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第四幕 第四場 オリンピックホテル フロント

 午後八時。

 ロビーのソファ席に座っている遠藤が夕食を食べ終わる。

 猪俣が食べ終えた食器をレストランの厨房へと運んで行った。

 間もなくして、犬飼が階段の上から現れた。

 それからそのまま遠藤の斜め向かいの席に腰を下ろした。

「すいません。息子に食事を与えていたので」

 犬飼が遅れた説明をした。

 遠藤は気にした素振りを見せない。

「構いませんよ。急ぐことなんて何一つないんですから」

 それから遠藤は猪俣に用意してもらったウイスキーで水割りを作った。

 犬飼が「やりましょうか」と気を利かせたが、やんわりと断った。

 遠藤は犬飼の分の水割りを作って、黙ってテーブルに置いた。

 それを手にしたとき、犬飼は礼を言ったが、二人が乾杯をすることはなかった。

 遠藤はグラスの中で氷を遊ばせながら話し始める。

「僕から先に話をさせて下さい。まず初めにどうしても、犬飼さんには謝っておきたいことがあるんです。一人の時間ができたので、やっと冷静に考えることができました。それで申し訳ないことを言ってしまったと後悔したんです。先ほどは犬飼さんの気持ちも考えずに、非難めいたことを言って、すいませんでした」

 遠藤が深々と頭を下げた。

 犬飼は遠藤に頭を上げるようにお願いする。

「止して下さい。僕の方こそ、その前に遠藤さんを犯人扱いするような真似をして、バカなことをしたと思っているんですから。自分でも恥ずかしい気持ちでいっぱいです。本当に、すいませんでした」

 遠藤が首を振る。

「そんなことは気にする必要ないよ。それに関しては、昨日牛久さんが言ったことが正しいんだろうね。やはり僕が推理作家だから、周りの人が触発されてしまうんだ。会話をする人の中に、僕がいることでミステリー寄りの話題に思考が引っ張られるんじゃないかな? 初対面なら会話の取っ掛かりが乏しい分、殊更ことさらそうなってしまうということだろうね。テレビや映画が好きな牛久さんは、いかにもテレビ的な会話を好んで、マンガが好きな馬渡君はマンガのような行動をした。それでミステリー小説が好きな犬飼さんは推理小説に出てくる探偵みたいなことをしたわけだろう? 極めて誇張した捉え方にすぎないんだけど、それぞれ影響を受けていることは否定できないと思うんだ。仮に僕が引退したスポーツ選手なら、話題はそのスポーツのことばかりになっていたんじゃないかな? ほら、サッカーが話題だろう? そうなるとミステリーの話題なんて一切なかった可能性もある。それこそ『犯罪の告白』なんて余興は開催されることなく、過去のスポーツ名場面を語り合うことになっていたかもしれないんだ。ホテルの終わりと、引退した選手の話で、しんみりとした夜になっただろうね」

 犬飼が想像する。

「それはそれで悪くなかったですね」

「だろう?」

 と遠藤が微笑む。

「つまり僕が推理作家であるばっかりに、誰もが昨日からおかしな思考しかできなくなっているんだ。特に、僕がね。犬飼さんに言われて、ハッとさせられたんだ。昨日から恥ずべき行為をしていたのは自分なんじゃないかってね。常日頃から、自分には作家として何かが足りていないと思っていたんだ。いや、足りていないんじゃなくて、欠落しているといった方がいいのかな。そう、その欠けているものというのが、常識なんだって痛感したね。それが犬飼さんとの会話ではっきりと分かったんだよ。奥さんが首を吊って亡くなったというのに、僕は遺体をベッドに寝かせた旦那さんに腹を立ててしまった。その時の犬飼さんは、どれだけ辛い思いをしているかなんて考えもしなかったんだ。首を吊っている姿なんて、いつまでも見たくありませんよね。早く安らかにしてあげたいと思うことの方が自然なんだ。それなのに僕はつらく当たることしかできなかった。あの時の自分は、まさに外道だよ。家族を大切に思えば、そのままにしておくなんて、できるはずがないんだ。現場保存が常識だと思い込むことで、遺体にすがりつきたい感情を見失ってしまったんです。そこのぽっかりと開いた風穴が、僕の欠落した感情の正体なんでしょうね。どちらが常識的、かつ道徳的かは議論するまでもありません。僕がすぐに行動すべきだったのは、電話が繋がっていないと聞いた時点で町まで下りていくことでした。警察に行けば亡くなった人の家族に連絡が行きますし、一刻も早くそうするべきだったんだ」

