲げる。
「ここ圏外なんだもん」
女のイライラは止まらない。
「それなら予約した時に言っておいて下さいよ」
「それは申し訳ございませんでした」
犬飼は深々と頭を下げることしかできなかった。
女が訴える。
「それに大雪だし、もしも来られなくなったらどうするんですか? ここで待ち合わせしてるんですよ?」
犬飼が再度謝る。
「申し訳ありません。キャンセル料はいただきませんので、来られないようであれば――」
女が遮る。
「キャンセルはしませんよ。だって待ち合わせしてるんだから」
「では、お泊りになられるということでよろしいですか?」
犬飼は恐縮して尋ねた。
「そう言ってるでしょう」
女は怒っているのか泣きそうになっているのか分からない様子だ。
宿泊カードの名前には宇佐美遥と書かれ、住所は札幌で、職業欄には会社員と記されていた。左の薬指に指輪をしていたが既婚者とは限らない。他にもブレスレットやピアスやネックレスまで派手目なデザインのもので目を引いたが、それでも着こなし以上に色気があるとは思えない印象だ。真っ赤なセーターに濃い目のチーク。化粧もどこか無理している印象だが、本人は着飾ることに執着している感じだった。
「本当に伝言はないんですか?」
遥が念を押すように訊ねた。
「はい、ございません」
遥が想像を巡らす。
「電話が鳴って、その電話に出れなかったとか?」
犬飼はきっぱりと否定する。
「いいえ。今日は一度も電話は掛かってきておりませんので、そのようなことはないですね」
「昨日は?」
「昨日は……」
と言いつつ、犬飼は思い出すように説明する。
「準備に追われていたので。ですが、電話はなかったと思いますね」
「はっきりしないじゃないですか」
遥は犬飼が与えた隙を見逃さずに責めた。
犬飼が困惑する。
「はぁ、他の従業員に確かめてみないと分かりませんね」
「だったら今すぐそうして下さい」
犬飼が厨房に内線電話を掛けたが、答えは電話するまでもなかったようだ。
「昨日は電話も訪問者もありませんでした」
犬飼が断言した。
「だったら期待させないで下さいよ」
遥は自作自演で落胆することとなった。
「申し訳ございません」
犬飼は謝ることしかできないといった感じだ。
「部屋にいるので彼が来たらすぐに知らせて下さい」
遥は部屋番号208の鍵を持って足早に立ち去って行った。