第四幕 第五場 オリンピックホテル 二階廊下
午後九時。
ドアがノックされた後、部屋から遠藤が顔を出す。
遠藤の視線の先には、枕を抱えた健太が一人きりで立っているだけだった。
「ケンタ君じゃないか。どうしたんだい?」
遠藤が訊ねても、健太は何も答えなかった。
「枕なんか抱えて。あっ、鍵がないから部屋に戻れなくなっちゃったか? ホテルではよくあるんだよな」
遠藤が話し掛けるが、健太はちゃんと話を聞いているのかも分からない様子だ。
「お母さんは、……いや、お父さんはどうしたの?」
死んだ母親のことを口にして、遠藤がしまったという顔をする。
「お父さんは部屋にいないのかな?」
「●ん●ゃ●た」
健太が呟いた。
「ん?」
遠藤には聞き取れなかった様子だ。
「し●じ●っ●」
訊き返されても、健太の声は小さかった。
これには遠藤もいい加減イライラしたようだ。
健太の両肩を掴み叱りつける。
「なぁ、男だったら、もっとはっきりしゃべろよ」
と声を荒げてしまうのだった。
遠藤が態度を一変させたことで、健太の顔つきが急に険しくなる。
何も言わないが、鋭い目つきで睨んだまま動かない。
「大人に対して、そんな目つきをしたらダメだ」
遠藤がやんわりと注意するが、健太の表情は変わらなかった。
「死んじゃえ」
はっきりと分かるような声だった。
「え?」
聞こえたにも係わらず、遠藤には意味が分からない様子だ。
「死んじゃえ」
健太はセリフを棒読みしたように繰り返した。
「しんじゃえ?」
遠藤が無意識に訊ねた。
「死んじゃえ」
健太は感情を込めず、おまじないのように繰り返した。
遠藤が注意する。
「やめろ」
健太が繰り返す。
「死んじゃえ」
遠藤の声が大きくなる。
「やめろって言ってるだろ」
健太の声の大きさやトーンは変わらない。
「死んじゃえ」
「やめろ!」
ついに怒鳴り声になり、思わず胸倉を掴んでしまうのだった。
そこへタイミングよく猪俣が現れた。
遠藤は悪戯が見つかったような顔をした。
手を離した瞬間、健太は猪俣の横をスルスルと抜けて行った。
そしてそのまま階段の下へ逃げるように走り去った。
「何事ですか?」
猪俣が顔色を変えずに訊ねた。
遠藤が反省する。
「すいません。子供の悪ふざけに、ついカッとなっちゃって、思わず声を荒げてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
「悪ふざけですか」
猪俣の言葉からも、健太のように感情が感じられなかった。
遠藤が頷く。
「ええ、子供って『死ね』とか『殺す』って言葉をよく使うじゃないですか。だから仕方ない部分もあるんですけどね。そうは言っても、直接言われるとムキになってしまうものですね。自分には子供がいないので、こういうのには慣れてないんですよ。だから『死んじゃえ』って言われたのがショックで。いや、ショックというより、本当に腹が立ってしまったんです」
猪俣は深く頷いてはいるが、理解を示したという意味かどうかまでは分からなかった。
「死んじゃえ……」
遠藤が何かを考えながら呟いた。
「死んじゃえ?」
今度は指を折りながら呟く。
それを何度か繰り返すのだった。
「どうかされましたか?」
猪俣はその奇怪な様子が気になったようだ。
遠藤は額に手を当てる。
「いえ、字数が合わないんですよ。最初にケンタ君が呟いた言葉と、僕に繰り返した言葉が違うんです。一文字多いんだな。『死んじゃえ』じゃなかったぞ。でも、似たような言葉だった」
そこで遠藤は確信する。
「そうだ、『死んじゃった』って言ったんだ」
それを聞いて、猪俣が頷く。
「知ってたんですか?」
猪俣は遠藤の言葉に答えず、犬飼の部屋のドアを開け、遠藤に入室を促した。
遠藤は部屋の中に入るなり、息を漏らす。
「……なんでこんなことに」