「そういう意味では、僕も同じですね」

 そう言って、犬飼が俯いた。

 遠藤は妻を亡くした犬飼を慰めるように語り掛ける。

「あなたには小さな子供がいるんだし、猪俣さんも御高齢なんだから、無理はできませんよ。奥さんに死なれて自分を責めたい気持ちがあるのかもしれませんが、自分が悪かったなんて思いすぎるのも良くありません。いや、昨日知り合ったばかりなのに、分かったようなことを言ってはいけませんね。謝ったそばから、また非常識な振る舞いをして傷つけるところでした。本当にすいません」

 犬飼が畏まる。

「そう何度も謝られては、僕の方こそ申し訳なくなります。妻の死は身内の不幸だからと、それを理由に報告しなかったんですが、本当は遠藤さんが写真を撮るだろうと思って、それに対して凄く抵抗があって、だから遠藤さんには話せなかったんですよ。遺体に触れてはいけないって分かっていたんですが、やっぱりダメでしたね。もう、後で何を言われようが、そんなことはどうでもいいって思ってしまったんです。あんな姿を見られるくらいなら、そう、写真を撮られるくらいなら、キレイにしてあげた方がいいと思ったんです。これって、どちらが常識的なんでしょうね? 自分でも分からなくなってしまいます」

 遠藤がウイスキーをゴクリと飲む。

「ちょっと訊いてもいいかな? 奥さんの遺体を見つけたのは、いつのことだか憶えている? できれば詳しい時間を知りたいんだ」

 犬飼は虚空こくうを見つめる。

「あれは三時前だったと思いますが……」

 遠藤が急に険しい顔をする。

「ということは、奥さんが亡くなった直後に僕を犯人扱いしたわけか。んん……、これはどういうことだろうな? 奥さんの遺体を目にしたのに、よくあんなにペラペラと話せたもんだ。謝っといてなんだけど、常識を疑わざるを得ないね」

 犬飼が弁解する。

「だからさっきも言ったじゃないですか。妻の死は身内の不幸なんですよ。それまでに亡くなった人たちとは、まったく関係ないって、僕が一番よく分かっているんです。だからこそ、冷静に分析できたんじゃないですか。いや、ここまで話したら、何も隠す必要はありませんね。僕は遠藤さんを疑った上で、警告するつもりで話をしたんです。じゃなきゃ、あんなことしませんよ。おかしな状況が目の前にあって、これは偶然じゃないと考えてしまったら、あとは勝手に閃いてしまったので、自分で自分を抑えることができなくなったんです。それで妻の遺体を連続殺人に利用させないよう、結果的に隠したような形になったんです。その行動が常識的ではないって、僕もさっき謝ったじゃないですか」

 遠藤がニヤッとする。

「だったら今はどう思っているんだい? 似鳥さんは君が渡した猟銃で死んだんだよ? それでも僕を疑うのかな? そう、この手の思い込みは、当人である僕が否定したって信じられないだろうからね。でも、これで僕が一切関係ないってはっきりしたわけだ。弾痕は顎の下だし、弾道を考慮すれば、そんな位置を狙って撃てるはずがないからね。まぁ、これも警察の捜査が入ればはっきりすることだ」

 犬飼は同意しつつ反証を試みる。

「そうですね。でも逆に言えば、警察の捜査が入らないと身の潔白は証明できないということでもあるわけです。いや、遠藤さんを何がなんでも犯人にしたいというわけじゃなく、僕が立てた仮説を証拠なしで否定するのは難しいという意味なんですけど」

 遠藤はすました顔で話す。

「確かにそうだ。でも、そんな仮説ならいくらでも立てられるけどね。例えば、そうだな、犬飼さん、君だって仮説なら犯人役になれるんだよ? 動機は何でもいいけど、分かりやすいところで保険金殺人にしておこうかな。どうせ今の段階では証拠がないんだし、好き勝手に話を作ってもいいわけだ。だから当初の計画ではなく、馬渡君が服毒自殺したという偶然を利用したと仮定しても構わないんだよね。

