第三幕 第八場 オリンピックホテル 二階廊下
午後三時。
階段付近で健太が廊下の方をじっと見つめていた。
そこへ遥の部屋からデジタルカメラを手にした遠藤が出てくる。
健太の気配を一切感じなかったためか、遠藤は顔を上げた瞬間、身体をビクンとさせた。
「はぁ、びっくりした」
遠藤が取り繕うように笑顔を向ける。
健太は何も反応しない。
「ケンタ君だったね」
遠藤が近づく。
健太はその場から動かなかった。
「雪かき手伝ってたね。えらいな」
遠藤が中腰になる。
褒められたというのに、健太は一切反応を示さなかった。
「お風呂場ではビックリしたよな? ケンタ君は大人になっても、あのオジサンみたいにお酒に溺れないようにしないとダメだぞ。お酒に溺れると、あのオジサンみたいに本当に溺れるかもしれないからな」
遠藤は自分の冗談に自分で笑うのだった。
健太はクスリともしない。
「ああ、まだ何を言ってるか分からないか」
遠藤が眉尻をかく。
突然、健太がゆっくりと腕を上げ、遠藤を指さす。
指をさされた遠藤は意味が分からないといった感じだ。
「こ●し●」
健太が聞き取れない声で呟いた。
「ん?」
遠藤には通じない。
「●ろ●た」
健太は遠藤を指差したまま、声を張らずに同じ言葉を繰り返した。
「なんだって?」
遠藤が眉間に皺を寄せる。
「こ●●た」
健太は遠藤を指さしたまま呟くのだった。
「ああ、転んだか?」
と遠藤が勝手に解釈する。
「まだ子供だもんな。でも小学校に上がる頃にはまったく転ばなくなるぞ。オジサンなんてツルツルの靴でも平気だもんな。それが道産子ってヤツだ」
そこへ犬飼が階段を駆け上がってくる。
そのまま二人の元へ合流し、遠藤に頭を下げる。
「すいません。また迷惑かけちゃったみたいで」
そう言って、犬飼が健太の肩に手を置いた。
遠藤が何でもないという顔をする。
「迷惑だなんてとんでもないです」
「勝手に出歩くなって言ってあるんですけど」
犬飼は自屋の鍵を開けて、そこへ健太を入れて、ドアを閉めた。
遠藤が微笑む。
「子供に『勝手に出歩くな』って言っても無駄ですよ。年の離れた兄弟がいるんですが、弟も言うことを聞く子供じゃありませんでしたからね」
犬飼がニヤッとする。
「その言い方だと、遠藤さんは物分かりのいい子供だったということになりますね」
遠藤が肩をすくめる。
「ああ、今では出来の悪い兄貴として立場が逆転しちゃったけどさ」
「出来が悪いっていうのは作品のことですか?」
犬飼が真顔で訊ねた。
遠藤が諌める。
「君は口が悪くなったね」
犬飼が申し訳なさそうに謝る。
「あぁ、いや、すいません。つい親しくなったと勘違いしてしまって、調子に乗りました」
遠藤は気にしない。
「いや、いいんだよ。犬飼さんは話せる男だしね」
「ありがとうございます」
犬飼が笑顔になった。
「ああ、そうだ。これ、返しておくよ」
そう言って、遠藤は遥の部屋の鍵を犬飼に返した。
「何か分かりましたか?」
犬飼が期待を込めて訊ねるが、それに対して遠藤は首を振ることしかできなかった。
犬飼は言いにくそうに話す。
「あの、鍵を渡してからこんなことを言うと、ズルい人間に思われるかもしれないんですけど、亡くなる前に、宇佐美さんは馬渡君の遺体に触れたことを嫌悪していましたよね? 警察や救急の人間じゃない遠藤さんが調べることに抵抗があったというか、批判めいた発言をしたというか、とにかく宇佐美さんは不快感を示していたと思うんです。それもあって、遠藤さんに鍵を渡した後に、これは余計なことをしてしまったんじゃないかと気になってしまって、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えているんですよね。もちろん、僕自身も遠藤さんが調べれば何か分かるかもしれないという期待があったから、躊躇することなく鍵をお渡ししたので、遠藤さんだけの責任ではありません。いや、責任は遠藤さんではなく、僕にあるといっていいでしょう。『何も分からなかった』という答えを聞いてから、こんなことを言うのだから、やっぱりズルい人間なんですよね。そんな僕が言うのもおかしなことですが、もう、遺体を調べるという行為はやめた方がよくないですか? いや、これは遠藤さんだけではなく、僕自身も含めてという話です。後はもう、警察に任せるしかないじゃないですか。調べて何か分かるという状況でもありませんし、命に係わる問題というわけでもありません。馬渡君の時は毒が心配で色々と調べたわけですが、宇佐美さんは浴室で手首を切ったわけですから、もう調べる必要はないと思うんです。後はそっとしておくというのが、故人に対してできる精一杯の思いやりなのかなって考えてしまいました」
遠藤は腕を組んで、床を睨みつけ、じっと考えている。
「すいません、生意気を言って」
犬飼が謝った。
遠藤はすっきりした顔で答える。
「そうだね。犬飼さんの言う通りだ。つい、カメラがあるからと出しゃばり過ぎたようだ。使命感なんて持つ必要がないのにね。調子に乗ってたのは僕の方だったんだな。ただ、これだけは言わせてほしい。僕は宇佐美さんの遺体には指一本触れていないからね。それだけは信じてくれよ」