 最初の自殺を他殺にするには、最終的にすべての目撃者を殺す必要がある。すべての目撃者をキレイに片付けるには、恐怖を与えて逃げ出さないように、自殺に偽装しなければいけなかったってわけだ。だから不自然だろうと、全員を自殺に見せ掛けたわけだね。奥さん一人を殺すために五人も余計に殺すことになるけど、どうせ仮説なんだから問題はないと。それで最後に僕を殺した後に、全員を他殺に偽装し直して、僕だけ自殺に偽装すればいいわけだ。手の込んだ犯行だけど、仮説だから労力も考慮しなくていいね。

 最後に殺されるのが似鳥さんじゃなくて僕なのは、ノートパソコンを持っているからじゃないのかな。それなら直筆の遺書は必要ないだろう? 君が僕を殺した後に、パソコンに遺書を作成して自殺に見せ掛ければいいんだ。警察が来たら、僕に妻を殺された悲劇の男として事情を説明すればいい。僕の自宅は人殺しの本で溢れているからね。あの部屋を見たら、頭が錯乱したと思われても否定できないよ。本だけじゃなく、ノートだって人殺しの方法がびっしりと書き込まれているんだ。生き残った猪俣さんと口裏を合わされたら、被疑者死亡で書類送検されちゃうだろうし、僕ほど犯人役に適したキャストはいない。

 ほらね、仮説っていうのは、つまりそういうことなんだ。自分が疑われて初めて、その横暴さ加減に気がつくだろう? どんなに身に覚えがなくても、相手が『思いついた』っていうだけで、強引に辻褄を合わせようとしちゃうんだよ。いま話した仮説の怖い点はさ、今からでも実行可能ということなんだ。本当に奥さんに保険金が掛けられていたら、魔が差すなんてことがあるかもしれない。ここまで話したら、僕も真似して予言しようか? 次に殺されるのは僕で、僕の死は自殺と偽装されるだろう。犯人は犬飼さんで、猪俣さんは重要な証人として生き残る。どうだい? それでもまだ僕を疑うつもりかい?」

 犬飼がクスッと笑う。

「その質問はおかしくないですか? 遠藤さんはいくらでも仮説が立てられるという話をしただけであって、無実を証明したわけじゃないんですよ? だからそんな風に訊いちゃいけないんです。まぁ、つまりは決定的な証拠がなければすべての人が容疑者になってしまうということですよね。もっともな話だと思います」

 遠藤がウイスキーを舐める。

「そう、決定的な証拠がいかに重要かっていう話だよね。『コロンボ』の話ばかりで申し訳ないが、あれこそ証拠集めに血眼になる刑事の本懐そのものなんだ。ドラマだから派手な演出もあるんだけど、決して取調室での自供には頼らないんだ。密室での自白を証拠として採用しないのは、そこまで人を信用していないからなんだろうね。そりゃそうだ。犯罪者の自白を信用するということは、犯罪者の言葉が絶対に正しいと認めるようなもんなんだからね。そう考えると、取り調べの自供なんて、いかにおかしいことを受け入れているか分かるはずだ。『コロンボ』で描かれる世界では、人を疑ってあげることが優しさだって気がつくことができる。そうしてあげないと、偽りの自供をする人を救ってあげられないからなんだ。ときどき意地悪のように見えることがあるけど、密室以外で自白に追い込むには、引っ掛けてあげることも優しさだって、そう、僕は理解している」

 犬飼は安らぎを得たかのような顔をして話す。

「もう二度と遠藤さんを疑ったりしませんから、どうか安心して下さい。僕のことも意地悪だと思うかもしれませんが、理解はしてくれそうなので、ほっとしました。警察が来ればはっきりするので、もうこれ以上、頭を悩ませる必要はありません。論より証拠というヤツですね」

「一言で表すと、そういうことになるんだろうな」

 遠藤は何度も頷くのだった。

 犬飼は試すように訊ねる。

「どうしても気になったので訊ねますが、さっき『仮説ならいくらでも立てられる』と言いましたが、流石にそれはないですよね? 僕を言い負かすというか、説得するため、いや、納得させるために大袈裟に言ったんだ。違いますか?」

 遠藤は決まりが悪そうに告白する。

「いや、参ったな。確かに少しばかり大袈裟だったかな? でもね、刑事の本懐が証拠集めなら、推理作家の本懐は謎を創出することにあるんだ。そのために生きているといっても過言じゃないんだよ。だからこのホテルで起こった現状に謎を加えることなんて朝飯前なんだ。さっきは犬飼さんの単独犯行説にしたけど、今度は奥さんとの共犯説というのはどうだい? 証拠のない仮説だけなら、そんなことも可能なんだ」

「でも、妻は死にました」

 犬飼がきっぱりと答えた。

 遠藤はそれを問題にしない。

「だから仮説ならその事実をひっくり返すことも可能なんだ。ほら、ちょうど僕が宇佐美さんの部屋を調べている時に話したじゃないか。刑事じゃない僕が調べることに対して、いかがなものかってね。そこから常識というものを強く意識するようになったけど、実はそれこそ、君たち犬飼夫婦が仕掛けた心理トリックだったらどうする? 僕に常識的な行動を求めて捜査を制限させるんだ。実際に亡くなられた奥さんに近づくことさえ躊躇われたからね。効果覿面こうかてきめんだったと思うよ。もし僕が常識に囚われずに、強引に死んだフリをしている奥さんの身体を調べようものなら、その時は犬飼さんが怒り狂えばいいだけだ。結末を知ってから読み返すと、『とんでもない芝居をしてやがった』と思うけど、それも推理小説の醍醐味じゃないかな? 夫婦共犯説だから動機も変わるけど、そこは子供の保険金目的でもいいや。仮説だけならそれも可能であるということにすぎないからね。つまり動機に関してはそれほど困らないということだ。お願いだから、保険金絡みの連続殺人なんてやめてくれよ。そんなことで殺人犯の濡れ衣を着せられるのは勘弁してもらいたいからね。いや、犬飼夫婦の目論見もくろみが成功すれば、僕は猟奇殺人の犯人になるわけか。どちらにせよ、あまり気分がいいもんじゃないね。念のために注意しておくけど、自殺を匂わす行動もしていないし、遺書に見える自筆の文章も残していない。ノートパソコンはパスワードの入力が必要だし、これから僕を殺して、その遺体を自殺に見せ掛けるのは、かなり大変だからね」

「大変でしょうけど、頑張ってみますよ」

 犬飼が冗談に応じた。

 遠藤は受け流し、次のアイデアを捻り出す。

「もうね、禁じ手を使ってもいいと思うんだ。似鳥さんが生きている時に叙述トリックについて話をしたけど、その時は十一人目の登場人物を最後まで上手に隠すって言ったろう? そうじゃなくてさ、伏線なんか張らずに、最後の一行で新しい登場人物の殺人犯を書いてしまえばいいんだ。それまで作品内の登場人物に散々議論させてから、最後の犠牲者に、『お前、誰だよ?』って驚かせるんだ。議論がいかに無駄であるかを主題とするなら、そんな推理小説もありだと思うな」

 犬飼は仕方ないといった感じで返事をする。

「主題がそれなら、読者は文句が言えませんね。国語のテストで作者の気持ちを答えさせるのを是とするなら、作者の意図に気がつかない読者が悪いということになりますからね。僕はもう二度とその作者の本は読まないでしょうけど、作品自体は否定しません」

 遠藤が頬に手を当てる。

「それがアリなら、幽霊に殺されたと見せ掛けて、本当に全員が死んでいるパターンもアリだな。その場合は廃墟となったホテルで、豪勢な一夜を過ごすんだけど、でもそれは過去にホテル火災で死んだ人だったっていうオチね」

 犬飼が小首を傾げる。

「それは典型的な日本昔話ですね。現代を舞台にしているから新しく感じるだけであって、中身は古典中の古典ですよ。キツネやタヌキに化かされたっていう話とそんなに変わらないじゃないですか」

 遠藤が肩を落とす。

「確かにそうだ。指摘されるまで気づかないなんて、我ながら情けないね」

 犬飼は話を戻すように語る。

「それより遠藤さん自身は、自分を犯人とする仮説は立てられないんですか? 現実的な仮説はどれも僕が犯人役じゃないですか。いくらでも仮説が立てられるというなら、遠藤さんが犯人役の仮説も立ててみて下さいよ」

 遠藤が唸る。

「正直ね、犬飼さんの『犯罪の告白』を交換したトリックの出来がいいもんだから、それを超えるアイデアが浮かばないので逃げたんだ。可能なら、あれを自分のアイデアとして披露したかったくらいだ。ただね、こうして次々と自殺する人を見ると、なぜ自分がこの場にいるのか分からなくなってくるのは確かだ。似鳥さんまで自殺するとは思わなかったからね。一日で六人も同じ場所で自殺したことになる。そんなことはありえないと思っても、見ず知らずの人間である以上は事実として受け入れるしかない。

 その事実の中で、やっぱり不自然に見えるのは、奥さんを亡くした後の犬飼さん、あなたの言動ですよ。身内の不幸と言いながら、時折笑って見せるあなたの様子は、サイコと呼ばれても否定できないでしょ。まだ奥さんが死んで半日も経っていないんですよ? もう少し落ち込んでいてもおかしくないんだ。

 しかしね、その一方で僕は犬飼さんの気持ちが痛いほどよく分かってしまうんですよ。犬飼さんにしてみたら『人の気持ちなんて分かられて堪るか』なんて言いたくなるかもしれませんが、身内を亡くしたばかりのあなたの姿は、僕と一緒なんだな。間違っていたら申し訳ないし、僕の勝手な思い込みかもしれない。けれども死んだその日に笑顔を見せられるのは、僕の過去の経験とそっくりそのままだ。悲しくなれない自分に嫌悪し、笑顔になれる自分を、とことん蔑んで見てしまう。それで数日後か、数週間後に一人きりになった時、のたうち回るように苦しみ始めるんですよ。でも、人前に出れば元通りの笑顔を振りまけるんです。その痛みや苦しみは消えてないというのにね。それで人前にいる時の自分と、一人きりになった時の自分が、どんどん乖離かいりしていくんだな。

 人前にいる時の自分は陽気なバカです。人が死んでるっていうのに、酒を飲みながらミステリーの話をするんですからね。調子が良ければ殺し方まで笑いながら話す始末だ。テレビのニュースで悲惨な事件を目にしては、被害者そっちのけで、小説のネタに使えそうなヒントを見つけるんです。その時は被害者家族のことなんて、これっぽっちも頭にありませんよ。世間話の一つにすぎないので、芸能ニュースと同じスタンスで会話をするんです。

 一方で、一人きりでいる時の自分は、そんな軽薄な男を見て絶望するんだな。他人の不幸をコーヒーブレイクの暇つぶしに利用してしまうんですからね。軽蔑しない方が感覚としておかしいでしょう? ましてやそれが同じ自分なんですから。自分の内面に、いや、この場合は外面ですね。その外面が、人間の皮を被った鬼のような振る舞いなんですから、絶望以外に抱く感情はありません。だから奥さんを亡くしたばかりのあなたを非難する一方で、同時に同情してしまうというわけです。この気持ちを理解できない人にとっては、犬飼さんはとても薄気味悪い人のように思うでしょうけど、葬式で涙を流せない人には、その辛さが誰よりも分かるでしょうね。

 ああ、そうだ。これで質問に戻れますね。僕が犯人というならば、乖離した片方の人格が殺人を犯しているというのはどうですか? まるで『ジキルとハイド』みたいで、ありきたりですが、悪くないと思うんだな。『クローズド・サークル』と同じで、大事なのは特徴的な作風で描くということじゃないですか? いや、こういうのは作家が言っても自己弁護になるからダメなんだ。ちゃんと読者が擁護してくれないとね」

 そこで突然、遠藤が目をパチクリ、キョロキョロさせた。

 その様子に犬飼が心配そうな顔をする。

 すると今度は、遠藤が爪を噛んだまま固まってしまう。

「大丈夫ですか?」

 犬飼は訊ねずにはいられなかったようだ。

 遠藤は震えるように頷く。

「いや、僕が犯人の可能性もあると閃いてしまったんです。さっき僕は犬飼さんに似ていると言いましたよね? ということは、犬飼さん、ひょっとして、あなたは『もう一人の私』なんじゃないですか?」

 犬飼が呆れる。

「やめて下さいよ。なんですか、その下手くそな叙述トリックは」

「十人が十一人だったのではなく、十人が九人だったんですよ」

 そこで遠藤が真剣に訊ねる。

「あなたの存在が、私にしか見えていないということはありませんか?」

「ありません」

 犬飼がピシャリと答えた。


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